学校にやって来たルキトは昇降口付近でリュウヤと別れた。
リュウヤは階段を上って教室へ向かっていき、ルキトは一階の廊下を進んで校舎の隅っこへと足を運んだ。
辿り着いた先は、物理準備室と書かれた扉の前。
控えめな力でノックすると、すぐに扉の向こうから涼しげな声が返ってきた。
「入りたまえ」
扉を開けて中に入る。
――ルキトはこれまで何回かこの部屋に来たことがあったが、いつ来ても印象は変わらない。
一言で言えば、書斎だ。
両側の壁際にどっしりと腰を据えている古めかしい本棚に、部屋の中心を陣取っているモダンなガラステーブル。その両脇には二組の高級そうな黒革のソファーが置かれており、窓辺には洒落た観葉植物が佇んでいる。そして極めつけに部屋の中央奥には豪奢なライティングデスクが。
とても学校の一室、それも物理準備室という地味な部屋とは思えない空間だ。アップルティーの香りも仄かに漂っているし、ここの空気はこれ以上ないくらい上品で優雅なものに仕上がっている。
部屋の主は、ライティングデスクの椅子に足を組んで座りながら緩やかに紅茶を嗜んでいた。
「おや、おはようルキト君。一足先に朝の挨拶かね?」
そう言って気障な笑みを向けてくる男の名は、時任世生。年齢は三十歳ぐらいで、本校では物理学を担当している教師であり――ルキトのクラスの担任でもある。
「別に……ちょっとセオに見せたいものがあって」
ぼそぼそと言いながらルキトはデスクの前まで進み、セオと対面する。
――この部屋がそうであるように、主の様相もまた異質だ。月と星が煌かない夜空のような真っ黒なスーツをいつも隙間なく着こなしており、ネクタイや革靴までも徹底的に黒一色で統一している。もちろん髪の色と瞳の色も深い漆黒。
リュウヤが勝手につけた『蝙蝠先生』というあだ名は、あながち遠くはないかもしれない。
「私に見せたいもの? それは楽しみだねぇ。一体何かな?」
セオはわざと期待に胸を膨らませるような顔をしてルキトを見上げる。
ルキトはポケットから携帯電話を取り出して開き、数回ボタンを押した後セオに向かって画面を見せた。
「街外れの河原に、こんなものがあったんだ」
「ほう……」
紅茶のカップを置き、セオは顎を擦りながら画面に注目する。
ルキトが見せたのは先ほどケータイのカメラで撮っておいた例のクレーターの画像だった。
それなりに興味を惹かれたのか、セオはルキトの手からケータイを取ってまじまじと見物し始める。
「これは何だね?」
「分からない……昨日の夜に突然に現れたみたいなんだ。隕石の落下かガス爆発が原因でできたクレーターじゃないかって話が飛び交ってたけど、現場の状況から見てどうも違う気がする……」
「ならキミは何だと思う?」
上目遣いでセオが訊いてくる。ルキトは自信のない声で答えた。
「……誰かのイタズラ」
「ルキト君、本当にそう思っているのならキミはわざわざ私のところに来ないだろう」
「違うかね?」と言ってセオは透かした笑みを浮かべる。相変わらず食えない男だと思いながらルキトは本心を告げることにした。
「リュウヤはブレシスの仕業だって言ってる。俺は最初はそんなはずないと思ってたんだけど、なんかだんだん気になってきてさ……。だからあんたの意見を聞きに来たんだ。あんたはこの手のことに詳しいだろ?」
「ふむ……なるほどねぇ」
納得したように頷くセオ。
「ブレシス、か。なかなか大胆な予想だが、だとしたら犯人も相当大胆な性格だな」
「……で、どうなんだ? このクレーターはブレシスが振るった『ギフト』によるものなのか?」
「さてね。携帯電話で撮られた写真だけ見せられても分からんよ」
「それでもイタズラかそうでないかぐらいは分かるだろ?」
「無茶言わないでくれたまえ。この画像から一体何の情報が得られると言うのかね?」
セオは早くも飽きたような様子でケータイを閉じ、ルキトに返してくる。
――セオの言い分はもっともだ。遠目から撮った写真一枚でクレーターの正体が何なのか特定できるわけがない。現地にいたルキトですら分からなかったのだから。
手元に戻ってきたケータイを見つめてルキトは拗ねるように押し黙る。呆気ない幕切れ。
そんな少年の様子を紅茶を啜りながら眺めていたセオは、ふと何か考えが浮かんだように小さな微笑を零し、ルキトに向き直って改めて口を開いた。
「……では逆に質問するが、もしこのクレーターを残した者がブレシスだった場合、キミはどうするつもりかね?」
「どうするって……」
ルキトは答えに窮する。
ルキトが気になっているのはクレーターを残したものがブレシスかそうでないかだけだ。仮にブレシスだった場合その先のことは考えていない。
だが、だとしたらなぜルキトはこんなにもクレーターに意識を引かれているのだろうか。なぜクレーターを残したものがブレシスかどうか気になっているのか。
ルキトは理由のない好奇心に突き動かされるような人間ではない。意味もなく周囲の出来事に関心を向けるような性格でもない。だからルキトがクレーターのことについて興味を抱いているのには何かしらの理由があるはずだ。その理由が分かれば、犯人がブレシスだった場合の自分の反応も自ずと脳裏に浮かんでくるはずだ。
セオは組んだ指に顎を乗せて上目遣いでルキトのことを見ている。呆れもしなければ焦れもせず、ルキトが自分から口を開く時をただ黙って待っている。
ルキトは――しかし分からない。
なぜ意識がクレーターに向いているのか、なぜそのクレーターを残したものがブレシスかどうかこだわっているのか、そしてブレシスだった場合自分はどのような行動を起こすのか、ルキトは分からなかった。
自分の中に答えは絶対にあるはずなのに見つけられない。上手く掘り起こすことができない。一つの形になるはずの欠片がばらばらに散らばって組み立てられない感じ。
「……分からない」
結局ルキトはそう答えるしかなかった。少なくとも今、この場では。
「そうか」
セオは特に不機嫌な顔をするでもなく淡白な息だけを吐き、背もたれに寄りかかった。
「ルキト君。何かを探求する場合人は未来像というものをある程度頭の中に思い描いておくものだよ。しかしキミにはどうやらそれがないようだ。クレーターができた原因を調べ、それがブレシスによるギフトの影響だと突き止めたとしても、その後自分がどうすべきかを全く決めていないようではこの調査はキミにとって最終的に無意味な行いだと結論付けられる。そして私は他人の無意味な行いに一々手を貸すほどお人好しでもなければ暇でもない。お分かりかな?」
詩でも謡うかのような口調ですらすらと語り、セオは紅茶を啜って喉を潤す。
デスクの前で立ち尽くすルキトの口からはもはや言葉は出ない。
――紅茶のカップを置き、セオはわざとらしく溜め息を吐いて横目にルキトを見遣った。
「逆に、キミがキミなりにちゃんとした目的を立てることができれば私も多少は助力してあげなくもない。まぁ、今ここで明確な返答ができないのなら時間を改めても構わんよ、私はいつでも待っている。とにかくもう教室へ行きたまえ。あと十分で朝のホームルームの時間だからね」
壁にかかった時計を見ると確かにもうそんな時間だ。ルキトは最後に何かを言おうとし、結局何も言えぬまま踵を返して扉へ向かう。
「……また来るよ」
退室間際にそう言い残したのは、ルキトなりのささやかな意地だ。
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