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第一部
モノクロ/色彩 (7)
 空が紫色を帯びて夜の到来を予兆させ始めた頃、ルキトは寂れたビル群に差し掛かっていた。本当なら下校と同時にバスに乗って自宅のマンションへ直行するのだが、今日に限っては何だか歩いて帰りたい気分だった。校門を出てひたすらに歩き続けた結果、この通りすっかり陽が落ちてしまったのだ。
 もう姉は大学から帰ってきて夕飯の支度をしている頃合だろう。普段よりも帰宅の遅いルキトを心配して待っているかもしれない。変な気まぐれのせいで姉に心配をかけてしまうのではないかと申し訳ない気持ちになったが、それを差し引いても今は歩いていたい気分だった。
 南風が後ろから吹いてきて前へと抜けていく。風に押されて歩幅が一歩だけ広くなり、伏せていた瞼が自然と持ち上がる。
 ――皮肉というべきか、それとも単なる偶然か、見覚えのある古びたベンチが目に映った。
 昔、姉と一緒に夕飯の買い出しに行った帰りによく小休憩として腰を下ろしたベンチだ。母が食材の到着を待っているにも関わらず二人はベンチに腰掛け、今日のような夕暮れ時の空を眺めながら時を忘れて語り合った。今でもよく、覚えている。
 引き寄せられるようにルキトはベンチに座った。背中に懐かしい感触を感じつつ上を見上げると、昔と変わらぬ形の空が広がっていた。
 ビル群にくり抜かれた四角い空の片隅に、薄いシルエットの月がぼんやりと浮かんでいる。空気はまだ完全な漆黒ではなく、星もまだ見えない。
 姉と並んで座りながら他愛もない話を交わし、全てを語り終えてベンチを立つ頃にはすっかり夜になっている、というのがお決まりのパターンだった。遠い日の記憶、思い出の場所。しかし褪せてはいない。
 古い時間に思いを馳せること数刻が過ぎ――
 最近耳に覚えたばかりの新しい声が聞こえた。
「何してるのよ」
 空から目を戻すと、不機嫌そうな顔つきが特徴の少女がこちらに懐疑の眼差しを向けていた。
「ミトエレン……」
「こんな時間にベンチに一人座って空を呆然と眺めているなんて、あなた浮浪者?」
「別に……」
「まぁいいわ。ちょうどあなたに訊きたいことがあったから」
 そう言ってルキトの前にやって来、エレンは威圧的な態度でルキトを見下す。
「訊きたいって、何を?」
「あなたがどういう経験を経て今ここに至っているのか、訊かせてちょうだい」
 懇願ではなく、命令としての響きを含んだ言葉。ルキトは表情を変えずに聞き返す。
「何で?」
「いいから」
 エレンの言い分は無茶苦茶だったが――不思議とルキトは反抗心を抱かなかった。エレンの質問には理由があるということが彼女の雰囲気から察することができたからだ。
 エレンは何か重大な選択を迫られている。ルキトに今のような問いかけを投げつけてきたのは、つまりその選択をする上で一つの判断材料を得たいがためだ。
 それならばルキトに拒む意思は生まれない。「まぁ別にいいか」という程度の緩い気構えで、ルキトは小さく頷いた。
「じゃあとりあえず座ったら?」
「立ったまま聞くわよ」
「いいけど、たぶん疲れると思うよ」
「……」
 エレンは苦い顔をしてしばし迷い、渋々ながらルキトの隣に腰を下ろした。ルキトの話は立って聞けるほど短いものではないというメッセージが正しくエレンに伝わったということだ。
 ルキトの隣でエレンは居心地悪そうに顔を顰めたが、同様にルキトも奇妙な感覚を覚えた。
 今エレンの座っている場所は、昔姉が座っていた場所だ。姉の特等席に姉以外の人間が座るという違和感を、ルキトは強く感じていた。
 しかし悪い気がするという訳ではなかった。むしろ全く逆で、何だか新鮮な感じがした。
 昔姉が座っていた場所に、今はエレンが座っている。つまり昔とは違う時間が、今ここに流れているということ――。
 そう、ルキトが感じているのは、即ち時間の経過だった。全く新しい人間が思い出の場所に現れたことで、ルキトは昔と今がいかに別次元となっているかを実感していたのだ。
 昔と今は違う。もう同じものではない。ルキトを取り巻く環境も、状況も、刻一刻と変化している。
 ではルキトはどうか。ルキトは変わっているのか。
 それをもう一度自分から見直すためにも、ルキトは今ここでエレンに話すべきなのかもしれない。
 過ぎた時間の分だけ自分も変化しているのかどうか確認するためにも、ルキトは今一度ここで過去を振り返るべきなのかもしれない。
 エレンは口を結び、静かに隣に座っている。
 ルキトはやや目線を上げて、静かに話し始める。
 空はまだ暗くはないが、きっと話が終わる頃には暗くなっているだろう。
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