自分の部屋で、机に向かって明日の授業の予習をしていたら、背後で窓の開く音がした。
外の喧騒に混じって、ガタ、ゴトゴト、ダン、と誰かが窓枠から部屋に侵入する音。
僕はその音を聞きながら、別段動揺もなくサラサラとシャープペンを走らせる。
こんな夜中に窓から入り込んでくるのは、犯罪者を除けば一人しか居ない。
屋根伝いに繋がった家の、可愛いらしいお隣さん。
不意に後ろから手が回ってきて、僕の視界は閉ざされた。
「メーグだ♪」
「や、それクイズになってないから」
「マルかバツか!」
「正十二角形」
適当に応えながらやんわり手を払いのけ、椅子を回転させる。
「やほー、あっちゃん」
振り向いた先には、座っている僕より尚低い目線から、にぱーっと笑顔を向ける栗色の髪の女の子。
先月八歳になったばかりの、天原 メグミちゃんが今日も今日とてやって来た。
「こんばんわ、メグミちゃん」
「ぶー、メグって呼んでー」
笑顔なのに唇を尖らせるという器用な表情を作りながらメグミちゃんが言う。
僕は微笑ましい思いにかられながら、恭しく仰せに従った。
「メグちゃん」
最近、彼女は名前をきちんと呼ばれるのを嫌がるようになった。
なんでも小学校で、男子にグミと呼ばれてからかわれたのだとか。
贔屓目でなく、とても可愛らしい容姿のメグミちゃん。
いつの世でも好きな子を虐める小学生という奴は消えないものらしい。
「あっちゃん勉強してたん?」
メグちゃんが机を覗き込む。
「ん、英語と数学」
「そっかー。んじゃココア淹れて」
「話に全く脈絡がないのだけど」
「クイズ間違えたからバツゲームなのー」
「なのですか」
それじゃあ仕方ないなあと、くすくす笑いながら僕は部屋の隅からカップとソーサーを取り出す。
机の横からココアパウダー、メグちゃんの舌に合わせ砂糖も少し混ぜて、既に沸かしてあった 電気ポットでお湯を注いだ。
さして広くない部屋に甘い香りが広がっていく。
「はいどうぞ。熱いから気をつけてね」
「ありがと!」
「you're welcome」
「よあう?」
「英語。どういたしまして、っていう意味」
「ふうん」
よあうー、と呟きながらメグちゃんはカップに顔を近づける。
ふー、ふー、と湯気を燻らせて、ちびりと啜る。
「おいしぃー」
ほんわりと幸せそうな顔。
女の子は、甘いものが大好きだ。
そして僕は、メグちゃんの幸せそうな顔が大好き。
いま鏡を見れば、僕はさぞ締まりの無い表情をしていることだろう。
兄というのはこういう気持ちがするものなのかなあと思わずにはいられない。
「よあうー」
メグちゃんの真似をして僕が言うと、メグちゃんもよあうー、と返した。
なんだかもはや、2人の暗号みたいになっている。
しばらく2人でよあうー合戦を繰り広げて、どちらともなく笑いあった。
「よあうー、えへへ、あんねー、わたし、あっちゃんのココアすきー」
「それは嬉しいなあ」
その文章にココアが無ければ、もっと嬉しいのだけれど。
などと考えるあたり、僕のメグちゃんへの傾倒ぶりが知れる。
「ね、おかわりしていい?」
空になったカップをもって、上目遣いに聞いてくるメグちゃん。
”好き”の後のおねだりというキャバ嬢並のテクニックは末恐ろしい。
「駄目。身体に悪いからね、1日1杯だけだよ」
心揺さぶられながらも、僕は心を鬼にして窘める。
1日1杯に根拠があるわけではないのだけど、放っておくとメグちゃんは際限なく飲み続けるのでそういう風に決めているのだった。
「うーー、じゃあトランプやろっ」
メグちゃんは少し唸ってから、机の上のトランプを指差した。
何から繋がって”じゃあ”なのだか相変わらず話に脈絡がないけれど、悪い提案ではない。
眠るにしても勉強するにしても、今はまだ少しばかり外が五月蝿すぎるのだ。
僕はトランプの箱を手に取る。
「了解。何しよっか?」
聞きながら、僕は既にカードを一枚山から外している。
メグちゃんがルールを知っているゲームはひとつしかない。
「ジジ抜きっ!」
ちなみにババ抜きは知らないそうだ。
世代の違いだろうかと考えながら、大雑把に山を2つに分ける。
どうせ2人でやるので、少々の枚数差などほとんど関係ない。
「えっと、9と、4と……」
ペアになっているカードを探して捨てていくメグちゃん。
小さな手では上手く扇形に持つことが出来なくて、手札が丸見えもいいところ。
多分ジジは8だなあなどと容赦なくチートするのは、良い勝負を演出しつつ負けるためだ。
最終的に3対1くらいの割合でメグちゃんが勝ち越すのが望ましい。
要するに、接待マージャンならぬ接待トランプである。
「出来たっ」
カードの仕分けを終えた、接待されるお姫様と向かい合う。
扇の真ん中を意味なく一枚だけ飛び出させて、僕は手札を差し出した。
「さて、それじゃあメグちゃんからどうぞ」
「えいっ! ……あ、そろったー! またわたしの勝ちー」
「あー、負けちゃったよー最後は勝ちたかったのになあ」
などと言いながらカードを投げる様は、我ながら見事な大根役者ぶりである。
戦績は3勝10敗とほぼ理想どおりに推移したものの、もう少しまともな演技が出来ないものだろうか。
今後の課題にしておこう。
「さてと」
僕はカードを集めながら、ちらりと壁の時計を見る。
短針は11を回って、よい子はとっくに寝ている時間。
外の騒音は、どうやらもう静まっているようだった。
「メグちゃん、今日は泊まっていく?」
なんでもないことのように僕は尋ねた。
実際それほど大したことではない。これまでに何度もあったことだ。
明日の朝少し早めにメグちゃんを返せばバレることはないし、もしバレたとしてもウチの親とメグちゃんの親は仲が良いから、好意的な顔はしないまでも目くじらをたてることはないだろう。
「うん! 枕も持ってきたよ」
頷いて、メグちゃんは床に置いた枕を指差した。
僕は、ぎゅうっと枕を抱きしめて眠るメグちゃんの寝相を思い出す。
…………一瞬枕が羨ましいと思ってしまったのは重病というほかないだろう。
「そっか、それじゃあお布団とってこなきゃね」
僕の部屋にはベッドは一つ。
流石に同衾するのは問題があるけれど、かといって別々の部屋で眠ろうとすると寂しがりやのメグちゃんは泣いてしまう。
勿論メグちゃんを泣かせるなんてことは論外だから、僕は床で眠るのだ。
そんなわけで僕は予備の布団がある部屋へ行こうとドアに手を掛けて――
きゅっ、と後ろから寝巻きの裾を掴まれた。
「メグちゃん?」
振り向く。
「あっちゃん、あんね、えっと……」
不安そうな、恥ずかしそうな、泣き出しそうな。
メグちゃんは何か言いたそうに、もじもじと複雑な表情で俯いていた。
その顔を見て、僕は胸を酷く締め付けられるような感覚に陥る。
――ああ、この子はどうしてこんなに。
「メグちゃん」
「はや?」
僕は、ぽふ、とメグちゃんの頭に手をおいた。
亜麻色のふわふわした髪を、ゆっくりと梳くように撫でつける。
優しく梳くたび、甘い甘いミルクのようなメグちゃんの髪の香りが漂ってくる。
「あやー」
しばらくそうしていると、やがてメグちゃんは気持ちよさそうに目を細めて、なされるままになっていた。
僕は屈んで、メグちゃんの小さな頭をゆるく抱く。
「今日は、一緒のお布団で寝よっか」
耳元で囁くと、メグちゃんは驚いたように目を見開いて、それから満面の笑みで頷いた。
「うんっ!」
電気の消えた部屋。
僕はベッドサイドに腰掛けて、すぅすぅと寝息を立てて枕にしがみつくメグちゃんの髪を梳く。
メグちゃんが眠ってからそっと運んだ布団が、ベッドの横に敷いてある。
今は何時だろうか。僕はいつまでも寝付く気になれず、もう随分と長い間こうしていた。
頭の中に浮かぶのは、さっき僕の裾をつかんでいたときのメグちゃん。
恥ずかしそうな――そして不安そうな、泣きそうな。
僕は、彼女が初めて窓からこの部屋へやって来たときのことを思い出す。
あの時も、この娘はあんな顔を――いや、もっとずっと弱弱しく、枕にしがみつくみたいに僕の服をぎゅうっと握り締めて。
「泣かないで、笑っていて」
先刻収まっていたのに、騒音がまたぞろ再開したらしい。
窓の外の怒声が、わずかに部屋の中まで漏れてくる。
お互いに口汚く罵り合う、かつては愛し合っていたはずの隣家の2人。
彼らの争いを仲裁する力も権利も、僕にはありはしないけど。
だからせめて、この手の届く限りこの子を守ろう。
巻き込まれないように、傷つかないように。
この部屋にいる、その間だけは――
「おやすみ、お姫様。せめて今は、幸せな夢を――」
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