夏という季節は気候が不安定でいつ雨が降るか分からないが、その分晴れの日はこの上なく爽快な晴天が広がる。
今日も空は快晴で、ノアは自然と心を弾ませながら元気よく雑巾を絞った。窓ガラスを一拭きすると外から差し込む陽光が一際眩しく煌めき、ノアの顔を明るく照らした。
昨日の夕食の時にクロエと約束した通り、ノアは今日からクロエの手伝いをすることにした。教会内の清掃が主な役割で、今もこうして廊下の窓拭きを任されている。じっとしているのが嫌いなノアに掃除担当は打って付けと言えた。
廊下に連なるガラス窓を全て綺麗に拭き上げたのと重なって、礼拝堂内の清掃に行っていたクロエが戻って来た。あんなに広い礼拝堂の掃除を一人で且つ短時間で済ませてくるとは、やっぱりクロエの手際のよさは凄いと思った。
「窓拭き終わったよっ。どう?」
ノアが曇り一つなくなるまで磨き上げられた窓を披露すると、クロエはそれらを審査するようにじっと見つめてから頷いた。
「上出来でございます、ミス・ノア」
「やった!」
跳びはねて喜ぶノア。クロエはいつも通り彫刻のような無表情を維持したまま言う。
「ではミス・ノアは休憩なさっていてください。私は街に行って参ります」
「買い物しに行くの?」
「はい」
「あ、じゃああたしも一緒に行く! 久しぶりに外を出歩きたいから。だめ?」
上目遣いで乞うノアを見下ろしながらクロエは口を結んで黙考し、これまでよりもやや長い時間をかけて考えを終了させた。
「……構いません。ではご一緒致しましょう」
「やった!」
ノアは再びぴょんと跳んで喜びを表現した。街を出歩くのは実に二年ぶりだ。
平日であっても昼下がりの都心部は人で溢れている。外回りに出張っているビジネスマンや昼休み中のOL、授業の終わった学生やそれ以外の若者達、もちろん親子連れや老夫婦までもがそこかしこに行き交っている。
そんな中でシスター服を着た女性とゴシックファッションに身を包んだ少女という組み合わせは何とも浮いて見えるが、皆せわしなく歩いているため奇抜な二人組にいちいち注目する者はいない。今となってはノアも自分の服装に慣れてしまっており、結果として二人は人込みに自然と溶け込んでいた。
「ショッピングなんて久しぶり~!」
二年という長い月日の間ずっと狭い病室に閉じ込められていたせいもあってか、街を歩くノアの足取りは自由を得た鳥のように軽い。心も無条件で高揚し、鼻歌すらも歌い出しそうである。
それとは真逆の平坦な声が後ろから聞こえた。
「食材と生活用品を購入するだけでございます。ショッピングなどといった大それたものではございません」
黒い籠を片腕に提げたクロエは相変わらず冷静な面持ち。ノアは振り返って笑う。
「それでも楽しいよ!」
「……」
はしゃぐノアの姿を、クロエは複雑そうな眼差しで見つめるだけだ。
それからクロエは大きなデパートに赴いて食材と生活用品を調達した。その間ノアはクロエの後をついて歩いていただけだったが、買い物の最中に他の売り場も見物することができたので始終テンションは上がりっぱなしだった。
買い物を済ませると二人は教会方面へと大通りを戻り始めた。日も傾き始め、空は既に紫色を帯びている時間帯だ。
人の交通が激しい都心部の出入り口付近に差し掛かったとき、ノアは何かを見つけて不意に足を止めた。
「あ、ここって……」
ノアが見つけたのはビルとビルに挟まれた狭い路地だった。何の変哲もない路地ではあるがノアにとっては思い入れのある場所だった。
ノアは引き寄せられるようにその路地へと入り込む。少し進んだだけで街からの明かりが途絶え、喧騒が遠のく。人の世界から逸れた無人の区画は誰の目も届かない孤立の空間と化し、上を見上げても四角い空がぽっかりと口を空けているだけで夕日の光すら満足に降り注いでこない。
そんな物寂しい道を真ん中あたりまで進んでノアは足を止めた。くるりと振り返り、黙って後ろをついて来たシスターに言う。
「ねっ、ここ、覚えてる?」
クロエは視線を泳がせることなく答える。
「私がミス・ノアにお声をかけた場所でございます」
「そうそう! 出会いの場所ってやつ」
一昨日の雨夜、ホスピタルから脱走したノアはこの路地で力尽き、クロエに見つけられるまで何もできずに地面に蹲っていた。
「あの時、あたしの声に気づいてくれたのはクロエだけだった。嬉しかったなー」
ノアは遠い日の記憶に想いを馳せるように目を細め、しかし追憶するほど時間は経っていないことに気付いて自分で自分に笑った。なんだか可笑しくなって「あはは」と声を上げて笑った。
「ミス・ノアは――」
――クロエが薄く唇を開く。無邪気な笑顔を振りまいている少女を冷淡な瞳でじっと見つめ、クロエがこの上なく無感情な顔で言う。
「ミス・ノアは、どうしてそうも笑っていられるのですか?」
今までずっと疑問に思っていたことを意を決して尋ねたような一言。ノアは笑顔を微笑に変えてクロエを見返す。クロエの質問の意味が分かっている上で、クロエの言葉の続きを聞く。
「掃除の時も、買い物の時も、今も……ミス・ノアはずっと笑顔でおいでです。昨夜あのようなことがあったにも関わらず、普段と何らお変わりのない態度で私に接してくださっております。……なぜですか?」
クロエの無表情に、微量の変化が浮かぶ。悲しむような、痛むような、やりきれない想いを抱いて心地が悪そうな顔。
ノアは――それでも澄んだ微笑を崩さない。
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