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第三部
死没/誕生 (1)
 嵐の中を、一台の車が走っている。制限速度は守られているものの、その走行は焦りに満ちており、度々進路がブレたりしている。些か落ち着きのない運転だ。周りに他の車がいないのがせめてもの幸いと言うべきだが、そうでなくてもここは山道であるため、少しの運転ミスでも命取りになり兼ねない。
 ハンドルを握っているのは三十代半ばの男だ。助手席には同じ年代の女が苦悶の表情を浮かべながら座っている。女の腹は膨らんでおり、彼女が苦しげに呻いているのは妊娠による陣痛のせいだった。
 二人は仲の睦まじい夫婦だが、今の事態は緊迫している。
「頑張れ! もう少しだからな!」
 夫が叫びながら妻の肩を摩る。妻は呻きながらも頷き、気を持っていることを示す。
 雨がフロントガラスを打つ音はけたたましい。今宵の嵐はそれくらい猛々しく、危険だ。嵐はありったけの豪雨と強風をもってあらゆるものを洗い流そうと躍起になっており、車がいくらワイパーを振ったところで窓の水捌けは追い付かないし、車体など横薙ぎの風によって軽々しく揺さぶられる。外出するには無謀としか言いようがない夜であり、こんな夜に妻の陣痛が始まったのも不運としか言いようがない。
 それでも無事に妻を病院へ送り届けるため、夫は睨むように前を見据えながらハンドルを握る。少しでも気を抜けば風雨に車を持っていかれてしまう。隣の妻の様子を気遣いつつ、運転への集中も欠いてはいけない。
「そうだ。ずっと考えていた赤ちゃんの名前がやっと決まったよ」
 夫が声を明るくして言う。妻を励ますという意味と、それによって自分自身を奮い立たせるという意味を含めた会話の持ちかけ。
「……ほ、本当に? 何て名前?」
 妻は息を切らしながら尋ねる。
「『ノア』だ。『(すなわ)ち愛す』と書いて『()()』。いい名前だろう?」
 誇らしげに笑いながら、夫が娘の名を発表する。
 妻は目を細め、陣痛の痛みに耐えながらも微笑んでみせる。
「乃愛……ええ、素敵な名前だわ」
 それから妻は腹を摩り、たった今名前を授けられたばかりの我が子に優しく語りかけた。
「もうすぐ会えるからね、乃愛。お母さんも頑張るから、あなたも頑張って……」
 ハンドルを握る夫の表情も和らぐ。
 そう、もうすぐだ。もうすぐ愛しい娘が誕生するのだ。
 乃愛が産まれてからのことはもう考えてある。子供のうちから色々なところに連れて行ってやり、いろいろなことを学ばせてやり、とにかく色々なことをしてあげる。随分と漠然とした子育てプランだなと以前妻に笑われたことがあるが、それでいい。自分たちにできる全てのことを乃愛に注いでやり、そして愛情と幸福に満ち溢れた人間に育ってもらうのだ。
 夫は目の奥に乃愛を交えた家庭の映像を思い描く。妻がいて、乃愛がいて、三人で笑いながら食卓を囲むその光景に、思いを馳せる。
 それは虚像などではない。もうじき実現する光景なのだ。実現させる未来なのだ。
 夫は妻を励ましながらハンドルを握る。もうすぐ出会える愛娘のために、もうすぐ訪れる幸せな家庭のために、嵐が吹きすさぶ中猛然と車を走らせる。
 ――そんな夫の意気を挫こうとするかの如き強い地鳴りが、唐突に山道に響き渡った。
「な、なんだ、地震か!?」
 しかしそれは地震ではなく、もっと地表に近いところで発生した揺れだった。強大な何かが物凄い勢いで近づいてくるような、重々しい震撼。
 ――土砂崩れだ。
 大雨によって緩んだ地盤が崩壊し、山の上から大量の土砂が一斉に滝のように崩れ落ちてきたのだ。
「まずい……!」
 夫の口から絶望の声が漏れる。
 まず車の後方を大量の土砂が滑り落ちていく様がバックミラー越しに見え、続いてフロントガラスにも同じ映像が映り、最後に車の側面に土砂が崩れかかってきた。
「うわぁぁぁ!」
「きゃあぁぁ!」
 物凄い衝撃に絶叫する夫婦。
 一台の車など、無力に等しい。
 夫婦の乗る車は小船のように呆気なく土石流に飲み込まれ、ガードレールをぶち破って道路から押し出された。
「あなた!」
 妻が腹を抱きかかえながら夫にすがり付く。
「大丈夫だ! 僕の腕にしっかり捕まってて!」
 しかし、どうにもならないと夫は思った。このまま土砂と共に谷底まで落下し、成す術もなく死ぬしかないのだと、悟った。
 それでも夫は祈った。土砂に押されて転落する車の中で、その一瞬の中で、夫は神に祈った。
 どうか、私たち家族をお守りください――。
 ――車の落下が、止まった。
 衝撃も小さい。例えるならトランポリンの上にでも落ちたような感じだ。僅かなバウンドの後、車は不意に空中で停止したのだ。
 夫婦は固く閉じていた瞼をゆっくりと開ける。まずお互いが生きていることを確認した。車はひっくり返っていて上下左右が逆さまになっていたが、夫と妻は座席に座ったままの状態で無事だった。妊婦である妻はシートベルトをしていなかったものの、夫の腕にしっかりとしがみ付いていたため車の外に放り出されることはなかった。
 次いで、四方の窓から周りを見回すことで自分たちが置かれている状況を目の当たりにする。死を免れて一時だけ安堵していた夫婦の顔に、恐怖の色が再来する。
 車は宙に浮いていた。
 いや、正確には、車は山肌に生えていた木の幹に引っかかって宙吊りの状態になっていたのだ。
 土石流の中を耐え忍んだ木はその一本だけで、他の木々は根こそぎ抜け落ちていた。唯一の生き残りの一本にちょうどよく車が乗っかったのは正に奇跡と呼ぶに相応しく、土石流の襲撃を経てなお車の重量を受け止めているというその木の耐久度も奇跡に並ぶものだった。
「あ、あなた!」
 妻が悲鳴を上げる。そう、まだ生還が約束されたわけではない。
「落ち着くんだ! 下手に動かない方がいい。ゆっくり、静かに脱出しよう……!」
 土石流は過ぎ去っていたが、雨と風は依然として猛威を振るっている。容赦なく吹き荒ぶ風雨によって車体はやじろべえのように左右に揺れ動き、木の根がミシミシと嫌な音を立てながら徐々に山肌から剥がれ始めている。それに二度目の土砂崩れが起きないとも限らない故、慎重かつ迅速に車から脱する必要がある。妻の陣痛だって治まったわけではない。
「まずは君から! さぁ、早く!」
 夫が促すと妻は躊躇いつつも頷き、体をよじりながら割れたサイドガラスから外に這い出る。幸運にも助手席は山肌側に面していたため、妻の脱出は思いの外簡単に達成することができた。
「あなたも!」
 四つん這いになりながら木の幹を伝って根元までやってきた妻は、片手を伸ばして車内の夫に呼びかける。声は風の轟音に掻き消されそうになったが、それでもちゃんと夫の耳に届く。
「ああ、すぐ行く!」
 夫は力強く答える。しかしなかなか動くことができない。次第に夫の顔が青ざめ始め、その異変に妻も気づく。
「あなた、どうしたの!? 早く!」
 夫は運転席でもがきながら叫ぶ。
「シートベルトが外れないんだ!」
 不運なことに、夫のシートベルトは土砂に巻き込まれた時の衝撃によって壊れていた。外れなくなったシートベルトは一転して頑丈な拘束具と化し、夫の体を座席に縛り付けて離さない。
「そんな……!」
 妻の口から絶望の声が漏れ、直後にそれは悲痛な呻き声へと変わった。妻は腹を抑えて身を悶えさせる。――破水したのだ。
 割れた窓の向こうにその光景を見た夫は、決心したように告げる。
「君だけ先に行け! 上の道に戻って山を下れば病院はすぐだ!」
 妻は首を振る。
「あ、あなたを置いて行けないわ……!」
「大丈夫だ。こんなところ、あっという間に抜け出してみせるさ。だから、な。僕のことは心配しないで、先に行っててくれ。そして、無事に乃愛を産んでやってくれ」
 こめかみから冷や汗を垂らしながら、夫は微笑んでみせる。その笑顔は無理矢理作ったものであると妻は思った。
 妻は泣き濡れた顔で夫のことを見つめた後、
「……必ず助けを呼ぶから!」
 そう言い残して山肌を這うように登り始めた。
 山肌は垂直ではなくやや斜面になっており、上手く手足を使えば上の道まで登りきることはそう難しくはない。しかし、それはあくまでも健康な人間にのみ適応される理論だ。出産を間近に控えた妊婦にとっては、山登りなど苦行以外の何物でもない。
 妻は山肌からずり落ちそうになりながらも上を目指す。下腹部の痛みと、吹き付ける風雨に何度も負けそうになったが、それでも這い登る。夫のために、乃愛のために、生還を目指す。
 途中、下の方に目を落としてみたが、夫はまだ車内から脱出できていなかった。だが、逆に言えば車もまだ落下してはいないということ。だから後は、夫が自力で生き延びてくれることを信じるしかない。
 妻は歯を食いしばりながら斜面を登り続け、やっとの思いで道路まで這い上がった。しかしその区間は既に大量の土砂で覆われていて、歩くのもままならない。妻は泥の沼地を両手で掻き分けるようにして進み、何とか本来のアスファルトの道路へと抜けた。
 そして妻は、駆け出す。腹を抱えながら、息を切らしながら、痛みに悲鳴を上げながら、嵐の中を走る。途中何回か強風に体を奪われて転倒したが、それでも妻は立ち上がり、走ることをやめない。持てる気力を振り絞って、妻は無我夢中で走り続けた。
 やがて病院が見えてくる。山を降りたところにある、小さな病院。
 妻は止まることなく走り続け――そのまま病院の入り口に駆け込んだ。
「誰か!」
 玄関のところで倒れこみ、妻は助けを呼んだ。その声を聞いてすぐに女性の看護師が駆けつけてくる。
「さ、()()()さん! 一体どうなされました!?」
 ずぶ濡れで泥だらけの妊婦を目にした看護師は驚きの声を上げる。
「乃愛が……乃愛が産まれるの……!」
 うわ言のような言葉。しかし看護師は即座に事の深刻さを察し、救援の手を呼んだ。
「先生! 紗枝木さんが来ました! 破水しています!」
 騒ぎを聞きつけ、白髪混じりの初老の医師が走ってくる。
「どうなっているんだ……? よ、よし! とにかく、早く分娩室へ運ぶんだ!」
 状況を読みきれていない医師は一瞬困惑したが、すぐに本来の職務を思い出し、引き連れてきた数人の看護師に向かって指示を出す。
 妻――紗枝木という姓の妊婦は担架に乗せられ、医師らと共に分娩室へ運ばれていく。その際に紗枝木は息も絶え絶えに訴える。
「ここに来る途中に土砂崩れに遭って……夫が……夫がまだ崖に取り残されているんです……! 早く助けを……助けを呼んでください……!」
 それを聞いた医師は愕然とする。
「何てことだ……。分かった、すぐにレスキュー隊に連絡して旦那さんの救助に向かわせるから、君は今は赤ちゃんを産むことだけに専念するんだ。いいね!?」
 紗枝木は頷き、医師も頷く。
 担架の横についていた看護師が、医師に耳打ちする。
「先生……母体が危険な状態です」
 医師は苦悶の表情を浮かべながら何も答えず――しかし希望を捨てていない足取りで分娩室への扉を開けた。

 ――――……。
 その後、土砂崩れの起きた地点に到着したレスキュー隊が発見したものは、谷底に転落して原型を留めぬほどに大破した乗用車と、その中でシートベルトに縛られたまま死んでいる男性の無残な姿だった。
 また、彼の妻も女児を出産した後に力尽きるように息絶えた。

 この一夜で二つの命が失われ、代わりに一つの命が生まれた。二つの命の犠牲が、一つの命の誕生を繋いだのだ。
 そう――まるで、天秤が死没と誕生の比重を同等のまま保とうとするかのように。
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