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逸脱! 歴史ミステリー!  作者: 小春日和
織田信長はどんな天下を作りたかったの?
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桶狭間の戦いの真実は?

 信長の戦勝する確率は七割ほどだったと言われます。意外と勝ってるじゃん、と思われるかもしれませんが、一敗が命取りになる戦国の世においては、この戦績でよく生き残ってこられたと驚くほうが正しいでしょう。事実、武田家や上杉家は戦勝率九割を超えていたそうですから。

 その危うげな信長は、でも二六歳の年までそれほどの大きな戦を経験することもなく、ほぼ不敗の成績を打ち立ててきました。そして迎えた『桶狭間おけはざまの戦い』。おそらく日本がいまのように我慢強く堅実な社会を築いて来られた礎となった戦いでしょう。貴族の母を持ち戦国武将としては政治家の資質のほうを取り沙汰される今川義元を、生粋の武家社会の中で鍛えられた信長が打ち倒した、非常に大きな意味を持つ戦です。


 一五六〇年六月。愛知県の桶狭間に進軍してきた今川軍。指揮官は今川義元の息子の今川氏真(うじざね)になっていましたが、父の義元も参戦していました。まだ四一歳だったもの。隠居するような歳ではなかったのね。

 今川氏っていうのはそれまでも三河や尾張(愛知県の北と南)を攻略しようと幾度も攻撃してきていたんです。今川の領地は駿河(静岡)だったので、都のある京都に行こうとすると、必ず愛知を通らないといけないでしょ? だからこの要所を抑えておく必要があったのです。これはあとに出てくる甲斐(山梨)の武田信玄にとっても同じ。

 そうして以前から小競り合いを起こしていた織田氏と今川氏。ところが今回の義元は本気でした。信長に大した兵力がないことを見抜いていながら四万もの大軍を引き連れてきたんです。過たず、五〇〇〇に満たないほどの兵士でこれを迎えなければならなかった信長。しかも自分の城に少しは人を残しておかないといけないもんね。最終的に清州城を出た信長(このころの居城は清州城)の軍備は四〇〇〇人でした。まさに一〇分の一。だから現在桶狭間の戦いを語る人は「信長の勝利は奇襲と強運の賜物だった」というわけなんです。

 でも本当にそれが信長の勝てた理由なんでしょうか?

 決戦当日。朝から織田勢の砦を三つも潰した義元は気を良くしていました。そこに地元の信長に反感を持つ民が「どうかがんばってください」と酒や食べ物を振舞ってきたのです。すでに織田軍なけなしの四〇〇〇の兵さえ半分に減らしていた義元は、絶対の勝利を確信して宴を開いたのです。午後一時。それまで晴れ渡っていた空からにわかに豪雨が叩きつけてきました。酔っ払いながらも慌てて避難しようとした義元の背後すぐに、なんと信長の家臣が立っていたのです。服部小平太は斬りつけるも義元の反撃に遭い負傷してしまいます。そこで信長の小姓(身の回りの世話をする少年。森蘭丸もこの一人)の毛利新介がとどめを刺しました。大将とも言える位置にあった義元の死によって、今川軍は総崩れになるのです。

 義元が油断して酒なんか飲んだから敗けた。

 突然雨が降りだして視界が悪くなったから気づかれなかった。

 信長の勝利の裏にはその二つの要因が関わっていたとされますが、でも、じゃあ。

 今川氏ってそんなに間抜けなの?

 豪雨ってそんなに都合よく来るものなの?

 実はこれらの記述は『信長公記しんちょうこうき』によるもの。この史料は信長の功績を記した書物です。つまり信長の不利になることは書かない。実際、信憑性を問う声も上がっています。

 では桶狭間で行われた真実はどうだったのか。


 桶狭間の戦いでは、まず前哨戦とも言える小さな戦いが名古屋近郊で繰り広げられました。名古屋の東南に位置する丸根砦と鷲津砦に迎撃軍を待機させていた信長に対し、今川の同盟国の松平元康まつだいらもとやす(後の徳川家康)と家臣の朝比奈泰朝あさひなやすともが襲撃をかけたのです。そしてまず松平元康が丸根砦を、朝比奈泰朝が鷲津砦を難なく陥落させました。というのも信長はこれらの砦に五〇〇人ぐらいしか配備していなかったのね。今川軍が進撃してくれば当然ここを突破してくるのにそんなに力を注がなかったんです。調子づいた今川軍はさらに中嶋砦も攻め、前門を守っていた佐々(さっさ)正次まさつぐたちを全滅させます。信長の拠点とする砦はこの敗北で残り二つになってしまいました。圧倒的な劣勢です。

 が、前述したとおり、これが信長に思わぬ勝機をもたらします。相次ぐ戦勝の報告に油断した今川軍が酒宴を始めたからです。もしこの三つの犠牲がなければ信長の逆転は望めなかったと思われます。

 ただ、後年になって「だから貴族上がりの武将はダメなんだ」と過剰に揶揄されるようになる今川義元ですが、この流れを見たら浮かれるのも無理ないと……思っちゃいますよね? だって自分の計画がことごとく上手く行ってるんですから。人間は思わぬ幸運には警戒を抱きますが努力の結果は疑いません。義元が敵の領地において緊張を解いてしまったのも道理だったのです。

 そして、この心理状態を、同じ戦国武将である信長なら想像し得たと思いませんか?


 四万もの大軍を率いてきているとの情報が入っているのに、玄関口に五〇〇の兵しか配さなかった信長。それはすなわち『今川を油断させる捨て石になってくれ』ということではなかったでしょうか。丸根砦、鷲津砦が落とされたと聞いたとき、浮き足立つ重鎮たちを尻目に、信長は何かを決したように『敦盛あつもり』という演舞を舞ってから出陣します。敦盛とは源平合戦のときに武蔵(埼玉)の熊谷直実くまがいなおざねが敵の少年兵を泣く泣く討ち取るシーンを表現した演目でした。年端もいかない弱小の人間を立場上殺さねばならなかった直実の悲哀。それが大切な家臣の死を自ら誘発してしまった信長自身の悲しみに合致したのではないでしょうか。

 そして計略どおりに弛緩した今川軍に対し、信長の陰謀がまた炸裂します。桶狭間山という高台に陣取り、信長軍の動向を丸見えとした今川義元に、地元の百姓が「もう信長様の時代じゃねえです。義元様、この地を平定したらぜひまた村に立ち寄ってくだせえ。ささ、前祝いに一献」と杯を傾けました。実はこの百姓の中には蜂須賀小六はちすかころくという信長の家来が混ざっていたのです。そんな人がいて義元は気づかなかったの? と思われるかもしれませんが、この小六、三河を中心とした盗賊団の頭なんです。だから立ち居振る舞いも武士らしくはなかったんでしょうね。

 相次ぐ『歓待』に完全に戦意を喪失した今川軍。そこに最終的な詰めが敷かれます。信長軍の動きを監視していたはずの葛山延貞かつらやまのぶさだが信長の進軍を報告しなかったのです。え、なぜ? それは彼が今川の家臣ではなく武田信玄に送り込まれた間者だったからです。当時、信長は信玄を恐れていろいろとご機嫌取りをしていました。いまの歴史にその事実が書かれないのは明らかな捏造だと思われます。武田信玄というのは戦国武将たちにとって非常に恐ろしい存在でした。今川のように隙があるわけでもなく、上杉のように温情をかけてくれるわけでもない。だからさすがの信長も信玄だけは敵に回したくなかったのね。というわけで信長と裏取引をしていた信玄は、信長を勝利に導くために自らの家臣を今川軍に紛れ込ませました。どうしてそんなふうに断言できるかというと、桶狭間の戦いの詳細が信玄の戦の記録を記した『甲陽軍鑑』に書かれているからです。もし武田の人間がそばにいなければわかるわけないですよね。

 偶然の豪雨については真実を図る術はありません。蜂須賀小六というスパイをあらかじめ今川の膝下に送り込んでいた信長にとって、奇襲は、たとえ晴れていてもそれほど難しくはなかっただろうと思われるからです。ただ、信長が愛重していた鉄砲を使っていないこと、源義経による屋島の戦いの戦法(嵐の中で船を漕ぎ出して敵の監視をくぐり抜けた)をゲン担ぎのように考えていたことなどを鑑みれば、時期も梅雨のまっただ中、雨を待っての襲撃だったと推測しても自然かなとは思います。


 きわめて個人的な考えですが、この大成功を収めた桶狭間の戦い、でも信長には一つだけ誤算があったのではないか、と推測するのです。

 今川軍との競り合いの最初の舞台になった丸根砦。ここを攻めたのは松平元康でした。さっきも書きましたが後の徳川家康ですね。元康が今川軍に参戦していた理由は、松平氏と今川氏が同盟を結んでいたからです。けれど実際には勢力の関係から松平氏は今川氏に隷属していたのでした。裏切り行為を防ぐ目的で幼少時から今川の屋敷に人質として軟禁されていた元康。でも今川の元康への扱いは屈辱に満ちたものでした。実際、落ち込む元康に側近の鳥居忠吉とりいただよしが「いまは我慢なさい。いつか今川の支配から逃れて三河(愛知県南部=松平氏の拠点)に戻ったときに役に立つように、今川の蔵からちょこちょこと財宝を盗んでおきますから」と慰めた逸話も残っています。そんなわけで元康は今川軍に対して忠誠心を持ってはいなかったんですね。

 そこに信長が目をつけないわけはない。ではどうやって敵である元康と接触したかというと、実は元康はちょっとしたお家騒動に巻き込まれて幼少期に織田家に送られてしまった過去があるんです。織田家は今川氏と通じた松平の次期当主である元康を、当然殺そうとしました。結局、元康は母の嘆願などによりピンチを切り抜けたのですが、その際に信長はかなり友好的に元康に接したと言われます。「お前も家の事情であっちこっちにやらされて大変だなあ。なあ、俺、いつか今川を倒すから、そのときはお前も協力しないか」。そんなやりとりがあったと想像すると少し楽しくなりませんか。

 そして年を経て契機が訪れました。松平元康が丸根砦を攻めたのは、戦況がわからず一番危険な立場である先鋒になるよう、義元が命じたからです。つまり義元にとって元康はあくまでも捨て駒だったわけです。元康は、たとえこの瞬間まで今川に着くか織田に着くか迷ったとしても、この仕打ちに織田への傾倒を決意したでしょう。信長の奸計をあらかじめ聞き及んでいたこともあり、遠慮なく丸根砦を撃破したのでした。

 でも、もし自分が信長の立場だったら、この緊迫した状況下でも、元康に「砦を殲滅してくれ」とは頼まないですよね? せいぜい「籠城させておくから手こずったふりをして包囲を長引かせてくれ」程度の依頼に留めると思うんです。だって全滅を視野に入れていたとしたら、今度は逆に貴重な兵を五〇〇も丸根砦に送らないと思うもの。

 そんな密約をしていたにもかかわらず、元康は丸根砦の兵士を潰してしまった。あ、一つ元康側に立って言い訳すると、元康襲撃時、丸根砦の防衛軍は籠城ではなく城の外に出てきてしまったのね。だから白兵戦をするしかなかったんです。

 そういう事情はあれど元康に対してわずかな不信感を持った信長。それが後に元康(そのころは家康)への無理難題を吹っかけるきっかけになった。家康の正室の築山御前つきやまごぜんと愛息の松平信康(のぶやす)は、信長に言いがかりをつけられて殺されているんです。


 『尾張の大うつけ(大馬鹿者)』と蔑視された織田信長は、実は父の信秀と同じく陰謀に長けた非常に計算高い武将だった。そしてそれは逆に、信長が決してモンスターではなく一介の智将であったという証明にもなります。

 今川義元を斃して全国の諸大名に名を轟かせた織田信長。次の章では、彼がこのあとにどんな成長を遂げていったのかを、またミステリーを絡めて書いて行きたいと思います。


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