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僕は小説家
作:新庭 一



第5章 ブルーブラック


 電話の相手は、僕が大学を卒業してから作家になるまでアルバイトをしていたガソリンスタンドで知り合った友達だった。用件は、なぜだか知らないが僕に逢いたいという。時間を見ると正午前だったが、時間に余裕を持って僕は午後の三時に彼と逢う約束をした。
 僕はジャージの上にフリースのジャケットを着て、時間より少し早めに家を出た。雨はすっかりやんでいたから傘は必要なかった。僕は水たまりを避けながら歩き、友達と待ち合わせた不忍池しのばずのいけの近くにある喫茶店へ向かった。
 歩いていてふと僕は思ったのだが、この辺もずいぶん変わった。僕が谷中に引っ越してきたころは、この時間帯になると子供たちの笑い声がそこらじゅうから聞こえていた。谷中にかぎらず、東京の下町ならそうだった。東京の下町以外に住んだことがない僕は、わからないほど少しずつ変わっていく様子に気づかなかったようだ。時代が猛スピードで先へ行き、僕だけどんどん引き離されていく感覚におそわれた――いまから走っても、とても追いつけそうにない。

 友達と待ち合わせた時間より、僕は十五分ほど早く喫茶店に着いた。ビルの中にあるその店は、喫茶店にしては広いほうで、平日なのに客も意外に多かった。
 とにかく僕が心配したのは、二十年以上逢っていない相手の顔が、お互いにわかるだろうか、ということだった。友達はまだ来ていないと思い、僕が適当な席へ座ろうとしたら、窓際の席に座っていた彼が僕に手招きをしていた。
 僕は友達に、
「久しぶり、メカさん!」
 と声をかけ、窓際の席に彼と向き合って腰かけた。
「久しぶり、先生! 二十年ぶりぐらいだね」と彼は目尻にしわを寄せて笑った。
「僕のこと、すぐにわかった?」僕が訊くと、
「ああ。さすがに老けたけど、すぐにわかった」とメカさんは言った。
「メカさんも老けたね。でも、思ったより変わってない」
 そう僕が言って、二人で笑った。
 彼の名前は田村勇治たむらゆうじ、僕と同じ四十六歳である。僕は小説家になりたくて、大学を卒業しても就職はしないでアルバイトをすることにし、明治通りにあったガソリンスタンドで働くことにした。そこで彼も働いていて、新入りの僕にいろいろ教えてくれたのだ。
 田村君は車が大好きでエンジンを修理するのも得意だった。バイト先のみんなから「メカさん」というあだ名で呼ばれていた。僕もそう呼ぶようになった。そして田村君は、僕が小説を書いていることを知り、僕に「先生」とあだ名をつけ、そう呼ぶようになったのである。
 メカさんの服装は、チノパンにF1チームのトレーナーを着ていた――椅子の背もたれには、米海軍のレプリカの革ジャンがかかっている。メカさんは、相変わらず体格がいいが、短く刈った髪には白いものが目立つようになり、若いころにはなかったしわが額に刻まれていた。
「まさかメカさんから電話がかかってくるとはね。驚いたよ」僕が言うと、
「ごめん、突然電話して。迷惑だった?」とメカさんが言った。
「そんなことないさ。どうせ暇だったからね」僕は笑顔で言った。
「先生、来てくれてありがとう」メカさんは安心したようだった。
 店のウェイトレスが注文を取りに来たので、僕はメカさんと同じ飲みものを頼んだ。彼が飲んでいたのは、ホットのダージリンティーだった。
「メカさん。どうして、僕なんかに逢いたくなったの?」
「先生の小説を久しぶりに読んだんだ。どうしてるかなと思って。もう、十年くらい新作を出してないだろ」
「ああ。ちょうど十年だね」
「人生を懸けた小説を書いてるって噂があるけど?」
「それは、がせネタ。いまは書いてない」僕は窓の外を見て言った。
「そうか。残念だ」メカさんは、がっかりしているようだった。
 ウェイトレスが、僕の注文したダージリンティーを持ってきた。
 僕はダージリンティーをひと口飲み、メカさんに訊いた。
「そっちはどう? 会社は楽しい?」
 アルバイト時代、メカさんの夢は新しい自動車会社を創立するという途方もない夢で、本人も叶わないと悟っていた。けっきょく、彼は大手の自動車会社に中途入社した。
「いろいろあってな。考えてる」メカさんはため息をついた。
「考えてるって、どういう意味?」僕は少し驚いて訊いた。
「うん……」
「まだ、あの自動車会社にいるんだよね?」
「いちおう……まだいるけど」
「『まだいるけど』って、どういう意味? きょうは休み? まさか――」
「先生、その話はあとにしよう」とメカさんは僕の話を遮り、つづけて、「それより、奥さん元気?」と訊いた。
「離婚したよ」僕はなんの躊躇もせずに言った。
「えっ、そうだったのか……」メカさんは言葉に詰まったようだ。
「気にしないでいいよ。もう、七年も前の話だからさ」
 僕とメカさんが最後に逢ったのは、僕のデビュー作が出版されたときだった。メカさんは僕より先にガソリンスタンドのバイトをやめ、大手自動車会社に整備士として就職していた。僕はメカさんと逢う約束をし、自分の小説を彼に手渡した。メカさんは、僕の作家デビューを自分のことのようによろこんでくれた。
 それが二十一年前で、そのあと僕たちは直接逢ったことはなく、手紙でのやり取りだけだった。僕は新作を出すたびに、出版社の贈呈を利用してメカさんに小説を送っていた。メカさんは、僕の小説の感想と彼の近況などを手紙で送ってくれたのである。
 僕はメカさんの結婚式に仕事の都合で行けなかった。だから僕が結婚したとき、メカさんに来てもらうのは悪いと思い、手紙で知らせただけであった。そういうわけで、僕たちは二十年以上逢っていなくても、お互いが結婚していたことを知っていたのである。
 しかし、僕が新作の小説を書かなくなってしまい、メカさんとの手紙でのやり取りも途絶えてしまったのだ。
「メカさんはどうなの? 奥さんと子供」僕が尋ねると、
「うまくやってる。家族のおかげで助かってる」とメカさんは微笑んで言った。
「それはよかった。うらやましいな――」
 僕はメカさんがティーカップを持った手に眼をやり、つづけて言った。
「メカさん。いまは整備士じゃないね」
「あ、ああ。六年前に腰を悪くして、それからずっと営業をやってる」メカさんは自分の手を見て、「まいったな、手か。観察力が鋭い、さすが小説家」と感心した。
 メカさんの手はきれいすぎた――車の整備をしている手ではなかったのだ。
「それなら、メカさんが会社を辞めたい理由もわかるな。そうか、家族が励みになって、いままでやってこられたんだね」
「――すごいな先生。実は先生の言うとおりだ。しかし、ちょっとした手がかりですべて見抜かれるとは――やっぱりベストセラー作家だな――人間観察の達人だ」
「大げさだよメカさん。ただの職業病だって」
 悪い気はしなかったが、いまの僕には観察力はくその役にも立っていない。
「先生。店を出ていいかな? 外で話したい」メカさんが言った。
「うん、いいよ。うちに来る?」と僕が誘うと、
「いや、歩きながら話そう」とメカさんは答えた。

 喫茶店を出たあと、僕とメカさんは不忍池の周りをゆっくりと歩きながら話した。
「雨はいつごろあがったのかな」メカさんは、手に持った自分の傘を見て言った。
「昼すぎだと思う。僕が家を出るときには、とっくにやんでたよ」と僕は教え、つづけて、「メカさん。僕に電話をくれてから、ずっとあの店にいたの?」と訊いた。
「ずっといた。ずっと……」
「悪かったね。知ってれば、すぐに行ったのに」
「いいんだ。先生が快く逢うと言ってくれたのがうれしかった。もう十年くらい連絡しなかったから、断られるかと思ってた。有名な作家だしな」
「連絡をしなくなったのは僕のほうだよ。それに、もう作家じゃない。だらしない、ただの中年だよ。僕は最低な中年さ。世の中のゴミかな」
「なにを言ってるんだ、先生。そんなことない。この前、久しぶりに先生の小説を読み返した。エンターテイメントだけど、仕事がテーマになってる作品」
「そういえば、そんなの書いたっけな」
「あの小説に助けられた」
「助けられた? 僕の小説に?」
「俺、仕事の関係で鬱病になった。なにもかもいやになって、死ぬことばかり考えるようになったんだ。半年間、仕事を休んで通院してた。妻と子供たちが、俺の病気のことでいろいろ気遣ってくれて本当に感謝している。家族の支えがなかったら、いまごろ俺は首をくくってたな」
 メカさんはうつむきながら歩き、話しつづけた。
「だけど、病状はあまりよくならなかった。でも、三週間くらい前に、なにもやる気が起きなかった俺が、なぜか先生の小説を読み返したくなったんだ。そして、あの仕事をテーマにした作品を読んでいたら、いつしか時間を忘れ、夢中になってた。不思議だよ、内容を知ってるのに時間を忘れて夢中になるんだから」
 メカさんはうつむいていた顔をあげ、僕に微笑み、そのまま話をつづけた。
「先生の小説を読み終わるころには、鬱病がどこかへすっ飛んでた。本当に信じられなかったよ! 医者でも治せなかったのにな」
「偶然じゃないの? 本を読む前に治ってたとか」僕が言うと、
「ちがう!」とメカさんは断言し、「小説ってすごいと思った。それと、先生が偉大に感じたよ。先生、ありがとう」と言った。
 いい本を読んで感動し、心を入れかえたはずなのに、ほとんどの人がしばらく経ったらもとに戻ってしまう。だから、小説なんて無力だと言う作家もいる。しかし、一冊の本に影響され、人生の方向性が変わる場合はたしかにあるのだ。僕だってブンさんの小説を多感な青春時代に読まなかったら、まったくちがった人生を歩んでいただろう。
 自分の書いた小説が人のためになったなら、とてもうれしいはずなのに、僕はメカさんの話を素直によろこぶことができなかった。それが僕の新作なら、きっと心からよろこぶことができたにちがいない。
 僕が考え込んでいると、メカさんが訊いてきた。
「先生。どうして、小説を書けなくなった? なんで行き詰まった? 俺は先生の小説に助けられたんだ。困っているなら力になりたい」
「ありがとう、メカさん。でも、もういいんだ」僕が力なく言うと、
「先生の新作を読みたいな」とメカさんがつぶやくように言った。
「書けないというよりも、気力、情熱の問題なんだ。書く気が起きないんだ」
「俺は、先生に謝りたいことがある」
「なにかは知らないけど、僕に謝る必要はないさ」
 メカさんは不忍池が見渡せる場所まで行って、立ち止まった。僕も彼のあとへついて行き、立ち止まった。僕とメカさんが不忍池を眺めると、三艘のボートにそれぞれカップルが乗っていて、はしゃいでいる。
 大きな深呼吸をして、メカさんは話しはじめた。
「バイト時代、先生が小説を書いてると聞いても、俺は信用してなかった。書いてたとしても、どうせへたくそだろうと思ってた。『先生』というあだ名は、俺が馬鹿にしてつけたあだ名なんだよ。俺はふざけて、先生が書いた小説を読ませてくれと頼んだ。いまでもよくおぼえてる。先生が照れながら、『緊張するなあ』と言って、自分の書いた小説のコピーを、俺に持ってきたときを。俺から頼んだのに、俺は『悪い、まだ読んでない』と、ずっと言ってた。あの作品が先生のデビュー作になったね。俺が就職したあと、先生が出版された本を、『メカさん。こんどは読んでね』って言って持ってきたとき、本当に立派だと俺は思い、うれしかった。でもね、あの小説、先生からコピーをもらった次の日、実は読んでいた。心の中で馬鹿にしていた相手が、すごい才能の持ち主だとわかり、俺は嫉妬したんだ。だから読んでいたのに、『まだ読んでない』と言って、ごまかすことにした。俺は精神的に成長してなかった。子供だった。素直に、『おもしろかった』と感想を言えなかった。本当にすまないと思ってる。許してくれ、先生」
「メカさん。そんな昔のこと、どうでもいいさ」
「俺には、どうでもよくないんだ。先生、許すと言ってくれ」
「もちろん許すよ。そんなこと恨みもしない」
「よかった。これで、わだかまりが解けた」
「でも、メカさんは勘違いをしてる。僕には小説家としての才能はない。本当に才能がある作家は、書きつづけることができる。難しいのは、書きつづけることだからね。きっと僕は、物書きに向いてなかったのさ」
「先生は一流の作家だ! その証拠に、先生の小説はいまでも売れてるじゃないか。たとえ先生がもう新作を書かなくても、立派な仕事をしたと思う」
「そう言ってくれると、ありがたい」と僕は言い、つづけて、「しかし、ガソリンスタンドのバイトでは、メカさんにお世話になったなあ。オイル交換のやり方とか、いろいろ教えてくれた」と話題を変えた。
「自慢したかっただけだよ。俺は車にくわしいぞって」
「それでも僕にはうれしかった。メカさんのおかげで、仕事にも慣れたからさ」
「先生、恥ずかしい話を聞いてくれ」メカさんは笑顔で言った。
「恥ずかしい話? どんな話?」僕は興味をそそられた。
「うん。俺、いま――小説を書いてるんだ」
「メカさんが! 驚いたな」
「先生の本を読んでいたら、自分でも小説を書いてみたくなった」
「なにも恥ずかしいことはないさ。書きたいことがあるなら、書くべきだ」
「もし、書き上げることができたら、出版社の文学賞に応募しようかと思ってる。できればプロの小説家になりたい。――子供みたいな夢かな」
「小説家になるのが子供みたいな夢だったら、小説家は子供しかいないことになるさ。でもメカさん、会社はどうするの? ほんとに辞めるつもり?」
「それは、まだわからない。考えてる。病気が治ったといっても、このまま営業の仕事をつづければ、またぶり返すかもしれないんだ。いちおう仕事には徐々に復帰するつもりだけど、まだ休んでる」
「仕事には行ってないだろうね。その服じゃあ」
 そう言って、僕がメカさんの革ジャンを軽く引っ張ると、
「仕事をしてないのはお互い様」
 と言って、メカさんも僕のフリースのジャケットを軽く引っ張った。僕とメカさんは大笑いした。
「僕たちは、しょうがない中年だなあ」と僕が言い、
「まったくだ」とメカさんは言った。
 僕が空を見あげると、曇り空にはところどころ晴れ間が見えていた。
 メカさんは傘を持っていないほうの手を、革ジャンのポケットに入れ、話した。
「だけど、プロになれなくてもいいんだ。なれるとも思ってない。とにかく、一作でも自分で小説を書き上げてみたいんだ。俺が小説を書き上げるのを妻も応援してくれてる。仕事は転職するか、いまの会社で別の職種に替えてもらおうと思ってる」
「メカさん。あせらず、ゆっくり、小説を書き上げればいい」
「ありがとう、先生。それにしても、小説って書くの難しいなあ。読むのと書くのとでは大ちがいだ。自分で書いてみて、先生のすごさがわかった」
「……すごくないんだって」
 そう僕はつぶやいたが、メカさんには聞こえなかったらしい。
「そうだ、先生。フェラーリとか乗ってるって噂は?」
 僕は思わず吹き出した。
「だと思った」メカさんも大笑いした。

 その夜、僕は書斎に入り、久しぶりに机に向かった。書斎には、小説を執筆するためのパソコンが載っている机と、手書きで構想メモを書くための机があり、僕は構想メモをつくるほうの椅子に腰かけた。僕は机の上に四百字詰め原稿用紙と、万年筆、ブルーブラックのボトルインクを用意した。
 マイスターシュテュック149へ、僕はおよそ十年ぶりにブルーブラックのインクを入れる。原稿用紙一枚を取ってふたつ折りにし、そこに万年筆を試し書きすると、懐かしい書き心地が右手から伝わり、僕の全身を熱くした。
 僕は原稿用紙を睨みつける。そして、物語があふれ出し、僕はすらすらと自動書記のごとく書きはじめた――なんてことはありえない。映画やテレビドラマに出てくる小説家たちは、原稿用紙やパソコンに向かって新作の小説をいきなり書いてるようだが、そんなのはでたらめである。どんなにいいアイディアが思いついても、その勢いだけでは長編小説を書き上げることなどできないのだ。
 過酷で長い旅へ出る前に、万全の準備が必要である。まずテーマが重要だ。小説にかぎらずテーマがない作品はこの世に存在しない。もし、テーマがない小説を書いてやろうと思ったら、『テーマがない小説』ということがテーマになってしまう。そういうわけで、すべての作品はテーマから逃れられない。
 とにかく、アイディア、主要キャラクターの設定、取材、アウトラインなど、小説を書きはじめる前に、やることがたくさんある。長編小説を書くということは、自分で新しい道を切り開き、孤独な長い旅をし、目的地を目指す冒険なのだ。地図となるアウトラインは、その精度が高ければ高いほど冒険の成功率もあがる。地図を持たずに出発すれば、書いてる途中で迷子になり、やがて筆が止まってしまうだろう。
 アイディアならいくらでも僕は持っているが、どうしても書く気力が戻ってこない。
「立ちあがってくれ……」
 願うように僕はつぶやいた。が、やる気が起きなかった。机に向かえば書けるかもしれない、という僕の淡い期待は消え去った。
「だめか……」
 僕はマイスターシュテュックを両手で持ち、力をこめて真っぷたつに折り、ぶっ壊した。インクが飛び散り、原稿用紙がブルーブラックに染まった。












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