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第三部
収容/脱走 (7)
 診察室だけでなく、建物の全てが白かった。廊下も、床も、天井も。どうしてそこまでするのか理解できないほど白で統一された空間――乃愛がホスピタルに連れて来られてまず最初に抱いた印象は、それだ。
 セオという名のドクターと面会し終えた乃愛は、彼からホスピタルの概要を簡単に説明してもらってから『病室』に入れられた。どうやらこの狭苦しい部屋が今日から乃愛の居場所となるようだ。室内にはベッドと机と椅子があるだけで、それ以外は何もない。だからというわけではないが、乃愛はベッドに腰を下ろしてからしばらく動くことができなかった。
「なんでこんな目に……」
 白い壁を愕然と見ながら、乃愛は悲しげに呟く。壁から答えなど返って来はしない。
 乃愛は絶望していた。この過酷な仕打ちに、残酷な運命に、心から嘆いていた。
 ギフトを持っているという点以外では、乃愛はどこにでもいるような普通の少女だ。何か悪いことをしたわけでもなければ、危険な思想を抱いているわけでもない、ごく普通の女の子。その乃愛が、唯一の肉親から虐げられ、ナースとかいう男に痛め付けられ、ホスピタルとかいう精神病棟じみた監獄に閉じ込められている。
 ――哀れだ。
 哀れで惨めで、どうしようもなく不幸。
 乃愛は生まれながらにギフトを持っている。では乃愛の運命は、生まれた瞬間からこうなるよう定められていたのか。神様は始めから籠の中の鳥に仕立て上げるために乃愛を作りたもうたのか。
 乃愛がもしギフトを持ってなかったら、こんなことにはならなかったはずだ。全ての原因はギフト。ギフトがなかったら、平穏な人生を送れていた。それは紛れも無い事実。
 だがしかし、乃愛はギフトを持っていることを決して悔やみはしない。今まで悔やんだことは一度もないし、この先も悔やむことは絶対にないだろう。
 なぜならこのギフトは、掛け替えのない宝物だから。
 乃愛は両親が命を犠牲にして生まれた子だ。父が命を張って母を助け、母が命を賭けて乃愛を生み、二つの生命が星になったのを引き換えに乃愛は生まれたのだ。
 乃愛の命には、つまり父と母の二人分の命が宿っている。両親の命が星となって乃愛の命を支えている。だから乃愛の命は少しだけ、大きい。
 命に大きいも小さいもない。ここで言う大きさとは、物理的な数量ことだ。
 乃愛は自分の命の他に父と母の命も身体の中に宿している。しかし人は肉体という器の中に一つの命しか持ち得ることができない。人間を人間として生かす命は、一つしか所持することができないのだ。
 命の定義とは、人を生かすこと。人を生かすために、人が生きるために、命はある。一つだけ持つことが許されている。しかし乃愛の身体には自分の他に二人分の命が宿っている。
 生きるために必要な命は一つしか持てないというルールは絶対だ。故に乃愛が残りの二つの命を保持するためには、両者に生きるため以外の存在意義を与えなければならないのだ。それが一つの肉体の中に複数の命の存在を許すただ一つの方法。
 ――そして、乃愛に宿る父と母の命は『ギフト』となってその姿を変えた。(ノア)を生かすための命ではなく、それぞれ別の役割を担って生まれ変わったのだ。
 ギフト――『星の息吹』。
 乃愛の吐息にはギフトの力が篭められている。命の力を持つ奇跡の異能。父と母の二つの命がギフトとなっているため、効果も二通りに分けられる。
 その内の一つが、治癒だ。乃愛が吐息を吹き込めば、自分以外の生命の傷――病気は不可――を瞬時に癒すことができる。瀕死の猫を助けたのもこの力だ。
 乃愛は自分のギフトを否定しない。このギフトは両親そのもので、両親がいてくれたからこそ自分がいるからだ。父と母からの、大切な『贈り物』。
 胸に手を当てて、心臓の音を聴く。命の温もりを感じる。
 乃愛は、誓う。絶対にこのギフトを手放さないと、心に決める。このギフトは乃愛そのものだ。誰にも否定させない。誰にも奪わせはしない。
 ベッドの上で膝を抱えて座り、乃愛は壁に寄り掛かる。
 壁は冷たかったが、乃愛の体温ですぐに温まった。


 無機質なチャイムが病室に鳴り響き、乃愛は瞼を開ける。いつの間にか眠っていたらしい。ベッドから体を起こし、乃愛はチャイムの意味を思い出す。たしか夕食を告げる合図だ。
 示し合わせたように病室の扉が開いた。いい印象が一つもない人物が入って来たので、乃愛は威嚇の意を込めてそいつを睨みつけた。
「あらら、随分と嫌われちゃったみたいだね」
 まるで気にしていない様子で肩を竦め、ナース・ジュリは浮ついた笑みを浮かべる。
「僕はただ君を迎えに来ただけだだよ。さ、食堂へ行こうか。他のみんなに君のことを紹介しなくちゃね」
 三日月のように細い目を更に細めて微笑むジュリ。
 乃愛は不愉快な顔のまま立ち上がり、ジュリに促されて病室を出た。
 三人分の夕飯が乗ったカートを押すジュリの後ろを歩きながら、乃愛はドクター・セオの言葉を思い出す。たしか毎回の食事は二人ないし三人の小グループで行われるとのことだった。即ちこれから行く食堂には自分以外の患者(ペイシエント)が待っているということであり、同時に乃愛は初めて自分以外のブレシスと対面することになる。……少しだけ、緊張する。
 そうしている内に廊下を抜け、ドーム状のホールに行き着く。ずらりと並ぶ両開きの扉。その向こうには各グループの食堂があり、ジュリはその内の一つへと進んでいく。どの扉に入ればいいか見当も着かないため、乃愛は大人しく彼の後をついて行くしかない。
 ジュリが入った扉に乃愛も続いて入る。中途半端な広さの食堂には長テーブルと三脚の椅子が置いてあるだけで――既に二人の人間が着席していた。
 乃愛と同年代の少年と少女。二人とも乃愛と同じ白いパジャマを着ている。
 乃愛が――予期せぬ新参者が――やってくると、少女の方は顔を上げて驚いた表情を見せた。少年の方は乃愛の登場を全く無視してテーブルの上に目を泳がせている。
「今日からホスピタルに入院することになった紗枝木乃愛ちゃんだ。みんな、仲良くしてやってね」
 ジュリに紹介されながら、乃愛は二人のペイシェントを軽く観察する。
 少年の方の印象は、一言で言えば陰気だ。目の下に濃い隈ができており、それ以外に顔を彩る色素はない。カールのかかった髪もどこかみすぼらしく、全体的に陰欝な雰囲気を纏っているように見える。時折気持ちの悪い笑みを浮かべて肩を震わせる奇怪な仕種は、不気味以外の何物でもなかった。
 少女の方は、全く正反対の様相だ。最初こそ驚いていたものの、すぐに嬉しそうに顔を輝かせて乃愛に歓迎の眼差しを向けている。誰とでも仲良くなれるような、前向きかつ快活な印象。背中に長く垂れた髪は爽やかな面持ちとはミスマッチだったが、この少女となら気が合いそうな予感がした。
 その後ジュリは乃愛に空いている席に座るよう促し、三人分の食事を卓上に並べてから食堂を出て行った。
 待ってましたとでも言うように、髪の長い少女が体を乗り出して口を開く。思った通りの積極的な性格。
「ねぇ、あたしはシーラっていうんだ! よろしくね、ノア!」
 長い髪を後ろで結ってポニーテールにすれば似合うんじゃないかなと、『ノア』は何となく思った。
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