左腕でルキトの首を締め上げながら、ハルカは昔のことを思い出していた。忌まわしくて、しかし忘れてはいけない過去の記憶だ。
ハルカには兄が一人いた。優しくて面倒見のよい、やや歳の離れた兄だ。ハルカは兄のことを慕い、兄もハルカのことを可愛がってくれていた。幼い頃のハルカの両親は仕事が多忙で家にいる時間が少なく、故にハルカにとって兄はなくてはならない存在だった。ソウムとユリスに情をかけてしまったのも、かつての自分たち兄妹の絆を彼らに重ねてしまったからだ。
ハルカの兄は、将来を有望とされたヴァイオリニストだった。幼少の頃からヴァイオリンの英才教育を受けており、音大を出てからはすぐに有名な楽団の一員として活躍、果ては独奏者としてコンサートを開くまでに成長した。世界が認めるアーティストとしての地位を、兄は僅か二十代半ばで確立したのだ。
それでも兄は決して高慢にはならなかった。謙虚さと誠実さを片時も忘れず、休日の夜などは家族の前で曲を披露してハルカたちを喜ばせてくれた。だからハルカは兄を尊敬し、兄の奏でるヴァイオリンを心から愛した。
小さいときから兄のヴァイオリンを聴いてきたハルカは、誰よりも兄の音楽を理解していた。温かくて柔らかくて、優しい音色。弓を持つ右手の、花を撫でるが如きしなやかかつ繊細な動きが、兄特有の温もりのある音を完成させていた。ハルカはそんな兄の音楽を聴く度に幸せな気持ちになり、兄も自分の音楽で家族が笑ってくれることに大きな喜びを感じていた。
――それから数年後だ。不幸が始まったのは。
ある日、兄は右腕に違和感があると訴え、病院へ行って医師の診察を受けた。そこで残酷な診断結果を突き付けられることになる。
右腕に悪性の腫瘍が見つかり、放っておけば胴体の方にまで悪影響を及ぼすという病気だった。助かる方法は右腕を切断するしかなく、結果的に兄は手術で右肩から先を失うことになった。
右腕をなくした兄は、ヴァイオリンを弾くことができなくなった。ハルカはそのことを残念に思ったが、悲観はしなかった。たとえこれから先兄のヴァイオリンを聴くことができなくなったとしても、ハルカの心には今まで耳にしてきた兄の音色がしっかりと刻み込まれている。記憶に残ってさえいれば、音楽はいつでも頭の中で再生できるのだ。
しかし、兄は右腕を失ったことを嘆いた。今まで培ってきた才能をこれ以上人のために、何よりも家族のために発揮できないことを悔やんだ。
兄にとってヴァイオリンとは人生そのものだった。そのヴァイオリンを弾くことができなくなったということは、人生そのものを失ってしまったことと同義だ。兄はそんな現実に苦悩し、絶望した。
――兄が『ギフト』を得たのは、それからすぐのことだった。
突如兄の許に舞い降りたギフト、『自在の透腕』。それは持ち主の意のままに動く目に見えない意識体としての右腕だった。欠けた右腕の代わりに、兄は万能の右腕を手に入れたのだ。
兄は義手を着け、そこに自在の透腕を通わせることでヴァイオリンの演奏を再び可能なものにした。しかも異能の右腕はかつての腕よりも正確かつ精密に動き、兄は以前にも増して完璧な演奏を実現させることができるようになった。
義手であるにも関わらず見事に演奏を成し遂げる奇跡のヴァイオリニストとして兄は再び脚光を浴び、瞬く間に元の地位を取り戻すことになる。兄は喜び勇み、世間も兄を認めた――が、ハルカだけは違った。兄の再誕を、ハルカは素直に受け止めることができなかった。
なぜなら、兄のヴァイオリンにはかつての温かみや優しさが篭っていなかったからだ。演奏は完璧なものであっても、それはいわば機械が鳴らしているような無機質な音色であり、人が奏でたという現実味も温もりも全く感じられなかったのだ。
ヴァイオリンを鳴らしているのは兄ではなく、兄の腕。ギフトと呼ばれる異能の右腕が、ただ音を出しているだけだった。そこに技術や経験などはない。兄が頭の中で思い描けばギフトがその通りに曲を奏でる……その単純なプロセスしか、ない。
おそらく兄もそんなことは分かっていたのだろう。しかし、既に兄は吹っ切れていた。人生の主軸ともいえるヴァイオリンを弾くためにギフトを利用するしかないのなら、喜んで利用しよう――そんな考えが、兄の心をいつの間にか真っ黒に蝕んでいた。
ハルカはもう兄のヴァイオリンを聴きたくなかった。記憶の中にあるかつての兄の綺麗な音色を、これ以上上書きされたくなかった。
それでも兄はハルカにヴァイオリンの鑑賞を強要した。その頃には既に兄はギフトの力に酔いしれ、自らの異能を誇示しようと無理矢理ハルカにヴァイオリンを聴かせていた。もはやハルカの大好きだった兄の姿は、そこにはなかった。
ハルカは毎晩のように兄のヴァイオリンの演奏を聴かされた。否、それはもうヴァイオリンの演奏と呼べるものではなかった。ただのギフトの音だ。ギフトが楽器をかき鳴らしているだけだった。
ハルカが逃げようとすれば兄は自在の透腕を伸ばしてハルカの左腕を掴み、強引にその場に留まらせた。兄の見えない右腕は怨念のように力強く、痛いほどの腕力をもってハルカを束縛した。
そのときハルカは思い知った。
ギフトは『贈り物』などではない、ただの『呪い』だ――と。
それから少し経って、兄は首を吊って自殺した。兄はギフトに呪い殺されたのだとハルカは思った。
兄からヴァイオリンの音を刷り込まれたハルカの耳はギフトが発する音を聴き取ることができる聴覚を得た。まるで兄の呪いが乗り移ったようだった。
それ以来、ハルカはギフトを恨むようになった。
ギフトは幸福など齎しはしない。兄がギフトさえ手にしなければ、こんな結末にはならなかったはずだ。ギフトなんて、なくてもよかったのだ。
そしてハルカはナースになった。
ギフトという呪いに縛られたブレシスを絶やすために、ハルカは一人の狩人となることを決意したのだ。
「ギフトなど、この世界には不要だ。碓井瑠己人、貴様もいずれギフトが齎す悲劇を味わうことになる。そうなる前にこの私が楽にしてやろう」
ルキトの意識はまだ消えていない。必死にハルカの手を掴み、抗っている。
「……俺は逃げない……ギフトが悲しみを生むのなら……その悲しみごと……受け入れる」
「黙れ!」
ハルカは左手に力を入れた。ルキトの言葉を絶やし、息の根を絞り、一気に死へと追いやる。これ以上少年を生かしておく必要など、ない。
――やがて、ルキトの体から力が抜け落ちる。四肢をだらりと垂らし、顔は死人のそれに変わり果てる。
ハルカが左手を離すと、ルキトの小さな体は糸の切れた操り人形のように床に崩れ落ちた。後は放っておけば自然と心臓が止まる。ハルカは動かなくなったルキトを見下ろし、窶れた溜め息と共に呟く。
「人は、そんなに強くない」
そう言い捨て、ハルカはルキトに背を向ける。もはやここにいる理由はない。後は残るもう一人のブレシスを始末するだけだ。
ハイヒールの音を立てて、ハルカは歩き出す。
――その時、不意に背筋に寒気が走り、ハルカは咄嗟に後ろを振り返った。しかし、ルキトは依然として倒れ伏している。異変はない。
気のせいかと思った、その矢先――
空気の温度が、急激に下がり始めた。
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