夜。公園。渚はブランコに乗って、否、座っていた。
両足とも地面につけたまま、両肘を鎖に回し、何とも無く揺れている。
学生鞄は左足のすぐ横に、バドミントンのラケットを背中に負っている。
渚は明らかにぼんやりしていた。
じっと考え事。
決して童顔というわけではないが、白目に対して黒目が多い。
ちょうど若いトムソンガゼルのような。
ので、脳内が多少深刻な議題を扱っていても、外面に現れにくい。
ふと、何かに気づいたように公園の入り口を見る。
黒スーツの男。涼しい眼鏡。
やや光沢のあるブルーのタイを締めた彼は驚いた振りさえわざとらしく、渚を見据えてニヤリと笑う。
「何となく、君が近くにいる気がしたんだよ」
手が寂しくなると眼鏡を弄る癖があるこの男、竜胆。
軽く中指で眼鏡の中央を押さえてすぐ手を放し、それで気に入らなかったのか中指と親指で両端を持ち上げた。細いメタルのフレームの縁を、甘やかな光が一周する。
「…オレも、したよ」
渚が静かに言う。
それは本当だった。
最近この狂人と近くなりすぎる自分を感じる。
ふと、理由が無く興奮したり悲しくなったり、叫びたくなったり泣きたくなったりする。
それらは竜胆の感情であろうと渚は確信していた。
しかし、竜胆にだって常に感情らしきものはある。むしろ彼に操られているとき彼から流れ込む感情は、余裕に溢れた彼の表情からは想像も出来ないほど激しく、混沌として、渚には理解が出来ないこともあった。操られていない時は彼の感情を直接感じることはないが、特に共感するものがあるときは離れていても繋がるものがあるのかもしれない。
「ひと仕事終わったんだ」
言い訳口調ではない、単なる軽口。喋りたかったから喋った、というような。
「…知ってる」
「どうして?」
「変に優しい」
気味悪げに渚が言う。
意識すれば意識するほど、今日の竜胆の声は、猫を撫で回すようだ。
恋人に語りかける…いや、どちらかといえば、変質者が道行く幼女に話しかけるようですらある。何より、竜胆が優しいという事態そのものが、不気味だ。
「そうかい」
竜胆はそれをあまり気にも留めずに公園に立ち入った。
気にならないほど機嫌がいいというよりは、自分が妙な声色であること自体に気付いていない。
今日は特に変態じみてすらいる生々しい狂気を放つ男と、子供の痕跡の残る公園。あってはならない取り合わせに、渚は罪悪感のようなものすら感じた。
竜胆が、ブランコの回りの鉄柵に腰を下ろす。
ちょうど男が膝を九十度に曲げて座れる位の高さ。渚は、ほんの小さい頃その鉄柵を鉄棒に見立てて逆上がりの練習をしたことを思い出した。いつの頃か…あれで回っても地面に頭がつかなかったのだから相当幼かったに違いない。そう、自分は逆上がりなど要求される年齢ではなかったが、何かの時に見た姉の鉄棒がとても格好よく見えて、ひとりで練習していたのだ。この公園はその頃の渚の世界の半分くらいだった。遊具はブランコと滑り台、そして砂場だけ。鉄棒はない。だから、幼い渚はそこで。その鉄柵で。
「どうしたんだ、ぼんやりして」
竜胆がいくぶん面白そうに言った。
それは竜胆に限らず、あらゆる知人・友人・親類・教師その他からよく言われることだった。
「…別に……」
渚は、視点をはるか昔から目の前の男に戻した。右足を左足の上に組んでいる。そうすると右足は踝の上ほどまでスラックスが上がるが、ご丁寧なことに下にきっちりとスーツと同じ色の黒いハイソックスを履いている。学ランのズボンの下は踝ソックスの渚とはえらい違いだ。しかし着こなしこそ大人びた竜胆だが、年齢自体はまだ若いことを渚は知っている。これは単に彼の『仕事着』なのだ。
「今日は、部活の帰りなのか?」
「ん……」
渚が軽く頷く。同時に目線がどこか遠くなったのを竜胆は見逃さなかった。
「部活で何かあった?」
飼い犬に話しかけるような口調。くすぐるような甘さが、渚に一瞬の警戒心を抱かせる。竜胆は概ね渚を歳相応に扱うが、時に不当なほど子供の扱いをする。
疲れているときや寂しいとき、または単に機嫌のいい時はそれが心地よく感じることもあるが、高校も半ばを過ぎた男子がそうされて気分がいいはずがまず無い。といっても、同じような扱いは三歳離れた姉からも受けていることだった。身近でしつこい分、彼女のほうが悪質ともいえる。
「………」
「それ、ラケットかい?」
「ああ……」
渚は立ち上がった。背中に斜め掛けしていたラケットケースを、ちょっと頭をかしげるようにして取り出した。
ジッパーを引く。中から、テニスのそれよりずっと細身のラケットが二本。
そのうちの一本を、無言で竜胆の方へ差し出す。
「?」
竜胆はラケットから渚に視線を上げる。
「やろ」
渚がせかすように竜胆に向かってラケットを揺らす。
竜胆は苦笑交じりに眼鏡を直し、それを受け取った。
そういえば渚から何かを要求してくることは、食欲関係以外では稀である。
竜胆がやや勿体つけるように、組んだ足を解き、立ち上がる。
二人はブランコ付近から十分にスペースの確保できるところまで移動した。
渚が竜胆に近づき、
「こう」
握り方を教える。
「こう?」
「そう」
そして渚が身軽に何歩か引き、シャトルを竜胆に向かって軽く打ちだした。
竜胆は打ち返すが、コントロールがいいとは言えない。それでも渚はうまく拾い、また彼に打ちやすいところへ戻す。それを何度か繰り返すうち、徐々に竜胆の球も安定し始めた。
「竜胆サンってさ」
「ん?」
「何か運動やってたの」
「ああ、」
竜胆は珍しく少し言い淀んで、
「…サッカー」
「えぇ?」
渚は驚きとも笑いともとれる声を上げた。思わずシャトルを取り損ねる。地面に落ちたそれを拾いに行った。
「中学生までだよ。ちょうど流行り始めた頃だったんだろう。母親がやらせたがってね」
竜胆は自嘲的に吐き捨てた。
「すっげぇ、意外」
渚が笑う。
竜胆は心底驚いた。渚がこんなに笑ったのは初めて見たし、今まで彼の笑顔すらろくに見たことがなかったという事実にも随分驚かされた。
渚はひとしきり笑い、落ち着いた頃竜胆の顔を見、そしてまた笑い出した。
「ちょっと、失礼じゃないか?」
「ごめ、」
渚はかぶりを振って、
「だって、竜胆サンって、ぜんぜんそんなじゃないんだもん」
「じゃ、どんなふうに見えるんだい?」
渚は黙って少し考えた。
「運動部なら…卓球とか、バレーボールとか」
あとは、剣道とか、と付け加えた。
「全部、屋内系じゃないか」
竜胆は苦笑した。
「これでも、小さい頃は黒くなってボール追いかけてたんだよ。けど、顧問は厳しいし、何より人数の多い部だったからレギュラーへのやっかみだの後輩いじめが激しかったんで、何となく疲れてやめた。渚君はやり続けていて偉いと思うよ」
渚が固くなったのに竜胆は気づいた。
「オレは、全然偉くない」
やっぱり部活のことで悩んでいたのか。
これは聞いてあげた方がいいのかな、と竜胆は思った。しかし珍しいことだ、自分が他人に親切心を抱くなんて。
もう一度シャトルを出して、竜胆と機械的にラリーを続けながら、渚はぽつぽつと言った。
「うちの学校、中高一貫なんだけど、バド部は、別々なんだ。…中学のうちは、先生も先輩も、厳しいけど優しくて…。何で入ったのか忘れたけど、すぐバドが好きになった。大会ではあんまりいいとこ行けなくて、でも、すごく楽しかった。だからそのまま高校に上がって…」
「うん」
「…したら、高校は全然違った。高校じゃ、…先輩は鬼みたいに怖くて、1年なんてすげぇ扱いだった。買出しなんて当たり前で、練習後にマッサージやらされたり、廊下で会って挨拶しないと思いっきりぶたれたり。それだけじゃなかったけど。…コーチも黙認してたし、むしろ一緒になってやってたっていうか」
「そりゃひどいな」
渚はかすかにうなずいた。
「でもそれが当たり前だったんだ。2年になったらなったで、ラケットに触れるようになったのと、先輩が1学年減ったくらいで、後はたいして変わらなかった」
「うん」
「…でも、ついこないだ、3年が引退して…不思議だった」
シャトルが落ちた。竜胆はそれを拾って、また出した。もう大分上手くなっていた。
「今まで先輩とかの愚痴は言ってたけどいいやつだと思ってたタメのヤツが…急に部内で態度変わって。今までの先輩と同じになっててさ」
「ああ」
そういうことだってあるんだろうと、竜胆は思った。所詮人間は環境の生き物だ。
「でも、オレ、そんな風に出来なくて」
そしてそれもそうだろうと、思う。他人に厳しい渚なんて、竜胆には想像がつかない。そして周りによって変わってしまうようでは、きっと自分の相棒なんて務まらないだろう、とも。
「君は優しいからな」
「違うよ」
余りにすばやく、余りにきっぱりと否定されてしまったので、竜胆はここに話の本題があるのかな、と思った。
「違う。オレは、優しいんじゃない、別に後輩が好きなわけじゃないし、むしろ顔と名前だって全員は一致しない。一緒に遊んだこともないし、会話だってほとんどしない。だけど、厳しくなれないのは、面倒だからだ。オレは怒れるほどあいつらにエネルギーをかけられない、部活の伝統を守れない。……オレ」
「うん」
「オレ、いていいのかな、バド部に」
渚の肩幅が狭くなった。ように竜胆には見えた。
2人は黙って、互いにシャトルだけを追いながら、むなしくラリーだけを続けた。
「俺は」
竜胆が口を開く。渚の睫が少し揺れた。
「俺は、サッカーをやめたこと、今では少し後悔している。だって、逃げたみたいじゃないか。昔からあまり他人を気にしない性分だったけど、自分の心の問題としても、やっぱりあまりよくなかったとも思う。辛くても向き合っていくのが社会だろ。それでやめたせいで、俺は、ますますひとりよがりになっていったと感じているから。ある意味今の俺があるのは、あれをやめたせいかな」
渚は、まるで自分が責められているような顔をした。
「でも、聞く限り、君と俺は全く違う例のように思う。やめるやめないは、君の自由だ。だけど、こうも思うよ、今君は問題に対して寄り添いすぎていると。だから、何か一つアドバイスするなら、何日か部活をサボってしまうことをお勧めするね」
渚は目を丸くした。
「サボる…?」
「ああ。いいじゃないか、結論は先延ばしにしても」
竜胆は、にやり、と笑った。
渚が、左の袖で目をぬぐった。泣いているのかは、暗くて竜胆には見えなかった。ただ、それと同時に渚から打ち返されたシャトルを、落としてはならないという無意識の義務感から打ち返した。
シュッと風を切る音がしたと思うと、トン、と心臓の奥をつくような衝撃が竜胆の胸のやや左に打ち込まれた。
「?」
訳がわからぬまま左手を差し出すと、スーツを伝って、そこへずるずるとシャトルが落下した。
渚を見ると、バックストロークのフィニッシュの姿勢で静止している。いつの間にか点いていたすぐ後ろの民家の明かりに照らされて、ぼんやり光っている。よく練られた、美しいフォームだった。
竜胆と目が会うと、渚はその姿勢を解きながらふっと笑った。
竜胆もつられて驚きにやや固まっていた表情を崩す。
「ありがと、竜胆サン」
「役に立てたなら光栄だね」
竜胆は渚にラケットとシャトルを返しながら言った。
それを受け取りながら、渚が首をかしげる。
「どうした?」
「…やっぱり、そんな殊勝なあんた、変だ」
竜胆は吹き出すしかなかった。
渚が、きちんと収めたラケットケースを背負い、鞄を肩に掛け、思い出したようにつぶやいた。
「腹減った…」
竜胆は服を調えながら言った。
「俺も夕飯、まだなんだよ。軽く食べに行くか?」
渚は竜胆と目を合わせないまま、頷いた。
ああいつもの渚君だな、と竜胆は思った。
並んで歩く2人を、街頭がかわるがわるに照らしていった。
|