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夕立
作:田中カナタ



“君が口ずさむ
 僕の知らない歌
 頼りなく流れていく”


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 雨が降る。
 雨が降る。
 赤い赤い雨が降る。世界が赤に染まる。
 雨が降る。
 モノクロの世界が赤だけが映える。そんな彼の世界。彼はそこに立っている。どうしようもなく、腕を抱え、小さくなりながら震えている。
 彼の肩を打つ雨は、冷たく、そして赤い。
 赤い赤い。
 流れる血より赤い。


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 時間は数日前に遡る。
 小さなあるアパートの一室で、二人の男が対峙している――――いや、『していた』と表現するほうが適切だろう。間もなく男の片方は事切れようとしていた。
 もう一人の男が赤く染まりながら、生々しい音と共に一歩退いた。それは、人体の胸部に深々と刺さった刃物が引き抜かれた音だった。噴出す鮮血。滴り落ちる体液。彼の手から一本の包丁が滑り落ちる。包丁はフローリングの床に突き刺さることはなく、回転しながら彼の足元で少しだけスライドした。
「あ……あぁ…」
 ドサッ。
 そして、臓を裂かれた男はとうとう膝をつき、前のめりに倒れてしまった。同時に床をおびただしい量の血液が侵蝕していく。只の肉塊へと成り果てつつある男の体が痙攣を起こし、血溜まりに小刻みな波紋を描いた。
「……あ、ぅあ」
 顔に纏わりつく生温かい感触と、鼻腔を突く、噎せ返るくらいの臭いをどうにかしたいのだろう、彼は自分の顔を掌で拭った。だが、その行為は状態をむしろ悪化させる。彼の顔は、絵の具で塗りたくったかのように赤く染まってしまう。
 彼は、ゆっくりと両手の平を目の前に広げた。そして、もはや大半が吹き飛んでしまっている理性の片隅で納得する。赤。赤。赤。赤。
 あぁ、世界が赤い。すると彼は笑い出した。
 苦笑。
 微笑。
 哄笑。
 ―――嘲笑。
 その笑い声は暫くの間部屋の中で響いていた。何故そんなことをしたのか。彼は解かっていなかった。解かるはずもないが。衝動に根ざすものはない。
 笑うのを止め、息の整理もつかぬまま、彼は天井を見上げた。しばらくして、そのまま斜めにゆっくりと後ろを向く。
 彼は何を見たのか。
 見開かれた目から涙が零れ落ちる。
「あ……」
 そこには――――記憶の中の姿と歪つに一致する、彼の姉の姿が。おおよそ在り得ないカタチで、彼女の肢体が、そこにはあった。
「ぅ■■■■ぁぁっっっ!!」
 彼は凶器を拾い上げ、既に息絶えた、足蹴の男に向かって再び腕を振り上げた。


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「あれ………雨、か?」
 取り敢えずスタートを切る。道端でぼーっと突っ立っている訳にもいかない。走れ。駅はもうそろそろの筈だ。
 身に纏う衣服が都会の薄汚れた雨水によって浸蝕されていく。衣服に雨染みが形成されるのは少しの間のことで、気がつけば服と肌とがべったりとくっ付いていた。。
 降りしきる雨は徐々に勢いを増していく。いかん。禿げる。俺は隔世遺伝なんぞ認めるものか。
 畜生。


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 あるパン屋の軒下。そこへずぶ濡れの女性がゆっくりと入ってきた。その足取りは重く、どこか覚束ない。彼女の濡れた長い黒髪が、鈍く重い艶を放っている。
 彼女はガラスのショーウインドウに背を委ねると、小さな身震いの後にくしゃみを一つした。そして、鼻を啜った。
 激しい雨がこの空間を隔離している。何一つ音はない。人々の雑踏。自動車のクラックション。盲導信号機のメロディ。あらゆる音が、蛙鳴蝉噪の雨が織り成す絶え間ない鼓動に飲み込まれてしまい、今この時を刻んでいる。普段なら煩がっているかもしれないが、今はその音が心地よかった。何だか安心する。世界に包まれている気分だ。
 そんなことを考えながら、ふと彼女は横を見る。男の人がいた。
 右手が、疼いた。同時にこの身体が歓喜している。それは、どんな快感よりも恍惚とさせた。
 今、彼女はこんなことを考えている。
(この人なら私を殺してくれる……?)


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 高一の夏休み、私は始めて死にかけました。同情の余地はありません。自分で自分の右手首を切ったのですから。残念なことに、それは私の意識がある内に母に見つかってしまい、失敗に終わりました。母は泣きながら私に色々問い詰めていましたが―――実の所、あまりそのときの事は覚えていません。ああ、夏休みが明けてからの友人とのこんな会話は記憶にあります。
「あれー、それ、リストカット?」
「へへ、カッコいいっしょ?」
 確か、そんな感じでした。その友人は多少退いていたのでしょうが、まあ笑ってその場済んだのです。高三の春までは。
 十八の夏休み、私は多量出血で病院に担ぎ込まれました。勿論、マイリストカットin風呂場。しかし、またもや母に見つかってしまったのです。救急車が病院に着いた時、私は意識不明の重体でしたが、惜しくも一命を取り保ってしまいました。残念。
 それからというもの、私は一向に反省しようともせず、頻繁に手首を切り続けました。その結果がコレです。かの友人は最早私のセンパイ。
 そう――― 一年間、私は施設に収容されたのです。全く、同情の余地はありません。
 その施設の名前はまたもや覚えていません。どうでも良い事ですが。そして、そこで一年間『療養』し、現在の高校三年生の私に至る訳ですが………そうそう、私が久し振りに家へ帰ってきた時の母の表情は忘れたくても忘れられません。
 私は、もうどうでもいいや、と思いました。


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 店舗の軒下に駆け込む。
 どうやらここはベーカリーショップのようで、店は閉まっていた。定休日だろうか。
 別に、角を曲がった所の軒下でも良かったのだが、そこには先客が二人もいたので、もつれる足を一歩踏み止まったのだ。それに………何となく、二人とも気味が悪かった。
 彼はその事を忘れようと思い、髪の毛を描き回した。水滴が四方八方に飛び散る。パン屋のガラス壁を鏡代わり―――中も外も暗いのでよく映る―――にして髪型を確認するが、既に手遅れな状態であった。彼は溜息を吐く。見上げた空は全くの灰色で、降る雨は止む様子もない。
 彼はミュージックプレーヤーを取り出し、ヘッドフォンを耳に着け、暫くそこで雨宿りすることにした。


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 突然ですが、私には人の『世界』が見えるのです。人の世界は様々な形を装っています。はっきり言って、どれもこれも皆、反吐の出るものばかりです。ある世界は欺瞞だらけの見苦しいものであったり、またある世界は偽善を無闇に振り翳し、しかもそれで何かをしているという気になっている胸糞悪いものだったりします。
 ところで―――私の世界は?
『赤の他人のことなんてどうでもいい。私は? 私の世界はどうなのだ?』
 ……その疑問が過ぎった時、私は恐怖しました。私は、私の世界が見えないのです。もし、私の世界までも腐っていたら? その事を考え、私は毎晩泣いていました。
 キヨラカで生たい。
 私はその答えを見つけるため―――或いは逃げるために、この手首を切ったのです。
 それでも死にきれないの。
 誰か―――
 
 誰か私を殺して下さい。


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 ―――姉さん、俺、今度からアルバイトするよ
『アルバイトって、あんた、学校で禁止されているでしょう?』
 ―――許可下りたから。だからさ、もういいよ、姉さん
『………もういいって、何が?』
 ―――そんな傷、もう負わなくていいから。もう、あんな男が居なくてもでやっていけるよ、俺たち
『しつこいわね。あんたも皆と同じように、私がお金目当てで愛人になったと思ってるの?』
 ―――姉さんだけが犠牲になることない
『黙りなさい。………あなたにはまだ判らないのよ』
 ―――判らない。判らない判らない判らない。
 お陰で、俺が振り向いたその先で姉さんが倒れてた。息もしてなかった。
 だから、あの男が許せなかった。
 籍がなくても、暴力を振るわれても、姉さんはあの男を愛していると言い張っていた。全ては、俺たちの境遇を理解してくれてのことなのだから、と。
 事実、俺に散々殴られても、包丁で刺されても、あの男は姉さんを愛していると言った。叫んでいた。
 何が間違っていたんだ?
 この手に残っている生々しい感触。黒の空虚。赤くて軟らかくて温かくて―――思っていたよりも、遥に脆い。
 俺にはやっぱりわからないよ。


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 彼はこの歌が好きだった。

“不意に君が口ずさむ
 僕は聞いている
 聞き覚えのないメロディ
 もう消えてしまうくらい
 小さな声で
 やがて途切れてしまう”

 曲名は、『夕立』。今正にその状態である。
 彼は鼻歌を流しながら、過ぎ行く気配を見せつつある雨空を見つめていた。


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 彼女は落胆する。
 この男の世界も、やはり傷物だった。エゴの塊であった。
 これでは私は殺せないのだ。
 汚れた世界で更に堕ちればいい。
 痴れ者が。


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 曲が終わり、次のトラックへ進む。その時、雨がぱったりと止んだ。
 彼は軒下から一歩出て、手を広げながら空を見上げた。やがて、朱に染まった太陽が街を夕暮れの絵にする。何となく、得をした気分になった。と。歩き出して、このパン屋の角を曲がる直前に思い出す。そこにはあの気味の悪い男女がいた筈だが―――いない。そこにいたのは、同世代か少し年上くらいかの女の人だけだった。
 彼女は泣いていた。
 声もなく。
 涙もなく。
 ただ空を見つめて。
 だが、彼はその歩みを止めなかった。止められなかった。
 彼女に話しかけるのは―――そう。
 腫れ物に触れてしまうような。
 だから、彼はそのまま歩いていく。
 前を向いて思う。
 それは、不明瞭な境界線。日向と日蔭。主観的客観視による区別。
 彼女はきっと、そのラインを辛うじて保っているのだろう。
 夕日が目を焼いたからなのかもしれない。
 酷くおぞましくあるはずなのに。
 彼女の手首に白磁のように淡く浮かぶその痕が―――彼には美しいもののように見えたのだ。


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 雨が上がる直前。
 彼女は虫を見るような目で彼を見下していた。
「あなたに一つだけ教えてあげる。失ってしまうものと守りきれるもの。それは、ほんの……ほんの少しの違いなの。いいわね」
 男が呟く。
「お前に何がわかる?」














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