第7章 シュールな夢
僕はパソコンのモニターで文章を読むのが苦手だ。単行本や文庫本で読むより、僕は数倍疲れてしまうのだ。風呂に入り、ベッドへもぐって横になったら、なにかを考える余裕もなく僕は眠りに落ちた。
現実の世界も夢の世界も脳が見ている。人間の眼から入ってきた情報は、脳によって電気的に処理され、認識されるのだ。ということは、人間が見ている世界は実際とはちがうのかもしれない。眼には見えない、脳には判断できない現実があっても不思議ではないと僕は思う。
目覚めなければ、夢を百パーセント見抜くことは難しい。どんなにわけのわからない夢でも、現実のように感じてしまう。人間は頭の中でいろいろ想像し、映像を思い浮かべるが、夢はそれとは別次元である。めちゃくちゃなのに、夢にはリアリティーがありすぎるのだ。夢はもうひとつの現実なのかもしれない。
夢の中。
古びた洋風の書斎で、がっちりとした木製の机に向かい、僕は原稿用紙に万年筆で小説を書いている。僕の服装は、上着は着ていないが三揃えのスーツのようだ。部屋には暖炉があって、暖かい幸せな匂いが充満している。僕が机の上にあるブリキ製でアンティーク調のデジタル時計を見ると、時間は三十九時だった。
「もう、朝か……」
デジタル時計の数字がおかしな時間だと、なぜか僕は思わなかった。
僕が書いている小説は、まったく文章にはなっていなかった。しかし、僕はその作品にとても満足している。なにも考えないで次々にでたらめな文章を僕は綴っていく。かなり書き上げたところで、僕は空腹感におそわれた。たぶん、僕は徹夜して小説を書いていたのだろう。
「朝飯でも食いに行くか」
僕はそうつぶやき、椅子から立ちあがり、スーツの上着を着て、トレンチコートを羽織った。部屋を出る前に中を見まわすと、革表紙の分厚い本がたくさん積まれていた。すべてが初めて見る光景のはずだが、僕はなにも感じないのだ。
ドアを開けて僕が外へ出ると、ものすごく寒い。町の景色は東京のようだが、実在する町ではなく、レンガ積みの家が多くある。空はどんよりと曇っていて、町全体が灰色がかって見えた。早朝のせいか人通りはなく、しんとしている。
たぶん、僕はこの町を知っているのだろう。見慣れない場所だが、僕は一切躊躇せずに歩き出した。もしかしたら、夢の世界で僕はこの町をなんども訪れているのかもしれない。あるいは、夢の中で僕はここに住んでいるのかもしれない。
路地裏を僕が歩いていると、前方から錆びだらけでぼろぼろの小さなトラックがゆっくりと走ってきた。そのトラックは軽トラックをさらに小型化して、子供用のサイズにしたような感じだった。運転しているのは、小学校低学年くらいの女の子のようである。僕はそれが不思議だとは思わなかった――車のサイズや免許のことなど、ありえないはずなのだが、余計なことはなにも考えなかった。
小さなおんぼろトラックは、歩くようなスピードでじりじりとやってきて、僕の横で停車し、女の子が運転席の窓から顔を出した。僕も歩みを止めると、彼女が僕を見あげて挨拶をしてきた。
「おじちゃん、おはよう」
「おはよう。お嬢ちゃん」
僕が挨拶を返すと、小さな女の子は車から降りてきた。彼女は、ひとなつっこそうな顔立ちで、おさげ髪の上から白いニット帽を深くかぶり、紺色のベロアのスカートに赤のプルパーカーを着て、その上から傷んだジージャンを羽織っていた。
「寒いね、おじちゃん」
「ああ。すごく寒いね」
「ねえ、おじちゃん。なにか買ってよ」
「なにかって? なにを売ってるのかな?」
「いいものだよ」と女の子は答えた。
「いいものって?」僕が軽トラックの荷台を見ると、なにやらゴミのようなガラクタがたくさん積まれている。
「とってもいいものが、いっぱいあるよ」
「そうみたいだね」僕は子供の『お店屋さんごっこ』だと思い、つづけて、「お嬢ちゃんの名前は」と尋ねた。
「あたしはいいものを売ってる、いいもの屋さんのいい子ちゃんだよ」と女の子は答えた。
「いい子ちゃんか。朝から仕事、たいへんだね」僕は笑いながら言った。
「この仕事が好きだから、そんなにたいへんじゃないよ」
「仕事が楽しいのは、いいことだね」
「うん。いいものをたくさん売って、みんなを幸せにするんだ。おじちゃんは、どんな仕事をしてるの?」
「おじさんは、本を書くのが仕事」
「どんな本を書いてるの?」
「小説を書いてるんだ」
「おじちゃんの書く小説はおもしろいの?」いい子ちゃんが訊いた。
「おもしろいぞ。怪獣が出てきたり、「ガオーッ」とか。オバケが出てきたり、「うらめしやーっ」てね」
僕がゼスチャーをして話すと、いい子ちゃんはきゃっきゃっと笑った。
「おもしろそう。こんど読むね」といい子ちゃんは言い、つづけて、「おじちゃん。安くするからいいもの買ってよ」とねだった。
「よし、なにか買おうかな。おすすめ品はあるかい?」
「うん。あるよ」いい子ちゃんは車の荷台をゴソゴソ調べ、「あった、あった」と言いながら、細い紐を取り出してきた。
「それはなにかな?」僕が訊くと、
「ヨーヨーだよ」といい子ちゃんは答えた。
「ヨーヨー?」
「うん、そうだよ。紐しかないけどね」
「紐しかなければ、ヨーヨーじゃないさ」僕が笑いながら言うと、
「でも、ヨーヨーなの」といい子ちゃんは言った。
「わかった。じゃあ、それを買おう。いくらかな?」
「十万九千八百円」
「えっ? 十万九千八百円だって!」
「安いでしょ?」
「うーん、どうだろう。高いと思うけどな。ほかにはなにがあるの?」
「おじちゃん。缶コーヒー、飲む?」
「飲みたいけど、値段が不安だね」
「安くしとく」と言って、いい子ちゃんは車の荷台から缶コーヒーを取り出し、「四万九千八百円でどう?」と訊いてきた。
「高い、高いな」僕が笑って言うと、
「高くないよ。だって中身は入ってないよ」といい子ちゃんは真剣に言った。
「なんだ、空き缶じゃないか」
「だから高いの」
「なるほどね。だけど、もっと安いのない」僕が荷台をのぞき込むと、札束が入ったビニール袋があったので、「これは?」と指さして訊いた。
「それは一千万円入りのビニール袋だよ」といい子ちゃんは答えた。
「売ってるのかい?」
「もちろん売ってるよ。これはいいものじゃないけどね」
「いくらで売ってるのかな?」
「二十四円」
「なに? 二十四円で一千万円を売ってるの!」
どう見ても本物の札束だったので僕は驚いた。それに、同じビニール袋がいくつかあるから、全部で五、六千万はありそうだ。
「おじちゃん。これはただの紙くずだよ」
「しかし、本物のお金じゃないか」
「でも、ただの紙くずなの」
この子はふざけているのか本気なのか、僕が考えていると、民家から派手なセーターにジーンズ姿のおじいさんが出てきた。その老人は髪がほとんどなく、顔はしわだらけだが元気そうな人であった。
「いい子ちゃん。待ってたぞ」老人はうれしそうにやってきた。
「いらっしゃい。クソじいさん」いい子ちゃんが笑顔で言った。
「クソじいさん?」僕がつぶやくと、
「なんですか、あんたは?」と老人は顔をしかめた。
「いいえ、なんでもありません」僕は黙ることにした。
「おっ! それは缶コーヒーではないか」クソじいさんは、いい子ちゃんが持っていた空き缶を見て言った。
「いいものでしょ。買う?」いい子ちゃんが訊くと、
「では、買うとするか」とクソじいさんが言った。
「クソじいさんはいつも買ってくれるから四万円でいいよ」といい子ちゃんが言った。
「いやいや、そんな安くは買えんぞ。三十万円で買うぞ」そう言ってクソじいさんは、彼女にお金を渡した。
「ありがとう。また買ってね」いい子ちゃんは、お金をジージャンのポケットへ入れた。
「あの、それよりも、一千万円が二十四円で売ってますよ」僕が教えると、
「そんなもん、いらんな」とクソじいさんは言った。
「売れないんだ、これ。在庫がたまっちゃった」いい子ちゃんがつぶやいた。
「しかし、変な人たちだなあ」僕が言うと、
「変なのはおじちゃんだよ。おすすめ品を買わないんだから」といい子ちゃんは言った。
「いい子ちゃんのおすすめ品を買わなかったのかね?」クソじいさんが訊いたので、
「えっ? ええ、まあ……」と僕は口ごもった。
「それはいかん。たいへんなことになるぞ」クソじいさんは怖い顔をして言った。
「どういう意味です?」
僕が訊くと、クソじいさんは話しはじめた。
「この前、いい子ちゃんのおすすめ品を買わなかった男がいてね。その男は路上で強盗に刺されて財布を取られ、倒れ込んだら走ってきた車に次々にひかれて、やってきた野良犬に小便をかけられ、飛んできたカラスに糞をかけられ、さらに彼の上に飛行機が墜落、あげくの果てにビルまでも彼の上に倒れたんだよ」
「冗談でしょう?」僕は笑った。
「あれはそうとう痛かったぞ」クソじいさんが言った。
「痛いというよりも、死んでるでしょう」僕が言うと、
「たしか全治二週間だったかな」とクソじいさんは説明した。
「そんな、まさかあ」僕は首を振った。
「いいのかね、不幸が連発するぞ」クソじいさんが脅した。
「小説のおじちゃん、ヨーヨー買って。いいものだよ」いい子ちゃんがねだった。
「いいものだから買ってあげなさい」クソじいさんにも頼まれた。
「わかりました。それじゃあ買いますよ。まず一千万円を二十四円で買って、そのお金で紐だけのヨーヨーを買えば得しますから」僕はグッド・アイディアだと思った。
「あんた、ずるいな!」クソじいさんが怒鳴った。
「ずるい、ずるい」いい子ちゃんが言った。
「買いますよ。買えばいいんでしょう」
けっきょく、僕はくだらない紐を十万九千八百円で買ってしまった。なぜか知らないが、僕の財布の中にはお金がたくさん入っていた。
「いいもの買ってよかったね」いい子ちゃんが微笑んだ。
「ヨーヨーを買えるとは、運がいいな」クソじいさんが言った。
「運が悪いと思うけど」僕がつぶやくと、
「ずいぶんよろこんでるな」とクソじいさんは言った。
「よろこんでません。怒って、悲しんでます」僕は腹が立ってきた。
「怒ったり悲しんだりすると病気になるよ」いい子ちゃんが言った。
「人生は楽しまないと損するぞ」クソじいさんが言った。
「小説のおじちゃん、ヨーヨーで遊べば? 楽しいよ」いい子ちゃんが言うと、
「遊びなさい。見てるから」とクソじいさんも勧めた。
「けっこうです。それに、紐だけじゃあ遊べないでしょう」僕はぶっきらぼうに言った。
「小説のおじちゃんがヨーヨーで遊ぶの見たかったなあ」いい子ちゃんはがっかりした。
「あんたケチだね」クソじいさんが眼を細めた。
「なんとでも言ってください」
僕は怒った感じで言ったが、不覚にも楽しくなってしまった。
朝食を食べに家を出てきたのだが、僕は自分がどこの店へ向かっているのかさっぱりわからない。なのに、特に迷うこともなく僕は路地を歩き続けた。
僕は路地を左へ右へしばらく歩くと、中くらいの通りにやってきた。すると、スーツを着てメガネをかけた長髪の青年が、僕に近づいてきて話しかけた。
「いたいた。やっと見つけました。先生の家まで行ったんですが、不在だったから探しましたよ。原稿のほうは書き上がりました?」
「あの、どちら様ですか?」僕が尋ねると、
「先生、とぼけるのはやめてください」と青年は言った。
「申し訳ないが、ちょっと記憶に――」僕が言いかけると、
「また逃げるつもりですか? 早く原稿を渡してください」と青年は言った。
「君はいったいだれかな?」ほんとに僕は知らなかった。
「いい加減にしてください。編集の坂本です」
「あ、ああ、出版社の坂本君……何年ぶり?」僕は知ってるふりをした。
「なんですそれ、きのう合ってますけど。まだ寝ぼけてるんですか」坂本君は不機嫌な顔をした。
「そ、それで、なんの用だっけ?」
「原稿ですよ、原稿! 先生の原稿を取りに来たんです」
「こんな朝早くに?」
「そうです。もう逃がしませんからね」
「逃げる? 僕はどこにも逃げないさ」
「先生。作家は締め切り間際になると、みんな逃げるんです」
「坂本君。いつの時代の話をしてるんだ」
僕がそう言うと、坂本君は眼を輝かせて話した。
「もちろんいまです。しかし、それがおもしろいんですけどね。想像力を駆使して言いわけをして逃げる作家たち、それを追う僕ら編集者。作家は変な人が多いから楽しいです。作家とのコミュニケーションがおもしろいから、この仕事が好きなんです。だから、ものすごく楽しくてやり甲斐があるんです。それに社内も活気があります。めちゃくちゃだけど編集部の仲間たちも楽しい。僕はこの職業に就けて幸せです」
「だけど、出版社は変わるんだよ」僕はつぶやくように言った。
「なんです? 変わるってなにが変わるんですか?」坂本君が訊いた。
「いろいろ事情が変わるのさ」と僕は答えた。
「先生、『事情』ってなんです? 出版社が変わるはずないでしょう! 社内は活気があって、社員はまるで学生時代の仲間のように楽しくて、仕事というよりも大好きな本をみんなでつくってる感じで――」
坂本君の言葉を遮り、
「そんな時代は終わるんだよ!」と僕は怒鳴った。
「では、どう変わるんですか?」
「一般企業のようになる。つまり普通のサラリーマンのようにね。社員は就職試験を受けて入社し、みんな事務的に働き、まじめに仕事をする。おもしろかったり変わっている人間は、面接で落とされるからほとんどいなくなるだろう」
「そんなのうそです! 出版社の社員はサラリーマンでも普通の会社のサラリーマンとはちがいます。僕らは夢を売ってるんです」
「そんなことを言うと、笑われる時代になるんだ」
「なぜ、先生にそんなことがわかるんです?」坂本君が訊いたので、
「どうやら僕は、未来の人間みたいだ」と僕は教えた。
「なんだ、新作の小説の話ですか。それ、ちょっと怖いけどおもしろそうですね。未来の会社員は人間性を失って、黙々と事務的に働く仕事人間。でも主人公はそんな世の中に疑問を抱き、原因の究明に動き出す――社会派サイエンス・フィクションですね。で、どうしてそんな世の中になったんです?」
「政府の情報操作だ。一般市民は企業に就職し、自分に合わない仕事でも定年退職までまじめに勤めるのが立派だと洗脳するんだ。しかし、そんなシステムにも無理が生じて崩壊し、日本は混沌とした状態に陥る」
「主人公は世の中を変えることができるんです?」
「さあ、どうだろうね」
「早く原稿を渡してくださいよ。読むのが楽しみになってきました。僕はやっぱり編集者になってよかったなあ。発売前に先生の小説を読めるんですから」
「来週、家に取りに来てくれ」
「絶対ですよ、先生!」
「ああ、わかった。ところで、この辺に朝飯を食えるところはないかな?」
「それなら、その道を左へ曲がったところにあります」
「ありがとう、坂本君。行ってみるよ」
坂本君は自分たちが若かったころの出版業界を忘れてしまうだろう。そして、自分たちが出版社を普通の会社にしてしまう張本人だと気づかないのだ。
教えてもらった店はすぐに見つかった。店の看板には汚い字で、『楽々食堂』と書いてある。僕がその店に入ってみると、店内は小さく、客はだれもいなかった。営業してないようにも感じたが、パンを焼く香ばしい匂いが漂っているので僕は開店してると判断し、壁際のテーブルの椅子に腰かけた。すると店の奥から店員が出てきて、注文を取りに僕のところまでやってきた。
その店員は人間ではなさそうだ。彼には大きな目玉が魚のように左右につき、顔から飛び出している。そして鼻は穴だけがふたつあり、口は一直線で大きい。彼の頭には髪ではなく、ニワトリのとさかのようなものが生えていて、顔と首の境目がない。彼はチノパンにトレーナーを着て、その上からエプロンをかけていた。その店員はあきらかに人間ではないが、性別が男だと僕はわかった。
「いらっしゃいませ、旦那様。注文は決まりましたか?」店員が言った。
「あの、メニューがないけど」僕が訊くと、
「メニューは、おいらがおぼえてます」と店員が答えた。
「なにがあるのかな? 教えて」
「トースト・ハムサンドがおいしいんです」
「ほかには、なにがある?」
「トースト・ハムサンドがいいと思います。こんがりあぶった食パンにハムとチーズとレタスを、オリジナルのマヨネーズで挟んであるんです。おいらトースト・ハムサンドが大好きなんです。それはおいしいからなんです」
「食べるのは僕だからさ。ほかのメニューを教えてよ」
「忘れました。おいらトースト・ハムサンドしかおぼえてないんです」
「なんで、どうして?」僕が訊くと、
「おいら人間じゃないんです。地底人だからなんです」と店員は答えた。
「見れば人間じゃないことぐらいわかる。忘れたならメニューを持ってきてくれ」
「旦那様、地底人は嫌いですか?」
「そういうわけじゃないけど、僕はお腹が空いてるんだ」
「でしたらトースト・ハムサンドがいいと思うんです」
「わかったよ。トースト・ハムサンドください」
「飲みものはホット・コーヒーでいいんです?」と地底人が訊いた。
「ああ、いいよ」と僕は投げやりな口調で言った。
地底人は厨房へ入っていき、五分くらいでトースト・ハムサンドとコーヒーを持って戻ってきた。
「お待たせしましたんです」と地底人は言いながら、テーブルの上にトースト・ハムサンドとコーヒーを置いた。
皿の上のトースト・ハムサンドは、あぶった食パンを切らすにサンドイッチにした状態だった。とてもおいしそうではあるが、三分の一くらい食べられていた。
「ちょっと地底人さん。食べかけだぞ、これ!」僕が言うと、
「すみません。おいらが食べちゃったんです」と地底人は平然と言った。
「どうして食べちゃったんですか?」
「おいら、とってもお腹が空いてたんです」
「だからって、客の食べちゃだめでしょう」
「でもね、でもね、食べちゃったんです」
「冗談は顔だけにしてくれ」僕が怒って言うと、
「やっぱり、おいらの顔は変ですか?」と地底人は訊いてきた。
僕は地底人の質問を無視してコーヒーを飲もうとしたが、コーヒーカップの半分以下しか入ってなかった。
「あれ? コーヒーの量が少ないけど、もしかして――」
「すみません。おいらが飲んじゃったんです」
「地底人さん、いい加減にしてくれよ!」
「トースト・ハムサンドとコーヒーはすごく合うんです」
「だからって、客のを飲んじゃだめでしょう」
「でもね、でもね、飲んじゃったんです」
「なんだよ、それ……」
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい」
地底人は謝りながらなんども頭を下げ、僕に頭突きをしてきた。
「わかった、わかった、もういいよ! 痛いな!」僕は怒鳴った。
「旦那様、おいらを許してくれますか?」地底人は反省しているようだ。
「しょうがない。このトースト・ハムサンドとコーヒーを地底人さんにあげるから、新しいのを持ってきてくれ」
「でも旦那様。そうすると料金が二倍になるんです」
「ああ、いいよ。僕のトースト・ハムサンドとコーヒーを早く持ってきてくれ」
「ありがとうございます。旦那様は心が広いんです」
地底人はそう言って厨房へ行き、新しいトースト・ハムサンドとコーヒーを持って戻ってきた。そして彼は、僕の正面に坐った。
「地底人さん。どうしてそこに坐るの?」
「食事は独りで食べるより、二人で食べたほうがおいしいんです」
「勝手にしてくれ」僕はあきらめて言った。
「いただきます」と地底人が言った。
僕がトースト・ハムサンドを食べてみると、ちょうどいい焼き加減でサクサクしておいしかった。地底人もトースト・ハムサンドをおいしそうに食べていた。
「旦那様。おいら、悩みがあるんです」地底人が言ったので、
「だれだって、悩みはあるだろうね」と僕は答えた。
「おいらの悩み、聞いてくれます?」
「聞いても、僕には解決できないと思うけど」
「おいらの顔を見てください」
「なんで? あまり見たくないな」
「照れないでください」
「照れてないよ」
「旦那様。おいらの顔、見てください」
「しょうがないな、もう」
僕は地底人の顔をしげしげと眺めた。よく見ると彼の顔はとてもおもしろかったので、僕は吹き出してしまった。
「やっぱり変ですか?」地底人が悲しそうに訊いた。
「悪い、悪い。つい笑ってしまった」と僕は言った。
「おいらの顔、左と右がちょっとちがうんです」
「それで笑ったんじゃないさ。別にちがうようには見えないけど?」
「ほんのちょっとだから、わからないんです」
「人間の顔は左右対称じゃないからさ、そんなこと気にしないほうがいい」
「おいら人間じゃないんです。地底人なんです」
「ああ、そう。それはよかったね」と僕はあきれて言った。
突然、一週間が経ったらしい。僕の家に編集者の坂本君が原稿を取りに来た。しかし、坂本君の表情が異常に暗かった。
「坂本君、どうしたんだい? そんな顔をして」僕が訊くと、
「先生。すごく寂しい事件が起こりましたよ」と坂本君が言った。
「事件? どんな事件があったのかな?」
「おもしろい人たちが、どこかへ消えてしまったそうです」
「おもしろい人たちって?」僕が尋ねると、
「いいもの屋のいい子ちゃんとか、楽々食堂の地底人とか、とにかくおもしろくて変わってる人たちはみんな消えてしまったそうです」と坂本君は話した。
「どうしてそんなことになったのかな?」
「時代です。ちがいを認めない時代になったそうです。みんなと同じ普通でまともでなければいけないそうです。『普通じゃない人』と言われるのを恐れ、みんな普通になる努力をするようになってしまった。普通人間だらけで、世の中寂しくなりました」
「現代人の普通が、いかに人間らしくない生き方か気づかないんだろう」
「もう小説しかありません。小説の中には楽しい人たちがたくさん出てきますから」
「どうだろう――」
「先生、書いてください。小説を書いてください」
僕はそこで目が覚めた。久しぶりにシュールな夢を見ていたようだ。
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