その日、私と彼女はプールに来ていた。
天気は良好、お盆が近いから人混みも疎らだ。
羽を伸ばすのには絶好の条件だとも言える。
二人同時に取れた久々の休日でもあるし、楽しみたかった。
けど、今の私は鬱々とした気持ちで、彼女の水着姿を眺めているのだった。
この所、お互いが抱えている案件に手を焼き、同じ社内にいても中々顔を合わせることが出来なくなっていた。
それが原因だと思うが、私達の関係は徐々に気まずいものとなる。
最近ではメールの返信もしてくれない。
会社の廊下で擦れ違ったとしても、少し微笑むだけで素通りされてしまう。
そういえば、最後に昼ご飯を一緒に食べたのは何時なんだろうか。
それすらも思い出せなかった。
もう、この関係は駄目かもしれないという予感が、私の心を重くしていた。
「ねぇ、何ボーッとしてるの? 泳ぎに行こうよ」
彼女は突然、俯いていた私にそう声をかけてきた。
両手を突き出したまま、柔らかい笑みを浮かべていた。
私は始め理解できなかったが、やがて遅れながらにも、その白い手を握りしめた。
「ああ、そうだな。泳ごう」
彼女は目が悪かった。
それも実生活に支障が出るぐらい視力が低い。
度が入ったゴーグルが使えないプールの中では、誰かが側にいないと泳ぐことも出来ない。
その事を忘れていた不甲斐なさに私は苦笑した。
「きゃっ!」
私は、彼女を強引に引っ張り、一緒にプールに飛び込んだ。
別れる寸前かもしれないが、少し男らしい姿を見せたかったのかもしれない。
私達はドボーンと、大人が背伸びしてもたどり着けない深い水の底に落ちていった。
その時、何やら上の方で笛の音と監視員の怒声が聞こえたような気もする。
だが、私の頭には届いていなかった。
私にはブクブクと泡立つ水中で、笑顔を向けてくる彼女しか見えていなかったのだ。
視力が悪いのだから辺りに何があるのか分からないのに、繋がっている私の手だけを信用してくれている。
それが指の先から伝わってくるような気がしていた。
もしかしたら、まだ愛が残ってるのかも……。
そう淡い期待を抱いてしまう。
私は、今更そんな事はありえないだろうと、彼女から目をそらした。
青い水中で手を繋いではいるが、心はずっと前から離れている。
関係を修復するには、もう遅いだろう。
居心地の悪さを感じた私は、何か面白そうなモノはないかと視線を泳がせた。
すると、プールの底で這い蹲っている子供の姿が目に入ったのだ。
何故だが水着で遊んでいる他の人達よりも、その子が気になった。
始めは、潜って遊んでいる姿に見えた。
しかし、その子は石でも抱えているかのようにピクリとも動いていなかった。
水中でジッとしているなんて、鎖かパイプにでも掴まっているのだろうか。
何をしているのだろうか。
そう考えていた時、私の目が止まる。
それが信じられなくて、見間違いかとも思えた。
もしかしたらプールの塩素が目に沁みる染みているので、視界がぼやけているかもしれないと疑った。
だが、何度確認しても、確かに生えていたのだ。
子供の背中の辺りから小さな尾が突き出ており、小刻みに震えていた。
それはエラ呼吸をしている半漁人のようで、とても不気味に見える。
ぞわぞわとうぶ毛が逆立ち、目の中にある黒点が縮む。
太陽の光が差し込むぐらい透きとおった青いプールなのに、そこだけが色が濃く見えた。
私は少しの間、唖然としていた。
だが我に返ると、急にある話を思い出していた。
それは、世の中には出産後から曲がった背骨が皮膚から突きだしている人達がいるという事だった。
無論、背骨の一部なので中には神経が通っており、自分の意志で動かせることが出来るのだとか。
もしかしたら、あの子供はそういう重荷を背負わさているのかもしれない。
今も、まだ1人でプールの底にへばり付いている。
顔は見えないが、その遊びを楽しんでいる。
そんな子供を見世物のようにジッと見詰めるのは、失礼というものだろう。
私は気が付かれる前に、彼女の手を引っ張りプールを上がる事にしたのだった。
帰り道。
私達は駅に向かって、手を繋いで歩いていた。
特に会話は無く、私から話しかけると言う事もなかった。
もし口を開いてしまったのなら、この関係が終わってしまうような気がしていた。
やがて、彼女の方が小さな声で呟いた。
「今日、楽しかったね」
「……ああ、そうだね」
「来年には新しいプール施設も出来るんだってさ」
「そっか……」
そこで二人とも、また黙り込んでしまう。
私が曖昧な返事しかしていないからか、彼女が無理をして会話をしようとしているからか。
もしくはその両方かもしれないが、どうしても嫌な緊張感がついて回っていた。
握りしめている彼女の手も汗ばんでいた。
沈黙に耐えられなくなったので、今度は私から口を開いた。
「そ、そういえばさ、変わった子供だったな」
「……もしかしてプールの底に潜ってた大きな人の事?」
「ほら、ずっと潜っていた子だよ」
「うーん、でも子供って歳じゃなかった気もしたけど。――そういえば、何をしてたんだろうね」
「1人で遊んでいたのだろ」
「でも、私の事を見詰めてニコニコしてたり、ずっと手を振ったりしてたから……」
「手を?」
「うん」
「変じゃないかな」
「何が?」
「だって君、目が悪くて遠くのモノは見えないじゃないか」
彼女が死んだのは、その次の日だった。
塩素が入った浴槽の底に、べったりと張り付いたまま溺死していたとの事だ。
そう、葬儀で涙ぐむ親御から説明された。
私は事前に警察から教えて貰っていたが、二人の話に耳を傾け続けた。
娘が不明な死に方をしたご両親の悲しみは、きっと私よりも深い。
歯を食いしばってでも、私の方が泣いてはいけないだろう。
せめて、葬儀の間だけでも流すまいと、私は堅く誓った。
やがて、ご両親からいつもまでも娘を忘れないでやってくれ、と頼まれた。
私も彼女の死体が発見されてから心身共に疲労していたが、その気持ちは痛いほど理解できた。
ゆっくりとご両親に頭を下げた。
「……私は彼女を愛していました。絶対に、忘れる事なんてありません」
この言葉に嘘偽りはなかった。
別れかけていたかもしれないが、この世で一番愛していたのだ。
その気持ちが伝わったのか、ご両親は更に泣きじゃぐり、私の肩をギュッと掴んだ。
「お父さん……」
私はその手を掴み、顔を上げた。
そこで、私の心臓がシクリと痛む。
驚きと恐怖で、頭の中を掻き回されたような感情で埋め尽くされる。
私は自暴気味に呟いてしまう。
「そ、そんな。あれ以来、水場には近づいてなかったのに。風呂だって、トイレだって使っていなかったのに」
「どうしたんだ、君」
私が呆然としているのを、訝しんだ彼女のご両親が一歩近づいてくる。
その顔に流れている涙の中。
そこから例の少年が、私の事を笑顔で見詰めていたのだった。
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