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第三部
自己犠牲/非変形 (3)
 カーテンの隙間から差し込んできた眩しい陽光に瞼をノックされ、ノアは目を覚ました。
 木でできた焦げ茶色の天井と壁が目に映る。――ホスピタルの病室ではない部屋だ。
 ここが昨夜寝たときと変わらぬ教会の一室であることを確認し、ノアは安堵しながらベッドから体を起こす。部屋にかけられていた古めかしい時計に目をやると、時刻はもう昼過ぎだった。
 傍らの机にはパンとスープとサラダが乗ったトレーが置かれていた。恐らくはクロエが用意してくれた食事だろう。昨夜はあれからクロエに十分な夕食をご馳走してもらったのだが、この通り丸々半日分は寝てしまったので胃の中は既に(から)になっていた。ノアは机の前に座り、クロエの好意に感謝しつつ、手を合わせて「いただきます」と言って少し遅めの朝食にありついた。
 体を動かす際に負担はなかったため、心身の疲労は回復したようだ。もう歩く度に一々転んだりはしない。色々な意味で立ち直りだけは早いのが、ノアの取り柄でもある。
 空腹に押されて手早く朝食を済ませたノアは、とりあえず服を着替えようと思った。今着ているパジャマは昨夜クロエが持ってきてくれたものだが、いつまでもここで寝込んでいても仕方ないので外を出歩けるような格好になりたいと思った。
 部屋にあるクローゼットを、試しに開けてみる。
「これって……」
 こちらも恐らくはクロエが用意してくれたのであろう衣服が、ハンガーにかかっていた。


 クロエは教会を取り巻く庭のベンチに座って一人静かに本を読んでいた。ノアはその姿を見つけると小走りで彼女の許に駆け寄った。
「クロエ」
 本から顔を上げ、紺色の修道服を着たシスターはノアの立ち姿を見る。そのまま五秒ほど静止した後、クロエは表情を変えることなく口だけを開閉させた。
「お似合いでございます、ミス・ノア」
 その言葉を受けたノアは指で頬を掻きながら苦笑する。
「そう言ってもらえると嬉しいんだけどさ……こういう服しかなかったの?」
 ノアが着ているのは、黒地の布に白のレースをあしらったゴシック調の衣装だった。やたらひらひらしたスカートと靴底の厚いブーツ、髪の毛よりも長いリボン、そして膝上まで伸びる黒のニーソックスがどうにも着慣れない感触を齎し、ノアは恥ずかしそうにたじろぐ。この教会の雰囲気には合っているデザインかもしれないが、普段着として着るには些か躊躇いが生じるファッションだ。
(わたくし)の着ているような修道服もございましたが、年齢的にミス・ノアにはお似合いになられないかと思われましたので、教会の衣装部屋に収納されておりましたそちらのお召し物をご用意させて頂いた次第でございます。……お気に召しませんでしたでしょうか?」
 クロエの平坦でありつつも忠実な説明を聞き、ノアはもう一度改めて自分の格好に目を落としてみる。……まぁ、これもこれで悪くないかもしれない。
「ううん、結構イケてるかも」
 そう言ってノアは笑い、クロエの横を指差す。
「となり、座っていい?」
 クロエはノアの顔を見上げたまま沈黙する。無表情ではあるが、眼差しにはどこか不慣れな感覚を抱いたような戸惑いの色が微量に含まれている。
「……どうぞ」
 しばしの閉口を経て、クロエは最低限の動きで体を横にずらした。彼女の横に空いたスペースに、ノアはちょこんと腰を下ろした。
「んーっ! やっぱりお日さまの光って気持ちいいー!」
 両腕を広げて天を仰ぎ、ノアは体を伸ばす。長い間閉じていた羽根を思い切り広げ、自然の空気を胸一杯に吸い込む。久しぶりの日光浴だ。
 昨夜の雨が嘘だったかのように今日は晴天だ。青い空に白い雲に眩しい太陽。ノアが見たかったのはこれだ。雨ではなく晴れ渡った空だ。
 太陽の温もりを肌で感じ、周囲を囲む森林から聞こえてくる鳥の(さえず)りを耳に拾い、ノアは生きている心地を実感する。人が人として生きるべき世界に戻って来たことに、歓喜する。
「まるで長い間暗い部屋の中に閉じ込められていたような言い方でございますね」
 ノアの過剰とも言える反応に疑問を抱いたのか、隣に座るクロエが不思議そうに顔を向けてくる。
 ノアは空を見上げながら答えた。
「……うん、まぁね。今までずっと病院みたいなとこに閉じ込められていたんだ」
「ミス・ノアはご病気なのですか?」
「全然健康だよ。その病院は普通の病院じゃなくて……うーん、何て言うか……何も悪いことしてない人を捕まえて監禁するようなとこなの。中には悪いことをした人もいるかもしれないけど、少なくともあたしは何もしてない。だからあたしは嫌になって逃げ出したんだ」
 そこまで聞いて、クロエは口を(つぐ)む。何か考え事をしているように見えたが、微塵も変化することのないその表情から彼女の思考を読み取ることは難しい。
 僅かな思案を巡らせてから、クロエは薄く唇を開いた。
「……その病院とは、『ホスピタル』と称される施設のことでございますか?」
 意外にも的を射たクロエの発言に、ノアは思わず驚く。
「えっ、知ってるの?」
 クロエは首肯と分かる程度の小さな角度で頷く。
「存じ上げております。異能の力を宿す者達を捕まえ、管理する機関……。では、ミス・ノアは?」
 ノアは言うべきか言わざるべきか迷う。だが、少なくともクロエはホスピタルの関係者には見えなかったので、隠すことなく正直に打ち明けることにした。
「そう、あたしも特別な力を持っている『授贈者(ブレシス)』なんだ」
 クロエは――沈黙する。無機質な瞳でノアを見つめ、彫刻のように動かない顔で黙考する。
 硬質な時間の後、クロエが口を開く。
「――昨夜、私がここは普通の教会とは少し違うと申し上げたのを覚えていらっしゃいますか?」
「うん、覚えてるよ」
 ノアは教会の一番高い屋根に掲げられたT字型のシンボルを見上げる。
「でも、あたしにとっては普通の教会だって言ってたよね」
「それは、あの時点ではミス・ノアが普通の人間であると思っていたからでございます。ですが、ミス・ノアがブレシスであると判明した今、こちらの教会が持つもう一つの意味をお教えすることができるようになりました」
 意味深なクロエの言葉。ノアは眉を潜め、小首を傾げる。
「それって、何なの?」
 質問すれば的確な解答をくれる機械のように、クロエは言う。
「こちらの教会で組織されている団体の正式名称は『異端者協会』――通称『オルデル』と申します」
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