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綿々たる恨み

作者: 逢坂

挿絵(By みてみん)


此恨綿綿無盡期

此の恨みは綿々としてくるとき無からん。


白居易「長恨歌」より


/


 門を閉ざした庭から、春が漏れ零れている。昨今珍しい日本家屋であった。表札には「桐野」と書かれていた。呼び鈴を押すと、着物姿の娘が出てきた。格子の紬に、しだれ桜を染め上げた帯を巻いている。月明かりにぽぅと照らされる様は、さながら夢幻のようであった。

「どちらさんで?」

 訝る色もなくただ滑らかに娘は問うた。仙道は事情を説明した。彼はとある大学の院生だった。桐寺という古寺が蔵する絵巻を調査するため、遠路遥々四国は寒峰までやって来たのである。調査は数日かかりそうだった。仙道は泊まる場所に頭を痛めねばならなかった。桐寺の付近に宿の類は一切見当たらず、市街に下ろうにも、日が暮れれば最早足がなかった。見かねた住職が、桐野の家を尋ねるよう彼に勧めた。曰く、旅人を泊めることしばしばであるという。藁にもすがる思いで、仙道は教えられた道を歩いた。桐寺から二十分程下った所で、桜の枝が表まで延びる塀を見つけた。

「そんなら泊まっていったらええよ」

 幾許の逡巡もなく、娘は仙道を招き入れた。良ければ数日置いて欲しいと乞えば、お好きなようにと鷹揚に頷いた。通されたのは庭に臨む客間であった。庭には桜の木と、楓と、青石をちりばめた池があり、池の傍にはまだ盛りには早い藤棚があった。

「それにしても、久しぶりやねぇ仙道君」

 そう呟いて娘が笑んだのは、出して貰った夕餉に仙道がありがたく箸を付けた時のことだった。既に煮しめを一つ口に含んでいた彼は、里芋が溶けるまでの間、黙って娘を見つめていた。月光の下では気付かなかったが、確かに彼女には、見知った面影があった。娘は堂に入った仕草で恭しく頭を垂れた。

「桐野陽子でございます」

 面を上げると破顔していた。その花のかんばせは、仙道の記憶にある、浅香陽子のものだった。

 陽子は仙道にとって、高校時代の級友だった。彼は陽子に憧れていた。彼女の方も、彼を慕っているという噂があった。真偽を確かめることもなく、卒業を迎え、二人は別れた。錯とした青春の思い出である。

「結婚したんだね。まさか、こんな遠い所で会うなんて」

「ほんまに。奇遇やねぇ」

 細められた目許には仄かな艶があった。生娘の如き若々しい容貌の中で、そこだけが人妻らしく大人びていた。

「ご主人は、まだ仕事から戻らないのかな? お世話になる挨拶をしなければ」

 俄に間男じみた据わりの悪さを覚えて、仙道は問うた。薄らと柳眉を寄せ、陽子は答えた。

「主人はね、去年死んでもうたんよ」


/


 その宵、陽子は初めて夫と会った時のことを思い出した。陽子にとって、彼は遠縁の親戚だった。夫のところは他に男児が無く、家系が絶えることを憂えた両親が、親族に見合いを頼んで回っていた。随分古風な話だと、陽子は遠く感じたものだった。それでも見合に参加することを承諾したのは、軽い親孝行の気持ちからであった。彼女は高校卒業後、近畿に下宿し、服飾系の専門学校に通っていた。

 夫は陽子より一回り以上歳上だった。薄ぼんやりとした雰囲気の、物静かな男だった。薄ぼんやりとした男が、彼女は好きだった。高校時代慕っていた仙道が、そういう男だったからだ。

 顔を会わせてみて、心配されるのも無理ない人だと、陽子は夫を評価した。聞けば学者の端くれだと言う。線が細く、いかにも不健康であった。見合いに関しても、本人まったく無欲な様子。

 なぜ嫁ぐことに決めたのかと、親族の誰もが陽子に問うた。上手く説明できる理由などなかった。ただ、自棄や憐憫からでないことだけは確かだった。胸の内にはきっと、仙道のことがあっただろう。叶わなかった恋情の末路は、散り積もり朽ちる桜花に似ていた。堆積し、憔悴し、損なわれてゆく。紅く痛んだそれを、掃き清めてくれたのが夫だった。

 学校を卒業してすぐ、陽子は四国で暮らし始めた。夫の家が土地持ちだったため、仕事は無くとも暮らしは豊かだった。目の衰えた近所の老人に代わって縫い物をこなし、野菜や菓子を謝礼として受け取るのが、彼女の勤めだった。

 夫は優しかった。彼は夫婦で他愛無い話をする事を好んだ。自身は多くを語らなかったが、まるで小鳥のさえずりを愛おしむように、陽子の声に耳を傾けていた。ゆるりと時が流れる、幸せな日々だった。

 

/


 古寺の住職は仙道に対して協力的ではなかった。法事だの何だのと理由を付けては、日を改めるよう求める。そのため、調査の進みは遅々としたものであった。桐野家での滞在は一週間を越えた。住職の側に何やら意図する所があるらしいと仙道が察するのに、そう多くの時間はかからなかった。

 陽子の夫は昨年、病で世を去ったという。死を免れ得ぬことは早くからわかっていた。病院に籠り死期を待つより、家で妻と過ごすことを選んだのが彼の意志であった。彼は、妻と、妻の愛した風景を、最期の記憶にしたいと望んだ。桐寺で桜を見上げながら、彼は倒れ、間もなく他界した。以来、陽子は一度も桐寺に足を踏み入れていないらしい。彼女は独り、残された家を守り、寂寥故か、客人を好むようになった。語ったのは全て、住職の口である。

 陽子は、大小数多の真珠を器に落としたような女性だった。見目麗しいが騒がしい。仙道の知る浅香陽子は、もっとしおらしい少女だった。今の姿が本来の彼女だったのか、或は、時の流れが彼女を変容せしめたのか、仙道には知る由もなかった。ただ、眼前の娘を好ましく思う気持ちだけが、彼にとって明確なことであった。

「学者さんって暇なんね」

 とある昼下がり、陽子はそう言って仙道をからかった。桐寺に通うより桐野家で過ごす時間の方が長い彼を揶揄してのことだった。

「手厳しいね」

 と仙道は苦笑した。彼は慰みに繰っていた本を置き、居住まいを正した。子持ち縞の木綿に、絞り染めの半幅帯を合わせる陽子は、仙道の部屋で縫い物に勤しんでいた。手を止め、顔を上げ、快活に笑う。

「そんな畏まらんでも、責めとるんちゃうんよ。ゆっくり、いつまででも、居ってくれたらええ」

 何気ない言葉の端に僅かな情を読み取り、仙道は黙した。取り繕うようにして言葉を重ねる陽子。

「そういえば、こんな四国くんだりまで、一体何を調べに来たん?」

「長恨歌絵巻だよ」

 言ってもわかるまい、とは思うものの、他に説明のしようが無かった。

「中国に、白居易という有名な詩人がいた。長恨歌というのは彼の代表作で、楊貴妃と玄宗皇帝の愛をモチーフにしている。白居易は日本でもとても人気だったから、それを題材とする屏風や絵巻が多く作られたんだ」

 一通り述べ、陽子の顔色を窺う。彼女の学を信じる気持ちも少しはあった。彼女の亡夫は結構な収集家だったらしく、書斎には大量の古典籍が蓄えられていたからだ。

「へぇ、そうなん」

 小さく頷いた後、陽子は愁いを帯びた瞳で窓の外を見遣った。その日は雨だった。霧雨が舞い、庭の池が白く煙っていた。


/


 明くる日、陽子は、花の散り敷いた庭をあてもなく歩いた。前日の天候とは打って変わって、清々しく晴れた朝だった。風をさほど伴わぬ雨だったおかげか、木にはまだまだ花が残っていた。過ぎ去った春の日の悔恨を今再び噛み締めながら、落花のもとに一人立つ。

「君はどうして、僕を選んでくれたんでしょうか」

 桜の枝越しに空を見上げると、かつて聴いた夫の声が鮮明に蘇ってきた。どうして今更そんなことを問うのかと、陽子は笑った。病床に伏せるまで、夫は一度も彼女に気持ちを問わなかった。

「初めて会った時、君は、他に意中の人があるように見えました」

 今度は笑い飛ばせなかった。言葉を探す陽子を、夫は寂しげに制した。

「いいんです。困らせてばかりで、すみません」

 それからというもの、彼は一層無口になった。別離の日を迎えるまで、陽子はこの時の躊躇いを清算する機会を得られなかった。

「浅香」

 振り返ると、身を整えた仙道が、窓を開けてこちらを見ていた。彼は旧姓で陽子のことを呼ぶ。他に呼び方がないのだろう。学生時代、彼は一度も陽子の下の名を口にしたことがなかった。

「今、住職から電話があった。今日は桐寺に行くよ」

「ほな、門開けとくわ」

 夫が世を去る前、流れる時を惜しんで、陽子はいつも家の門を閉ざしていた。せめて小さな庭の中、二人だけの時間を全うしようと思った。けれど、門は黄昏を閉じ込めるばかりで、行く春を留めてはくれなかった。外へ出よう、桐寺に行こう、と、夫は最後に告げた。


/


 日を経るに従って、仙道は陽子に惹かれていった。陽子もまた、彼を望んでいるように見えた。夜毎、織るが如く、色に染まる私語ささめごとが交わされた。

 滞在が十日に届く頃、ついに伸ばされた仙道の手を、陽子は拒んだ。しかし彼女は、一旦仙道を遠ざけた後、自ら身を寄せ、彼の肩に凭れ掛かった。

「仙道君のことが、嫌いなわけとちゃうんよ」

 陽子は情を含んだ瞳を凝らした。

「探し物、お願いしてもええ?」

「何を」

 と、仙道は問うた。迷いはなかった。それはきっと、必要な通過儀礼だった。

「蒔絵の結び簪。結婚する前に、主人から貰ったん」

「心当たりは?」

「多分、桐寺に」

 倒錯した求愛だと思った。それでも仙道は、次に桐寺を訪れた折り、住職に簪のことを尋ねた。

「やっと、その気になったんやな」

 住職はどこか安堵した顔で頷いた。出された簪は、漆塗りに水蒔絵を凝らした、見事な逸品だった。

「ご主人が倒れた時、取り乱した陽子ちゃんが落として行ったんよ。すぐに返そう言うたのに、思い出すと辛いからいらん言うてな」

「二人は、仲が良かったんでしょうか」

 詮無いことを問う仙道に、住職は目を細めた。

「お伽噺みたいな、可愛らしい夫婦やったわ」

 痛む胸に眉を寄せながら、一体どんな答えを待っていたのかと仙道は自問した。苦悩を察してか、住職は穏やかに説いた。

「そうは言うてもな、遺されたもんは、遺されたもん同士で、身ぃ寄せ合うしかないんじゃわ。陽子ちゃんは、ここいらの爺婆みんなの孫みたいなもんじゃけん。幸せになってくれるんやったら、儂は嬉しい」

 背を押され、帰る頃にはもう日が暮れていた。陽子はいつものように、夕餉の支度をして仙道を待っていた。食事の間、仙道は何も喋らなかった。陽子もまた、弁えた様子で、黙って微笑むばかりだった。

 一段落すると、陽子は仙道を縁側に誘った。その日は浸すような深い月夜だった。白光が、陽子の纏う桜ちらしの小紋に花影を落としていた。

 仙道が簪を手渡すと、陽子はもともと挿していた銀の平打ちを抜き、蒔絵のそれで髪を留め直した。花が露を含むが如く、彼女の瞳は濡れていた。

「それは?」

 と、仙道は尋ねた。陽子は懐から小さな守袋を取り出し、紐を解こうとしていた。

「主人が、死の間際にくれたの」

 袋の中からは、小さく折り畳まれた和紙が出てきた。広げてみると、有名な漢詩の一節が、震える文字で書き付けられていた。此恨綿綿無尽期。

「それ、長恨歌っていう詩の、一部なんやろう?」

 陽子は泣いていた。触れれば雪の肌が溶けやしないかと躊躇って、仙道は涙の一つも拭ってやることができなかった。

「なぁ、長い恨みって、どういう意味なん。綿々たる恨みって、どないしたら許してもらえるんやろか」

 仙道の腕に縋り付き、陽子は肩を震わせた。雲がかかり、水のような月光がさっと引いていった。その瞬間、仙道は夢から覚めた心地がした。同時に、自分の恋が、二度目の終わりを迎えたことを知った。

「これは、長恨歌の、最後の一句だよ」

 そうして彼は、詩に込められた物語と、その結末を飾る一句の意味を、陽子に語って聞かせた。彼女は一層嘆きを深めた。けれどそれは、泣きじゃくる幼子に似た、透明な慟哭であった。


/


 翌朝、荷物を纏め、仙道は出て行った。今日が最後の調査になるとのことだった。

 仙道を送り出した後、陽子は鏡台に向かい、丁寧に化粧した。腫れた目許を隠すためだ。萌黄の小紋に名古屋帯を巻いて、彼女は家を出た。簪に合うと思って、帯締めは薄色を選んだ。

 桐寺への山道を登るのは久しぶりだった。樹陰が地に満ちていた。木漏れ日が眩しかった。住職は何も言わず、陽子を蔵に案内した。気付いた仙道が振り返り、ちょうど良かった、と静かに笑んだ。

「これが、最後の場面」

 深く愛し合いながら、死別を余儀なくされた玄宗と楊貴妃。貴妃のことを忘れられぬ皇帝のために、道士が術を使って彼女の魂を求めることとなった。仙界にて見つけ出された楊貴妃は、最早姿も声も届かぬ玄宗のため、最後の言づてを道士に託す。

「仙道君」

 想いを委ねる貴妃の姿を古画に見ながら、陽子は呟いた。

「ありがとう。あなたに、また会えて良かった」

「うん。こちらこそ」

 小さく頷き、仙道は彼女の意志を受け入れた。

 離愁は抑え難かった。けれどそれは、ひどく朗らかで、清々しい感情だった。別れ際、桐寺の門を挟み、さようなら、と仙道は告げた。

「さようなら」

 と応え、陽子はかつての想い人の背中を見送った。彼女の心は満ち足りていた。ただ花だけが、仄か寂しげに、紅く咲き誇っていた。


臨別殷勤重寄詞、詞中有誓兩心知

(別れぎわに、彼女はねんごろに重ねて伝言をしたが、その言葉の中の誓いこそは、二人の心だけが知っていることであった。)


七月七日長生殿、夜半無人私語時

(「あの七月七日、長生殿の人々が寝静まった夜半、ささめごとを交わした時、陛下は誓ってくださいましたね。)


在天願作比翼鳥、在地願爲連理枝

(『天上に在っては翼をならべた鳥になりたい。地上に在っては一つに合わさった枝になりたいものだね』と。)


天長地久有時盡

(ああ、天は長く地は久しいとは申しましても、いつかは果てる日が来るでしょう。)


此恨綿綿無盡期

(でもわたくしたちのこの恋は綿々として尽きる時はございません。」)



『綿々たる恨み』終わり

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