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必殺浮気人を消せ~帰ってきた前期高齢少年団~

(1)


 いつもと違って、喫茶ベルサイユのママの顔色がさえない。汚れ物をシンクにためたまま、ぼんやりと窓の外に散る落ち葉をながめている。

 夢路の『カフェの女』さながらに、と言えればいいのだが、まあほど遠い。ボテロ描くふくよかなモナ・リザに、魚や果物でこしらえたアルチンボルド風の肖像画をはめ込んだといったら、的確な描写とほめてもらえようか。 

「どうしたんや? ン十年前の少女時代みたいに格好つけても似合えへんで」

 頬杖をついて物思いにふける彼女が気になって、八郎はカウンターのはしから冗談を飛ばした。

「きょうは、そんなツッコミに答える元気もないワ」

 髪をかきあげたママは、化粧ののりが悪く、やつれて見えた。

「何かあったんか。元気ないやんか」

 思ったよりも落ち込んだ様子に、八郎はそれ以上たずねるのに少しためらいを感じたが、と同時に、むくむくっと好奇心というか、冒険心というか、隣の不幸は鴨の味というか、複雑な感情がないまぜになってわきあがってきた。

「これだけは、あんたら三人にも解決でけへん。犬も食わん問題や」

 こう言い捨てると、彼女は大きくため息を吐いた。

 ため息をついた、といいたいところだが、何といってもボテロ級だから風量も大きい。その証拠に目の前にあった伝票の束が吹き飛ばされ、くるりと一回転した。

「話してみぃ。相談にのるで」

 カップとともにママの方へ移動しながら、彼はいかにもの善人づらをつくった。

「あかん、男はみんないっしょや。亭主の肩を持つのに違いないワ。話してもしょうがない」

 八郎はピンときた。浮気やな、と。

「女でもつくりよったんか」

「そや。最近ちょっとおとなしいしとると思うたら、まただれかにちょっかいを出してるみたいなんや。あれは、焼かな直らん」

 言ってもしかたがない、と答えておきながらすぐ話してしまうというのは、もともとしゃべりたくて仕方がなかったのかもしれない。

 それにしても、焼かな直らんというのは、どぎつい表現である。

 死んで焼いてしまわなければ直らない、嗜好しこうや性格などが絶対直らないというときに使うものだが、最近はあまり聞かれない。若い人は、まず使わないだろう。

「陰で、オレは必殺浮気人やなんて、うそぶいてるらしいわ。ウチは、もう悔しいて、くやしいて」

 涙を流さんばかり愚痴をこぼすママに、八郎はなぐさめの言葉をかけた。

「男いうのはなあ、まあ動物の習性やからしょうがないけど。でも、もうエエ年になったら卒業せなあかん。人間、成長せんと」

「そやろ。そう思うやろ」

 ママは、カウンター越しに身を乗り出してきた。

「何とか、あつーいおきゅうすえられへんやろうか。また、あんたらの知恵で」

 ここにきて、彼はママの計略にはまってしまったことに気づいた。はじめから彼らの助けを頼むつもりだったのである。

 ことがことだけに、ねえ、ねえ、聞いて、聞いて、とばかり、他人に吹聴するわけにもいかない。そのため、何か悩んでいるような素振りを見せ、相手からたずねて来させるよう仕向けたのだ。



(2)


「で、相手はだれか、わかってるのんか」

 と、八郎はママに尋ねた。

「まだわからん。これまでのクセからみて、素人でないことは間違いないんやけど、どこのだれか」

 亭主の過去の浮気歴を思い出したのか、彼女は不機嫌そうに答えた。

 夫の正男は自宅を事務所代わりに、ブローカーのような、自由業のようなことをしている。右のものを左へ動かしたり、わけのわからぬもうけ話とかを仕込んできては、二、三日家をあけたりしているが、まあ半分遊んでいるようなものである。

 ママが店を開いているので、ぶらぶらしていても何とか生活できなくはない。となると、小人は閑居にして不善をなすのである。

 近年、ケータイという不倫道具の誕生が道徳の乱れに拍車をかけた。これまでは、浮気しようとしても、妻や夫に隠れて連絡がとりにくかったが、いまはちょっと目を盗めば、電話やメールのやり取りで簡単にできてしまう。それだけに尻尾をつかみにくい。

「携帯にパスワードを設定してしまって、ウチには見せてくれへんのよ。商売の秘密がもれたら、取引先に迷惑が及ぶとかいうて。大した仕事もしてないクセに。オンナのメールを見られたり、電話番号を知られたら困るから」

 八郎も男だけに、亭主の気持ちはよくわかる。しかし、子供が大きくなって男女の問題が理解できるようになってまで、女にうつつを抜かすのは考えものである。

「相手がわからんのは、手の打ちようがないなあ。なんとか、見つける手立てはないんかいな」

 夫とはいえ他人の携帯をのぞき見るのは背徳行為であるが、浮気を突き止めるため妻がメールや通信履歴を調べるのはよくあることである。

「わかるくらいなら、電話して怒鳴り上げたるがな、相手の女に」

 いまいましそうにママは、はき捨てた。

「しかし、別れさせるだけでは、一時しのぎでまたやりよるで。二度と起こす気力が出んくらいのショックを与えんとあかん」

 八郎は、考え込んだ。

「とにかく、女がだれかを突き止めるのが先決や。よっしゃ、一肌脱ごう。吉ちゃんや勝と相談して作戦を立てるワ」

「頼りにしてるわよ。経費は少しくらいかかってもかまわんから」

 ママがカネの話をすることは珍しい。亭主の背信に、このたびはよほど頭にきているのに違いない。

 八郎はあまりせんさくして、ママさんの傷口を広げるのもどうかと考え、早々に引き揚げた。



(3)


 八郎と入れ替わりに、吉造と勝の二人が入ってきた。

「えらい時間の浪費や。しょうむない映画、見に行かんといたらよかった」

 ドアを開けながら勝は愚痴た。

「タダ券もろうたさかい、時間つぶしにと思うたけど、あんなんやったら家で韓ドラでも見てた方がよっぽどマシや」

 カウンターに座った吉造も、あいづちを打った。

 若者向きの映画を、前期高齢者が見に行くのが間違っている。年金生活で時間が有り余っているからと、もらいもののチケットを持って繁華街へ繰り出したのが悪かった。

「そやけど、女優はかわいいなあ、みんな」

 にやにやする勝に、吉造はまゆをしかめた。

「あんなのは、化粧がようなったからや。見てみ、マチ歩いている娘、みんなマシになったやろ」

「ホンマ、ホンマ」

「昔は人三化七にんさんばけしちがごろごろしてた。いまは、まったく見られへんいうのは少ない」

「その通りや。顔がぼちぼちでも、スタイルがエエからなあ。若いころに、あんなカワイイ娘が周りにたくさんおったら、天国やったやろになあ」

 年がいもなく、勝は目に星印を浮かべた。

「そやけど、いまは若い男が頼りない。草食系男子とかいうて、恋愛にもセックスにも及び腰のやつが多いんや、男の風上にもおけん」

「もったいない」

「男は肉食系でないとあかん!」

吉造は、語気を強めた。

「で、いまやオヤジにチャンスが回ってきてるというウワサや」

「何や、そのオヤジにチャンスて」

 勝の腰が、イスから浮いた。

「若いのが手を出さんから、余った女がオヤジの方へ流れて来てるんや。カネもそこそこ持ってるし、女の扱い方にも慣れてる。昔みたいにジジくさくない」

 カネと聞いて、前のめりになっていた勝のからだが、どしんと元に戻った。

「そこそこ持ってるというても、ま、大した金持ちはおらんけど」

「でも、みんな大きなイエ持って、エエ車に乗ってるで」

「あんなん、本当の金持ちて言わへん」

「ホンマもんの金持ちて、どれくらいをいうんや」

 ため息をつきながら、勝は尋ねた。

 昔、聞いた話やけど――と、吉造は前置きした。

「ある地方に山林地主がおったんや。そこの家訓、つまり代々伝わる子孫に対する戒めが、『男に惚れるな』や」

「なんや、そこの家は代々ホモ系か」

「あほ、それでどうして跡取りができるんや」

「あ、そうか。ほな、なんで?」

 吉造は、おもむろに話を続けた。

「その家の山だけを通って隣の県まで歩いて行けるというほどの大山林王で、財産は勘定できんくらいあったらしいワ」

「うん、それで」

「女に使う金くらいたかが知れてる。身請けしようが、家を買うて与えようが、少々多額の手切れ金を払おうが、家の身代はびくともせえへん」

「さすが、大金持ち。言うことが違うなあ」

「しかし、こいつは見込みある、と男にほれたら、大変や。よし、商売をさせたる、保証人にでも、何でもなったる、好きなようにやれ。こうなると、大財産でも一夜にして消えてしまう。これが、男に惚れるなの意味や」

 吉造は、大きく息をした。

「こんなんが、本当の金持ちいうのとちゃうか。弁護士雇うて慰謝料や養育費の値切り交渉をせなんだらあかんようでは、金持ちといえん」

「なるほどなあ。そやけど、その家訓が本当に言いたいのは、ちょっと違うのとちゃうか」

「何でや?」

「いや、表向きは戒めに見えるけど、男にさえ惚れへんかったら、何やってもエエと、逆に先祖がお墨付きを与えてるんやがな。援交でも、キャバクラ通いでも好きなだけOK。自分がしたかったけど、思う存分遊べなんだから、せめて子孫だけは女に不自由させんといたろうという、ありがたい思いやりや」

 勝の目は、うきうきと空をただよっていた。

「男がちょっとよその女に手を出したら、ヨメはんは怒りよる」

「そらあ、当たり前やろ」

「いや、男いうのはそんなもんなんや。動物見てみぃ。種付けだけしたら、あとは知らん顔。また別のメスを追いかけとる。子育ては、メスのつとめや」

「そらそやけど……」

「ライオンなんか、エサも取りよらん。木陰でのんびり寝そべってて、メスが獲物をしとめたら、やおら起き上がってきて先に食いよる」

「ほんまかいな」

「メスは働くようにできてるんや。オスの仕事は、生殖だけやな。種付けだけしたらあとは遊べと神さんがしてくれてはったんや」

 コーヒーカップを洗うママのこめかみがピクピクとけいれんし始めたのを、吉造はさきほどから気づいていた。

「だいたいやなあ、本来なら男も女も歌い踊り、遊んでたら食うていけたんや。それを、あの、ほら何とかいうた外国の女、リブでもない、ラブでもない、あのう、クリスマス……」

「イブかいな」

「そや、あのイブたらいうおなごがヘビにそそのかされてリンゴを食うたんが間違いのもと、楽園からアダムと一緒に追い出されてしもたんやんか」

 吉造は、テーブルの下でママの方を指さしながら、しきりに目で合図を送っていた。だが、勝はまったく気づかず、口から泡を飛ばしたままボルテージを上げた。

「あれさえなかったら、男も女も大安楽。未来永劫楽しく暮らせたのに、エライ迷惑や」

 ここで終われば、なんとか平穏におさまったかもしれない。ところが、

「しかし、イブいうヨメはん一人だけでは、飽いてくるやろな。やっぱり何人かおらんと、人生おもろない。メーク・ラブは存在目的の探求や」

 と、続けた揚げ句、とうとう言ってはならぬ最後のひと言を発してしまった。

「不倫が文化やったら、浮気は男の哲学や」

 これで、ママさんがプッツンした。

「なんやてーっ!」

 突然の落雷に跳び上がった勝は、あわてて吉造に抱きついた。



(4)


「そうかぁ。それで、ママさん、あんなに怒ったんか」

「いつもなら、またアホなこと言うて――くらいですむのに、おかしいと思うたワ。冗談やとわかってるくせに」

 二人は、八郎からいきさつを聞いてうなずいた。

「そこで、調べてみたんや。相手がどこのだれかを」

 八郎は、声を落とした。

 ここは、ニュータウンの一角にある公園である。前期高齢少年団三人組は、今週の集合場所を屋外に選んだ。

 密談は見通しのきく場所の方が安心である。室内だとドアの外や、物陰でだれが聞いているかわからない。このような広い空間だと他人の存在がまるわかりなので、安心して話せるのだ。

 なら、声を落とす必要はないのだが、ミッション遂行時におけるいつものクセなのである。

「後をつけたら、どこの女か案外簡単にわかった。駅からちょっと離れた国道わきにあるスナックの女や」

 八郎は、この数日、夕方になると、ママの家の近所で亭主、正男の行動をうかがった。その結果、女が判明したのだ。

「何や、相手が見つかったんやったら、もうおしまいやんか。ワシらの活躍する場があらへん。暴露してギュウと言わすか、ママが女のところへ乗り込んで怒鳴りちらしたら解決するやんか」

 勝は口をとがらせた。

「こんどのミッションが難しいのは、そこなんや」

 みけんにシワを寄せた八郎に、消えかけていた二人の好奇心がよみがえった。

「そんなやり方は、いままでいやというほど繰り返しとる。そやから、二度と立ち上がれんほどの精神的ダメージを与えてほしいと言うんや」

「ほな、どうするんや」

 吉造らの問いに、八郎はしゃきっと背筋を伸ばし、神妙な顔つきになった。

「そこで、今回のわれわれの使命だが、この自称・必殺浮気人を完膚なきまでに打ちのめし、二度と女に手を出さないようにさせることにある。そのため、まず彼の携帯にアクセスする方法を探し出さなければならない。彼らはメールのやりとりをしているが、携帯にパスワードをかけ、第三者には見ることができないようにしている。男の背信行為に天誅てんちゅうを下すには、どうしても二人の行動を把握する必要があるのだ」

 いつものようにスパイ大作戦のリーダー、フェルプス君になりきった八郎の言葉は、突然、標準語に変わった。

 だが、

「パスワードをどこかにメモをしてないか、ママさんも本人の財布や机の引き出しなどあちこち捜したけど、なかったらしいワ。携帯をさわってるときの手の動きからみて四ケタの数字みたいやけど、絶対に入力しているところを見せよらん。パパパパッと、あの年齢でどこにあんな早業のできる能力が残っているのかと思うほどのスピードなんやて」

 と、今回もすぐ地元ことばに戻ってしまうフェルプス君ではあった。

 その筋の業者に頼めば、暗証番号を解読してくれるようだが、亭主が携帯を片時も離さない。風呂はカラスの行水で、寝るときも自分の部屋の枕の下に隠しているので、長時間手にして調べることが極めて困難な状況だ。

 だが、さきほど調査結果を伝えに立ち寄った喫茶ベルサイユで、ママからちょっと興味深い情報を得た。スーパーからの仕入れ帰りに亭主の商売仲間に会うと、明日の午後、おいしいもうけ話を持ってくるというのだ。

 これを聞いた八郎に、あるアイデアがひらめいた。

「エエ方法があるんや。耳を貸せ」

 三人の頭が寄った。昼間とはいえ、公園の片隅で大の男たちがひそひそ話をしているのは、いかにも怪しげ。警官が通りかかったら、職務質問まちがいなしの構図だ。

「うほっ、おほっ、へへっ、あはっ、あはははは。おもろい、やったろ!」

 衆議一決、またもや作戦会議は満場一致で決行が決まった。



(5)


その夜、ベルサイユのママは、近くの神社によく当たる数字占いが出ていると亭主に話してみた。

 縁起担ぎの彼は、最近占いに凝っている。四柱推命、風水といった東洋系の伝統的なものが好みで、新しいものにはあまり興味がない。

 だが、美人占い師で、男性にものすごく人気があると言ったとたん、態度はコロッと変わった。

「よう当たるんやったら、行ってみよか」

 例のもうけ話の件は、八郎から口止めされていたので黙っていた。

 翌朝、彼が近くの神社に出かけると、片隅に小さなテントづくりの占い所ができていた。表に数字占いの看板がかかっている。八郎らの手作り店舗である。

 のれんをかき分けて入ると、女占い師が座っていた。

 もちろん本物ではない。「車消滅作戦」でも助けてもらった、コスプレサロンのミミちゃんから借りてきた黒のドレスを着込み、かつらとメークでそれらしく見せた勝の変装だった。

 スパイ大作戦のシナモンのような美人メンバーのいないのが、前期高齢少年団最大の弱点である。ときどき、ベルサイユのママが応援で入るが、今回は当事者だけにそうはいかない。

 小柄でやせている彼に、そうスタイル的な問題はないものの、年が年だけに化粧ののりがやたら悪い。さらにメークに当たったのがオヤジ二人だっただけに、仕上がりはもうひどいものだった。

 あまりにも悲惨なので、新型インフルエンザが流行っているのを利用して大きなマスクとサングラスをつけさせた。

 占い師との触れ込みがなかったら、女のオレオレ詐欺師が銀行のATMへ現金を引き出しに出かけていく途中ではないかというような格好である。

「うわあ、えらい女やなあ。ファンデーションがムラになって、ひび割れしてるがな。どこが美人占い師や」

 小声でこうつぶやいた正男だったが、しかたなく机の向かい側に座った。

「それでは、生年月日からおっしゃってネ」

 変に語尾を上げた、最後のネの音に、彼は背中に寒イボが立つのを感じた。

「昭和三十年八月八日です」

「三、〇、八、八ネ。いい数字だわ」

 格好をつけて勝は髪をはね上げた。

「何や、首筋まっくろやん。どんな生活しとるんや」

 と、言いたいくらいの色違い。古レンガに降り積もった雪がわきを通るディーゼル車の排ガスでススけたところを想像してもらえればわかりやすい。

「この八という数字はラッキーなの。それも二つも入ってるなんて宝くじと商店街の福引が一緒に当たったくらいなのョ」

 寝酒のアテにとったギョーザと白菜キムチの残り香を吹きかけながらの説明に、正男は顔の前を数回右手ではらった。だが、相手はまったく気にしない。歯のすき間にぶら下がったシナチクのかけらが、半開きの口から見えているのもおぞましい。

「星座は?」

「おとめ座です」

「あら、おとめ座の男性ってロマンチストなのよね。わたしもそうなの。ウフッ」

「ええっ?」

「あら、いえ。わたしは女だけど、男だったらそうだろうなと想像しただけ」

 勝は、あわてて打ち消した。

「どこがおとめ座や、おかめ座ちゃうか」

 と、正男は心中、毒づいたが、相手にはもちろんわからない。

「あのう、このあと、仕事の打ち合わせと、銀行の支払いに行かんならんので、ちょっと」

 なんとか早めにこの席から抜け出そうと、彼は腰を浮かせた。

「まあ、そんなに急がないで。おとめ座だと、ベースの数字は9だから、これを生年月日に足すと、28かしら。あら、ちょっといやねえ。よくないわ」

 女占い師はみけんにしわを寄せた。

 験をかつぎやすい男だけに、このひと言に不安を覚え、座り直した。

「何かおまんのか?」

「ううん、ちょっとね。うーん、家の裏庭に南天の木は植わってない?」

「いいえ、おまへんけど」

 この言葉に、彼女は安堵の表情をつくった。

「よかった。あったら、命取りよ。なくて、安心したわ」

「ほんまでっか」

「そう、この25と植物の南天は最悪の相性なの。晩年は苦労と病気の連続になると卦は出ているの、もしあったらだけど」

 正男の顔を見ながら、占い師はオーバーなジェスチャーで説明した。

「それはそうと、その庭は南向きかしら」

「はい、南向きでんねん。そやから、よう日が入って。洗濯もんが午前中に乾いて……」

「ほんとう! 南向きでよかったこと。これが東向きなら命取り。いまごろ、遠くの方へ行ってしまって、名前が変わってるところよ」

 昔聞いた落語のくすぐりを適当にアレンジして、勝はいかにも真剣に占っているようなふりを続けた。

「最近商売があがったりで、首が回らんのですけど、どないかなりまへんか。昼からも仕事探しに出かけよかと思てるんですけど」

 仕事などする気はさらさらない。ぶらぶらと女のところへ行くつもりだが、占い料がもったいないので、とりあえず聞いてみた。

「おほっ、向こうからワナにはまってきたがな」

 勝は、腹の中でほくそ笑んだ。

「いいえ、今日は家から一歩も出てはなりません。大きなビジネスチャンスを逃すことになります。午後は、必ず自宅でいるように」

 女占い師はきっぱりした口調で答えた。



  (6)


 翌日、正男はほくほく顔で菓子折りまで提げ、占い所にやってきた。

「いやあ、助かりました。昨日、家にいたら、仲間がエエ話を持ってきてくれましたんや。もし、ワシがおらなんだら、よそへ回そうと思うてたとかで、もうちょっとでもうけ話を逃がしてしまうところでしたワ」

 満面笑みとは、まさにこのような表情をいうのであろう。彼女の顔を見るのも嫌がっていた前日とは打って変わり、えびす顔で話しかけてきた。

「そうでしょ。だから言ったのよ。わたしの占い当たるって」

 女占い師は、シナをつくった。昨日ならむしずの走った、そのしぐさも妖艶に感じるのは、ご利益のもたらすわざであろう。

「それでまた、きょうもお願いしたいと思いまして」

 当たるとならば、言葉遣いまで丁寧だ。

「いいわよ。いくらでも」

 シメシメとばかり、勝はサングラスの奥で目を光らせた。

「このカードから三枚選んでちょうだい」

 彼女は、数回トランプを切ると正男の前に置いた。彼は神妙に選び、占い師の顔をうかがった。

「うーん、そうか。これは、いけないわねえ」

 占い師の顔が曇った、かのように見えた。というのも、かつらとサングラス、それにマスクをして、さらに例のメーク法である。想像するよりほかはない。

 しかし、表現がいつも同じである。いけないわねえ、である。なぜか。

 こう言うと、客の気を引きつけられるのである。いいことを聞いたとて、ひとは現実に幸運がやってきたわけではないので少々喜ぶだけだが、不吉な言葉というのは、気になって関心度が高くなる。

「あすは、注意なさい。外出中の事故に要注意の相がでているわ。そう、右、右を選ぶのよ。何でも左右のあるものは右にするの。わかった」

 彼に異存があろうはずはなかった。

「ははーっ」

と、ひれ伏さんばかりにうなずいた。



  (7)


 朝はいつも公園を散歩するのが、正男の日課である。

 池をぐるりとひと回りして、遊歩道をたどる。鳥の鳴き声が心地よい。占いの戒めを忘れず、別れ道に来ると、彼は必ず右へ、右へとたどった。

 いつものベンチまで来ると、ハトにエサをやるため座り込もうとした。

 最近は、ベッド代わりに使えないようしているのか、中央に手すりを付け加えてあるのが多い。これもそうだった。言いつけ通り、正男は右に座った。

 そこへ、鉄パイプをかついだ作業員風の男が二人やってきた。ブランコか何かの遊具を修理しようとやってきたように見える。

 ベンチの前にさしかかったとき、前の男が小石にでもつまずいたのか、突然前のめりになった。バランスをくずした男たちの手からパイプがはじかれ、ベンチの左部分に飛んだ。パイプは大きな音を立て、背もたれをしたたか打ったあと、芝生へ転がった。

 作業員らは、あわててベンチへかけ寄ってきた。

「すんまへん。すんまへん。大丈夫でっか」

「おけがは、おまへんでしたか。すみません」

 正男は大きく目を見開き、からだを硬直させていた。

「な、なんちゅうことするんや。もうちょっとで大けがするとこやったやんか」

 おどる心臓をおさえながら、彼は男たちに大声を上げた。

 だが、頭を下げ続ける二人を、それ以上とがめるわけにもいかず、けがのなかったのが幸い、これから気ィつけや――とひと言付け加えて、二人を行かせた。

 占い師の言葉を思い出したのは、彼らの姿が消え、しばらくしてからだった。

「そやそや、びっくりして忘れてしもうてたけど、これもあの女占い師さんのおかげや。ありがたい、ありがたい、命拾いした」

 と、またまた大感謝。

 それを離れた松の木陰からこっそり見ているのは、さきほどの作業員二人、つまり八郎と吉造である。

「大成功や。あいつ両手合わせて拝んどるがな」

「あとは、明日、勝がうまいこと最後の仕上げをしてくれたら、おしまいや。ほんなら、行こか」

 思い通りの結果にホッとした二人は、その場を後にした。



 (8)


 次の日、正男の女占い師に対する態度は、まさに教祖様扱いだった。お神酒を二本供え、深々と頭を下げた。

「もう、何とお礼を申し上げていいか。あなた様は命の恩人ですワ」

 ぺこぺこしながら、前日のいきさつを報告した。

「そう、ならよかったけど、あなたのように次々とご託宣の出るのは珍しいのよ。でも、あまり続けて占うと、あなたの運気が落ちるの。まだ気になることはあるんだけど、占いはちょっとお休みにして……」

 気になることがあると、ひとの関心を引いておきながら、休もうと突き放す。詐欺師風のテクニックに、正男はあわてた。

「そ、そんなことかまいません。まだまだいろいろ占ってほしいことがおまんねんや。お願いしますワ」

 勝は、本気でやめようと言ってるのではない。このまま帰られると、いままでの苦労がパーになる。

 げんかつぎの相手がここで終わるはずはないと知っているからこそ、いったん突き放した。次の要求を間違いなく聞き入れさせるためである。

「なら、私の言うことに必ず従うわね」

「はい、何でも言うとおりにいたします」

 巧妙にしかけられたワナにはまって、あわれな犠牲者はみずから自滅への道を約束してしまった。

「じゃあ、もう一度だけ占うわね。今度はすごく精神力がいるの。これを占うと三日間、動けないくらい疲れるの。だから、しっかり聞いてね」

 そう言い置くと、彼女は瞑想に入った。

 霊気が神域を覆い、静寂があたり一面を支配した――かのように正男には思えた。

「いけないわ、これはいけない、絶対に」

 うわごとのようにつぶやき、彼女のからだがぶるぶると震え始める。この世のものではない、何か万能のものが乗り移ったかのように、またまた正男にはみえた。

「あなたが毎日使っている数字が見えるわ。いいえ、言わないで。聞かなくてもわかるの、私にはその数字がありありと。四ケタの数がボタンの上を……」

 占い師は目を閉じたまま、ぐっとくうをにらみつけるかのようにして続けた。

「その数字はめちゃくちゃに悪い凶数なの。きょう家に帰ったら即座に変えなさい、あなたのラッキーナンバーに。それは、ウーム……」

 こう言ったかと思うと、彼女は、両手を合わせ気力を振り絞るかのように叫んだ。

「すべてを四一二六、そう四一二六に変えなさい! でなければ、あなたの人生はおしまいよッ」

 反射的に、男は反応した。

「わかりました!」



(9)


 八郎宅の電話が鳴った。

「ああ、ママさんか。うん、うん、メールが開いたって? 作戦成功やなあ。それで……、うん、そうか、そんな約束が……、よっしゃ。これから、吉ちゃんら連れて店へ行くワ。最終作戦を立てていくから。うん、うん、ほな、またあとで」

 受話器を置くと、八郎はほっとため息をついた。

 第一段階はうまくいったが、これからが正念場だ。いかにして、亭主を改心させるか。

 ママの話だと、女からのメールは彼女の部屋への招待だった。マンション名と部屋の番号が書いてあって、渡してあるカギを使い先に部屋へ入っていろという。

 亭主が風呂へ入っている間に、ママが財布を調べると、コインポケットに見慣れぬキーが見つかった。

「もう、カーッと来て、風呂おけの中へあいつを頭から沈め込んでしもうたろかと思うたんや。けど、八ちゃんとの約束もあったから、ぐっとがまんしたんよ」

 大きく息をしながら、ママはそのときの憤りぶりを語った。

 亭主や相手の女に浮気が察知されていることを知られると、これからの行動に差し支える。だから、黙っているよう八郎は念を押していた。

「そうか、よう我慢したなあ」

 集合した三人は、コーヒーをすすりながら話を聞いていた。

「そやけど、ワシらの行為は法律に触れへんやろか。ほら、あの不正アクセスやとか、個人情報なんたらいう法律違反とか」

 勝は不安げにつぶやいた。

「なんでや、ワシら他人のパスワード盗んだか? 聞いてもないやろ?」

「うん」

「不正アクセスするにしても、パスワードを知らなんだらでけへんがな」

「うんうん」

「個人情報を漏らしたか? してないやろ。あの数字は、ワシらが考えたもんや。ひとのもんやない。それを、ママさんに教えてあげただけや」

「あ、そうか。なるほど」

 んで含めるようなリーダーの説明に、勝は安堵あんどの表情を見せた。

「それで、相手の女の住所はどこやねん?」

 たずねられたママは、顔を寄せた。

「カギはもろうてたけど、住んでるところはこれまで知らなんだみたい。三丁目のグレースマンション、五階三号室となってるねん」

 この言葉にみんなは驚いた。

「グレースマンションいうたら、吉ちゃんの住んでるところやんか」

 勝は大声を上げた。

「階は一階下の四階やけど、同じ三号室や。そうか、上の部屋に住んどるんやな、その女は」

 吉造も、偶然に驚きを隠せなかった。

「うまいやないか。作戦には、ちょうどもってこいや」

八郎は、計画うってつけの舞台装置に喜んだ。

「で、日取りは?」

「あしたの夜に来いって」

 彼女は不機嫌そうに答えた。

「よっしゃ、わかった。これから最後の仕上げや。みんな、がんばろう」

「オーッ!」

 リーダーの呼びかけに、全員喚声を上げた。



  (10)


 次の日、マンションを下見した八郎は自宅へ取って返し、計画実行に必要な小道具の調達に取りかかった。

 今回の下準備は大小数字の書かれたシール、女物の衣装に、ちょっとした家具である。

 衣装や化粧は、ママのものを提供させた。本人はちょっと恥ずかしがったが、タイツやブラジャーなども出してもらった。家具やインテリア用品は、近くのリサイクル店で仕入れ、運ばせることにした。

 そして、いよいよ当日となった。

 まず彼らは、吉造の部屋の改造にとりかかった。

 カーテンを女らしいピンク系のものに取り換え、ドレッサーも運び込んで、ママの化粧品を並べた。イスの背に下着をかけ、玄関マットの上にはかわいいスリッパも置かれた。

「どうや、これで部屋が色っぽくなったやろ」

 模様替えが終わって八郎は満足げだったが、

「何や女臭うなってかなわんなあ」

 と、吉造は不満顔だった。

 若いときから女嫌いで通ってきた彼としては沽券こけんにかかわるとでも思ったのだろう。

「あれっ、これは何や?」

 八郎は、足元に落ちていた布切れを指してたずねた。

 のぞき込んだ吉造は苦笑いしながら、

「いやあ、洗濯機が故障しててなあ。洗い物がでけなんだから、代えのパンツが無くなってしもうて……。それで、いっぺん使うて洗濯機にほうり込んであったのを取り出して、また三日ほどはいたんやけど、脱いだあと自分のものとはいえ、つまむ勇気が出んで、そのままに……」

「汚いやつやなあ。早う洗濯かごにでも入れときいな。せっかくの計画がおじゃんになるかもしれんで。そんなのが転がってたら」

 八郎は、鼻をつままんばかりにして友を促した。

「ふーん」

 彼は頼りなげな返事をして従ったが、八郎は、

「そやけど、それTバックやで、それも真っ赤な。吉ちゃん、そんなのはいてるんか」

 と、たずねた。

「トシいってきたら、肌も乾燥するのか衣類とのすべりが悪うなって。パンツは食い込んでくるんや。ところが、Tバックやと大事なところを押さえるだけで圧迫感がないのと、ちょっと汚い話やけど……」

 彼は、恥ずかしそうにしながら間を置いた。

「ワシ便秘がひどいねん。でも、Tバックは、歩いたりしたら、後ろのひもが直接肛門を刺激して便意をもよおしてくることがあるんや。一回はいたら手放せんようになってしもうて」

「もうエエ、それを洗濯せんと、よう何日も」

 あきれると同時に気持ちが悪くなり、八郎は早々に準備を切り上げた。



  (11)


 夜になって、三人は吉造のマンションに集まった。

 そして、役割分担をもう一度確認したあと、それぞれ持ち場でスタンバった。勝は、一階玄関わきの茂みで見張り役、八郎はエレベーター、吉造は四階フロアの担当だ。

 待ち合わせより一時間ほど早く正男は現れた。よほど待ち遠しかったのであろう。

だが、三人にとっては、思わぬ誤算だった。

 エレベーターの細工を受け持っていた八郎が、まだ時間があるものと思い、吉造の部屋へ小用に行っていたからである。

 正男の姿を曲がり角に認めた勝が、トランシーバーで彼の到着を連絡したときは、もはや準備に必要な時間が残されていなかった。

 何とか手を打つよう指示された勝は、とっさの判断でエレベーターの全ボタンを押し、かごを上昇させてしまった。つまり九階までの各階停車となった。

 これで時間がかせげた。急いでトイレを出た八郎は非常階段をかけ上がると、かごを捕まえ、飛び乗った。再び各階止まりにして下降する間に、彼は行き先ボタンへシールを張り始めた。

 一方、吉造は四階の部屋番号を、住人に知られぬよう注意しながら張り替えた。そこへ、上から降りて来た八郎と再会、作業の終わった二人は、すぐ横の踊り場へ身を隠した。

「えらい遅いエレベターやなあ。各階どまりかいな。最近は物騒やから、深夜になると全部止まるんやなあ」

 ぶつぶつつぶやきながら、正男は下りてきたエレベーターに乗り込んだ。

 行き先ボタンを押そうとして、彼はおかしなことに気づいた。四階ボタンがないのである。三階の次が五階になっている。

 しかし、験かつぎの彼は、すぐ納得した。病院やホテルなどには、四、つまりシが死に通じると嫌がって欠番にするところがあるからである。

 これが、八郎の狙いどころだった。目的階の五階――実際は四階なのだが――に着いて、正男は自分の考えが間違っていなかったことを確認した。各部屋のルームナンバーが、5-1、5-2となっていたのである。

 もちろん、これも八郎らの細工である。エレベーターや部屋番号を早くから準備しておくと、住人に不審がられて騒ぎを起こさないとも限らない。このため、ぎりぎりまで待っていた。おかげで、あやうく計画失敗の憂き目を見るところだった。


 「5-3」とある部屋の前で、正男は彼女からもらったキーを取り出した。何度か浮気の経験はあるものの、部屋のカギまで渡されたのは初めてである。

 差し込んだキーを回すと、ガチャリと音がしてドアが開いた。吉造から預かった4-3号室の合いカギと、ママがすり替えておいたのだ。

 胸をわくわくさせながら、正男は部屋に入った。女は帰っておらず、無人だった。彼は、部屋の電気をつけた。

「一人暮らしの女の部屋て、わくわくするなあ」

 あたりを見回した彼は、だらしなく顔を崩した。

 目についたのは、壁にかかっていた真っ赤なドレス。胸元のしっかり開いたパーティードレスである。

「ウチのオバはんも同じようなの持っとるけど、えらい差やなあ。ついてるニオイが違うもん」 

 衣装にすり寄りながら、うっとりと目を細めた。

「うわぁ、こんなところにブラジャーが」

 イスの背にかけられた下着に、彼の動悸はさらに高まった。それが、最高潮に達したのは、洗濯かごに投げ入れられていた、くだんのTバックを発見したときだった。

「おーっ、なんと大胆な。こんなのをリミちゃんが……」

 もはや声は上ずり、手はこまかく震えていた。

「まあこんな小さな三角形に細いひもで…………………………、ムフォッ、エホッ、オホッ、オホッ、ゲホッ……。まあ、しょうがないわなあ。洗濯前やし」

 彼は、目をしょぼつかせ、それを元あった場所に戻した。

「それにしても、えらい帰りが遅いなあ」

 リビングに出てきた彼はソファに座り込んだ。ふと目を落とすと、テーブルの上にメモがある。

「先に、シャワーを浴びておいてネ――やて」

 ややテンションの下がりかけた彼だったが、これを読んでいっぺんに元気を取り戻した。

「一刻も早く……、うふっ、あの子も待ち遠しいんや。必殺浮気人にかかったら、どんな女もイチコロじゃ。ムフフフフ」

 有頂天になった彼はそそくさとバスルームに向かい、鼻歌交じりにシャワーの栓をひねった、そのとき――。



  (12)


 ガチャリと音がして、玄関ドアが荒々しく開いた。

「それで、その運び屋になる男は、どんなやつでんねん?」

 思いもかけぬ、野太い男の声が聞こえた。

「くわしいことは知らんけど、アネさんのスナックへ通うてきよる男らしいワ」

 入ってきたのは二人らしく、もう一人が答えた。

「渥美清がサンショウウオの役をしてるような顔のくせに、本人は二枚目気取りらしい。そやけど、アネさんが、ちょっと色目使うたらいっぺんにコロンや」

 正男は、なぜ男たちが入ってきたのか戸惑った。だが、いずれにしても、一般人らしからぬ話しぶりに危険を感じ、シャワーを止めて電気を消した。

「そやけど、なんで今度に限ってド素人を使いまんのや。もっと慣れたやつがおりまっしゃろ。量も多いのに」

「そこが狙いどころや。今度のヤクの量は半端やない。組の存亡がかかってるんや。これまで何度もあっちへ行ったり来たりして、マークされてるかもしれんやつを使うて、万が一こっちで捕まったらえらいこっちゃ」

「そらあそやけど」

「それで、あんまり賢うない、ぼーっとしたのを利用して運ばせようということになったんや。そいつが、もうしばらくしたらここへ来よる。こいつは、六十も過ぎて飛行機がこわいからいまだに海外旅行したことがないというほどの臆病もんや。警察や税関も気がつかんやろ」

 聞いた正男は、ただならぬ話に巻き込まれかけていることに気づき青くなった。

「そやけど、もし向こうで捕まったらどうしますねん」

「向こうでやったら、捕まったってかまへん。あそこは麻薬で逮捕されたら、即死刑や。判決が出たら、すぐに裏庭に連れて行かれて銃殺にされるんや」

「えらい厳しいんでんな」

「本当は犯罪に厳しいのと違うんや。組織と当局は裏で通じてて、自分らのつながりがばれたら困るさかい、いっときでも早う口封じしてしまおうというのが本音や」

「へーっ、なるほどなぁ」

「ブツは、押収されても裏からまた戻ってくることになっとる」

 のどをからからにした正男は、バスルームの中でぶるぶると震えていた。

「えらいこと聞いてしもうたがな。トホホホ、どないしよ」

 彼は、せっけん箱とタオルを手にしたまま扉を細めに開けて、外の様子をうかがった。だが、カーテンに隠れて男たちの姿は見えない。

「もし、成功してこっちへ帰ってきよったら、その後そいつはどうなりまんねん?」

「それも、ちゃんと考えてある」

「どうしまんのや」

「始末屋を雇うてある」

「だれだんねん?」

「DNAのテツや」

「エーッ、あの男でっか、兄貴らでも怖うて目があわせられんという」

「そうや。あいつが人を始末したとき、見ていた親分衆の半分が気分悪うなって途中で部屋を出て行ったくらいや」

「半分しか最後までよう見てなかったんでっか」

「いいや、あとの半分は気を失うて倒れてたんや」

「ひぇーっ、そんなにひどい殺し方しよるんでっか」

 兄貴分が声を落として、相手の男に顔を寄せた。

「お前、あいつが何でDNAのテツと言われるか知っとるか」

「いや、知りまへん」

「死体を見ても、家族でさえ本人と確認でけへん。もうむちゃくちゃにされとって、DNA鑑定せんとわからんからや」

 あまりにも恐ろしい話に、正男は顔をひきつらせた。

 成功しても、失敗しても待っているのは死のみ。それも、突然殺されるのでなく、一寸きざみ五分試しにじわじわと残酷な方法で命を奪われる。彼は、太ももの間を生温かいものが流れるのを感じた。

「風呂場で、ちょろちょろ水の流れる音がしまっせ。水道の栓がゆるんでるのとちゃいまっか」

「そうか、水道代もったいないから、お前、ちょっと行って蛇口を閉めてこい」

「へえ」

 返事をした弟分はバスルームへと向かいかけた。中にいた正男は、まわりの空間がスライム状になってまとわり付いてくるような、異様な恐怖感覚にとらわれた。

「へえ、えっ、組長が? おい、戻ってこい。親分がすぐ集まれという緊急連絡や」

 バイブコールで携帯を取った兄貴分が怒鳴った。

「へえ、へえ、へえ、わかりました。そういたします」

 男は米つきバッタのように何度も頭を下げたあと、電話を切った。

「そいつが、もし、このまま来なんでも、どんなことで計画がもれとるかわからんから、念のために消せと、いま指令が出たんや」

「そいつ、何ていう名前でんねん?」

「それが、名前や住所がわからんのや。しかし、。そいつの写真は撮ってあるから大丈夫や。組織のルートを通じて送信済みで、全国の飲み屋へちょっとでも顔を出したらが最後、本部へ通報が来るようになっとる。そのあとは、テツの出番や、フッフッフッ」

「そうでっか、ヘッヘッヘッヘッ」

 笑いながら二人が出て行くのと、正男がふらふらっとバスタブの中に倒れ込んで大きな音を立てたのは、ほとんど同時だった。



  (13)


 部屋を出た二人は、八郎が待つ五階の通路に上がった。

「ああ、ごくろうさん。うまいこといったか?」

 待ちかねた表情のリーダーが、小走りに寄って来た。

「まかしといてえな。ばっちりや。なあ、吉ちゃん」

「うん、あいつ、よっぽど怖がっとったんやろ。手に持ったせっけん箱がずっとカタカタ鳴っとったがな。ワシらが本物のヤクザやったらすぐに見つかって、連れていかれてるワ」

 吉造と勝は、顔を見合わせ小声で笑った。

「あっ、見てみ、見てみ。オッさん、服を抱えたままパンツ一枚で逃げていきよる」

 眼下に見えるマンションの駐車場を、こけつまろびつ走り去る男の姿が見えた。

「服を着る間もないんや。もし、ワシらが戻ってきたらどんな目にあうかわからんからなあ」

 吉造もにやにやしながら見下ろした。

「あははは、エエかっこうや。クツも履かんと」

「あれっ、向こうから帰ってくるのは、浮気相手の女とちゃうか。ほら、あのたばこ屋の角を曲がってくるオンナ」

「そやそや、アイツを呼び止めてるがな。アンタ、そんな格好でどこへいくんや、て聞いてるんやろ。男は、見たとたん、メッチャびっくりしてよけいにスピード上げて走りだしよった」

「女も、けったいな顔しとる。あははは」

「大成功やな」

 八郎も満足げにうなずいた。



(14) 


 次の日、団員たちはベルサイユで打ち上げコーヒーをすすっていた。

 功労に応えて、ママは三人にそれぞれ二十一杯分のコーヒー券をプレゼントした。二十杯分の料金で一杯分がサービスについてくるという店の回数券である。ただし、一杯分はきっちりちぎってあった。

「昨日の晩、帰ってきたと思うたら、すぐにシャワー浴びてたわ。パンツを自分で洗うて洗面器につけてあったけど、どないしたんやろ」

 ママの説明に、彼らはどっと笑った。

「そうか、シャワーで洗い流さんと、そのまま逃げたんか。そうか、そうか、あはははは」

 駐車場を走り去る亭主の姿と思い合わせて、勝は腹を抱えた。

 しかし、吉造は、

「あのあと、掃除するのにたいへんやったワ。風呂場は汚れてるし、洗濯もんはよだれだらけになっとるし、えらいこっちゃ」

 と、不満顔を見せた。

「おかげで、アイツ今晩から家で晩酌する言うてるわ。もう金輪際こんりんざい飲み屋には行かんらしいで。いっぺんに改心したみたいや」

 ママもうれしそうに、ボテロ・スタイルのボデーをゆすった。

「不倫は背徳や!」

 最後は、まじめな表情に戻った八郎がしめた。

「そや、そや」

 みんな、大声で唱和した。

「たぶん」

 だれかが、ひと言付け加えたので、

「なんやてーっ!」

 というママのかん高い声がひびいた。


                                      (おわり)




【前期高齢少年団】

次の作品もよろしく。

●前期高齢少年団シリーズ 『ケータイ情話』『ミッション・インポシブルを決行せよ』『車消滅作戦、危機一髪』『秘密指令、目撃者を黙らせろ』『さよならは天使のパンツ大作戦』

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(上段もしくは、小説案内ページに戻り、小説情報を選んで、作品一覧からクリックしていただければ、お読みになれます)




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