第3話 占領された街
三 占領された街
統山はその日の夕方、稚内全日空ホテルにはいった。
泉屋旅館の従業員が電話で予約をしてくれたおかげで、今夜から車の中で寝なくて済みそうだった。
統山はホテルの駐車場に車を止め、必要最小限の物が入っているショルダー・バックを持ってチェック・インした。
部屋は六階の十一号室だった。洋室タイプで、トイレとユニット・バスがあり、セミ・ダブルのベッドがついている。
窓からは市内の灯りとホテルの駐車場が見えた。
それにしても、カメラマンの秋山幸助とレポーターの沢田理香はどうしたのだろうか。
支社と連絡がつくのなら、統山が稚内に向かうということも支社長から聞いているはずだが、旅館の従業員の言うとおり、市内だけしか電話が通じず、中継所が航空自衛隊の誤爆の巻き添えを食って破壊されたのであれば携帯電話も通じない。支社と連絡をとろうにもとれなかっただろう。
携帯電話の画面はずっと圏外を示している。
しかし、ふたりはこの稚内のどこかにいることは間違いない。公民館か学校の体育館にでも泊まっているのかもしれない。
ふたりがまだ旭川に戻っていないのなら明日あたりには会えるだろう。たまたまこのホテルに泊まれたのは自分に運が向いているのか。
統山は部屋の冷蔵庫からビールを出して飲んだ。コンビニから買ってきて冷やしておいたものだ。
窓から日が暮れた市内の灯りが見える。かなり気温が下がっているのか、その灯りは雪に反射してキラキラとまばたいていた。
途中で買ってきた稚内新聞をあらためて読み直した。
山岡総理大臣が、死亡した百五十人の遺族に対して全面補償をするという記事が夕刊の一面で大きく報じられている。関連する記事も同じだ。
遺族の代表が、死んだ肉親は戻ることはないが、市と政府の対応はそれなりに評価できるというコメントを載せている。空港の復旧工事も、札幌や旭川から名だたる工事業者を入れて急ピッチで進めているとも書かれていた。
しかし、紙面からの熱意というものが伝わってこなかった。きょう歩いた稚内の町の中と同じだ。平穏という言葉しか浮かんでこないのだ。それも、ただの平穏ではなく、違う意味での平穏さだ。
しいて言えばわざとらしさ、とでも言うのか。
しかし、北洋テレビ傘下の旭川新報も含めて、地方新聞というのはこの程度のレベルかもしれない。
札幌や旭川などの都市では、地方版を含めて道内最大購読シェアをもつ北海道新聞と、読売新聞の北海道版という二大新聞がしのぎを削っている。統山も旭川新報のほかにその両方を購読している。ひとつのことでも新聞によって見解が違うからだ。
新聞やテレビは、あくまでも自分なりに物事を判断する参考にすぎない。
統山ははっとして椅子から立ち上がった。
そういえば、稚内入りしてから、見た新聞といえば稚内新聞だけだったことに気がついた。
駅やコンビニにも稚内新聞以外は売っていなかった。ふだん頭に焼き付いている北海道新聞や毎日、朝日、読売などのロゴマークは見た覚えはない。
統山はテレビをつけてみた。
昼間、市役所で前田市長と一緒に見た山岡総理の記者会見の録画が繰りかえし放送されている。北洋テレビももちろんだが、どこの放送局も同じ内容だった。各社が共同で特別番組を放送しているらしい。
「ん?」
統山は首をかしげた。
「これは、いったい…」
統山は息を呑んで画面を見つめた。
いかに共同の特別番組とはいえ、カメラの位置までがまったく同じとは考えられない。
いま放映している山岡総理の記者会見は、統山の見たところ、四台のテレビカメラを切り替えながら録画したものだ。その画面はどこのチャンネルもまったく同じものだった。
東京に集中しているテレビ局は、地上波のキー局だけでも十社。衛星放送やケーブルテレビを含めれば、かるく二百チャンネルを越える。
北海道で受信できる地上波は民放五社とNHK二社の七社で、HCTV(北海道ケーブルテレビ)は、その五社の民放とNHK二社を全道にネットしている。その民放五社やNHK二社とも全部同じ映像だった。
NHK・BSと映画を専門に流しているWOWWOW、映画やスポーツなどの専門チャンネルが多い民放の衛星放送は、市長の言うとおり集中アンテナが破壊されたらしく、画面が出ていない。
この事件を放送しているのは、北海道ケーブルテレビが流す民放五社とNHKの二社だけだった。
しかし、と統山は各チャンネルを切り替えてみた。
民間人と自衛隊を合わせて百五十人が死亡するという大事件だ。その大事件の記者会見ともなれば、各キー局がこぞって山岡総理の会見を取材したと考えるのが自然だ。
その映像はテレビ局によってカメラを回す場所や角度が違うのは当然のはずだ。特集を組むにしても各社独自の映像とコメントを流すはずだった。
統山はしばし立ちすくんでテレビ画面を見ていた。
統山は急いで服を着てエレベーターでホテルのロビーに降りた。
ロビーでは浴衣姿やふだん着の数十人の男女がたむろしている。
「読売か、道新があれば見たいのだが…」
統山はフロントにいた四十歳くらいの女性従業員に言った。
「新聞でしたら、地元の稚内新聞がございますが」
フロントの女は無表情で新聞掛けを指さした。
「稚内新聞は読みました。それ以外の毎日新聞や朝日新聞、読売か道新の最新版を見せてもらいたい」
統山の言葉に、フロントの女は無表情の中に少し困惑した様子を見せた。
近くにいた年配の男が女の横に立った。
「申し訳ありませんがお客様。ここ数日、毎日新聞や朝日新聞はもちろん、読売も道新も届いていないのです。なんでも、先日の事故で陸路が遮断されているとのことで…」
男はそう言った。その男もホテルマンとは思えないほど無表情だ。
「航空便はともかく、陸送が遮断されているとは聞いていない」
統山は、フロントの男と女を交互に見ながら言った。
破壊された空港の復旧のために、札幌や旭川からの大手の土建業者が急ピッチで工事をしていると前田市長は言った。
地震や水害で道路が不通になっているというのならともかく、航空自衛隊のジェット戦闘機が誤爆したのは空港と自衛隊の基地のはずだ。誤爆と関係のない陸路が遮断されているはずがない。
もしも不通になってしまったとしても、被害の復旧のためにすぐに迂回路を作るなどして、陸路や鉄路は最優先で確保するのが当たり前だ。
「そう申されましても、わたくしどもには…」
フロントのふたりは無表情で統山を見た。
「わかった…」
統山は、これいじょう言ってもらちがあかないと判断し、エレベーターのほうに歩き出した。
そのとき、統山は背中に強い視線を感じて振り返った。
ロビーにいる数十人の客らしい者たちは、何事もないようにコーヒーやビールを飲み、ある者は雑談し、ある者は新聞に目を通している。
しかしそのロビーの空間がいやに無機質でだだっ広いように統山には感じられた。統山はため息をついて開いたエレベーターに乗った。
空港といいこのホテルといい、この異様な気配はなんなのだと統山は思った。
誰かが自分を見張っているのか。だとすると、いったい何のために…。
他人に見張られたりする覚えはない。空港でも異様な気配を感じた。市長の部屋を出たときもだ。いったいなぜだ。
部屋に戻った統山は、冷蔵庫から缶ビールを出して開けた。
そのとき、かすかにドアがノックされた。統山は一瞬ドアのほうを見たが、となりの部屋かもしれないと思い、注意だけをドアに向けていた。
またかすかに統山の部屋のドアがノックされた。周りをはばかるような、それでいて強い響きをもったノックだ。
「どなたですか?」
統山はドアに近づいて声を出した。
「お願いです。開けてください」と、押し殺した女の声がする。
ドアチェーンをかけたまま、少しドアを開けた。
「中に入れてください。お願いです!」
ドアの外には、ホテルの浴衣を着た三十歳くらいの女が立っている。統山の顔を確認すると、両手を合わせて何度も拝むようにしている。
統山はチェーンをはずしてドアを開けた。女は転がるように中に入ってきた。キャスター付きの旅行バックを持っている。顔は青ざめていた。
統山はすばやく廊下を見渡したが、廊下に人影はなかった。
「あんたは誰なんだ」
統山はドアのロックをかけて女に聞いた。
女は部屋の中を見回している。何があったのか眉間にたてじわができていた。
「お願いです。今夜だけ、ここにおいてください。ひとりじゃ怖くて!」
女は青ざめた顔で統山を見た。
「いったい何があったんだ。そんな格好で見も知らぬ他人の部屋にいきなり飛び込んでくるとは、正常とは思えないぞ。どうしても入れてくれというからドアを開けたが、騒ぎになるのが嫌で開けただけだ。おれとしては迷惑だ」
統山は、突っ立っている女をにらみながら、窓際の椅子に腰を下ろして煙草をくわえた。
「変なんです…」
女はバックを床において統山に言った。
「変?。なにが…」
統山は煙草に火をつけて立っている女を見上げた。
よほどあわててきたのか、浴衣の襟元とすそが乱れて胸と白い足が限界まで見えていたが、女はそれも気がつかない様子だった。
「この町、変なんです」
女の表情は真剣だった。
「………」
統山は女の言葉を無視した。
変だとは統山も思っている。なにが変なのかは、いまのところはわからない。
空港やこのホテルのロビーでの気配。市長の落ち着き払った態度。新聞やテレビ映像など、確かにおかしなことばかりだ。
しかし、変だといえば、突然見も知らぬ男の部屋に飛び込んできたこの女もそうとう変だ。
誰かに見られているような気配を感じたのも、ひょっとするとこの女が絡んでいるのかもしれない。でなければ、ロビーから統山が戻ってきたのを待っていたかのようにドアをノックするはずがないのだ。
だが、何かがあっても女ひとりくらいはねじ伏せることができる。
自分とて剣道と空手の有段者だ。女が誰かのさしがねで自分に近づいてきたにしても、おめおめと相手の思うとおりにはならない自信はある。
統山は女の素性がわかるまでは、話を黙って聞くことにした。
「あの…。座ってもいいですか?」
統山は無言で向かいの椅子を指さした。
女は椅子に座るとテーブルにおいてあった統山の飲みかけの缶ビールを一気に飲んだ。女の喉と、乱れている胸元の白い肌が部屋の照明に映えた。
「すみません。のどがからからで…」
女はそう言って統山に頭を下げた。
「………」
統山は煙草を吸いながら、無言のまま女を見つめた。
「わたし、生島しおりといいます。生け花の生きるに、海の島で、名前はひながなのしおりです。旭川の不動産会社で事務員をしています。三日前から北日本観光のパックで道北旅行に来て、このホテルに宿泊しているんです」
ビールで少し落ち着いたのか、生島しおりと名乗った女は乱れていた浴衣のすそと襟元を簡単になおした。
「それで、なにが変なんだ」
統山は生島しおりに聞いた。
「この三日間で、一緒に来た人たちが次々といなくなって…」
生島しおりは何かにおびえているような表情で言った。
「どこにいったのか、ぜんぜんわからないんです。わたし、誰かに見張られているようで怖くって…。でも、そのほかには特に変わったことはないんです。大変な事故があったことは知っていましたけど、一時は大騒ぎだったのに、テレビで総理大臣の説明があっていらい、何事もなかったみたいに町は静かで、歩いていても特に変わったこともなかったんです。でも…」
しおりはそこまで言うと言葉を切った。そして不安の表情で部屋の窓から外を見た。
「わたし、一緒に来た人たちが次々といなくなって、そして誰かに見張られている気がして、怖くなってバスで稚内から出ようとしたんです。でも、出られないんです」
「出られない?」
統山は灰皿で煙草を消しかかった手を止めた。
「ええ…。バスに乗って上勇知というところまで行ったんですけど、国道に見慣れない服装の人が二十人ほどいて、バスを通してくれないんです。この先は道路が崩れていて通行はできない。元に戻るようにって…」
しおりはそう言うと、また缶ビールを飲んだ。
「それはいつのことだ?」
統山は煙草を消しながら聞いた。
「きょうの夕方です。バスに乗ったのは四時半頃で、そのバスが止められたのは六時半ころでした。しかたなく、またこのホテルに戻ってきたんです。町を歩いていて、逃げるように旭川行きのバスに乗りましたから、荷物もそのままでしたし、チェックアウトもしていませんでした。そのおかげで、とりあえず部屋だけは…」
しおりは早口で言った。
「シャワーを使おうと思って浴衣に着替えたんです。でも、なんとなく不安で」
しおりはまた暗い窓の外を見た。
「こんな格好のままでしたけど、ホテルの中の様子を見に降りたんです。そこで…。ロビーで、あなたとフロントとのやりとりを聞いて、少なくともこの人は変じゃないと…。それで、失礼だとは思ったんですけど、あなたが部屋に入ったのをみて…」
しおりは不安そうな表情で顔を伏せた。
「…。とりあえず服を着ることだ。こんなおっさんでも、おれも一応は男だ。浴衣が乱れた格好でいられては、目のやり場に困る」
そう言った統山に、しおりは顔を赤くして浴衣の胸元とすそを閉じた。
「シャワー、お借りしてもいいですか?。怖くてシャワーも浴びていないんです」
うなずいた統山に、しおりは椅子から立ち上がった。
浴衣の上からでもしおりのスタイルの良さは想像できた。四十五歳で独身の統山には、すそや胸元が乱れている浴衣姿の女は刺激が強すぎる。
しおりはバックから着替えを出すとシャワー室に入った。やがて勢いよくシャワーを出す音が聞こえた。
統山はドアのロックとチェーンをチェックした。ドアスコープには何も映っていない。 冷蔵庫をあけ、新しい缶ビールを出して飲んだ。
十分ほどでしおりが出てきた。緑色のセーターに黒いスカート姿だ。
「ごめんなさい。いきなり飛び込んできて。変な女だと思ったでしょう」
しおりはそう言って統山の向かいの椅子に座った。
「………」
統山はその言葉に返事をしなかった。
「わたしのこと、信用していないんですね」
そう言ったしおりの表情には、少し不満の色が表れていた。
「あたりまえだ。いきなり飛び込んできた女を、すぐに信用しろというのか。おれはあんたの素性さえ知らないんだ。ひょっとしたら、誰かに頼まれておれの寝首を掻きに来た女の殺し屋かもしれん。もっとも、おれは殺される覚えはないが…」
統山はしおりを見つめて言った。
冗談のつもりはなかった。確かにこの稚内は変だ。それは認める。
この女も同じ事を感じているにせよ、男ひとりの部屋に浴衣姿でいきなり飛び込んでくるのは尋常な神経とはいえない。なにかの目的があって来たとしか考えられない。それも、女としての武器を生かしてだ。
女の手に乗ってみるのも悪くはない。女がその覚悟で来たというのならばだが、その後のことを考えたら、おいそれと乗るわけにはいかない。ベッドで抱き合っている最中に女の仲間に踏み込まれでもしたら命とりだ。
「とにかく、落ち着いたら出ていってくれ。ここは、おれが金を払って五日まで借りている部屋だ。はっきり言って迷惑なんでね」
統山は煙草に火をつけた。
「いやです。出て行けなんて言わないでください!。ひと晩だけでいいんです。ここにいさせて。わたしを信用できないなら、殺し屋だって思うんなら手足を縛ってもいいわ。お願いだから、ひと晩だけここにいさせて!」
しおりはそう言って両手を合わせた。そのしおりを見つめて、統山はため息をついた。
「おれは出かける。ドアは自動ロックだ。三十分でも一時間でも、気持ちが落ち着くまでここにいるといい。ただしおれが戻ってくる前に自分の部屋に帰ってくれ」
統山はそう言って立ち上がると、ベッドの上においてあるウエストバックを持った。
「待って!。ひとりにしないで。わたしもいくわ!」
しおりはあわててセーターの上から上着を着て、白いショルダーバックを持った。
統山はその姿を横目で見ながら、かけてあったジャンバーを着てドアのチェーンをはずした。すぐあとからしおりがついてくる。
「食事に出かけてくる」
エレベーターから降りた統山はフロントに告げてカードキーを預けた。
キーを持ったまま出かけようかとも思ったが、予備のキーはホテル側も持っている。もしも稚内全部の人間が変だとすれば、何とでもできるのだ。
「いってらっしゃいませ」と、フロントの女が頭を下げた。
しおりは青ざめた表情で顔を伏せがちにしていた。
統山のあとをしおりがついてくる。気温が低いのだろう。息をすると鼻毛が凍り、雪の上を歩くふたりの靴がキュッ、キュッと音を出す。
統山は全身の神経を背中に集中した。その神経に、おそらくはどこかで自分を見張っていようと思われる、チクリと突き刺すような視線を雪明りの中で感じたような気がした。
統山としおりは、ホテルから道路一本隔てた繁華街に出た。しおりは統山のジャンバーのそでをしっかりとつかんでいる。
「あの…」
しおりは歩きながら統山を見上げた。
「お嫌でなければ、せめてお名前くらいは教えてくださらない?」
しおりは言った。
「統山貴之だ。統一の統に、山川の山…。今年四十五になる…」
統山は無表情に言った。
「じゃあ、名前は、貴重の貴に、この之でしょう」
しおりは、統山の背中に指で之という字を書いた。統山は背中の感触にふと笑った。
ふたりは『大福』という食堂に入った。
中には三人の客がいた。いずれも地元の者らしく、店のかみさんと談笑しながら酒を飲んでいた。
統山としおりは入り口にいちばん近いテーブルに座わり、しおりはかけそば、統山はかしわそばとコップ酒を注文した。
この三人の客は、談笑しながらも自分のことを見張っている。そして自分に襲いかかる機会をうかがっているのではないかと思うと、しおりは恐怖で貧血を起こしそうだった。
それにくわえて、統山は自分のことを信用していない。いつ統山に放り出されるかもわからない。気が狂っているとしか思えないような女と一緒にいるほど物好きでもないだろう。
ここで統山に見捨てられたら、自分の未来に希望の光は無いように思える。
旭川行きのバスに乗ったのは自分ひとりだけだった。
いっしょにきたツアー客は、あの事故いらい、ひとり、またひとりと姿を消した。
添乗員が懸命に市内を捜し歩いたが、結局いなくなったツアー客は見つからなかった。それどころか、その添乗員も姿を消してしまったのだ。
しおりは稚内の町を歩いた。いっしょにきたツアー客の誰かと会うことを期待したが、狭い町にもかかわらず、誰一人として知った顔の人間と出会うことはなかった。
誰かに見られている。
そう感じたのは稚内公園に夕日が沈んだころだった。背中に粘りつくような視線を感じたのだ。
ブルッと身震いしたしおりの全身に鳥肌が立った。すぐに振り向いてみたが、数十人の人たちが歩いているだけで、しおりを見つめる主の姿は確認できなかった。
誰かが自分を見張っている。旭川の小さな会社の事務員として働く自分が、知らない街で人に見張られるような覚えはない。
しおりは身の危険を感じた。
このままでは、自分はどこかに連れ去られる。連れ去られて、粘りつくような視線の主にレイプされて殺される。
暗いどこかの部屋に連れ込まれ、必死に抵抗するしおりの衣服を乱暴に剥ぎ取る男の姿が頭に浮かんだ。
薄笑いを浮かべた男は泣き叫ぶしおりに覆いかぶさり、衣服を剥ぎ取った自分の体を時間をかけてもてあそんだうえ、無理やりに自分を犯す。男は何度も何度も執拗にしおりを犯し、最後にしおりの首を絞めて殺す。
そして死体となったしおりの体にコンクリート・ブロックか何かを縛り付けて、流氷が漂う冷たい北の海に放り込む。
暗いオホーツクの海に沈んでゆく自分の姿が脳裏に浮かんだ。
しおりは泣き叫びたい思いを必死にこらえ、市役所前に止まっていた旭川行きのバスに走って乗り込んだ。
出発直前だったのか、しおりが乗ったバスはすぐに出発した。
日が暮れた国道四十号線をバスは南に向かって走った。
乗客はしおりだけだった。しおりはバスの一番後ろの席に座った。バスの運転手さえもしおりをレイプして殺そうとしている男に思えた。ルームミラーでしおりをチラチラと見ているような気がする。
バスのヘッドライトがほの暗い雪の道路を照らしている。
一時間ほど過ぎたころ、バスがブレーキをかけて止まった。近くには民家も見えない。ここで自分を襲うつもりなのか。そう考えただけでしおりの体が硬くなった。
突然バスのドアが開いた。黒っぽい服装の男たちが数人はいってきた。
しおりは恐怖に震えた。ここで自分はレイプされて殺される。あの、粘りつくような視線の男に…。
男の一人がしおりを確認して座席の前にやってきた。
しおりは自分の顔から血の気が引くのがわかった。逃げ出そうにも通路には男たちが立ちふさがっている。
どうにもならなかった。しおりは全身を小刻みに震わせて、きつく目を閉じた。握った両手をひざの上に置き、両ひざをしっかりと閉じた。男の粘りつく視線がスカートの中をのぞいているような気がした。
「失礼ですが」と男が言った。
その声に、しおりは閉じていた目を大きく見開いて男を見た。
「いま、運転手にも言いましたが、この先で道路が陥没して車は通れません。復旧はいつになるかわかりません。もとの道を戻ってください」
男は落ち着いた声でそう告げた。そして男たちはバスを降りていった。
しおりは大きなため息をついた。
しおりは無言でそばを食べた。統山はそばを食べ終わってコップ酒を飲んでいる。
「もう出ましょう」
しおりは小声で統山に言った。統山は少し笑って立ち上がった。
統山が金を払っているときも、しおりは統山の背中に身を隠すようにして下を向いていた。三人の客はふたりをいぶかしそうに見つめている。
「ごちそうさん」
統山はそう言って戸をあけて外に出た。
積もった雪に町の灯が反射している。しおりは統山のジャンバーのすそをしっかりと握っている。
「とりあえず、きょうのところはホテルに戻ろう。おれの部屋にいたければいてもいい」
統山は小声でしおりに言った。
「ええ…」
しおりは小さな声で答えた。
ホテルに入った統山は、まず部屋の中を徹底的に調べた。
ウエストバックの中から小型の無線機を取り出し、三百メガ帯と四百メガ帯の電波を受信して電波発信器の有無を確認したが、盗聴や盗撮をされている様子はなかった。置いていった持ち物も調べてみたが、ふたりとも異常はなかった。
統山は椅子に座った。
「深夜になったら、おれはここを出る…」
統山は煙草に火をつけて言った。
「しおりさんといったな…。あんたが言ったとおり、ここは変だ。町ぐるみで何かを覆い隠そうとしているような気がする。見張られているのも、おそらく間違いじゃないだろう。目的が何なのかはおれもわからんが、あんたもおれも、誰か、あるいは何かに見張られていることは確かなようだ」
統山はそう言って煙草の煙を吐いた。
「誰なの。誰がわたしたちを…」
しおりは統山の向かいに座り、不安な表情で聞いた。それを物語るかのように眉間に縦じわが出ている。
「わからない。わからないが、このままでは危険な状態になることは確かなようだ」
統山は煙草を吸った。
「あんたの不安は的中している。おれにも、誰かに見張られているという感覚はきのうあたりからあった…。ただ、いきなり飛び込んできたあんたを信用できなかった」
統山はしおりを見つめた。
「いまでも完全に信用したわけではない。だが、誰がおれを、何のために見張っているのか、その疑問は解かなければならんが、今は身の危険を避けるのが先決のようだ。だからこの町から出る」
統山はそう言って窓から雪明りの外を見た。
「わたしも連れて行って。こんな町は、もういや…」
しおりはゆっくりと首を振りながら大きなため息をついた。
「あんたがおれをねらった殺し屋じゃないのなら、とりあえずは、この町から出るまでいっしょに行こう」
統山は煙草をくわえて言った。
「はい、それでもいいです。この町からさえ出られれば…」
しおりも窓の外を見つめた。
暗いガラスに不安そうな自分の顔が映っている。そのうしろに、しおりを拉致してレイプしようともくろんでいる、粘りつくような目をした男の姿が映ったような気がした。
しおりは小さく体が震えるのを感じた。
「…。おれはシャワーを浴びてくる。あんたは好きなところで休んでおくといい。おれと一緒に出るという決心が変わらないのなら、ここから出るときは教える」
統山は立ち上がってシャワー室に入った。
熱いシャワーを浴びながら、統山は一連の不可解な出来事を頭の中で分析してみた。
市長の前田いわく、航空自衛隊の演習中によるミサイルとバルカン砲の誤射と誤爆。大騒動を一瞬にして消し去った山岡総理大臣の記者会見。各テレビ局のまったく同じ映像。陸路は遮断されていないはずなのに、届いていない大手各社の新聞。自分の神経がとらえた何者かの殺気にも似た気配と視線。
航空自衛隊のジェット機が演習中に市街地を誤爆した。それまでは良いとする。過去にもあったことだ。しかし、爆撃した場所が航空自衛隊のレーダー基地と民間の空港とあっては、誤爆では言い訳にならないはずだ。
山岡総理大臣は、三沢の航空自衛隊の誤爆とテレビの会見で言っていたが、果たして本当に航空自衛隊のジェット機だったのか。
そして…。あれは、いったいなにを意味するのか、と統山は思った。偶然の一致なのか、それとも…。
統山はシャワー室から出た。
部屋にいるはずの生島しおりの姿がなかった。統山の心に戦慄が走った。
やはり生島しおりという女は誰かに命令されて統山を監視しに来たのだ。とすれば間髪をおかずしおりのバックにいる人間がやってくる。統山がにらんだとおり、それは殺し屋かもしれない。
統山は急いで服を着てウエストバックを腰に付けた。このままでは危険だ。一刻も早くこの部屋から出なければならない。
服を着終わった統山は、ズボンのベルトから伸ばすと一メートルほどになるステンレス鋼製の特殊警棒を引き抜いた。
アメリカの警察官が犯人逮捕用に使う警棒で、強力なスタンガンが装備されている。
先端には小さな突起がふたつ突き出ていて、相手に触れて手元のスイッチを入れると、瞬間的だが二十万ボルトの電流が流れて感電させる。八本の乾電池で十回は使える。
テレビカメラマンという職業がら、撮影にはさまざまな場面や場所に出入りする。
カメラを向ける対象は、こころよく協力してくれる人間ばかりではなく、場合によってはデモ行進や暴力団などにもレンズを向けることがある。撮影中に何度も殴りかかられたり、顔を覚えられて、ある日突然襲われたりすることもある。そんなときに自分の身を守るために、いつもショルダーバックの中かズボンのベルトに付けているのだ。
統山も数人の暴力団に襲われたことがある。しかし、ろくに格闘技を知らない男たちを相手にその警棒は一度も使ったことはない。素手でじゅうぶんだった。
統山は、ベッドの横に置いてあったショルダーバックの紐を調節して背負えるようにした。
中には小型の双眼鏡、紙のように薄いが、氷の上でも冷たさが伝わらないアメリカ軍が使っている断熱シートと、同じ材質のシェラフ、ハンディサイズのビデオカメラ。
ベルトには、特殊警棒のほかに携帯電話、折りたたみ式のナイフとコンパスが下げてある。
立ち上がろうとした統山の視界に何かが映った。それを確認した統山は大きくため息をついて背負いかけたバックを床に置いた。
ベッドの陰に隠れるようにして、生島しおりが毛布をかぶって眠っていた。毛布からしおりの白い足が見えている。
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