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朱色の夢

作者: 羽田時緒

「独り身だった叔父が死んで、その遺産が転がりこんできてね。少しばかり小銭ができたのさ。それで……」

「それで?」

「湯屋の帰りに近くを通るんだが、いつもチントンシャンとお囃子が聞こえてくるんだ。人々の楽しげな笑い声が響いてきてね」


 敷布の上で俯せになり朱色の襦袢のみを裸の背に掛けた遊女の隣で、青年は横向きに寝、肩肘を立てて頭だけを起こしていた。

 青年の、いかにもお坊ちゃんという体の、いかにも上品そうな雰囲気の中にどうしてこれほどの情熱が隠されていたのか、と遊女は内心驚いていた。

 その奇麗な黒い切れ目は、ついこの間まで少年だった頃の面影すらたたえているというのに──



 ここは街を流れる堀の脇に作られた公許の花街。

 濡れた黒光りのする石畳の脇には小料理屋のような遊郭街が続いている。軒々に吊るされた提灯が敷き詰められた石に映り、淡い橙色が滲む。

 文明開化とともに近代化の進む街の中、この一角だけは時代の流れを止めたかのような趣を醸し出していた。

 ここで春を売る女たちは場末の安い女郎部屋のそれとは格が違う。唄に踊りに芸事に秀で、床を共にするには一度や二度訪れるだけでは叶わない。その上破格の祝儀金が必要だ。

 そんな数ある郭の中でも、この店は内外に名の知れた遊郭だった。


「僕には縁遠い世界だと思っていたけど」


 そう言う青年が朱色の格子窓の隙間から覗き見た、お座敷で舞うひとりの遊女。

 緋色に揺れる袖、金銀に彩られた豪華絢爛な簪、提灯に照らされ闇に浮かび上がる極彩色。

 そのきらびやかな美しさに一目で心奪われたと言う。



 だが青年が郭にやってきた最初の内は、誰も彼も本気で取り合わなかった。青年はあまりに若く、名家の跡取り息子といえど、先代当主である父を早くに亡くし何の後ろ盾もなかったから。

 それでも青年は諦めなかった。

 何度も通い詰め、羽振りよく遊び、いくらでも金を落とした。

 誰の目にも酔狂ではあったが、番台はしぶしぶ青年を客として認めた。

 

 そうして青年は遊女を抱いた。


 まったく初めてではない、女の扱いには多少の覚えがあるらしい青年は愛しい恋人にするように遊女に触れる。

 そういう趣向を喜ぶ客もいたが。でも。

 

 遊女は思う。

 純真無垢なこの青年はきっと薪の火に見せられた蛾なのだ、と。

 ほんの火遊び程度ならいいけれど、いつしかその業火に身を焼かれてしまうのではないか。

 遊女とて幼い頃に遊郭に売られ、その人生は地に落ちたも同然。でも、日の当たる場所で生きているこの青年の一生まで滅茶苦茶にしたくはなかった。

 何よりも青年は真っ直ぐなとても奇麗な目をしていたから。


 青年は事の済んだ床の中でじっと遊女を見つめる。


「君は知っているかい。あの空を、どこまでも広がる草原を」


 そう言って笑う。


 そんな戯れを言う男を遊女は何人も見てきた。

 彼らは夜が明け夢が覚めれば外の世界の女たちの元へと帰っていく。

 きっとこの人も──


「いつか行こう。君と一緒に」


 そう言って差し伸べられた青年の手を握ると、青年にそっと口付けられた。

 啄むように何度も口付けられ、それが熱を帯びはじめた時、遊女は「いけません!」とにべもなく青年を突き飛ばした。

 傷ついたような青年に心動かされないよう言い放つ。


「今日はもうこれで仕舞いです。お帰りになって」


 それは、二度とここへは来ないで欲しいという意味を暗に忍ばせたつもりだった。


 ところが青年は何度でも通ってきた。

 こんなことがいつまでも続くはずがない。

 早く辞めさせなければならないと思うのに、遊女はいつしか青年が来るのを心待ちにしていることに気付いた。

 今日こそ。今日こそ。そしてぐずぐずと躊躇っている間についにその時がやってきた。

 青年の持ち金が底をついたのだ。


 遊女に手を差し伸べ、青年は言う。


「一緒に行こう」

「いいえ。行けません」

「そんな……僕にはもう、君しかいないんだ」


 青年は何もかも失っていた。家も、財産も、周りの人々も。すべてを投げ打っていた。


「私も……貴方とともに外の世界に行けたなら」


 朱を纏う金魚は小さな鉢の中でゆらゆらと袖を振り、人々に愛でられ生かされている。

 自由と引きかえに生きる術を与えられた魚。


「でもね。私は遊女なんです。死ぬまで遊女なんです。どうして外の世界で生きていけましょうか」


 これは夢。一夜の夢。日が昇り、人々が目を醒ませば露と消える儚い夢。

 鉢の中で生かされている金魚は、透明な硝子の向こう側に広がる世界では生きていけない。


「君が行けないというのなら、僕はいつまでも君の傍にいるよ」

「いいえ。駄目です……駄目。お願いですから……」


 青年は遊女の言葉を遮り口付けた。そして、そのまま遊女を敷布の上に押し倒す。

 その夜、2人は何度でも交わった。


 やがて精も根も尽き果てると、遊女が「これを」と言って差し出した紙包を青年は受け取った。それは手の平に収まるほどの小さく折り畳まれた薬紙だった。中には白い粉が入っていた。


「貴女を愛している」


 青年はそう言うと、それを一息に飲み干し遊女に口付ける。

 遊女を抱く身体がびくりと大きく震えると、ごとりと布団の上に落ち、がたがたと痙攣を始めた。


「愛しています。いつまでも、夢を」


 遊女はそう言うと、簪を一本引き抜き、それを自分の胸に突き立てた。



 いつまでも出て来ない客に痺れを切らし、不審に思った下女が番台に知らせて中を改めると、そこには郭きっての花魁と、客の男が折り重なるようにしてすでに事切れていた。

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