白い夜(4/25)PDFで表示縦書き表示RDF


白い夜
作:凪沙 峻



第4話  魔窟からの脱出


四 魔窟からの脱出

「なに!」
山岡総理は勢いよく椅子から立ち上がった。
「第二普通科群がやられただと!」
その知らせは防衛省からだった。
十二月一日午後七時三十分、稚内に向けて走行中だった士別市の第二普通科群の大型トラック二十五両が、天塩川沿いの国道で国籍不明のジェット戦闘機二機の攻撃を受け、隊員三二一名が死亡した。
負傷した隊員の供述によると、突然の攻撃で応戦する暇もなくトラックは穴だらけになった。夜だったせいで戦闘機の特徴もつかめなかったという。
「なんということだ!」
山岡は腕を組んでうなった。
国防会議でやっと自衛隊の治安出動を認めさせ、稚内に一番近い士別市にある第八混成団の第二普通科群に出動を命じたのだ。
 しかし、目的地の稚内に到着しないところで戦闘機の攻撃を受けるとは。自衛隊の最高指揮官として国民になんと言い訳をすればよいのか。
山岡は腕を組んだまま目を閉じた。
このままではいかん。
山岡の頭に、日本国の一番北にある北海道という島が、何かとてつもない陰謀の渦に巻き込まれ、暗い霧に包まれた輪郭が浮かんできた。
情報らしい情報が入ってこないせいもあった。情報をつかもうにも、治安出動を命じた第二普通科群が国籍不明のジェット戦闘機に攻撃されて全滅し、ひそかに送り込んだ内閣調査室の情報員とも連絡がつかない状態だ。
野党は政権をすぐに明け渡せといわんばかりの剣幕だ。ただ、面と向かってそう言わないのは、いま政権を山岡から奪い取っても、新政権としても何の打開策もないからだ。
 情勢がはっきりしてきて対応のメドがついてきたら、すぐに現内閣への不信任案を提出するだろう。そうなれば政権は交代する。次の総理総裁は社共党の川島健作あたりか。
道を作ってやるのも悪くはないか…。
山岡は机の電話のプッシュボタンを押した。


「おまえはわしの…。いや、日本国の最後の切り札だ。先に送り込んだ内調(内閣調査室)の山城とも連絡がつかなくなった。連絡がとれんほどの何かが稚内で起こっているのだろう。この任務に失敗は許されん。必ず真相をつかんで知らせてくれ。国家のためだ。特務課の総力をあげての任務になるかもしれん。そのときはわしから特務課に指令を出す。必要とあれば犠牲はやむをえん。武器が必要なら遠慮せずに使え。わしが許可する」
山岡は、腕を組んで総理大臣室の壁にもたれて立っている男に言った。
 腕を組んで壁にもたれている男は、見た目には細身だが彫刻のような精悍な顔つきをしている。
「承知しました…」
男は壁にもたれたまま答えた。
「なんだかいやな予感がする…」
山岡は腕を組んで部屋の中を歩き回っだ。
「わしは、総理大臣の椅子が…。野党どもに政権を渡すのが惜しくて言っているんじゃない。欲しければくれてやるが、くれてやるのはこの暗雲が晴れてからだ。いまあいつらに政権を渡しても、あいつらではこの暗雲を晴らすことはできん」
「………」
男は黙って山岡の言葉を聞いている。
高杉晋也は無愛想で礼儀というものもわきまえない男だった。総理大臣の自分にさえ礼をつくそうとしない。おのれのやり方でのみ動く男だ。
 ただ、山岡にとっては使いがいはある。依頼したことは最後までやり遂げる。その仕事に例外はない。
 父親の高杉晋介も日本政府の影で動いていた人物と聞いている。その先祖は歴史上に名を残した高杉晋作だということだ。
 山岡の知る限り、父親もやはり寡黙な人間だった。
「向かってくれ…」
山岡の言葉に、高杉晋也は足音も立てずに総理大臣室を出て行った。
いったい、誰が何のために航空自衛隊の防空基地と空港を破壊したのか。
報告がはいっているのは、稚内上空で千歳の第二航空群からスクランブルしたF・32からの国籍不明機への警告と、第三八七基地防空隊と稚内空港への攻撃の様子だけだった。
スクランブル機の長沢2佐は威嚇のための発砲をしようとしたが、二空群司令の堤空将が発砲を許可しなかった。
 もしもあのときF・32の攻撃を止めなければ、一機や二機の国籍不明機を撃墜していたかもしれない。そうすれば相手が何者かくらいは判明しただろう。
なぜ発砲を許可しなかったのかと山岡は顔をしかめた。二空群司令の堤が発砲を許可さえしていれば…。
相手は北鮮民国かロシアかもしれない。
 彼らなら、日本の航空自衛隊の戦闘機は上層部の許可がなければ発砲しないことを知っている。許可をとらずに発砲すれば自分の責任になるからだ。
「総理。番記者たちが、会見をと言っていますが、どうされますか?」
秘書室長の大村がインターホンで聞いてきた。
「何もわからんのに会見もくそもあるか!。ほうっておけ!」
山岡は怒鳴った。
記者会見などできる状態ではない。どこの戦闘機が、なぜ、なんのために、どうしようとして、それを政府はどうするのかと。聞いてくることはわかっている。それがわかれば会見も開くが、わからないものを答えろといわれても答えられるはずがないのだ。
けっきょく最後には、内閣の責任は、となる。ばかばかしくて会見など開けるわけがない。少しでも何かを言おうものなら、それに被せるだけ憶測を被せて記事にするに決まっている。
「いったいどうなっとるんだ…」
山岡は腕を組んだままつぶやいた。



「起きろ。ここを出るぞ」
統山はベッドにもぐっているしおりの肩をゆすった。
夜中の十一時を過ぎていた。しおりは驚いたように跳ね起きた。薄暗い電球の中でしおりの顔が青ざめているのがわかる。
 しおりはすぐに身支度を整えて自分のバッグに必要なものだけを入れた。
「持ってゆくものは最小限だ。何かがあって走るようなことになったら、大きな荷物はじゃまになる」
統山はそう言いながら、自分もリュックにしたショルダーバックを背負った。
統山は、窓のカーテンを少し開いた。
 窓から見えるホテルの駐車場に、統山のランドクルーザーが止めたままになっている。 
 もしも何も細工がされていないのなら車は使えるかもしれない。しかし、統山の行動を見張っているのがひとりやふたりではないとすれば、当然統山が乗ってきた車もターゲットになっているはずだ。
統山は車の周りを確認した。街路灯がボーッと駐車場を照らしている。統山の車の周りには人影は見えない。
「ん?…」
駐車場を見回す統山の視界のすみで、ふっと黒い影が動いたような気がした。すぐに視線を移動したが、すでに影らしきものは統山の視界から消えていた。
「どうしたの?」
しおりが統山に聞いた。
「………」
統山は影らしきものが動いたほうを凝視しながら、ゆっくりとカーテンを閉じた。
やはり見張られている。この部屋に生島しおりがいることも知っているにちがいない。
 統山は背負っていたショルダー・バッグを床におろした。
 なぜ自分を見張るのか、その目的はわからないが、確かに見張られていることを統山は確信した。うかつに外へ出たら相手の思うつぼになる。見張りはひとりやふたりではないはずだ。
夜でも見える赤外線暗視双眼鏡で見張っている可能性が大きい。暗視双眼鏡は民間でも売られているし、米軍から流れてくるものならいくらでも手にはいる。もしも赤外線暗視装置で見張られているとしたら、逃げるにも逃げられない。
北洋テレビも夜間の取材用という名目で赤外線暗視双眼鏡や暗視ビデオカメラを持っている。暗闇の中はもちろん布のカーテンなどは透けて見えてしまうほどの性能だ。
局の若い連中は性能試験と称して暗視双眼鏡を海水浴場に持っていき、暗視力を十分の一ほどに弱くして水着姿の女性を覗き見する。夜間と同じ出力では目をやられるからだ。 
 特に黒っぽい水着や濃い色の水着などは、水着で覆われている乳首や恥部までもが克明に透けて見えてしまう。
「だめだ。見張られている。おそらく四人か五人、もっといるかもしれない。うかつには動けない…」
統山は、突っ立ったままのしおりに言った。
「怖いわ。いったい、どうしたらいいの?」
しおりは薄暗い中で統山を見上げた。
「たぶん。これはおれの想像だが…」
統山は淡い黄色のカーテンを閉じた。
「おれたちは複数の人間に見張られている。おれたちの一挙手一投足まで。この部屋の中で何をしているのかも、赤外線の双眼鏡か何かで見られている」
 統山は言った。
「盗聴器や盗撮カメラのたぐいは、多少知識があれば簡単に見つけられるから相手も使ってはいまい。高性能の集音マイクもそうだ。このホテルの窓は断熱の二重ガラスだから使えない。ただし、赤外線の暗視双眼鏡なら、このカーテンを通しても真昼のように中の様子をはっきりと見ることができる。おれもテレビ局のカメラマンとして、もしも人を見張るのならそうするだろう」
統山は椅子に座った。
このままでは、ここからの脱出はおろか、へたをすれば大勢で襲われかねない。
 これだけ執拗に見張り続けていることを考えれば、脱出しようとするそぶりでも見せようものならいっきに襲ってくる。ホテルのドアを打ち破るか、あるいはピッキングで開けるくらいは簡単なはずだ。何人もで一度に踏み込まれたら、いかに統山でもどうにもならない。
ここであわてて逃げ出そうとはしないほうがいい。見張られていることを知らないそぶりをして相手を油断させることだ。
 とりあえずは深夜になるのを待つ。そうすれば、見張っている何者かに気づかれずにここから出られるチャンスもあろう。
生島しおりは、不安そうな表情で窓のほうを見つめている。
「いつまでもここにはいられない。きみもそうだ。おれと一緒でも無事に逃げられるとはかぎらない。もしもいいアイデアがあれば、おれに遠慮はいらない。きみはきみで行動に移ったほうがいい」
統山はしおりに言った。
「アイデアなんかないわ。どうしたらいいのかもわからない。あなたに頼るしか…」
しおりは不安そうにそう言って振り向いた。
「あなたの言うとおりにするしかないわ…」
そう言ってベッドに座ったしおりの顔が白い。
「…………」
 統山は窓のほうを見たまま腕を組んだ。
見張っているやつらを油断させるためにはどうしたらいい。統山はそのことだけを考えていた。
 テーブルのウィスキーをひと口飲んだ。
しばらくの静寂が続いた。
しおりはじっと統山を見つめている。
「この部屋のカーテンは布だが薄い」 
統山はカーテンの隙間から外をのぞいた。
「さっきも言ったが、赤外線の双眼鏡ならば、簡単に透けて昼間のように中の様子が見えよう。きみが着ているブラウスも赤外線なら透けて見える。もちろん下着も、その下の身体の線もだ。そのうえ、やつらの中に読唇術でもできるやつがいれば、唇の動きでおれたちの会話の内容も知られる」
統山はそう言いながらしおりを見つめた。
「いまの時点で、いきなり部屋を出ようとしても、やつらの目はごまかすことはできないだろう」
統山はそう言って窓のほうを見た。
「一か八か、それをやってみてもいいが、失敗したときはふたりとも殺されるか、あるいはどこかへ拉致されるか…。いずれにしても無事に済むとは考えにくい」
統山はひとつため息をついた。
「だが、もしも拉致されるにしても、幸いなことにきみは女で、しかも美人だから簡単に殺されることはない。もしかすると、女や子供には手を出すことはないかもしれない」
統山はそう言ってふと笑った。
「それに…」
統山は笑ってしおりを見た。
「見張られているとか尾けられているとか…。おれときみの、たんなる被害妄想なのかもしれない。本当に平穏が戻ったのかもしれないしな…。もしも見張っているにしても、おれの局の若い連中がやっているように、ただ興味本位の覗きということも考えられる」
統山はそう言って椅子に座った。
「やつらの目的はおれだけだかもしれんし、もしもそうなら、きみは自分の部屋に戻っても安全だろう。きみ自身のためにも、おれから離れたほうがいい。おれもそうしてくれたら少しは気が楽になる。美人と同じ部屋にいると気を使うしな」
統山は笑った。しおりはベッドに座ったまま統山を見つめている。
「ただ…」
統山は煙草を取り出した。
「ただ、なに?…」
しおりは統山に聞いた。
「おれはたんなる覗きだとは思わない。何かがある。そして、きみはともかく、おれは誰かにあとをつけられて見張られている。これはおれ自身のカンにすぎないが、長いこと報道の仕事をしているうちに育ったカンだ。自分のカンを、おれは信じる」
統山はそう言いながら煙草に火をつけた。
暗視双眼鏡で見張られているとしたら、どうやって見張りの目をごまかし、隙を作らせるか。ましてや女連れになるかもしれない。
 部屋の電気を完全に消しても赤外線暗視双眼鏡には通用しない。たとえ姿勢を低くして部屋から出てもドアを開けたときに見つかってしまう。このまま電気を消して寝てしまう振りをするのも、それなりの芝居にはなろう。
いずれにしてもここから出るのは早いほうがいい。
 今の状態はネバネバとした蜘蛛の巣にかかった虫と同じだ。時間がたてばたつほど蜘蛛の巣の糸が全身に絡み付いて身動きができなくなる。すぐ近くまで毒蜘蛛がその触手を伸ばしているのだ。
いまは十二月だから夜明けは遅い。雪が積もっていて雪明りはあるが、朝の六時半くらいまでは暗いはずだ。その時間帯を利用して脱出するしか方法はない。しおりさえ一緒でなければなんとでもなる。
おそらく相手は赤外線暗視双眼鏡で見張っている。それは間違いないだろう。
 いまからホテルの非常階段を使って外に出ても、すぐに見張り同士で連絡される。ホテルから百メートルも行かないうちに取り囲まれる。
相手がひとりかふたりなら剣道と空手で倒すこともできるが、何人もで取り囲まれたら、自分だけなら何とか逃げられるかもしれないが、生島しおりを守りきれるかどうかは自信はない。
 統山としては、生島しおりが別行動を選択してくれればありがたいというのが本心だった。
 テーブルの小型無線機で全ての周波数を対象にスキャンさせているが、いまのところ何かの連絡をとりあうような電波はキャッチしていない。どこの都市でも飛び込んでくるはずの、消防やアマチュアの電波さえも飛び交っていない。
 液晶のデジタルはただ空回りをしていた。あまりにも静か過ぎる。それも不安のひとつだった。
 生島しおりはベッドに座ったままだ。統山の部屋から出てゆく様子はなかった。
 まさか力ずくで追い出すわけにもゆかない。生島しおりが出てゆかないかぎりは、一緒に連れ出さなければならない。
何か方法はないものか…。統山はため息をついた。
「きみのためにも、自分の部屋に戻ったほうがいい…」
統山が言った。
「わたしを追い出したいのね」
しおりは統山を見つめて言った。
「追い出したいわけじゃない。やつらが狙う対象がおれだけだとしたら、何かあったときはきみも巻きぞえになる。それを言ってるんだ」
統山はそう言ってしおりを見た。
「わたしだって…」
しおりは下をうつむいた。
「わたしだって誰かに見張られていたわ。粘りつくような目で…。だからあなたにすがったの」
しおりは顔を上げた。
「でも、どうしても迷惑で足手まといだって言うんなら、わたし出て行くわ」
しおりは統山の横顔を見つめた。
 最終判断を迫られているのをしおりは感じた。
統山の言葉ではないが、ただの行きずりのふたりだった。統山とて、いきなり部屋に飛び込んできただけの見も知らぬ女を、命を張って助けるいわれは無いはずだ。足手まといだと思っているに決まっている。
 もしも統山の口から出て行けという最後の言葉が出たときは、しおりは出てゆくつもりだった。だが、統山の口からその言葉が出ないことをしおりは祈った。
 自分ひとりでは逃げ切れない。
 ホテルから一歩出たら。いや、ここから出て自分の部屋に戻ったとたん、あの粘りつくような目でしおりを見つめていた男たちに襲われる。そしてレイプされて殺されるのだ。
「どうせ…」
統山は煙草をくわえて火をつけた。
「逃げ切れるかどうかもわからない。ひとりでもふたりでも、たいして状況は変わらないか…」
統山は笑った。
本心は違っていた。ひとりのほうが行動に制約はない。女連れとなるとリスクは大きくなる。
 しおりが出てゆくことを期待したが、その様子もない。相手は女だ。叩き出すわけにもゆかない。
統山はため息をついた。
「万が一のときは、覚悟を決めておいてくれ」
統山はしおりに言いながら立ち上がった。
「おれは、剣道と空手は多少自信がある。見張っている相手がひとりやふたりなら叩きのめすことはできる。いっしょに行くのなら、何があってもきみを守る覚悟だ。しかし相手が大勢だと、下手をするとふたりとも殺される。たぶん、おれの車はやつらの手に落ちていて使えないはずだ。徒歩でここから出ることになろう」
統山は冷蔵庫からウィスキーの瓶を取り出した。
 カーテンが引かれている窓際の椅子に腰を下ろし、ウィスキーをコップに注いでストレートで飲んだ。
「おれは…。もちろんきみもそうだろうが、赤の他人に命を狙われたり、後をつけられたりする覚えはない。しかし、おれに覚えはないが、やつらには、おれか、おれたちをつけ狙う理由があるらしい」
統山は煙草を消して、飲みかけのウィスキーのコップをテーブルに置いた。
「やつらにその目的を直接聞いてみるにしても、時期はもう遅いようだ。今からそれを確かめる度胸は、残念だがおれにはない…」
統山はゆっくり首を振って笑った。
「わたしも…」
しおりは統山の向かいに座り、半分ほど残っていたコップのウィスキーを飲んだ。アルコールでむせたのか、何度か咳をした。
いきなり統山の部屋に飛び込んできたときの生島しおりは、恐怖と不安のためか眉間にしわを寄せていて、気の強い無遠慮な女としか思えなかったが、こうしてよく見ると美人でもあるし愛らしい顔をしている。
 もしも何事もなく、平和な場所でこの女と知り合ったなら、と統山は思った。
しおりは、立ち上がってわずかに開いているカーテンの隙間から外の暗闇を見つめた。
薄暗い街路灯に駐車している数十台の車が見える。
 ウィスキーの入ったコップを持つと、またひと口飲んだ。
 しおりはそのコップをテーブルに置くと、ドアのところに歩いてゆき、室内の電気を消した。暗い中にしおりが立っている。
「電気を全部消しても、向こうからは見えるの?」
しおりが言った。
「赤外線暗視装置を使っているのなら、昼間のようにな…」
統山は窓のほうを見ながら答えた。
「………」
しおりは無言のまま統山の前に立つと、暗い中で衣服を脱ぎ始めた。
 統山はそのしおりを黙って見つめていた。
 しおりは統山の前で全裸になった。
「抱いて…」
しおりが統山を見つめた。
「わたし、独身だけど、いままで男の人と寝たことがないとは言わないわ。三十を過ぎたんですもの…」
細めだが、均整のとれたしおりの全身が暗い部屋の中に白く浮かんだ。
 決して大きくはないが、形の良い乳房と下腹部がほのかな外の明かりで陰影を作っていた。統山を見つめるしおりの唇がかすかに震えている。
「わたしを、一緒にここから連れ出して…」
「…………」
 しおりの言葉に、統山は無言でコップにウィスキーを注いで飲んだ。
「服を着ろ」
統山はコップに目を落としたまま言った。
「わたしを置いていかないで。あなたに見捨てられたら…。もしも捕まったら、わたし…」
しおりは、両手を硬く握ってウィスキーを飲んでいる統山を見つめた。
「きっと殺される。いいえ、その前に大勢の男たちに何度も何度もレイプされる。粘りつくような目でわたしを見張っていた男に、きっとレイプされて、そのあとに殺されるわ…」
 しおりは立ったままそう言った。
「心配するな。さっき言ったとおり、いっしょに行く限りは、きみを見捨てたりしない。服を着ろ」
統山はしおりから目をそらしたまま言った。
「わたしを見て!」
しおりは強い口調で統山に言った。
「もうこの世で最後かも…。逃げても殺されるかもしれない…」
しおりは言った。
「いっしょに連れて行ってもらう代償としてじゃないわ。本心から怖いの。すがるものが欲しいの…。だから、わたしを抱いて」
しおりは座っている統山を見つめて言った。
「きみ…」
統山もしおりを見つめた。
「おれも、最後かもしれない…」
統山はコップを置いて立ち上がった。そして、少し開いていたカーテンを閉めた。
「抱いて…」
しおりは統山を見つめて言った。
統山は自分も裸になるとしおりの前に立った。
 統山はしおりの肩に両手をおいた。しおりはじっと統山の目を見つめている。
しおりは自分から統山の首に両手を回した。統山はしおりのわきの下から両手を入れてしおりを抱き寄せた。
 統山の唇がしおりの唇に重なった。ひんやりとしたしおりの背中と腰を抱きよせながら、統山はしおりの唇を強く吸った。
もはや何者かの目を欺くための芝居ではなかった。何かに追い詰められた男と女が、目の前に迫ってくる恐怖と不安から逃れるために、お互いの心と体を求め合っていた。
長い口づけのあと、統山はしおりの首筋や肩に唇を這わせた。
 しおりは小さく声を出している。統山が身をかがめて乳房に唇を付けると、しおりは両手でその統山の頭を強く抱いた。統山はしおりの乳房に顔を埋めている。
「ああ…」
しおりは小さな声を出した。
統山はしおりを抱き上げてベッドに運び、しおりに唇を重ねた。
「きみを守る…。何があっても、きみを守る」
統山はそう言ってしおりの目を見つめた。
「ええ…」
うなずいたしおりは統山の首に両手を回し、統山の唇を求めてきた。
 統山はしおりと唇を合わせながらしおりに体を重ね、しおりの温かい中に自身をゆっくりと滑り込ませた。
「あ…」
しおりは顔をのけぞらせた。


「おい、きみ…」
統山は、眠り込んでいるしおりを毛布の中で抱いたまま小さく声をかけた。
統山は久しぶりに女の体と接したということもあって、一回目が終わってもすぐによみがえっていた。
二回目はベッドから転げるように落ちてしおりに体を重ねた。
 どこからか赤外線暗視双眼鏡で見張っているであろう者たちに、その姿を見せつけるように、床の上でもふたりは時々姿勢を高くする格好でお互いを激しく求め合った。
「ここから出る。見張っている奴らに見えないように、横になったまま服を着るんだ」
統山はしおりに小声で言った。
「ええ…」
統山の左腕に頭を乗せているしおりは、そのままの格好で統山の唇を求めた。統山はしおりを抱きしめて唇を重ねた。
「お願い、もう一度…」
しおりはそう言って統山を見つめた。
せめてもう一度だけ抱かれたかった。
これが最後かもしれない。
 ここを出たら、見張っている者たちに追い詰められ、自分はあの粘りつくような目を持った男たちに服を引きちぎられてレイプされる。何度も何度も犯されて、最後に首を絞められて殺される。
 その運命がしおり自身には見えていた。
その運命は、しおり自身がどんなにあがいても変えられないものだ。ツアーで道北旅行に来て、この稚内にバスで入ったときから自分の運命は決まっていたような気がする。
一緒に来たツアー客が次々と姿を消していった。
誰かが自分をじっと見つめていた。しおりの全身を撫で回すような、粘りつくような視線を感じた。
 気味が悪くなって、とにかく稚内から出ようとして旭川行きのバスに飛び乗った。途中で見たことのない服装をした男たちがバスを止めた。道路が崩れているから引き返すようにと強制的に言われ、また稚内に戻ってきた。
ホテルに戻ってロビーの様子を見に行ったとき、ひとりの男がフロントに新聞のことを聞いていた。その会話を聞いて、おかしなことばかりのこの町で、この男だけは変じゃないと思い、わらにもすがる思いで男の部屋をノックしたのだ。
自分は間違いなく殺される。そんな気がする。
 現にどこにいても何をしていても、常にどこからか見張られているような視線を感じていた。粘りつくような視線をもった男だ。
いま自分が少しでも頼れるのはこの統山という男だ。嫌いなタイプではない。むしろ冷静で沈着なところに少し惹かれかかっていた。そして統山に抱かれた。
見張りの目を欺くための芝居とわかっていても、統山という男を迎え入れたことで、女としての自分の性は激しく燃え上がった。
 どうせ死ぬ身ならばという思いもあったが、統山のセックスはやさしかった。
特定の男と何度か寝たことはあるが、その男は自分だけが満足するとさっさと横を向いてしまうような、ただ性欲のはけ口にかしおりの体を使わない男だった。
統山がいとおしかった。性技の上手とか下手とかは関係ない。女は好きな男と肌を合わせ、やさしく扱われ、唇を重ねるだけで絶頂を感じることができる。
しおりは統山が好きになっていた。その統山に二度も抱かれた。統山が絶頂に達した証しも、たしかに自分の中で感じた。
 どうせ死ぬ運命ならばもう一度抱かれたかった。自分の中に統山に抱かれた証しを受け入れたかった。
粘りつくような視線の男が自分に覆いかぶさり、無理やりにしおりの体を押し開いて、その汚らわしい思いを遂げようとする。その前に自分は舌を噛み切って死ぬ。
命のなくなった自分の体をもてあそぶ男の姿が、しおりの脳裏に浮かんだ。
「しおりって、呼んで…」
統山はじっとしおりの目を見つめ、そして唇を重ねた。しおりはそれだけで心と体が喜びに震えた。
統山の手がしおりの胸を愛撫し、わき腹から下腹部をゆっくりなでている。
 統山の体がしおりに重なった。
「ああ…」
しおりが切ない声を出した。統山がゆっくりと動いている。
「しおり…」
統山はしおりの耳元で言った。統山はしおりをきつく抱きしめている。
 しおりは押し寄せる快感に揺れながら懸命に統山の唇を吸っていた。


午前二時三十分。統山としおりは闇の中にいた。気温が下がっていて肌に突き刺すような北風に乗って雪が舞っている。
 ふたりは闇にまぎれて稚内の全日空ホテルを脱出した。うしろにホテルの明かりが見えていた。
油断はできない。ここまで来たからといっても、どこで見張られているかもわからないのだ。
 しおりがしっかりと統山の左手を握っている。その手から不安と恐怖が伝わってくるようだった。
ふたりは、人の気配のないのを確かめて、街中を通る国道四十号線と一〇六号線をすばやく横断して稚内南小学校の裏手から山側の林の中に入った。
 雪が積もった急な山道を統山はしおりの手を引いて懸命に登った。ふたりの呼吸と斜面を登るかすかな足音だけが聞こえる。
 人気もなく雪明りだけの暗い山道を二人は懸命に登った。
両側に背の低い潅木が立ち並んでいる。
 しおりは、その潅木が自分をレイプしようとねらっている人間に変わって襲いかかって来るような気がした。
 振り返るとはるか下のほうに町の灯りが見えた。その灯りさえも、粘りつくような視線を持つ男の光る目のように感じられた。
統山がしおりの右手を握って雪の山道を登っている。その手のぬくもりだけがしおりの希望だった。


どのくらい闇の中を歩いたかしおりは覚えていない。もう二時間は歩きどおしだ。
 やがて下り坂になったところで統山は立ち止まった。しおりの呼吸が早い。その息が白く暗闇に溶けた。
「少し休もう」
小さな声でしおりに言った。
「ええ…」
うなずいたしおりは、統山がするまま道端の石に座った統山のひざに腰をおろした。
 しおりは統山に抱きついた。その背中を統山の手が何度もなでた。しおりはひざに抱かれたまま統山の唇を求めた。夜の冷気がふたりを包んでいる。
 ずっとこのまま唇を重ねていたい。凍えて死んでもいい。雪の上でも、この場で統山に抱かれたいとしおりは思った。
統山がジャンバーのポケットから、缶入りのお茶を出してしおりに勧めた。
 しおりは缶を受け取って冷たいお茶を口に含み、少し温まったお茶を統山に口移しで飲ませた。統山はそのしおりを強く抱きしめた。
五分ほど休んで、ふたりはまた歩き始めた。
統山はコンパスで南に進んだ。
 高台から獣道のような細い道を下ってゆくと、眼下にかすかな明かりがひとつ見えた。国道一〇三号線沿いにある民家だろうと思われる。
 とりあえずは稚内市内から四キロほどは離れたところまできている。眼下に雪の上を蛇が這ったような黒っぽい道路が見える。
統山は道路の手前で止まった。しおりは統山の背に身を隠している。
統山はしおりの肩を押し下げて静かに藪の中に押し込むと、しおりの口に手を当てて静かにしているように合図した。
統山は人の気配を感じていた。どんな気配かと聞かれても答えられないが、だれかが国道の端で、息をひそめて待ち受けているような気がしたのだ。
統山はベルトからスタンガンと兼用になっている特殊警棒をぬき、左手でめいっぱいに伸ばした。多少は剣道と空手で鍛えている。相手がひとりかふたりなら引けはとらない自信はある。
 特殊警棒の取っ手の皮ひもを右手にしっかりと巻きつけて息を整えた。
統山は身を沈めながら道路とボサの境界線に出た。
いきなり右うしろから何者かが飛びかかってきた。
 統山は渾身の力を込めて特殊警棒をはらった。ガツッという手ごたえがあり、飛びかかってきた人間がうめき声を出して地面にころがった。転がった黒い影をめがけて警棒を力いっぱい振り下ろした。鋼鉄の警棒は影の右手とわき腹のあたりにめりこみ、腕と何本かの肋骨が折れた手ごたえを感じた。
ボサの中からもうひとりが飛び出してきた。その腹のあたりにめがけて統山は警棒を突き出し、手元のスタンガンのスイッチを押した。
 バチバチという音とともに青白い火花が飛んだ。二十万ボルトの高電圧で、飛びかかってきた人間は地面に落ちて全身を痙攣させている。
人が潜んでいる気配は消えた。足元にふたりの男がころがっている。
 どちらかを拷問して、目的はなんなのかを聞き出そうと思ったが、それよりも、一刻でも早くここから立ち去るのが先決だと統山は判断した。
藪の中のしおりを探した。しおりはうずくまって両手で耳を覆っていた。統山が肩に触れると、しおりは飛び上がって驚いたようだった。
「貴之さん!」
統山だと気がついたしおりは統山の首にしがみついた。そしてしがみついたまま統山の唇を求めた。統山はしおりを抱きしめて唇を重ねた。
「いくぞ…」
統山は小さな声で言った。
統山は、倒れている男たちにもう一度スタンガンを押し付けて感電させ、完全に動けなくしてからすばやく身体検査した。ふたりとも財布のほかには何も持っていなかった。
 統山はふたりの財布から現金だけを抜き取るとウエストバックの中に入れて、しおりの手をとって低い姿勢で道路を横断した。
十二月四日が明けようとしていた。



注)この小説はフィクションであり、登場人物や組織などは実際に存在するものではありません。











ケータイ表示 | 小説情報 | 小説評価/感想 | 縦書き表示 | TXTファイル | トラックバック(0) | 作者紹介ページ


小説の責任/著作権は特に記載のない場合は作者にあります。
作者の許可なく小説を無断転載することは法律で堅く禁じられています。




BACK | TOP | NEXT


小説家になろう