蒸し暑さに耐え兼ねてエレンはベッドから起きた。
――とても寝られたものじゃない。気休め程度に回している扇風機も完全に焼石に水だ。
じっとりと滲む脂汗と渇いた喉に苦い顔をしながら部屋の電気を点ける。時計に目を配ってみると、床に就いてからまだ一時間程度しか経っていなかった。寝苦しい夜は時間が経つのも遅い。
エレンは苛立たしげに舌打ちをし、気怠い足取りで部屋を出た。とりあえず渇いた喉を潤さなければ安眠の入口にすら立てそうになかったので、リビングに下りて水を飲むことにする。
階段を下りて廊下を進むと、リビングの明かりは点いていた。扉から漏れる控えめな光を見てエレンは不満げに眉間を寄せる。……あの人はまだ起きているようだ。
感情のままに乱暴な手つきで扉を開け、エレンはリビングに入った。
「っ!?」
ソファーに座っていた人がエレンの入室に過剰に驚いてこちらを振り返る。
「エ、エレン、まだ起きていたのね」
窶れた顔付きのその女性――エレンの母親は、驚きと怯えを隠すように慌てて笑顔を作った。どうにも気に障る反応だったため、エレンはただでさえ鋭い目つきを一層尖らせて母を睨んだ。
「何よ、文句でもあるの?」
「い、いえ、ないわ。今夜は暑いものね、すぐに寝付けなくても仕方ないわ」
無理に笑ってエレンの機嫌を取ろうとする母の左手首には、たった今修繕されたばかりの白い包帯が巻かれていた。エレンは気に入らない目つきで包帯を睨み、その視線に気付いた母は咄嗟に手首を腰の後ろに隠す。
「ふん……」
エレンもすぐに目を逸らしてキッチンへと足を向けた。
「……ねぇエレン、今夜はどこにも行かないわよね? 昨日みたいに、その……」
無力な眼差しで母が恐る恐る尋ねてくる。エレンはすぐには答えず、蛇口を捻ってコップに水を注ぎながら頭の中で考える。
――今夜も『力』を振るいに外へ出掛けるべきかどうか。
母に訊かれたからではない。ベッドから起きた瞬間からエレンは本能的にそれを考えていた。
今夜は暑くて寝苦しい。寝付けない夜は苛々が募り、憂さ晴らしに外へ出掛けたくなる衝動に駆られる。そしてエレンの憂さ晴らしは物理的破壊力を伴うため爽快感も大きい――。
「……」
注いだ水を喉に流し込む。夏場特有の生温くて不味い水道水を一息に飲み干し――エレンはおもむろに口を開いた。
「……別にどこにも行かないわよ」
緊張に体を強張らせていた母が安堵の表情を零す。
「そう、ならよかったわ……」
「煩いわね。あなたが気にすることじゃないでしょ」
空になったコップを音を立てて置くと、母は小動物のように体をびくつかせた。
「そ、そうね、ごめんなさい」
――銀マントの青年から言われた言葉も多少は耳に残っていたが、エレン自身、力の乱用は無意味な結果しか生まないということを身に染みて分かっていた。
確かに『拒絶の力』の行使は大きな爽快感を生む。しかしそれはほんの一瞬だけだ。すぐに虚しさが訪れ、不快感が増大して舞い戻って来る。どうしようもない悪循環。
力を振るうならもっと別の対象に向けて使わなければならない。無闇に振るっても無駄だ。目標を定めなければ意味のある成果など永遠に巡っては来ない。
「……寝るわ」
水分補給とその他の思考を終え、エレンはリビングを後にする。母の不安げな視線は最後まで背中を追ってくる。
「ええ、お母さんももう寝るわ。お休みなさい……」
去り際にかけられた声には、応えない。
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