「この世界には『自然の法則』というものがある。文字通り、自然界の中に定められた絶対的かつ普遍的なルールのことだ。例えば、ビルの屋上から物体を手放せば砲丸だろうがピンポン球だろうが必ず地面へ向かって落下するという『万有引力の法則』。また、硬い壁を押すと壁の方からも同じ大きさの抗力が逆向きに働いて人間を押し返すという『作用・反作用の法則』――などが代表例として挙げられるな」
スムーズな口調で語り始めながら、時任は用意したティーポットから小洒落たカップへと丁寧に紅茶を注ぐ。香りから察するにアップルティーだろうが、簡素なガラスコップに水という味気ない組み合わせよりは確実にこの部屋の雰囲気にマッチしたレシピだと言える。
「自然の法則は様々な方面から逐一我々の日常生活に影響している。そこには理由もなければ疑問もない。ただそうであるからという事実のみで存在している。重力が働いていることに人は一々疑問など抱かないだろう?」
「そんなこと、わざわざ言われなくても分かっています」
勿体振った前置きにエレンが文句をつけると、時任は澄まし顔で「よろしい」と頷いて話を前進させた。
「さて、自然の法則は他にも『エネルギー保存の法則』や『慣性の法則』など多種多様のものがあるが、天秤の理念を語るにはその中から『均衡の法則』というものをピックアップする必要がある。これは万物が釣り合いを取ろうとする法則――つまりバランスを保とうとする法則だ」
紅茶を啜って一旦喉を潤し、時任は続ける。
「均衡の法則は複数の法則を包含した概念だ。熱い鉄板と冷たい鉄板を重ねておくと熱が移動してやがて両者の温度が均等になるという『熱量保存の法則』や、肉食動物が草食動物を食べると草食動物の減少と同時に肉食動物も餓死しいき、いずれは全体の比率が一定に戻るという『食物連鎖のメカニズム』、更には我々人間が営む社会経済の根底に敷かれた『需要と供給のバランス』も均衡の法則に含まれる概念の一つだ」
物理学の基礎から始まった話が、いつの間にやら経済学の分野にまで広がっている。エレンは軽い混乱を覚え、それでも何とか頭の処理を追いつかせた。
「つまり、物理現象だけでなく動物の世界や社会の流れにまで均衡の法則は及んでいるということですか?」
「その通りだ。自然の法則が世の中に存在する全てのものに適応されるのと同じく、均衡の法則もまたあらゆる方面に逐一働いている。そしてそれは、我々人間一人一人に対しても言えることだ」
「人間にも……?」
胸の内で小首を傾げるエレン。
時任は紅茶のカップを置くと、ライティングデスクの引き出しを開けて中に入っていた物を取り出した。
丁寧な手つきで机の上に置かれたそれは――天秤だった。
重厚な金属で作られた目盛り付きの古めかしい天秤。左右の腕にはそれぞれ白と黒の皿が設置されており、インテリアとして飾っておいても十分絵になりそうなデザインをしている。もちろん実際に秤として使用しても問題ないくらい造りは精密だ。
続けて引き出しから取り出した木製の小箱を天秤の横に置き、時任は再び椅子にもたれかかる。
「さて、エレン君。突然だが、キミは『一生のうちに巡ってくる幸福の数と不幸の数は同じ』というような言葉を聞いたことがあるかね?」
理学的な分野から今度は倫理的な方向へと話が飛ぶ。エレンは目まぐるしく変わる話題の展開に戸惑いながらも、極力冷静さを装って時任の問い掛けに答えた。
「一度ぐらいは聞いたことがあります。あと、『悪いことの後には良いことが待っている』っていうのも。どちらも綺麗事だから好きじゃありませんけど」
煙たそうに吐き捨てるエレンの前で時任は皮肉めいた微笑を浮かべる。
「残念ながら、その綺麗事こそが我々人間に働いている均衡の法則の正体なのだよ」
「え……?」
「『一生のうちに巡ってくる幸福の数と不幸の数は同じ』という言葉と、そして今キミが口にした『悪いことの後には良いことが待っている』という言葉――。天秤の理念を語るには、これら損得勘定を例に出すのが最も分かりやすい」
そう言うと、時任は組んでいた足を解いて机上の天秤に体を向けた。
「この天秤を見てくれたまえ。これは人の中にある均衡の関係を擬似的に表現するためのものだ。左右の皿はそれぞれ白と黒に塗られているが、仮にここでは白い皿を『幸福の皿』とし、黒い皿を『不幸の皿』と呼ぶことにしよう。いいかね?」
エレンが首肯したことを確認してから時任は傍らに置いておいた木製の木箱の蓋を開けた。中には大小様々な錘が綺麗に並んでおり、時任はピンセットでその中の一つを摘み上げるとゆっくりと白い皿――幸福の皿へと載せた。
当然、幸福の皿が沈んで不幸の皿が浮き上がる。
「今、幸福の皿に一グラムの錘が載った。つまり一グラム分の幸福を得たという意味だ。しかし天秤は傾いたままではいられない。この世には均衡の法則が働いているのだから、天秤は遅かれ早かれ腕を水平に戻さなければいけない。さて、どうすれば天秤の両皿は均衡になるかね?」
「……不幸の皿にも一グラムの錘を載せればいいだけです」
「そうだな。一度得た幸福はなかったことには出来ない――つまり皿の上から幸福の錘を取り除くことはできないのだから、残された方法は同じ錘を用いて釣り合いを取り戻させるしかないね」
時任は木箱から先程と同じ重さの錘をピンセットで摘み上げ、黒い皿――不幸の皿へ載せた。キリキリと音を立てながら左右の腕がそれぞれ連動して浮き沈む。
程なくして元の均衡を取り戻した天秤の向こうで、時任が薄く笑う。
「これが人間に働いている均衡の法則の実例だ。幸福を得ればいずれ同じ大きさの不幸が降り懸かり、両者の重さは同等になる。実に単純明快な法則だね」
エレンは返す言葉を探しあぐねたが、時任はそれを待たずに再び口を開く。
「経験した不幸と同等の幸福を得て天秤はめでたく均衡を取り戻したわけだが、この先ずっと平穏というわけではない。世の中には『変化の法則』というものもある。万物は未来永劫その状態を保ち続けることはできず、環境の変動や時間の経過によって時々刻々と形を変えていかざるを得ないという法則だ。世の中に永遠の安定などはないのだから、天秤はこの先も絶え間なく何度も揺れることになるわけだ」
一旦言葉を区切り、時任はピッと指を立てる。
「さて、ここで重要なのは、釣り合いを取り戻す流れは一定ではないということだ。むしろ非常に不規則。この場合で言うと、幸福と不幸は必ずしも一回ずつ交互に同じ大きさで舞い降りるわけではないということだな。分かりやすく例えると――」
時任は天秤の両皿に載っていた二個の錘を取り去り、今度は先に不幸の皿に大きめの錘を載せた。あっという間にバランスが崩れる。
「不幸の皿に5グラムの錘が載った。これを相殺するには同じく5グラムの錘を幸福の皿に載せればいいのだが、それ以外にも方法があるはずだ」
時任は問い掛けとしての視線を投げ掛けてくる。エレンは悩まずに答えた。
「幸福の皿に1グラムの錘を5個載せれば同じ重さになります」
「その通りだ。小さな幸福を立て続けに獲得して一塊の大きな不幸を打ち消すということだね」
時任は手際よく幸福の皿に5個の錘を載せ、双方の腕が水平になることを証明した。
「もちろん、3グラムと2グラムの錘を載せたっていい。要は最終的に釣り合いを取り戻せればいいのだから、加重の順番や錘の大小に決まったパターンはないというわけだ。いつ、どこで、どのような大きさの幸福・不幸が舞い降りるかは、完全にランダムだということ」
ここまで話し終えた時任はゆるりと椅子にもたれ掛かり、紅茶を啜ることでさりげなくインターバルを作る。エレンの思考を追いつかせるための間だ。
エレンはこれまで聞かされてきた話を頭の中で整理し、理解し、自分なりに納得してから――忘れかけていた挑戦的な姿勢を取り戻して口を開いた。
「均衡の法則については分かりました。けど、異能が云々というのは関係してないんじゃないですか?」
その言葉を待っていたかのように時任は口角を上げ、背もたれから体を起こす。
「そう、ここからが本題だ」
今までよりも影のかかった声音でそう言うと、時任はピンセットを器用に使って天秤から全ての錘を取り去った。
空になる天秤の両皿。――と思った矢先、時任は再び錘を載せ始めた。しかも今度は不幸の皿にのみ一方的に載せていくではないか。
やがて木箱に入っていた全ての錘が一つ残らず不幸の皿の上に載せられた。錘の山を抱えて不幸の側に大きく傾いた天秤は、どうしようもなく救いようのない光景に見える。
「加重の順番や錘の大小に決まった規則がないのだから、稀に不測の事態だって訪れることがある。これまで天秤は不幸の錘と幸福の錘の重量を調節することで両腕の均衡を上手く保ってきたわけが、もし万が一このような状況に陥った場合はどう対処すればいいだろうか?」
試すような眼差しで時任はエレンを見上げる。
「どうするって……」
「見ての通り、箱の中の錘は全て不幸の皿に載ってしまった。つまり未だかつてない多大な不幸が天秤に圧し掛かったことになる。しかし均衡の法則がある限り天秤は両腕を水平に戻さなければならない。さて、極限まで沈みきった不幸の皿を、どうやって浮き上がらせるかね?」
エレンは狼狽する。
不幸の皿を押し上げるだけの錘が、もう手元に残っていない。多大な不幸を打ち消すだけの幸福が存在していない。
「……無理です。幸福の皿に載せる錘がないのですから、どうやっても両皿を釣り合わせることはできません」
「そう、普通に考えたらそうなる。故にここでは普通ではない考え方をしなければならない。では正解をお見せしよう」
時任は人差し指と中指を立て、その二本の指で幸福の皿を上からグググ、と力ずくで押し下げた。
「あっ……」
思わず声を上げてしまったエレンを余所に時任は外力を加え続ける。そしていとも簡単に両皿の位置は同じ高さになった。
――エレンは不満を感じた。時任のしたことは、今まで立証されてきた錘による重量の足し引きを完全にぶち壊しにした、いわば反則的な行為だ。
「こんなの、無理矢理じゃないですか」
堪らずエレンが文句を言うと、時任は分かりきっているように頷いた。
「もっともな意見だ、エレン君。キミの言う通り確かにこれは常識破りの手段だ。しかし皮肉なことに、これがただ一つの正解の形なのだよ」
時任は天秤の皿を指で押さえつけた状態を維持させて続ける。
「不幸の重さに見合うだけの幸福がない場合天秤はどうやって釣り合いを取り戻すか。答えは簡単だ。今私がやっているように、これまで使用してきた錘とは別の特殊な錘を無理矢理作って載せればいい。常識を逸脱した、普通では考えられない特別な錘をね」
「特別な、錘……」
エレンは――感づく。時任の言わんとしていることを、目の前の天秤が物語っていることを、心の中で直感する。
「常人が持ち得ることのできない異形の能力や、普通に生きていたら知ることのできない異質な知識などだ。そして、こちら側の業界では天秤から齎されたその特別な錘のことを総称してこう呼ぶ」
口の端を上げて薄笑いを浮かべ、時任は言う。
「『贈物』、と――」
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