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僕は小説家
作:新庭 一



第3章 僕は小説家


 翌日、僕はセトちゃんがくれた十七歳の天才高校生作家の本を読んでみた。
 若さなのか? 有名になりたいのか? 彼は本名の沖田隼人おきたはやとで堂々と本を書いている。僕にはとてもそんな勇気はなかった。本の内容は、十代の若者たちの純粋な恋愛小説だった。三人称で書かれた文体は、高校生にしては悪くない。
 とにかく僕は、出版社のパーティーへ行ってみようと思った。パーティーのような集まりは苦手な僕が、なぜそう思ったのか自分でもわからない。たぶん、平凡な毎日にちょっとした刺激がほしかったような気がする。
 週末の土曜日、何年も着ていなかったグレーのよれよれになったスーツを、僕はクローゼットから出してきて久しぶりに袖を通した。着慣れないスーツを着て、鏡を覗き込みながらネクタイをなんども締め直していると、ブンさんのよれよれスーツ姿を僕は思い出した。憧れのブンさんに近づいたような気分になった。巨匠になったような――いや、ブンさんには十年も小説を書かなかった時期はない。同じようなくたびれたスーツを着ていても、僕とブンさんでは雲泥の差がある、中身がちがいすぎる。

 上野駅から山手線に乗って、僕は新宿へと向かった。
 一流ホテルの会場で行われる出版社のパーティーは昼の十二時からだったが、僕は三十分遅れていった。受付所にいた二十代ぐらいの女性は、僕をあやしみ、冷たく応対した。けれど、「北沢蓮です」と僕が名前を言うと、彼女は態度を一変し、親切で丁寧な対応になった。彼女は北沢蓮を知っているみたいだ。僕の心にくだらない優越感が湧きあがり、情けなくなった。でも、僕の心が醜いのだろうか? 肩書きで態度を変えるほうにも問題があると思う。
 僕は大勢の人でにぎわう会場に入った。場内には大きな円形のテーブルがたくさんならび、立食形式になっていた。僕の苦手な雰囲気だ。たちまち僕は居場所を失い、隅のほうでまごついてしまった。どこへ行けばいいのだろう? 人が多すぎてセトちゃんを捜し出すのは難しそうだ。
 このパーティー会場に僕がいるのは、まさに場違い、そんな感じだった。出版社の社員や作家たちは若い世代に替わり、僕の知っている顔は見あたらない。時代が変わってしまったようだ。顔ぶれ、聞こえてくる会話の内容、雰囲気、なにもかも僕にはもうついて行けそうにない。
 帰ったほうがよさそうだ。そう思ったとき、セトちゃんが僕を見つけてくれた。
「レンちゃん! ほんとに来たんだ」セトちゃんは僕の肩を叩きながら、心底驚いたように言った。
「ああ。暇だから来ちゃった」僕はなぜかセトちゃんの顔をまともに見ることができず、うつむき加減で答えた。
「レンちゃん、いつ来たの?」
「いまさっきだよ」
「それは正解だな。社長の長話を聞かずにすんだから」
「僕は人の話を聞くのは嫌いじゃないけどな」
「レンちゃんらしいな。でも、こんな隅にいないで、飲んだり食ったりしなよ」
「いや、もう帰ろうかと思ってさ」僕が言うと、
「おもしろい、そのジョーク」と言って、セトちゃんは笑った。
「来てわかったんだ。僕のいるところじゃないとね。もう本も書いてないしさ……」
 僕の言葉が聞こえなかったようで――聞こえないふりをしたのかも、セトちゃんは三年前に編集長になったという人に紹介すると言って、大橋おおはしという五十代の恰幅のよい男のところへ僕をつれていった。
「大橋編集長。この人、だれだと思います?」セトちゃんは僕の肩をつかんで、得意そうに言った。
「よーしっ! 当ててやるぞ、瀬戸君」大橋編集長は酔っているのか、おもしろい人なのか、大げさな身振りをして、「うーん……わかった! 中年の新入社員だろ」と言った。
「はずれです。はずれ」
「瀬戸君。ヒントをくれないか」
「わかりました、大橋編集長。ヒントを出しましょう。彼は小説家です。彼はものすごく有名なミリオンセラー作家です」
「なに、有名な小説家だと!」大橋編集長は腕を組んで考え込む仕草をした。
「大橋編集長が大好きだと言っていた小説家ですよ」
「まさか! 本当に彼なのか?」
「そうです。彼なんです」
「驚いた。彼が……シェークスピアだとはな」
 大橋編集長は自分の答えに腹を抱えて笑い、セトちゃんも大笑いした。
「シェークスピアは小説家じゃない、劇作家だ。それに死んでる」僕が言った。
「レンちゃん。大橋編集長のジョークだよ」とセトちゃんは僕に言ったあと、大橋編集長に向かって、「この人が、北沢蓮ですよ」と答えを言った。
 大橋編集長はかなり驚いた様子で僕の顔を見つめた。
「彼の小説が一番好きだと言ってましたよね」セトちゃんが言うと、
「あ、ああ。ほ、本当に、き、北沢蓮さん?」大橋編集長はたどたどしく言った。
 僕はうなずいた。
「俺が言ったとおりの、さえない中年オヤジでしょ」そう言ってセトちゃんは笑い、
「見てのとおり、僕はさえない中年オヤジです」と言って僕も笑った。
 しかし、大橋編集長は笑わなかった――笑わなかったというよりも、笑うことができなかったようである。
「大橋編集長。笑うところですよ」セトちゃんが言った。
「笑ってください」僕が言った。
 大橋編集長が遠慮がちに笑いはじめ、急に大笑いし出したので、僕とセトちゃんもつられて腹を抱えて笑った。
「編集長。彼は十年も小説を書いてないんですよ」笑いながらセトちゃんが言った。
「書いてないんです」笑いながら僕が言った。
「北沢さん。書き方、おぼえてます」笑いながら大橋編集長が訊いた。
「文字を忘れちゃって」笑いながら僕は答えた。
「レンちゃん、レンちゃん。辞書を買ってあげるから、小説を書いてくれ」セトちゃんが笑って言った。
「口述筆記でもいいですから、新作を書いてくれませんか?」大橋編集長が言った。
「しかし、言葉も忘れかけてる」
 僕が言うと、二人はさらに大笑いした。
 僕たち三人が腹を抱えて馬鹿笑いをしていると、周囲の人たちがあきれた表情で眺めた。けれど、僕らはまったく気にしなかった。気にするどころか、さらに大声で笑った。
 さんざん笑ったあと、セトちゃんが真顔で僕に言った。
「レンちゃん。それじゃあ、行くか」
「行くって、どこに?」
「奴のところだよ、奴の」
「奴? ああ! 奴か。天才高校生作家」すっかり忘れていたが、僕は思い出した。
「頼むぜ、レンちゃん」とセトちゃんが眼を細めて言った。
 なにかを頼まれたおぼえは僕にはないが、とにかく大橋編集長と別れ、僕はセトちゃんにつれられ、天才高校生作家とかいう沖田隼人のところへ行った。
「沖田君」
 セトちゃんが声をかけると、高校生作家は面倒くさそうに振り返った。沖田君は長身で体格がよく、パーマをかけた長髪を薄茶色に染め、ブランドもののスーツを着こなしていた。彼はとても高校生とは思えない顔立ちで大人っぽく見える。ただ、沖田君の持っているグラスの中身はコーラだった。沖田君は意外にまじめなようだ。
「なんです? 瀬戸さん」沖田君がぶっきらぼうに言った。
「俺の親友を紹介するよ」セトちゃんが言うと、
「瀬戸さんの親友……」沖田君は僕を見下すような眼つきで眺め、「わかった、俺のファンでしょう。サインは勘弁してください」と言って鼻で笑った。
「惜しいな。この人が、君が大ファンだと言っていた作家、北沢蓮だ」
 セトちゃんが僕の名前を言うと、沖田君はあきらかに緊張した表情を浮かべた。
「作家と編集者という関係を超えて、彼は俺の親友なんだ」セトちゃんが言った。
「この人が、北沢蓮……さん……」と沖田君がつぶやいた。
「正真正銘、僕が北沢蓮。がっかりしただろ」と僕は言った。
「いろいろ噂は流れてますけど、俺は普通のおじさんじゃないかと思ってました」
「サインは勘弁してくれ」僕が報復すると、
「だけど、まさかここまで……おやじとはね」緊張したのは束の間、沖田君は勝ち誇ったように言った。
 彼はモデルにでもアイドルにでも俳優にでもなれそうな容姿をしている。実名を名乗り、顔をマスメディアにさらしたくなるのもわかるような気がした。
 若者は有名になりたがる。だが、有名になることがどんなにいやなことかを知らない。いままで普通にやれたことができなくなる。電車に乗るにしても、買いものひとつするにしても、人目を気にしなければならない。まるで鳥かごの中の鳥のように自由を奪われ、プライベートが制約されてしまう。有名になって優越感に浸れるのも最初のうち、やがて足枷となる日がやってくる。それに気づいたときは、もう取り返しがつかないのだ。 
 自分を犠牲にして夢を与える俳優やミュージシャンなら仕方がない。しかし、作家には別な道がある――作品だけを有名にするという道が。
 僕は作家デビューする前に想像ができた。有名になったら困るぞ、レンタル・ビデオ店でエッチなビデオを借りづらくなる、とね。ブンさんもよく言っていた。顔をマスメディアに出したのは失敗だったと。
「北沢さん。俺と勝負しません?」沖田君が唐突に言った。
「勝負? なんの勝負をするんだ?」僕は彼の挑発的な眼を見て訊いた。
「書き下ろしの長編小説で勝負しましょうよ。俺と北沢さん、どっちの新作が売れるか。同時に発売して、一部でも多く売れたほうが勝ちです。どうですか? やる自信はありますか?」
 新鋭作家として乗りに乗っている沖田君の自信は、とどまることを知らないようだ。
 セトちゃんが珍しく本気で怒って言った。
「おまえ、だれに向かって言ってるんだ! いい加減にしろ。沖田の小説が北沢蓮の小説に勝てるはずないだろ!」
「それはどうですかね? 北沢さんは、もう十年も書いてない。十年のブランクは大きいですよ。いま書いたら、駄作しか書けなかったりして」あざ笑うような感じで、沖田君は言った。
「レンちゃん、やろうよ。こいつ、ふざけてる」セトちゃんは興奮していた。
「……やめておく。小説に勝ち負けなんてないさ」僕は新作を書く気はない。
「もう、あなたは終わってますね」沖田君は鼻で笑った。
「ああ、僕は終わってる。作家としても、人間としても」
「レンちゃん……」セトちゃんがつぶやいた。
「未成年の俺に降伏するとは情けない。見損ないました。かっこ悪すぎ」
 僕はかっこ悪い、自分でもそう思う。僕は情けない、まさにそのとおりだ。働き盛りの四十代のくせに、多額の印税で遊んで暮らしている。同年代の人々は、家族のために汗水流して働いてるというのに。
 沖田君を責めることはできない。いまの僕はクズ同然だ。クズはクズらしく、こんな場所にいるべきではないと思った。
「帰るよ、セトちゃん」
 そう言って、僕は逃げるようにパーティー会場をあとにした。セトちゃんは沖田君になにかを話していたが、内容までは聞き取れなかった。
 ホテルの正面玄関を出て僕が帰ろうとすると、
「待って、レンちゃん!」と叫びながら、セトちゃんがあとを追ってきて、「なんか、悪かったね。沖田にはきつく言っといたから」と息を切らせながら言った。
「悪いのは彼じゃない。僕だよ」
「でも、レンちゃんが新作を書けば、間違えなく奴より売れるのにな」
「そんなことない。時代が変わったんだよ、セトちゃん」
「残念だな」寂しそうにセトちゃんは言った。
「ごめん」それしか僕には言えなかった。

 あの出版社のパーティーに、かなり長い間いたような気がしたけれど、実際は一時間もいなかったようだ。歩きながら腕時計を見ると、一時二十四分だった。
 まだ日は高い。久しぶりに新宿まで来たから、どこかへ寄っていこうかとも思ったが、気分が乗らなかった。とにかく人が多すぎる。彼らはどこから来て、どこへ行くのだろうか。新宿にいる僕以外の人たちは、仕事や遊びなど、同じ方向から来て、同じ方向へと目的を持って向かっている。僕だけが目的のない迷路にまよい込んだ気分だった。大勢の人々の動きで舞いあがる埃が、僕の進むべき道を遮るような感覚におそわれた。
 家に帰る途中、ブンさんと行ったニューヨークの思い出に僕はずっと耽っていた。

 季節は秋。スランプから脱出して、僕が新作を書き上げ、一段落した時期だった。ニューヨークへ行かないかと、ブンさんが僕を誘ってくれた。当然、僕に断る理由などない。ブンさんと僕は、二人だけでニューヨークへ一週間の旅行にいった。
 ブンさんはなんどもニューヨークに来たことがあるが、僕は初めてだったので少し緊張していた。当時のニューヨークは安全とは言い難かったからである。
 七十代後半とは思えないほどの活力で、ブンさんは僕にニューヨークのいろんな場所を案内してくれた。
 メトロポリタン美術館へ行った帰り、僕たち二人はセントラルパーク内を歩きながらミッドタウンにあるホテルへ向かっていた。爽やかな秋晴れで、午後の風が気持ちよかった。気のせいか、日本とはちがう独特の匂いがする。軽やかにジョギングをしてる人たち、ローラースケートやスケートボードで遊ぶ若者たち、ゆっくりと散歩をしてる人たち、みんないい表情をしていた。
「なにかを感じないかね」ブンさんが訊いてきた。
「とても気持ちがいいですね。わくわくしてきました」僕がそう答えると、
「ここはどこかに似てると思わないか?」とブンさんが言った。
「どこですか? 見当がつきません」
「上野だよ。ここは上野公園に似ている」
「どうしてです、ブンさん。上野公園とは比べものにならないくらい広いですよ。セントラルパークが、ここまで広いとは思いませんでした」
「大きさの問題じゃないよ、レンちゃん」
「……大きさの問題じゃない? うーん、似てるところは……、公園内に美術館や博物館があって……。あれ、似てますね!」
「そうだろ、レンちゃん。パリも上野に似てるんだよ」
「パリも! 上野って、意外にオシャレな街かもしれませんね」
「日本で唯一、文化と芸術が集中している街だな」
「でも、そういうイメージはありませんけど……」
 僕が首をかしげながら言うと、ブンさんは大笑いした。
 たしかにブンさんの言うとおり、上野は文化と芸術が集中している。なのに、あまりよいイメージがないし、若い人たちにも人気がない。もしかしたら、日本の芸術が世界に比べて劣っているのと関係しているのだろうか。しかし、そのおかげで自動車や電化製品などが世界一になったのかも。技術と芸術のバランスがとれれば、日本の文化は飛躍するかもしれない。とにかく、この旅行に来なければ、そんなことは考えもしなかっただろう。

 ニューヨークでの食事は、できるだけ日本食を避けた。せっかく海外にまで来て日本食を食べていたら、意味がないとブンさんは言う。でも、僕は日本食が恋しくなった。食通じゃないせいか、高級レストランの料理も僕にはそれほどおいしく感じなかった。
 一週間の滞在のうち、二回だけ日本料理店へ夕食を食べに行った。
 一か所はグリニッジ・ヴィレッジのトンプソン・ストリートにある鮨バーへ行き、僕とブンさんはカウンターでお鮨を食べた。その店は、ほぼ正方形の小さな店内で、カウンターは一番奥の右側にあった。
 僕は、お鮨がこれほどおいしいと思ったのは初めてだった。久しぶりの日本料理だったからかもしれない。それと、カリフォルニア・ロールが予想以上においしかった。でも、ここはニューヨークだけれど。
「おいしいですね、ブンさん。ほんとおいしい」僕は日本を思い出し、涙が出てきた。
「奥さんが恋しくて、ホームシックになったのかな?」ブンさんの鋭い質問に、
「いいえ、この涙はワサビです。ワサビですよ」と僕はごまかした。
 ブンさんと鮨を握っていた店のオーナーは、大笑いしていた。
 店内はとても混んでいて、アメリカの有名なミュージシャンも来ていた。有名人が普通に食事をしているとは、さすがマンハッタンだと思った。が、僕もいちおう有名な作家ではないか。ブンさんに気づいた客は驚いていたが、僕にはまったく目もくれない。小説と筆名は有名だが、僕の顔を知っている一般人はほとんどいないだろう。ちょっと寂しい気がした。でも、やっぱり知られては困る。レンタル・ビデオ店で――。
 もう一軒の店は、季節料理などをやっている日本料理店で、やはりトンプソン・ストリートにあるのだが、ハウストン・ストリートを越えたソーホー(サウス・オブ・ハウストン)にあった。
 店内は縦に細長く、奥行きがあり、少し薄暗い照明が高級感をあおっていた。日本料理店はどこも人気があるようで、この店も混雑している。ここもアメリカの有名な俳優が、有名なスーパーモデルと二人で食事をしていた。僕たちがウェイトレスに案内された席は店の奥のほうで、床が一段あがった人目のつかないテーブルだった。そこに、僕とブンさんは向かい合って腰かけ、うどんといくつかの季節料理を注文した。
 うどんを一口食べて、僕は一瞬戸惑った。
「口に合わないかな?」ブンさんが、にっこり笑って言った。
「いえ、その……」僕はどう答えていいかわからなかった。
「ここは関西風の味付けなんだ。京都にも店がある」
「これが関西風のうどんですか」
「レンちゃんは東京生まれの東京育ちだからね。どういう反応するか楽しみだったよ」
 そういうブンさんも、神奈川出身なので似たようなものである。
「でも、食べてるうちにおいしくなってきました」僕が言うと、
「関東の人間からすると関西の味付けは、最初は『うすい』と思うのだが、だんだんそのうまさがわかってくるから不思議だな」そうブンさんは話し、つづけて、「ところで、レンちゃんは生まれたときから谷中に住んでいるのかな?」と訊いてきた。
「いまの家を自分で買うまでは、ずっと田端に住んでいました」
「すると、レンちゃんの実家は田端か」
「母方の実家だったんですが、僕が二十三歳のときに母さんが死んで、僕独りになってしまったから、谷中の家を建てたあとに売ったんです」
「ほかに家族は?」
「いません」
 僕は母子家庭だったことを話す準備をしていたが、ブンさんはそれ以上なにも訊かなかった。
「田端か、田端といえば――田端文士村だな」と言ってブンさんは微笑んだ。
「そうみたいですね」と僕も笑った。
芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ
「そうですね」
室生犀星むろうさいせい萩原朔太郎はぎわらさくたろう
「はい」
菊池寛きくちかん瀧井孝作たきいこうさく
「ええ」
竹久夢二たけひさゆめじ野口雨情のぐちうじょう
「住んでいたそうですね」
堀辰雄ほりたつお中野重治なかのしげはる、サトウハチロー、佐多稲子さたいねこ――」
「ブンさん。きりがないですよ」
「たしかに、そうだな」
 僕とブンさんは大笑いした。

 五日目の午前中、僕とブンさんはダウンタウンからブルックリン・ブリッジを歩いて渡り、その橋の下からマンハッタンを眺めた。観光なら普通はニュージャージー側にあるリバティ・ステート・パークへ行くのだろうが、ブンさんは危険なブルックリン側を僕に案内した。そこは観光で来るような場所ではなく、閑散としていてだれもいなかった。
 あのときはまだワールド・トレード・センターも健在で、高層ビル群がそびえ立つというよりも、僕には突き刺さっているように感じ、圧倒された。
 イースト・リバーから吹いてくる風が爽快だった。
「ニューヨーク……マンハッタンか……」
 そう僕がつぶやくと、ブンさんが訊いてきた。
「レンちゃん。『スリーアクト・ストラクチャー』って知ってるかな?」
「はい。映画脚本の三幕構成ですね、ハリウッド方式の……」
「ああ、そうだ。よく知ってるな」
「文章構成でいうと三段法ですね。ブンさん、それがなにか?」
「私は小説家の人生も三幕あると思う」
「三幕ですか……?」
「第一幕、書くことが楽しい時期で、多少のスランプも跳ね返せる。第二幕、書く意味を見失う時期で、そこから立ちあがってくるかどうかが勝負だな。第三幕、小説を書くことがすべてになる時期で、作家として完成される」
「すると、僕の作家人生は第一幕ですね」
「先は長いぞ、レンちゃん」
「第二幕で、立ちあがれるかな……」
「深く考えず、気楽にやりなさい」ブンさんはマンハッタンを眺めて言った。
「はい。気楽にやります」僕も摩天楼を眺めた。
 そのあと、僕たちは妻へのお土産を買うため、五番街にある宝石店へ行った。店内に入ろうとしたとき、僕は店の回転ドアを後ろから来た客に押されて一周してしまい、ドア付近にいた客たちに笑われた。ブンさんが一番笑ってた――なにもそこまで笑うことはないでしょう、というくらい笑ってた。
 帰国する二日前がハロウィンだった。昼間、ブンさんは買いものへ行くと言って、僕をホテルに残し、一人で外出した。一時間くらいして、彼はソフトハットを二個とマントを二着買って戻ってきた。
 ブンさんは、ソフトハットとマントを僕に一組渡して言った。
「レンちゃん。今晩はこれを着て、ハロウィンの仮装パレードに参加しよう」
「仮装パレードに?」
「ああ。人生は楽しまないとな」
「いいですね。でも、これは、なんの仮装ですか?」
「うん――これは、小説家の仮装だよ」
 小説家が小説家の仮装をするとは! ほんとにブンさんの奇抜な発想は僕を楽しく笑わせてくれた。でも、作家がマントにソフトハットなんてイメージあったっけ?
 ニューヨーク滞在中は、僕もブンさんもセーターの上にツイードのジャケットを羽織り、ボトムはコットンパンツなどの比較的ラフな出で立ちが多かった。ハロウィンの夜は、二人ともビジネス・スーツを着て、しっかりとネクタイも締め、その上からマントを羽織り、ソフトハットもかぶって、小説家の仮装をした――二人とも小説家だけれど。
 ヴィレッジのハロウィン・パレードは、午後の七時にスプリング・ストリートを出発して、六番街を北上する。知ってる仮装や謎の仮装、いろんな仮装をした人々がたくさんいて大笑いした。見てるだけでも楽しいと思うが、参加するのはもっと楽しかった。
 一緒にパレードをしていた連中は、僕たちの仮装がなんの仮装なのか、わからなかったのだろう。なぜかブンさんにではなく、みんな僕に訊いてきた。
「それは、なんの仮装?」ミイラ男が英語で訊いてきた。
「アイムア・ノベリスト――僕は小説家です」英語と日本語で僕は答えた。
「君はだれなの?」頭に斧が刺さった女性が英語で訊いてきた。
「アイムア・ノベリスト――僕は小説家です」また僕は答えた。
 パレード中、モンスターやヒーロー、死体などに僕はなんども同じような質問をされ、そのたび、「アイムア・ノベリスト――僕は小説家です」と、馬鹿のひとつおぼえのように答えた。そんな僕を見て、ブンさんは満足そうに微笑んでいた。

 ハロウィン・パレードのことを思い出していたとき、僕はJR上野駅から自宅へ向かう途中の国際子ども図書館付近を歩いていた。いつのまにか雨が降っていて、本降りになり、傘を持っていなかった僕はずぶ濡れだった。
「アイムア・ノベリスト――僕は小説家……」
 歩きながら、無意識に僕はつぶやいた――意味もなく涙があふれてきたが、降りしきる雨のおかげで、すれちがう人たちには気づかれなかっただろう。
 いまの僕に小説家を名乗る資格はない――たとえ仮装でも。












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