第1章 上野恩賜公園
書いてるかい? と、よくブンさんは僕に訊いてくれた。彼が亡くなってから、僕は小説を書く気力を失った。そして十年が経ち、僕はいま四十六歳で、これといった特徴もない顔立ちに髪はぼさぼさで、中肉中背のさえない中年である。
十年も僕は本を書いていないから、もう自分を小説家だとは思っていない。でも、二十五歳で作家デビューして以来、ほかの仕事は一切したことがないのだ。僕が小説を書いたのは二十五歳から三十六歳の十一年間で、そのあと十年は無職。
三月になってもまだ寒い日のほうが多いが、きょうは心地いい陽気だったので、僕はスウェット上下を着て散歩をすることにした。ずっと家の中にいると精神的によくないと思い、僕はたまに散歩をして身体を動かすようにしている。
僕の家は谷中にある。三階建ての一軒家を自分で買った。七年前に離婚してから、僕は独りでそこに住んでいる。
別れた妻は、僕が小説を書かずに三年もふらふらしていたら、
「あんたはゴキブリ以下よ」
と、まじめな表情で言い放ち、家を出て行った――あれから七年も経つ。
普段、僕が散歩をするときは谷中の墓地のほうへ行くのだが、きょうは上野公園までやってきた。僕はここにあまり来ないが、いつもより人が少ないように感じる――平日の午前中でも、上野公園はけっこう人がいるものだ。
公園内のある場所に来て、僕は立ち止まった。ここにあった飲食店がなくなっている。いつごろなくなったのだろう? まったく僕は気づかなかったが、もしかしたらとっくになくなっていたのかもしれない。いまはなにもないそこには、海の家みたいなぼろい店があった。
ブンさんと僕は、二人でそのぼろい飲食店に入ったことがある。あの日も三月のいまごろで、きょうのような気持ちのよい日だった。
作家になって五年目、僕はスランプに陥り、小説が思うように書けなかった。内容よりも、僕は完璧で美しい文章を追求しすぎて、とにかく書くことができなくなった。自分の書いた文章が気に入らず、なんども書き直し、作品が先へ進まない。
そんなある日の午前中、家のチャイムが鳴り、僕が玄関の戸を開けると、
「書いてるかい?」
と言って、ブンさんが優しい笑顔で、グレーのくたびれたスーツを着て立っていた。
当時、彼の年齢は七十七歳、身体は大柄なほうだが、太っている印象はまったくなく、実年齢よりも若く見えた。ブンさんは白髪をオールバックにし、露出した額には深いしわが三本あり、黒縁メガネの奥には、世の中のすべてを見てきたような達観した眼を爛々と輝かせている。彼が笑わないと威圧感があって、とても怖い人のような雰囲気があるが、笑うとその表情はうそのように穏やかになり、内面の寛容さが笑顔にあふれた。
ブンさんは日本を代表する文豪と評され、世界的にも文学界の巨匠に位置づけられている大作家だ。僕が小説家になったのも、高校生のときに読んだ彼の作品に感銘を受けたからである。もし、ブンさんの小説に出逢わなかったら、僕は小説家になりたいとは思わなかっただろう。
僕はブンさんの家になんどもおじゃましたことがあるけれど、まさか彼が自分の家に来てくれるとは思ってもいなかった。
「レンちゃん、書いてるかい?」とブンさんは、もう一度言った。
「あ、はい……」僕はぎこちなく笑って、うそをついた。
僕の本名は原田亮太で、筆名は北沢蓮。ブンさんは僕のことを『レンちゃん』と呼んでくれる。僕のペンネームに深い意味はない。
ブンさんは、僕の顔をのぞき込むように見て言った。
「近くまで来たから、どうしてるかと思ってな。寄ってみた」
「ブンさん、よくここがわかりましたね」僕が訊くと、
「私は住所さえわかれば、どこへでも行けるのだよ」と言って、ブンさんは笑った。
「僕の家に寄ってくれるなんて驚きました。さあ、どうぞ、中に入ってください。なにもない家ですけど、ゆっくりしていってください」
僕はうれしくて、つい声がうわずってしまった。
「きょうはいい陽気だ。どうだね、少し外を歩かないか。それに、この辺は散歩するのによさそうじゃないか」
「わかりました。すぐに着替えますから、家にあがって待っててください」
僕はジャージ上下だった。
「いや、そのままでいい。散歩するのにオシャレをしてどうする」
「そうですか、失礼かと思って……」
「行くぞ、レンちゃん」
そう言ってブンさんが唐突に歩き出したので、僕はあわててジョギング・シューズを履き、彼のあとを追った。
タクシーでブンさんは来たそうだが、どんな用事で僕の家の近くまで来たのかは、うまくごまかされたような気がした。
「ブンさん、どこへ行くんです」僕が言うと、
「散歩するには、どの辺がいいのかな?」とブンさんが訊いた。
「そうですね……、上野公園なんかどうですか」
「上野か、いいね。そうしよう」
当時、三十歳だった僕は、まだ散歩をする習慣はなかった。この辺を散歩するといったら、上野恩賜公園くらいしか思い浮かばなかったのである。
ブンさんを上野公園まで案内しようとして僕が早足になると、
「レンちゃん、散歩の意味を辞書で調べなさい」とブンさんが言った。
「すみません。なんかあせっちゃいました」と僕は答えた。
ブンさんは僕の顔を見て、声を出して笑った。僕も一緒に笑った。
上野公園に着いた僕たちは、しばらく公園内を散歩した。平日の午前中にもかかわらず、公園内には若者が多かった。ブンさんと僕は、その連中が東大生か芸大生かを当てる遊びを少しやった。もちろん、本人に正解を聞きに行くわけではないから、本当のところはわからないが、容姿、歩き方、持ちものなどで、僕たちは無理やり答えを出した。
そんなに的はずれでもないと僕は思った。こんな時間に上野公園にいる大学生ぐらいの若者は、東京大学か東京芸術大学の学生だろう。しかし、確率は芸大生のほうが高い。
一人の大学生ぐらいの青年が、作動してない噴水を眺めてたたずんでいた。
「彼はどっちだと思う?」ブンさんが、その青年に視線をやって言った。
「彼は芸大生だと思います。たぶん、課題の絵画の構想かなにかを練ってるんでしょう。彼の全身から、アーティストの匂いがぷんぷんします」僕はそう答えた。
「果たしてそうかな? もしかするとあの青年は、物理学の新たな理論を構築しているのかもしれんぞ。行き詰まった彼は、東大を飛び出してここへやってきた」
「でもブンさん。それは大げさすぎます。教授ならわかりますが……」
「若い柔軟な脳を、侮ってはならんぞ」
「そ、そうですね。言われてみれば、彼が未来の物理学者に見えてきました」
「だが、意外に、あの青年は昼飯のことを考えてたりしてな」
ブンさんの想像力に、僕は大笑いした。
「レンちゃんは、たしか大卒だね」
「ええ。いちおう大卒です」
「私は小学校しか行ってない」ブンさんは無邪気に微笑み、大きな深呼吸をし、青空を見あげて、「きょうは、とても気持ちがいい日だ」と言った。
ブンさんの学歴は有名な話である。彼の家は貧しく、経済的に進学する余裕がなかった。彼は家族のために働き、つらい青年時代をすごしている。低学歴のため、ブンさんは安い給料で働かされたり、こき使われたりしたそうだ。さらに、旧日本陸軍に召集されて兵役にも就き、なんども命を落としかけている。時代的にブンさんのような経験をした人はけして少なくないが、ほとんどの人たちは希望を捨てた。しかし、普通のひとが人生をあきらめる四十代半ばになって、彼は作家として出現したのである。ブンさんの人生は、不幸を境遇のせいにしがちな人々に、そうではないというモデル・ケースを示した。
ブンさんが、しばらく空を見あげてから話した。
「大学で知識を豊かにするのは大切だが、必要以上の知識を詰め込むと、創造力が失われてしまう。無駄な知識の量は自信のなさに比例する。自分に自信がある人間は余計な知識を必要としない。仕事や人生に必要な知識は大切だが、それ以外の無駄な知識は知性を殺してしまう。知識より知性のほうがとても大切なのだよ」
「仕事以外では、常識的な知識があれば充分ですね」
「そうでもないぞ、レンちゃん。人間の集団的価値観などもろい、常識など信用してはいけないね」ブンさんは静かな口調で、ゆっくりと力強く言った。
「常識を信用してはいけない……」僕がつぶやくと、
「ああ、そうだ。戦争を支持していた連中が、終戦になると意見を平気でひるがえす。きのうまでの常識が、一夜にして非常識になる。世の中は完全ではない、いつの時代もでたらめなのだよ」とブンさんは遠くを見つめて言った。
突然立ち止まったブンさんは、公園内にぽつんとあるみすぼらしい飲食店を眺めた。
「この時代にあんな店がまだあるとはね。いい感じの店だ。どれ、入ってみよう」
その店は、海の家のような開けっ広げなたたずまいで、外からも中の様子を見ることができ、店内は土間に木製の長いテーブルと長椅子が数組置いてあった。谷中に住むようになってから僕はなんども上野公園に来ているので、この店の存在は知っていたが、入ろうなどと思うことは一度もなかった。僕はブンさんに、きれいな店はたくさんあるから、ほかの店に行きましょうと誘った。けれどブンさんは、きれいな店はいくらでもあるが、ぼろい店は少ないと言って微笑んだ。僕はブンさんの言いたいことがわかるような気がして、その店に入ることを納得した。
店内に入り、僕とブンさんは一番右側の長いテーブルに行き、向き合って長椅子に腰かけた。ほかに客はだれもいない。食べものはこんにゃくに田楽味噌をぬって食べる『串刺し味噌おでん』しかない――市販のお菓子類なら、カニの形をした『かにぱん』とか売っているけれど。飲みものも市販のジュース類とビールしかなかった。調理場と呼べるような場所はなさそうで、すべて店先で売っていた。夏なら、かき氷がメニューに加わる。
店先に売っているのは飲食類だけではない。ビーチ・ボール、プラスチック製のかざぐるま、七十年代ヒーローなどのおめん、ソフトビニール製の刀など、時代遅れのおもちゃがたくさん売っていた。
このような店を僕はなんと表現してよいかわからない。いちおう飲食類があるので、飲食店と表現しても間違いではないと思う。
長椅子に坐ってすぐ、それにしてもこれはひどすぎる、という思いが僕にはふつふつと湧いてきた。しかし、ブンさんは満面に笑みを浮かべ、楽しそうであった。
五十代ぐらいの気のよさそうな店のおばさんが水を持ってきた。ブンさんと僕がビールを注文すると、彼女が味噌おでんを食べるかと訊いてきたので、僕たちは味噌おでんも注文した。
コップと栓を抜いた瓶ビールと串刺し味噌おでんを二人分ずつ、店のおばさんはすぐに持ってきて、僕たちに話しかけた。
「桜はまだ咲いてませんけど、ゆっくりしていってください」
おばさんの顔を見あげ、ブンさんが微笑んで言った。
「花が咲かなくとも、桜は桜です。美しいものです。私はむしろ、花よりは木、木よりは根のほうに興味があります」
「まあ。おじいさん、素敵だねえ。ゆっくりしていって」おばさんはにっこり笑い、店先へ戻っていった。
僕とブンさんは、お互いにビールをコップにつぎあって飲み、串刺し味噌おでんを食べた。
それまで、僕は味噌おでんを好きではなかった。田楽味噌の味がなくなるスピードに、こんにゃくが追いつかないのがつらい。味がなくなる前にこんにゃくを飲みこもうとすると、のどに詰まりそうだからよく噛まなければならない。だから、すでに味噌の味が消えてるのに、こんにゃくが口の中に残ってしまう――それがだめだった。でも、僕はこのとき、味噌おでんがほんとにおいしく感じた。この日を境に、僕は味噌おでんが嫌いではなくなった。
ブンさんは、それはもう「うまい、うまい、なつかしい味だ」と言って、おいしそうにほおばっていた。
そういえば、ブンさんとなんども外食をしたことがあるが、彼の口から『まずい』という言葉は、ついに一度も聞かなかった。あきらかにまずい料理でも、彼はちょっと顔をしかめる程度だった。彼は、他者が書いた小説に対しても寛容だった。どんなにひどいと思われる作品でも、彼は書き上げた努力を認めようとする。ブンさんは言う、小説を書きはじめることは簡単だが、書き上げることは簡単ではない、と。
ビールをブンさんが飲み干したので、僕は彼のコップにビールをついだ。
「昼間からビールを堂々と飲めるとは、小説家になってほんとによかった。レンちゃんも、そう思うだろ?」とブンさんが言った。
「そうですね。小説家になってよかったです」スランプに陥っていた僕は、できるかぎりの笑顔をつくった。
「なあ、レンちゃん。私は物書きがつらいと思った時代もあったが、いまは小説を書くのがとても楽しい。日本語の多彩な表現力は素晴らしいと思う」
「たしかに小説を書きはじめたころは、作品のことを考えたり、どんな言葉で表現しようかと思うだけで、わくわくしてました」
「そう、その感覚だよレンちゃん。あれがたまらんな! どんな作品を書こうかと考え、わくわくする。ストーリー展開を考え、わくわくする。登場人物の行動を想像して、わくわくする。作品に必要な材料を収集し、構想を練っていると、漠然としていた内容がはっきりしてきて、空想が創造へと変化していく。構想メモが仕上がったら、小説を執筆する準備は完了だ!」ブンさんは眼を細め、幸福をかみしめるような表情でつづけた。「そして、いよいよ最初の一行を書きはじめるあの瞬間――」
「いいですねーっ! あの瞬間、あの感覚!」僕はハイになってきた。
「だが、まだまだ序の口だぞ。文体を考えるのも楽しい。言葉を選ぶのも楽しい。読点の位置を決めるのも楽しい。――そうやって、ひとつの文章が誕生していく。私がひとつの文章を書けば、新しい文章がこの世に生まれたということだ。文章を吟味しながら書き綴っていく楽しさは、だれにも教えたくないほどのよろこびだ」
「教えたくないですね。あれは、自分だけの密かな楽しみにしたいくらいです」
「私は一日に自分の力量を超えて書きすぎないように注意する。まだまだ書けるという状態でやめてしまう。体力がありあまっているから、疲れ果ててぐったりすることはない。すると、早くつづきが書きたくてうずうずしてくる。だから、次の日が来るのがとても楽しみになるのだ」
「それ、うん、わかります。僕もこんどからそうしようかな」
「……楽しくて充実した時間をすごし、最後の一行を書くときがやってくる。が、すぐには書かず、私はひと休みしようと思う。そう、最後の一文は決まっている。しかし、まだ書かない。お茶でも飲んで一服するのもいいだろう。近所を散歩するのも悪くない。わざと翌日に持ち越してもいいな。――そして、決心がついたら最後の一文を書く」
「うーん、いいですね。わくわくします」
「新作が仕上がったら、いったん作品のことは忘れ、二、三日、時間があれば一週間くらい遊ぶ。もちろん、実際には作品のことを忘れることができないだろう。新作を書き上げた達成感と満足感が去来してくるからね。その感情をしばらく楽しんでから、推敲に取りかかるのだ」
いちおう僕も小説家なので、ブンさんがいかに小説を書くことを楽しんでいるのか、手に取るように伝わってきた。うきうきわくわくして、僕は彼の話に聞き入ってしまった。 ブンさんが話をつづける。
「作品に磨きをかけていく作業が推敲だ。それは、組み立てた模型の余分なところを削ったり、色を塗ったり、わざと汚したりして、よりリアルにしていく感覚にとても似ている。架空の物語が、生き生きした物語へと変わっていく。磨きをかければかけるほど、作品はよくなっていくから楽しさは尽きない。推敲を思う存分に楽しんだら、編集者へ原稿を渡す。そして必要に応じて書き直し、決定稿となり、ついに新作の小説が完成するのだ。そのとき、私はこのうえない至福感に満たされる。――しかし、それも長くはつづかない。愛着のあった作品を手放すことによって寂しさがこみあげてくる。でも大丈夫、また新作を書けばいいのだから」
ブンさんの小説に対する情熱を聞いていると、スランプだったはずの僕は、いつのまにか小説が一刻も早く書きたくてしょうがなくなった。小説を書いている日々の楽しさ、書き上がったときの達成感、新作が完成したときの至福感、あの満たされた感覚を僕はまた味わいたいと思った。
新しい物語を創造するのはたいへんなことではあるが、作品にたずさわっている時間は楽しいことも事実である。机に向かい窓から入ってくる爽快な風を感じながら、自分が想像したストーリーを形にしていく至福の日々。恋したように胸がときめくものだ。
この当時には、もう手書き原稿は少なくなっていた。腱鞘炎のため、ブンさんもパソコンで小説を書くようになった。彼の薦めで、手書きだった僕もパソコンを使って小説を書くようになった。手書きだと苦痛に近かった推敲も、パソコンを使うようになって苦痛ではなくなった。それどころか、読点の位置を自由に移動できたり、文章の挿入や削除も容易にできるようになった。だから推敲をするのが楽しく、いつまでも作品をいじくりまわしたくなる。推敲も楽しいというブンさんの言葉も、僕にはよく理解できた。
パソコンのキーボードを叩く音は気持ちよいが、万年筆の書き心地も捨てがたいものがある。それは、ほかの筆記具では味わえない感触だ。僕はパソコンで小説を書くようになったが、構想メモなどは万年筆を愛用していた。僕は万年筆の書き心地が病みつきになってしまっていたのだ。でも、パソコンのキーボードを叩くカチャカチャという音も、すっかり病みつきになった。どっちにしても、僕は文章を書くのが大好きだったのである。
構想メモを万年筆で書き殴り、パソコンでカチャカチャッ、カチャカチャッと、小説を書いている自分を僕が想像していたら、ブンさんが、
「レンちゃん。小説で一番大切なことはなんだと思う?」と訊いてきた。
「たぶん、既成の概念にとらわれない斬新な――」
僕の言葉を遮り、ブンさんは大笑いしてから言った。
「小説で一番大切なのは、読者にちゃんと意味が伝わるかどうかだ。それが文章の役割でもある。どんなに美しい文章でも、意味がわからなければ意味がない。だろ?」
一瞬、間があって、僕とブンさんは腹を抱えて笑い合った。
あのぼろい店は、もう跡形もない。
ずっとあとになってわかったことだが、あのときブンさんは僕がスランプに陥っていたことを知っていた。僕の作品の大半を手がけたセトちゃんという担当編集者が、僕がスランプで悩んでいることをブンさんに話してくれたのだ。
あのときブンさんは、近くまで来たから僕の家に寄ったのではなく、最初から僕に逢いに来てくれたのである――文豪が、僕なんかのために。
ブンさんは僕を励ましに来たというよりも、小説を書く楽しさを思いださせることによってスランプから脱出できるように導いてくれたのだ。
スランプを克服したあとの僕は、ブンさんに読んでもらいたいから小説を書いていた。だから、ブンさんが亡くなってから十年、まったく小説を書く気になれない。スランプのようなものではなく、小説を書くモチベーションを失った。
上野公園を見渡すと、まだ花の咲いてない桜の木が視界に入ってきた。だれ一人見向きもしない。花が咲いているときしか注目しない人間たちを長い期間見てきた桜は、どう思っているのだろう。
僕はマスメディアに自分の顔を出さなかった。それに筆名を使っているから、一般の人は僕が小説家の『北沢蓮』だとは気づかない。しかし、学生時代やアルバイト時代の友達は、僕が小説家になったと知ってけっこう集まってきた。別れた妻もその一人。
彼らは僕を必要以上に褒めたたえ、自分の彼女や彼氏を僕のところにつれてきて、小説家の北沢蓮と知り合いだとアピールしていた。だけど、僕が小説を書かなくなると、彼らは僕を見向きもしなくなった。最後に妻が去っていった。自分の成功を鼻にかけるようなことは、僕は彼らに一度もしなかったのに。
けっきょく彼らは、僕に咲いた花にしか興味がなかったのだろう。花が散ってしまった木には、興味がないようだ。植物にもいろいろあるが、特に桜は有名人とよく似ているような気がしてせつなくなった。
昼近くになって僕が散歩から自分の家に帰ってくると、隣の家に住んでいる中学三年生の女の子も学校から帰ってきたところだった。
彼女はセーラー服を着て、左手に学生かばん、右手に書店の紙袋を持っていた。その子、佳美ちゃんは小柄でスリムな体型で、年齢の割りに大人びた顔立ちだが、大きな瞳はまだあどけない。彼女の艶があるストレートの長い黒髪が、春の風にふんわりと揺れていた。
「おじさん、こんにちは」佳美ちゃんが無邪気な笑顔で、僕に挨拶した。
「こんにちは、佳美ちゃん。きょうは学校、早いんだね」
「うん。もう卒業式の準備だけなの」
「そうか、佳美ちゃんも高校生になるんだね」
「ならないわよ。高校には行かないから」
「えっ! 高校に行かないの」僕は余計なことを言ってしまったと後悔した。
「でも、おじさん。勉強はちゃんとやるわよ」
「そうだね、勉強をやって損することはないからさ。だけど、それなら高校へ行ってもよかったんじゃない?」
「だめよ。学校はどろどろしてて、人間関係が面倒くさいの」
彼女の言葉に僕は耳を疑った。子供の世界でも人間関係が複雑化しているようだ。多くの社会人が人間関係によるストレスで精神的なダメージを受けているそうだが、未来のある子供たちまで……。もはやコミュニケーション能力とかいう問題ではなさそうだ。
情報が氾濫しているネット社会になり、子供たちは大人社会の人間関係を知っている。そう、大人も子供もやっていることは、大して変わらないことを知ってしまった。将来に夢を持てず、就職したくない、働きたくない、という若者が増えているのもわかるような気がする。無職の僕が考えるのも変だが、なにやら危険な予感がした。
女性なら働かなくても結婚して家庭に入ることができるが、僕は彼女に訊かずにはいられなかった。
「佳美ちゃん。将来はどうするつもり?」
「バイトしながら、小説家を目指すの」
「小説家だって! す、すごいね……、小説が好きなんだ」
「うん、大好き。だっておじさん、小説っていいわよ。活字を読んでいるのに、いろんな光景が頭の中に見えるなんて不思議でしょ。昔の本を読んだって、昔の映画みたいに古さを感じないし。古い表現があっても、ストーリーの時代に合ってるから、古さを感じさせないわ。ずっと昔の小説でも、初めて読む人にとってはいつも新鮮なの。小説はね、古くならない芸術だと思うわ。それに、読んだ小説を思い出すと、文章じゃなくて映像が浮かんでくるのも素敵ね」
「なるほど、小説って素晴らしいね。だけど、小説家はたいへんな割に、あまり儲からないそうだよ」
「それでも小説家はいい仕事だと思うわ。会社員みたいに、煩わしい人間関係に振りまわされることもないし、基本的には一人で仕事ができるしね」
「そうかなあ。小説家だって人間関係はあるよ」
「おじさん。北沢蓮って小説家を知ってる?」佳美ちゃんが唐突に訊いてきた。
「えっ! いや、その……名前だけは……」僕は戸惑ってしまった。
「北沢蓮は何冊小説を書いたか知ってる?」
「さあ、知らないね」
「七冊書いて、そのうち五冊がミリオンセラーになったのよ。あとの二冊もベストセラーになったわ。北沢蓮みたいに、大金持ちになる作家だっているのよ」
「そ、そうなんだ。けど、北沢蓮はもう消えてしまったようだけど」
「なにを言ってるの、おじさん。北沢蓮はね、いまニューヨークのマンハッタンに住んでいて、人生を懸けた長編小説を書いているのよ。素敵ね」
「それ、うそでしょう」
「ほんと、ほんと、みんな知ってるし」
ほんとのはずないだろう! 僕がその北沢蓮なんだから。僕は君の家の隣に住んで、十年間もふらふらしているさえない中年男だぞ。でも、僕が昔書いた小説のおかげで、経済的に余裕があるのは本当だけれど。
「それでね――」佳美ちゃんは眼を輝かせて話す。「北沢蓮はね、背が高くてスポーツ万能で、超かっこいいんだって。ベンツ、ポルシェ、フェラーリとか高級車を何台も持っているの。それと、ニューヨークのほかに、パリ、ロンドン、インド、ベツレヘムにも家があるのよ」
「インド? ベツレヘム?」なぜ僕はインドやベツレヘムに家を買ったんだろう?
「キタレンはね――」
「キタレン?」
「うん。通は北沢蓮を『キタレン』って呼ぶの」
「初耳だなあ」
「でね。キタレンは何か国語も話せて、自家用ジェット機で世界中を飛びまわっているのよ。でも、小説はニューヨークで書いてるんだって。あたし、北沢蓮の大ファンなの」
それにしてもめちゃくちゃだ。情報化社会といっても、でたらめが多いようだ。
佳美ちゃんは僕のファンみたいだけれど、なんか素直によろこべないぞ。ここはやはり、本当のことを言うべきだ。
「あの……実は……おじさんが、北沢蓮なんだ」
「うふふ。そのギャグ、笑えない」佳美ちゃんの笑顔が真顔になった。
笑えなくてもしょうがない、北沢蓮は僕の筆名なんだから。
佳美ちゃんの夢を壊すのをやめようと思い、僕は彼女の持っていた書店の紙袋を指さし、話題を変えた。
「それは、なにを買ってきたの?」
「文芸誌。毎月買ってるの」
「最近の文芸誌はおもしろい?」
「もちろん。おもしろくなかったら買わないわ。それに、いろんな作家の文体が楽しめるから、すごく勉強になるのよ」
「小説家になれるといいね」
「なれなくても、ずっと書きつづける。ウェブで公開もできるしね」
書きつづけるのは難しい。僕も作家を目指していたころは、プロになったら小説を死ぬまで書きつづけたいと思っていた。が、このありさまだ。
「佳美ちゃん、いま小説を書いてるの?」
「うん。書いてる」
「どんな小説を書いてるのかな?」
「あたし、北沢蓮の大ファンなの」
「それ、さっき聞いた」
「だから、エンターテイメントのような純文学」
彼女は本を出版できたら、おじさんに必ずあげるね、と言って自分の家へ楽しそうに入っていった。
近所の人たちには、僕は自宅でパソコンを使った仕事をしていることになっている。だれも僕が小説家だったことを知らない。
佳美ちゃんが幼いころ、僕と別れた妻はよく遊んであげた。僕たちは、彼女にお菓子やおもちゃ、児童書などもたくさん買ってあげた。普段、時間がどのくらい流れたかなんて気にしないが、彼女の成長ぶりを思うと、僕は長い時間がすぎたことを実感した。
|