チョコレートが固まるまで
トントントン。
包丁が、何度も何度もまな板を叩く。
トントントン。
次々と細かくなってゆくチョコレートが、大きなボウルの中で山を作る。
トントントン。
「げ、まだやってるのかよ」
キッチンへ入ってきた弟のキヨヒコが、呆れた声を出した。
トントントン。
私はわざとらしく肩を竦める弟と、痛みを訴え始めた右手首を無視して、スイートチョコレートを刻み続ける。馬鹿みたいに大きかったチョコレートも、残りはもう五分の一。
キヨヒコは冷蔵庫を開け、コップにオレンジジュースを注ぎながら私の手元をのぞき込んだ。
「誰が食うんだよこんなに」
私は手を止めてキヨヒコを見やった。キヨヒコの薄い唇が歪むのを確認して、作業に戻る。
トントントン。
「キヨヒコの好きな生チョコにしてあげるから」
「……それしか作れないだけだろ」
冷蔵庫にオレンジジュースの紙パックを仕舞って、キヨヒコは椅子に腰を下ろした。ほんの数年前までは素直に喜んで食べていたのに、成長とはかくも悲しいものなのか。
「それになんかやだ。そのチョコレート怨念がこもってそうだし」
高校生になってからというもの、皮肉というものを覚えてしまった弟が私の背中に笑い声を投げつける。
「怨念は最高のスパイスだよ」
「否定しないのかよ」
トントントン。
まな板を叩く音を大きくすると、こわ、とキヨヒコが呟く。
「それ、どうせ溶かすんだろ? 刻む意味あんの?」
「塊のままだと溶けるのに時間かかるでしょ。あんまり長時間熱を加えると、分離したり匂いが飛んだりする原因になるの。さっと溶かしてじっくり固める、これきほん」
「ふうん。姉ちゃんって変なことだけ詳しいよな」
「好物だから詳しいの」
「あっそ」
そっけなく言って、キヨヒコは大きな欠伸を一つする。
そうだよ好物なんだよ。キヨヒコだって知ってるよ。私がチョコレート好きなことくらい。
トントントン。
「しかしよくもまあ、二十一歳にもなってチョコレートなんかで男と別れたよなあ」
「だからチョコレートが原因で別れたんじゃ無いってば」
「じゃあなにが原因なんだよ」
「限界を感じたの」
顧みると、両手でコップを持ったキヨヒコが眉根を寄せていた。
「何に」
「原因がチョコレートにあるって本気で思っているような所」
ようやっと全てのチョコレートを刻み終えた私は、冷蔵庫から生クリームの一リットルパックを取り出した。大きな鍋に注ぎ、火を付ける。
「意味わかんねえ」
付き合ってられない、とばかりにキヨヒコは立ち上がり、オレンジジュースの入ったコップを手にキッチンから出て行った。
鍋の中の白色を、じっと見下ろす。沸騰する寸前で火を止めて、鍋の上でボウルをひっくり返した。生クリームが跳ねて、私のエプロンに染みを作る。
ヘラでぐるぐるとかき混ぜる。チョコレートはすぐに溶け出して、白を茶色に染め上げる。ああほんとに、
「ばっかじゃないの」
二キロもあったチョコレートの固まりは、スバルくんが私にくれた誕生日プレゼントだった。
スバルくんは大学の一つ上の先輩だ。私が二年生の頃から付き合い、三日前に別れた。
得意だからというよりも好きだからという理由で芸大に入った私は、目立った才能を持つスバルくんの作品にすっかり惚れ込み、ファンになった。ファンから仲の良い後輩に、仲の良い後輩から恋人に、するりと昇格した私はあの時、人生の絶頂を迎えているような気がしていた。天才肌の彼は風変わりで、世間一般的な付き合いのような事はほとんど出来なかったけれど、かえってその事実が、自分達が特別なように感じさせて心地よかった。
生クリームに溶けて、チョコレートはどろどろになってゆく。二キロのチョコレートと一リットルの生クリームは、重たくて混ぜるのに酷く力がいる。
私はヘラを握る拳をもう片方の手で押さえた。
全部私からだった。好きになったのも連絡先を聞いたのも告白をしたのも、デートに誘うのも家に遊びに行くのも、メールをするのも電話もするのも、嫉妬するのも会いたがるのも、それから、別れるのも。
三日前は私の二十一歳の誕生日だった。
「プレゼント、何がいい?」
誕生日の数日前にスバルくんが聞いてくれて、私は「何でも嬉しい」を飲み込んで「チョコレートがいい」と答えた。「何でも」を考えるのが面倒なんだと、彼の目が語っていた。アクセサリーなんかを私のために買うお金がないのも、わかっていた。なのに彼は、私の精一杯の気遣いにこう言った。
「どうして?」
私はその瞬間、この人が自分をまるで見ていなかったことにやっと気が付いた。見て見ぬふりをしていたのに、気付かされてしまった。
そして誕生日当日、彼が私に差し出したのが、業務用チョコレート二キロだったのだ。
「ばっかじゃねえの」
私は熱い息を吐いて、勢いよく鍋をかき回した。チョコレートが艶を帯びて、私の間抜けな顔を僅かに反射した。
「距離を置きましょう」
絞り出すように口にして帰った私を、スバルくんは追いかけなかった。私たちが別れた事はすぐに友人達に広まり、業務用チョコレートが原因で別れたカップルだとすぐ噂になった。
そしてそれから三日後の今日の事だ。学内でスバルくんに呼び止められ、私はほんの少しの期待をも砕かれる事となった。
「勿体ないから、貰って欲しい」
渡された袋に入っていたのはやはりどうあがいても業務用チョコレートで、私が何も言えないでいると彼はこう続けた。
「こんな事で別れるのは残念だけど」
それを聞いて私は、本当にもうお終いなんだと思った。
そうして二キロのチョコレートを担いだまま生クリームを購入して帰宅し、キッチンに立つ今に至る。
私はずしりと重たい鍋を傾けた。チョコレートをバットに流し込んでゆく。均等になるよう広げると、大きなバット四つ分にまで及ぶ大量の生チョコを、無理矢理冷蔵庫にねじ込んだ。
きっと彼と過ごした日々に、嘘は無かった。おそらくスバルくんは、ただ単純に、量が多い方が喜ぶとでも思ったのだ。私を想っていなかったのではない。
ただ私たちは、決定的に違ったのだ。想いの重さと、大きさが。
鍋に残ったチョコレートを、指ですくって舐めてみる。どうしようもないくらいに甘くて、少しだけ涙が出た。
一晩もすればチョコレートは冷たくなって、私の涙も涸れるだろう。あとはキヨヒコに食べて貰えば、何も残らない。
だからせめてチョコレートが固まるまで、悲しみに浸っていよう。一晩もすれば、笑い話に出来るだろう。
胸の痛みも瞼の熱さも喉の奥の塩辛さも、チョコレートが固まるまで。