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うろな駅係員の先の見えない日常 作者:おじぃ

咲月と鯨の恋愛編

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咲月の悩み、鯨の欠落

 今日、初めて鯨を家に呼んだ。自室のカーペットには少年漫画の単行本が何冊か散らかって、小さなガラスのテーブルには化粧水やティシューが無造作に置いてある。つまり私は、鯨にありのままを見せてしまった。そんなことを考える余裕もなく、私は鯨に話を聞いてほしい一心でマッサージという口実を作り現在に至る。

 ◇◇◇

 片瀬さんに話を聞いてほしいと言われ、僕は引き締まった太ももの感触や、今なら事故のふりをして容易にスカートをめくれるのではといちいちドギマギしていた気持ちを鎮め、一時的に手を止めた。

 まさか、その、あれじゃないよね? あ、愛の告白っていうの? いやいや片瀬さんにとって僕は手の掛かる後輩に過ぎなくて、僕に出会う前は別の人に同じことをしていたんだと思う。それ故に姉御などと呼ばれているのは周知の事実じゃないか。

 僕がそんなことを考えていると片瀬さんは身を起こし、絨毯に足を着いてベッドに座る体勢をとった。緩んだ制服の赤いリボンと外れたボタンは谷間を露出させ、僕に唾を飲ませる。唾を飲んだら昨日の出来事とその感触を思い出して、からだの一部は理性で制御できなくなった。こういうときに思うのは、女の子みたいと言われて育った僕も、やはり野蛮を秘めたおすなのだと。

「あのね、鯨」

 僕は再び唾を飲み、気になる話の続きを聞くために相槌を打とうと思ったけれど、何もできず固まっていた。

「私さ、これからどうすればいいのかな?」

 話の意図が見えなくて、はい? と聞き返した。この一瞬、僕には幾つかの疑問が浮かんだ。これから無事に卒業するための資金を稼ぐためにどうすれば良いのかとか、赤点だらけで留年しそうだとか、もっと速く走るためにはどうすれば良いのかとか、それと、まさか、まさかだけど、今まで経験のない気持ちを、どう整理すれば良いのかなんてことも。そしてその気持ちが、僕じゃなくて別の誰かに向けられていたらという不安も。

 しかし片瀬さんの話は、予想の斜め上を行くものだった。

「鯨ってさ、なんで電車の運転士になりたいと思ったの?」

 それは話を聞いてほしいのではなく、僕の話を聞かせてほしいのでは?

「えっと、ちっちゃい頃、よく電車を見るためにお母さんに踏切まで連れてってもらって、電車に乗りたいって思ったり、電車に乗って運転台を覗いたら運転してみたくなって」

「そうなんだ。じゃあ私と一緒だね。私もね、ちっちゃい頃に家の前とか公園で走り回って、中学に入ったら陸上部に入りたいって思って、歳を重ねるだけで夢はあっさり叶ってもう高二。そろそろ次にやりたいことを見つけなきゃって思うんだけど、今のところ見つかんないんだ。でも進路を決めなきゃいけないから焦って色んなものに目を向けて、興味は一時的に持てるけど続かなくて、その繰り返し」

 要するに片瀬さんは自分の将来が不安で、僕に相談してくれたんだ。いつもお世話になってる片瀬さんに恩返しをする絶好の機会だけど、脳内で論が複雑に絡まって、糸口が掴めそうなのに、言葉に出来そうなのに出来なくてもどかしく、知恵熱が出そうだ。

「大丈夫ですよ。普通はそうなんだと思います」

 しかし僕は間を持たせるのを優先して、誰でも言えるような在り来たりな言葉を片瀬さんの胸に突き刺してしまった。

「普通って?」

 そのときの片瀬さんは、今まで聞いたことのない低いトーンと、突き放されて絶望した迷い子の目そのものだった。

「たぶん大体の人はそうだと思います。僕だってただ夢を見てるだけで、叶う可能性はかなり低いと思うんです」

 なのに僕は、愚かにもテンプレートを放ち続けてしまう。

「解ってるよ。そんなの解ってるよ! だけどそんなのイヤなの! ただ生きるためだけに仕事して、忙殺されてすさんでいく将来を想像するのが怖いの! 鯨には解るの!? 光のない人生のために頑張らなきゃいけない恐怖が解るの!? 私は鯨が羨ましいよ! だって好きなことのために頑張れるんだもん! 私もそうなりたいよ! 鯨みたいに夢に向かって真っ直ぐ走りたいよ! でもからだが言うこと利かなくなって思うように走れなくなった私に何が残ってるって言うの!? 私は鯨にそれが聞きたくて相談したの! 私の先を走る鯨なら何かいい案あるかもって期待したの! なのになんでそんなこと言うの!? なんで、なんでよ……」

 ひたすら言葉を吐き出す片瀬さんの表情は、一言一句を発する度に徐々に崩れ、やがて泣き崩れ、彼女の太ももには大粒の涙がボタボタ滴り落ちている。

「ごめん、鯨、ごめんね」

 涙したまま笑顔を作って僕を見る片瀬さんに、僕は何かしたいのに、すべきことが判らない。

「え、いえ、僕のほうこそ」

「ううん、私が勝手なこと言って、鯨を泣かせちゃった」

「え?」

 言われた瞬間、頬を伝う感触に気付いた。僕、泣いてたんだ。自分が知らないうちに。でもそれは片瀬さんのせいじゃない。己の無力さと、自己中心的な思考をしてしまった愚かさが悔しいのだ。

 こんなでは、運転士になんかなれない。いや、そんな奴が鉄道業界に就職するなんて御法度だ。だって、鉄道は人の命と心を預かる事業なのだから。相手の立場に立って考えられなければ会社ごと破綻する。結果として、鉄道を必要とする多くの人に迷惑をかけてしまう。

 あぁ、だから僕はダメなんだ。今は片瀬さんの悩みに応えるべきときなのに、自分のことを考えている。僕って、ただ野望があるだけの最低人間だ。

「ごめんね鯨、ごめんね」

 なのに、なのにどうして貴女あなたはそんな僕に優しいの? 謝らなきゃいけないのはこっちだよ。

 言いながら、はだけた胸元に僕を抱き寄せた片瀬さん。そこは僕にとってとても安心できる場所だけど、僕は片瀬さんを安心させられているだろうか。それは判らないけれど、僕らはしばらく静かに啜り泣いた。

 片瀬さんは自分が辛いときに、どうしてこんなに優しくできるのだろう? 僕は彼女にどれだけ背中を押されたのだろう? 塞ぎがちな僕を、人前で泣いてしまうくらい素直にさせられるのは何故だろう? 彼女の前で泣くのが、プライドを傷付けないのは何故だろう?

 何故だ? 何故だ? こんなに素直に安心できるのは、一体何故だ?

 あ、そうか、そういうことか……。

 泣き疲れて冷静を取り戻しつつあった頃、僕はあることを閃いた。
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