第6章 本が大好きな人たち
カーテンを閉めないで眠ったらしい、僕は朝日の眩しさで目覚めた。昨晩、万年筆を壊したとき、僕はあることを決めていた。三階改造。僕が小説家だったことは過去のこと、昔の栄光はとっくに捨てているが、その痕跡もすべて捨てることにした。
軽い朝食をすませた僕はセトちゃんに電話して、時間があったら車で来るように頼んだ。セトちゃんは午前中に僕の家に来ると約束してくれた。次に僕は古本屋に電話して、所蔵してある本を買い取ってくれるように頼んだ。古本屋は午後の四時くらいに、僕の家まで本を買い取りに来ると話した。
三階には六畳間が四部屋と八畳間が一部屋、床はすべてフローリングで、八畳間以外は絨毯を敷いてある。六畳間は資料室が二部屋と物置と書斎で、八畳間は書庫になっていた。
僕は三階へ行き、書庫からブンさんの小説だけを抜き取った。
「これだけでいい」
僕は余計なものを見ると未練が出そうだったので、ほかの本は処分すると決めた。資料室にある自分で作成した膨大な資料はセトちゃんに渡し、書かなかった僕の新作のアイディアはすべて捨てる。
資料室から、僕は新作のアイディアが書いてある資料を全部持ち出し、物置へ行ってシュレッダーで細かく断裁した――45リットル用のゴミ袋六枚がいっぱいになった。せっかく考えたアイディアだけれど、僕はもったいないとは思わなかった。僕はアイディアを出すのが得意で、アイディアだけならいまだっていくらでも考え出せる。しかし、アイディアならだれだって思いつくが、それを原稿用紙数百枚の小説にまで仕上げることができるのは、ごくかぎられた人間だけなのだ。
クリエーティビティーと文才、構成力と強靱な精神力、それに気力、情熱がバランスよく融合されることで初めて小説を書き上げることができる。どれかひとつでも欠ければ、まともな作品を書くことはできない――僕に欠けているのは、気力、情熱である。
十時半ごろ、スーツ姿のセトちゃんが出版社のワゴン車を運転してやってきた。
僕の家の玄関に入り、セトちゃんは言った。
「何年ぶりだろう。レンちゃんから俺を呼び出すなんて」
「セトちゃん。時間のほうは大丈夫?」
「ああ、大丈夫だ。レンちゃん、大事な用ってなに?」
「僕についてきて」
「わかった」
三階に向かう途中、セトちゃんが話した。
「沖田の奴、長編小説を書くんだと」
「あの歳で長編小説か。なかなかやるね」僕は感心した。
「だけど心配だな。あいつ、まだ中編を二冊しか書いたことがないから」二階へ向かう階段をあがりながらセトちゃんが言った。
「嫌ってる割りには、心配してるんだ?」
「そりゃあ、心配するよ。仕事だからな」
「仕事とは関係ないような気がするけど」僕は三階への階段をあがりはじめた。
「仕事だよ、仕事! それだけ」セトちゃんも階段をあがる。
「なんだかんだ言って、セトちゃんは沖田君がかわいいんだな」
「ちがうって! あんな奴、どうなってもいい」
「じゃあ、見捨てることだね」僕は三階に着いた。
「そんなことしたら、俺が会社から見捨てられるよ」セトちゃんも三階に着いた。
「セトちゃんも頑固だね」僕が言うと、
「長編に手を出して、つぶれないか心配なんだ」セトちゃんは認めたようだ。
「あせらせなければいい」
「ああ。書き下ろしだからあせらせないが」
「僕も書き下ろししかやらなかった。連載だったら、穴を開けたかもね」
「当時のレンちゃんなら、穴を開けたってだれも文句は言えないな」
「そうかな? セトちゃんは、けっこううるさかったけど」僕は笑って言った。
「俺はうるさくなかったぞ」セトちゃんがムキになった。
「冗談だよ」
「しかし大丈夫かな、沖田……」
「沖田君はまだ若い。心配ないって」
「そうだな」セトちゃんはうなずき、つづけて、「ところでレンちゃん。大事な用は?」と訊いた。
「セトちゃん。資料室に行こう」僕が言うと、
「ほ、ほんとに! いいの?」セトちゃんは眼を丸くした。
どんなことがあっても、いままで僕は資料室にだれも入れたことがなかった。妻でさえも入れなかった。きょう、セトちゃんを初めて入れる。僕はセトちゃんをつれて、二部屋ある資料室の一室に入った。
「これは……」セトちゃんは膨大な資料の山に言葉を失った。
「全部、持って行ってほしいんだ」僕が言うと、
「俺にくれるの?」とセトちゃんは驚いた。
「必要ない資料は、セトちゃんが判断して捨ててくれ」
「貴重な資料だ、捨てられないな」
「セトちゃんに任せる」
「しかし、レンちゃん。七冊の小説を書くために、これだけの資料をつくったの?」
「これだけじゃない。隣の部屋にもまだある」
「これは、すごいな」セトちゃんは、室内を見まわして言った。
「ただのゴミだけど、なにかの役に立つかもしれないと思ってさ」
「レンちゃんの作品を研究している評論家は多い。これだけの資料があれば、レンちゃんが小説を書き上げたプロセスがわかる。それを本にすることも可能だな」
セトちゃんの編集者魂に火がついたようだ。
「そんなの本にしても売れないさ」僕は笑って言ったが、
「売れる――絶対にね」セトちゃんの眼ざしは真剣である。
「人生はなにがあるかわからない。もし、僕になにかあった場合、セトちゃんの出版社にこの資料を保管してもらえれば、いつかなにかの役に立つかもと思っただけさ」
「いま必要だと思う」セトちゃんは僕を睨むような眼つきで言った。
「とにかくセトちゃんに任せるから、全部持って行って」僕がそう言うと、
「ああ。持って行くとも」とセトちゃんはなんどもうなずき、つづけて、「沖田のことなんだけど、あいつ長編小説を短編や中編小説の感覚で書こうとしてる。充分な構想を練らないうちに、もう書きはじめてると言っていた」と話した。
「見切り発車か――危険だな」僕はつぶやいた。
「一冊の長編小説を書くには、どれほどの準備が必要なのか、レンちゃんの作品を例にとって示せば、作家を目指す連中にもヒントになる。――だけど、レンちゃんの場合は例外かもしれないな。この資料の山は多すぎる」
「無駄な資料が多いんだよ。僕は要領が悪いから、残念だけどお手本にはならない」
「たしかにこの資料の山は大げさだけど、北沢蓮の研究家にはおもしろいと思うな」
「セトちゃんの好きにしてくれ」僕はぶっきらぼうに言った。
「俺がやる!」セトちゃんが資料の山を見つめて言った。
「『やる』って、なにを?」僕が訊くと、
「俺が『レンちゃん研究』の本を書く」とセトちゃんは力強く答えた。
「セトちゃんが本を書くの?」僕は驚いた。
「うん。俺が書くよ」セトちゃんは僕の顔を見て言った。
「本気で言ってるのか?」僕は冗談だと思った。
「もちろん本気だ。俺ならどんな評論家よりレンちゃんのことをよく知っている。だれよりも俺が書いたほうが、おもしろいものが書けるはずだ」
「セトちゃんの本か、読んでみたいな。僕だけじゃないと思う。セトちゃんは編集者として優秀で有名だから、セトちゃんが本をだせば出版業界でも話題になるよ」
偶然だろうけど、セトちゃんやメカさん、これまで本を書かなかった人たちが本を書きたがってるような気が僕はした。
「だけどレンちゃん。どうして資料を処分する気になった?」
「いろいろ考えてさ。すべてを捨てたくなったんだ」
「もう、小説は書かないの?」
「三階をさ、楽しい部屋に改造するんだ。このままじゃあ、無駄になるからね。ホームシアターとかつくろうと思ってる――」
「そんなに小説を書きたくなくなったの?」セトちゃんはしつこく訊いた。
「気力がさ、戻ってこないんだ……」僕はため息をついた。
「残念だな。レンちゃんともう一度小説をつくりたくて、俺は編集長への昇進をずっと断ってきたんだけどな」
「なんだって?」
僕は責任を感じて言ったが、セトちゃんは、
「なんでもない。さあ、資料を車に積みこもう」
と言って微笑み、話をごまかした。
そのあと、僕とセトちゃんは黙々と資料の山をワゴン車に積み込んでいったが、途中ですべての資料を車に積み込むことはできないとわかり、セトちゃんは会社に電話して後輩にもう一台のワゴン車で僕のうちまで来るように頼んだ。セトちゃんの後輩、杉野君は僕と初めて逢う。彼は三十代半ばくらいだけれど、体型は小太りで、メガネをかけた顔は少し老けて見えた。杉野君のスーツ姿は、サラリーマンの典型のように感じる。彼は僕が北沢蓮だと知って、必要以上に興奮しているようだった。
昼の十二時前に、二台のワゴン車にすべての資料を積み終わった。僕は中華料理屋にラーメンの出前を頼み、一階のリビングで僕たちは昼食をとることにした。
杉野君がラーメンを食べながらセトちゃんに尋ねた。
「一流の編集者って、どんな人でしょうか?」
「セトちゃんみたいな人さ」僕が答えてしまった。
「実績ですね。瀬戸さんみたいにベストセラーを連発しないと」杉野君が言うと、
「ベストセラーを出すのは、それほど難しくない」とセトちゃんは言った。
「それは、どういうことです?」杉野君は首をかしげた。
セトちゃんはコップの水を飲み、一息ついて言った。
「おもしろい作品を探し出して、出版すればいいだけのことだ」
「それが難しいんですよ。どんな小説がおもしろいのか、見分けることができればいいんですけどね。それに、若者の活字離れで小説自体が売れない時代ですから」
杉野君が言うと、セトちゃんが話した。
「たしかに昔より本が売れない時代になった。でも、若者の活字離れというのは、出版業界の言いわけにすぎないぞ。編集者も作家も、本が売れないからといって数で勝負しようとするから、一冊のクオリティーが低くなり、たくさんの読者が小説から離れていく現象が起きて、さらに本が売れなくなった。それを活字離れだって! 編集者も作家も、本が売れないのを客のせいにしてるとは最悪な状態だよ。おもしろい小説を出版すれば、本は売れるんだ。若い連中が本を読もうと思って小説を何冊か読んでも、つまらなければそれ以上は読まなくなる。だけど、おもしろいと思う本を一冊でも読めば、もっとおもしろい作品を探して、たくさん小説を読んでくれるようになるんだ」
「耳が痛い話です……」杉野君がつぶやいた。
「――出版業界も変わったようだね」僕は少し寂しく感じた。
「なんとかしないといけないのに、だれもなにもしようとしない。俺も人のことを言える立場じゃないけどな」セトちゃんが言うと、
「瀬戸さんは立派です」と杉野君が言った。
「俺はあきらめたくないんだ。小説が好きだから……」セトちゃんが、ラーメンの器を眺めながらつぶやくように言った。
セトちゃんは昔と変わらない。彼はずっと本が好きなようだ。僕は小説が好きで作家になったわけだが、いまや小説を書きもしないし、読みもしない。
古本屋は小型トラックで四時十分前くらいにやってきた。
白髪で銀縁メガネをかけた七十代くらいの男性が、ロングヘアの二十代後半くらいの青年と、七三分けのまじめそうな三十代前半くらいの青年をつれてきた。白髪の老人は品があり、三揃えのスーツを着ている。ロングヘアの青年は、ジーンズに上着はジャージだった。七三分けの青年は、紺のトレーナーを着てジーンズをはいている。
僕が彼らを三階の書庫へ案内すると、彼らは蔵書の数に驚いていた。
「電話で聞いておりましが、まさかこんなにございますとは」と老人が言った。
「残す書籍はありますか?」七三分けの青年が訊いた。
「ここにある本は、すべて売ります」と僕は答えた。
「査定して車に積み込みます。少し時間がかかりますよ」ロングヘアの青年が言った。
「時間のほうは大丈夫です。よろしくお願いします」と僕は言った。
じゃまにならないように、僕は廊下で三人の仕事を眺めていた。彼らの作業は効率がよく、手慣れたものだった。老人は古本屋の主人で、彼の仕事は本の査定であった。
老人は本棚から本を一冊ずつ取り出し、「これは貴重です」とか「すばらしい本です」とか「この書籍はずっと探しておりました」などと、独り言のように言っていた。老人は本が初版本かどうかも、しっかりとチェックしている。
老人の反応に、二人の青年は顔を見合わせ微笑んでいた。二人の青年は老人の身内なのか、たんなる従業員なのかは、僕にはわからないけれど、三人がとてもいい関係であることはたしかだった。古本屋の店内で彼らが本に囲まれ、本の話題で盛りあがり、楽しく仕事をしている姿が僕の脳裏に浮かんできた。
僕は老人の本に対する姿勢で、彼がとても本を愛していることがわかる。古本屋の老人は、いったい本にどんな思いがあるのだろう。きっと、僕なんかには計り知れない思い入れが、老人にはあるにちがいない。メカさんのように、この老人も本によって人生の危機を救われたのだろうか? それとも、老人の長い人生の中で本に素敵な思い出がいっぱいあるのだろうか? どうして老人は古本屋になったのだろうか? なぜか僕は、子供のころの老人が本を抱えて布団の中で眠る姿を勝手に想像してしまった。
正直、僕は古本屋は好きではなかった。苦労して書き上げた本を、定価ではなく安く買おうとするなんて、もってのほかだと僕は思っていた。僕は小説で儲けているにもかかわらず、そんなせこい考えが心のどこかにあった。だから、僕は古本屋には一度も行ったことがない。しかし、彼らの仕事を見ていたら、僕は感謝の気持ちが湧きあがってきた。間違えなく、僕よりも彼らのほうが遥かに本を愛していると思う。
作業は三時間以上かかり、書庫にあったすべての本は小型トラックの荷台へ、やっと積み終わった。
玄関に彼らは集まり、帰り支度をしている。
「遅くなって、すみませんでした」七三分けの青年が謝った。
「気にしないでください。でも、店のほうは大丈夫なんですか?」僕が訊くと、
「店は閉めてきましたから、大丈夫ですよ」とロングヘアの青年が答えた。
「この値段で全冊を買い取ります。よろしいでしょうか?」そう言って、老人が電卓を差し出した。
「この値段で買い取ってくれるんですか!」高額査定に僕は驚いた。
「これでも安いくらいです」と老人は言った。
僕が考え込むと、老人はゆっくりとした口調で話した。
「希少な本が数多く、わたくしはたいへん感動いたしました。わたくしどもが経済的に豊かな古書店ならば、もっと高額でお引き取りしたいのですが、この値段でなにとぞお許し願います」
僕が返事にまごついていると、老人はつづけて言った。
「ご不満でしょうか?」
「いいえ、とんでもない」と僕は答えた。
「それでは、この値段でよろしいのですね」老人は念を押した。
「だめです。悪いけど、売れません」
僕が断ると、古本屋の三人は呆然とした表情を浮かべた。
「……だめですか。これが、わたくしどもでは、ぎりぎりの値段なのですが――」老人は悲しそうに言った。
「すべて差し上げます。どうぞ持って行ってください」と僕は微笑んで言った。
古本屋の三人は、僕の言葉に驚き、顔を見合わせている。
「持って行ってくれないんですか? ただですよ」僕が言うと、
「それはいけません。仕事ですから買い取らせてもらいます」と老人は言った。
「買うなら、売りません」
僕が強い口調で言うと、古本屋の三人は大笑いした。そして、ちょっとした押し問答があったけれど、僕は古本屋の老人をなんとか納得させた。
彼らが帰るとき、僕は玄関先まで見送ることにした。外はすっかり暗くなっていた。
ロングヘアの青年と七三分けの青年が僕に深くお辞儀をして、止めてあった小型トラックへ乗り込んだ。
老人だけが残って僕と話した。
「こんな素敵な日は、生涯で初めてです」と老人が言った。
「大げさですよ」と僕は少し照れた。
「実はきょう、わたくしの誕生日でして――」
「ほんとですか! おいくつになられました?」
「七十四になります。きょうは素晴らしい誕生日プレゼントをいただきました」
「もしかしたら、偶然じゃないのかもしれません」
「と言いますと?」老人が訊いた。
「本を大切にするあなたを、ずっとずっと見守っていた、本の神様からのプレゼントかもしれませんよ」僕は柄にもないことを言ってしまった。
「素敵なお話です。そういうことがあるとわたくしは信じております」
「本が好きなんですね」
「ええ。なによりも大好きです。特に好きな作家がおりまして」
「そうですか」僕はその作家が、だれなのかは訊かなかった。が、
「北沢蓮さんです」と老人は言った。
僕はどういう反応をしたらいいのか、わからなかった。
「北沢蓮さんの新作が楽しみです」老人は笑顔で言った。
「そ、そうなんですか……」僕は戸惑った。
「わたくしが生きている間に、北沢蓮さんの新作を読めると思いますか?」
そんな質問に、僕が答えることなどできるはずがない。
「死ぬまで待っております。それでは失礼します、北沢蓮さん」
そう言って老人は優しく微笑み、小型トラックに乗り、神田へ帰っていった。
古本屋の老人は、僕が北沢蓮だとわかったようだ。ということは、老人が僕の新作を読みたいというのはうそかもしれない。僕が本を譲ったから、老人は僕のことを好きな作家だと言ったのだろう。
でも、僕の心に表現できない感情が湧きあがり、小説が書きたい気分にさえなった。それを、僕は全力で押し殺した。
「どうせ、お世辞さ」
僕はつぶやき、足もとにあった小石を軽く蹴って家の中へ入った。
本棚は大小含めてかなりの数があるが、僕は粗大ゴミに出すことにした。翌日の午前中に、僕は粗大ゴミ受付センターに電話をしたあと、商店街へ行って有料粗大ゴミの処理券をたくさん買ってきた。
シールになっている処理券をすべての本棚に貼り終わり、僕は一人で運べる本棚だけを自分の家の駐車場へおろした。一人で運べない大きな本棚は、僕はまたセトちゃんを呼び出して一階の駐車場におろすのを手伝ってもらった。セトちゃんは、いやな予感がしてたからきのうは本棚のことには一切触れなかったと話し、文句を言いながらも手伝ってくれた。
午後は買いものをしに、僕は秋葉原まで歩いていった。谷中から秋葉原までは遠いと感じる人もいるだろうが、土地に慣れている人にはそれほど距離を感じない。油断すると僕は運動不足になるので、できるだけ歩くようにしている。家に駐車場まであるのに、僕が車を所有していないのはそのためである。
秋葉原の家電量販店で、僕はまずホームシアター用に57V型のフルスペック・デジタルハイビジョンの液晶テレビと、TVゲーム用に50V型のフルハイビジョン・プラズマテレビを購入し、二台のテレビにホームシアター用のスピーカーシステムも買った――若い男性店員が、かなり驚いていた。それから僕は、最新のゲーム機を三種類買い、それぞれの機種のゲームソフトを五本購入した。きょう買ったものは、二週間くらいで僕の家に届くらしい。
自宅へ帰ってから僕はパソコンを使い、ネット通販でソファーやトレーニングマシンなどを買った。そして、もと資料室や書庫だった部屋を、僕は掃除をしてきれいにした。自分が小説家だった痕跡がなにもかも部屋から消え、気分が晴れやかになった――きっと、これでよかったのだろう。
僕は書庫だった部屋の窓を開け、
「ブンさん……ごめんなさい」
と夕暮れの外を眺めてつぶやいた――まだ風が冷たい。
夕食は宅配ピザですませたが、僕は半分以上残してしまい、あとはぼんやりと適当なテレビ番組を眺めていた。
すると、ニュースで沖田君の特集をやっている。『天才高校生作家』というテロップが出ていて、かなり熱の入った報道だった。インタビューでは、「いま長編小説を書いています」と沖田君は語っていた。
当然なのかもしれないが、二冊の本を手がけたセトちゃんのことは一切報道されてなかった。
セトちゃんは僕の新作を手がけたくて、編集長への昇進を断っているようなことを言っていた。僕はブンさんだけでなく、セトちゃんも裏切っているのかもしれない。彼はいつも僕のことを心配してくれる。それなのに、僕はセトちゃんになにもしてやれないと思うと心が痛んだ。
セトちゃんは一軒家を買いたがっていたが、子供の教育費でお金を使えないと僕に話し、安い賃貸マンションでがまんをしている。彼が編集長に昇進すれば生活に余裕ができ、一軒家の購入も夢ではないかもしれないのに。
僕はセトちゃんにとても感謝をしているが、言葉に出して言ったこともなければ、なにかの形で感謝の気持ちを示したこともない。このままではいけないと僕は思った。一番いいのは僕が新作の小説を書くことなのだろうが、すべてに決着をつけてしまった。お金で解決するのはよくないと思うが、僕はセトちゃんに一軒家をプレゼントしようと考えた。彼が素直によろこんでくれるとは思えないが、僕はどうしてもセトちゃんに家を買ってあげたくなった。いまの僕にできるのは、それくらいだろう。
玄関のチャイムが鳴ったので、僕が時計を見ると六時半すぎだった。僕はすぐに玄関へ向かいドアを開けると、デニムのミニスカートにセーターを着た、隣の家の佳美ちゃんが立っていた。
「こんばんは、おじさん」佳美ちゃんが玄関に入って挨拶をした。
「こんばんは、佳美ちゃん」と僕は返し、「どうしたの?」と尋ねた。
「おじさんちの駐車場にある本棚、捨てちゃうの?」佳美ちゃんが訊いたので、
「ああ、そうだよ。あした、収集に来るけど」と僕は答えた。
「じゃあ、小さい本棚、もらっていいかしら?」
「ほしければ、好きなのを持って行っていいよ」
「ありがとう、おじさん」
「どういたしまして。佳美ちゃんに使ってもらえれば、本棚もよろこぶ」
「でも、おじさん。なんであんなに本棚があるの?」佳美ちゃんが不思議そうに訊いた。
「えっ! あ、その……別れた妻が、本好きでさ」と僕はごまかした。
「ふーん。そうだったの」佳美ちゃんは、あまり納得してないようだ。
「もう、本ばかり買ってさ」と僕は言った。
「おじさんち、インターネット、入ってるわよね?」
「ああ、入ってるよ。どうして?」
「じゃあ、これ、あげるわ」
佳美ちゃんは、僕に名刺みたいなものを手渡した。
「これは?」僕が訊くと、
「あたしが書いたオンライン小説のURLと、その小説サイトのURL。三か所で同じ作品を公開してるから、好きなサイトで読んでね」と佳美ちゃんは教えてくれた。
「小説をウェブで公開したんだ」
「うん。一人でも読んでもらえれば、それでいいの。日本人しか読まないと思うけど、あたしの小説が世界に配信されてるなんて、考えただけでも楽しいでしょ」
「ほんとに、すごい時代になったなあ」
どんな作品であれ、無料で読めるオンライン小説は、出版された本よりも有利だと僕は思う。たとえアクセス数がゼロの日がつづいても、そのうちだれかが見つけて読んでくれるだろう。出版された小説は、そうはいかない。売れなかったら本屋から消えてしまうので、偶然にだれかが見つけて読むことなどありえない。生まれ落ちた小説の使命は第三者に読んでもらうこと、それはたった一人でもいいのだ。
「おじさん。さっきニュースで沖田隼人のことやってたのよ」
「ああ、そうだね」
「おじさんも見たの、あのニュース?」
「ちょっと見てたよ」
「高校生なのに、すごいわね」
「僕もそう思うな。小説を書くのはたいへんそうだからね」
「でも、沖田隼人もキタレン以上にはなれないと思うわ」
「北沢蓮はもう書いてないから、そのうち沖田隼人に抜かれるさ」
「おじさん。キタレンはニューヨークで書いてるのよ」
「いや、彼は終わってるんだ」
「終わってない! 終わってないわ」と佳美ちゃんが強く言った。
「……だと、いいけど」僕は弱々しく言った。
夜中に、僕は佳美ちゃんのオンライン小説を読んでみることにした。同じ作品が三か所の小説サイトで公開されていたので、その一か所に僕はアクセスした。
彼女の作品は一人称で瑞々しく綴られていて、本を愛する女性の物語だった。ラストに主人公の家が火事になってしまうのだが、主人公は本を取りに家の中へ入ってしまう。そして主人公の女性は、大切な本を抱きしめたまま焼死してしまうのだった。
僕は驚いた――思ったよりレベルが高い。
「将来が楽しみだね。佳美ちゃん」と僕はパソコンの液晶画面へ向かってつぶやいた。
佳美ちゃん以外の作品も僕は読んでみた。いくつか読んでいるうちに、僕はあることを思い出した。だれかが言ったわけではないが、僕が勝手に注目している現象がある。それは、ある場所に才能が集中し、突然爆発する現象である。
文学では田端文士村があり、漫画ではトキワ荘があった。ニューヨークのソーホーにも才能あるアーティストが集まった。また、ヨーロッパの印象派もそうだった。衰退していたアメリカの映画産業を救った連中も、有名になる前から知り合いだったのだ。集まっていた仲間の一人が成功すると、次から次へと連鎖的に成功し出す。
あるとき、才能は一か所に集まり、そして爆発する。
「あの現象が、起こるかもしれない……」
と僕はつぶやき、インターネットの普及により、新しい形の爆発が起こる予感がした。
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