エレンはまるで悪霊にでも取り憑かれたかのような薄気味悪い顔をしていた。瞳もどこか虚ろげで濁っており、声にも心が篭っていない。日中から様子がおかしかったが、今では異常と呼べる域にまで達していた。
「ど、どうしたのよ御戸さん、こんな時間になるまで学校に残っているなんて」
それでも何とか平静を装って尋ねてみる。
しかしエレンは答えず、ゆっくりと足を前進させたまま一方的に話し始める。
「人間と雑草の違いって何だか分かる? 山津さん」
「え?」
「考えるまでもないわ。それは理性よ。人間には理性があって、植物にはない――それが一番大きな違い」
――空から雨粒が落ち始めた。水滴が草木の葉を打つ音が辺りをざわめかせる。その中にエレンの声が響く。
「だから、邪魔な雑草は何の迷いもなく毟り取れるけど、邪魔な人間はそうはいかない。理性を持っている生き物である以上、簡単には排除できない。でも、逆に考えれば人間は理性を持っているのだから、頭で学ぶことができるし、体で知ることができる。私はそこに着目したの。だったら、邪魔な人間にはそうであると思い知らせればいい、戒めればいい、とね」
「何を言っているの……?」
「大丈夫、もう何も言わないわ。もう口で言うのはやめたの」
メアルの目の前までやって来て、エレンは静かに足を止めた。唇を結び、おもむろに右手を持ち上げてメアルの胸元へ伸ばす。
「御戸さん……?」
直後――エレンの掌から強烈な何かが放出された。
「っ――!?」
何が起きたのか把握する暇などない。得体の知れない衝撃波に打たれたメアルは、成す術もなく遥か後方に吹き飛ばされた。
「あぐッ……!」
地面に派手に転げ落ち、メアルは腹を折って身悶える。胸に打ち込まれた謎の力が重たい鈍痛となって体を軋ませる。
その様を眺めながら、エレンが心から清々しい顔で深呼吸をした。
「はぁ……気持ちいい……」
愉悦に満ちた声で言い、再びエレンは前進を始める。更なる快楽を求めて彷徨い歩く亡者のように、ゆっくりとメアルへ接近する。
「御戸さん、あなた一体……!?」
胸を庇いながらメアルは起き上がる。雨の向こうにいるエレンに向かって必死に呼び掛ける。
「どうしちゃったのよ! 何があったの!?」
エレンからの返事はない。気味の悪い薄笑みを滲ませてただ近付いてくるだけ。
メアルは息を呑む。
――危険だと、思った。
エレンの行動の意味が何なのか、さっきの奇妙な力の正体が何なのか、メアルには分からない。しかし、今のエレンが途轍もなく危険な存在であることだけは分かった。メアルにとってこの上ない脅威であると、第六感がしきりに訴えかけてくる。
「こ、来ないで!」
メアルは叫んだ。悲鳴に近い叫び。
エレンの足は、その叫びを無視して前進を続けている。
「来ないでって言ってるでしょ!」
メアルは足元に落ちていた自前の傘を咄嗟に拾い上げ、エレンに向かって思い切り投げつけた。今できる最低限の防衛手段はこれしかなかった。
幸いにも傘は的確にエレンの許に飛んでいった――が、エレンの顔色は変わらない。
歩調を維持したまま、エレンは再び体から衝撃波を放出する。空気が震撼し、降りしきる雨粒が飛散し、メアルの傘は呆気なく明後日の方向へ弾き飛ばされた。
「どうなっているの……?」
メアルは愕然とする。それと同時に恐怖を覚えた。得体の知れない力を振るうエレンに、正真正銘の恐ろしさを感じた。
怖い。エレンが、怖い――。
ふと、エレンが歩みを止めた。気まぐれに任せるような仕草で足元から小石を一個拾い上げ、手の上で転がしながら仄暗い微笑を浮かべた。
「私はあなたのその目が大嫌いなのよ。だから、これで潰してあげる」
小石を握った手をメアルの顔に向けて真っ直ぐ伸ばし、エレンは穏やかに言う。
メアルは何もできない。何も言えない。ただ戦慄し、立ち竦む。
小さく口の端を上げ、エレンは手を開くとの併せて掌から衝撃波を放つ。爆発的な力に押されて撃ち出された小石は弾丸さながらのスピードを纏って空を直進し、メアルの顔面へ飛ぶ。メアルに反応する時間など、ない。
もうだめだ。
瞬きすることもできずに最悪の結末を予感するメアル。エレンからは決して逃げられないと、否が応にも脳裏で悟る。
と、その時――
小石の軌道を遮るように、一つの黒い影が颯爽とメアルの目の前に舞い込んできた。
バッ!
聴こえたのは傘の開く音。次いで、その傘に弾かれて空の彼方へ飛んでいく小石の弾丸が視界の端に映る。
ぼやけていた焦点を眼前に合わせてみると――夜空よりも黒いスーツに身を包んだ男が、同じ色をした傘を盾のように構えてメアルの前に立っていた。
驚きに震える声でメアルは呟く。
「時任先生……?」
いつも黒いスーツを着ている教師は、メアルの知る限り一人しかいない。
蝙蝠のような黒い影がメアルの前に素早く割り込んで来て、勢いよく開いた傘がエレンの礫を跳ね返した――。
信じがたい光景だ。エレンの想定には全くない出来事。
その荒業をいとも簡単に成し遂げた人物がゆっくりと傘を持ち上げる。息一つ切らしていない涼しげな顔が、現れる。
「時任先生……!」
エレンの顔が一転して憎悪に歪む。
時任世生――物理の教師であり、天秤の理念を知る人間の一人。
「やれやれ……スマートではないねぇ、エレン君」
黒い傘を肩にかけて雨粒を凌ぎながら、時任はわざとらしく頭を振るう。メアルは時任の背に隠れて怯えている。
「自分とは対極に位置する人物、か。なるほど、確かにメアル君はそれに最も近い存在であると言えるな。悔しいがマジシャンの予報をあてにして正解だった」
わけの分からない時任の独り言は聞き捨て、エレンは敵意を剥き出しにして獣のように唸る。
「……私の邪魔をしようって言うんですか? だったら容赦しません」
「誤解しないでくれたまえ。結果的に邪魔する形になってしまったが、正確に言えば私は頼まれてやっただけだ。キミを止める者が現れるとしたら、それは私ではない」
「じゃあ誰が――」
言い終わる前にエレンは気づく。時任の視線がエレンの背後に移ったことに。そして、どこからともなく冷たい空気が流れてきたことに。
背筋に言い知れぬ寒気を感じながら、エレンは後ろを振り返る。
降りしきる雨と濃厚な夜闇の向こうに、一人の小柄な少年が氷柱のように立っている――。
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