第2話 疑 念
二 疑 念
永田町の総理大臣官邸に社会共和党、社会連合党、連立公民党、平和党、公民党の各代表が集まっていた。
「総理、稚内を空爆したミグは、いったいどこの国のジェット機だ!。わからんじゃ返事になっとらんじゃないか!」
社共党の川島が机をたたいて怒鳴った。
川島健作は野党第一党の社会共和党の党首で、山岡が総裁を務める自由公民党と事あるごとに党論を戦わせ、統一地方選挙で議席が逆転したときには次期総理確実と噂される人物だ。
「臨時の国防会議を召集して、すでに十二時間が経っているというのに、北海道警察や自衛隊の北海道方面総監部は、いったいなにをしとるんだ!。詳しい情報のひとつやふたつはあってしかるべきじゃないのか!」
川島がまた怒鳴った。
「きみに言われるまでもない。わしもその情報を待っとるんだ。北海道警察や自衛隊の北海道方面総監部も、情報収集のために現地に人間は送り込んでいる」
山岡は、煙草の灰を灰皿に落としながら川島に言った。
「わかっとるだろう。早まった判断はできんのだ。死者が百五十人だ」
山岡は川島に言った。
「もしもきみたちが言うとおり、航空自衛隊の誤爆か、他国による攻撃だとしても、その判断を下して全国の自衛隊に治安や防衛出動の命令を発動するには時期尚早だ。待機命令だけは出してある。それに、いまのところ、航空自衛隊が北方海上で演習をしていたとの事実はない…」
「ならば、他国の戦闘機による攻撃ではないのか!。自衛隊の戦闘機はF・26かF・32のはずだ。ミグ・41などと、アジアであの戦闘機を持っているのは、あの機を生産しているロシアか、それを輸入して配備している中国、北鮮民国の三カ国しかない。そこまでわかっていながら!」
川島は山岡をにらんで言った。
「すでに外務省を通じて、その三カ国には確認している。いずれの国もミグを北海道方面に飛ばした事実はないと言明してきた。ゆいいつ北鮮民国だけは、回答にあやむやなところがある。しかし、だからと言って北鮮民国の戦闘機だとは言えんのだ。事実も解明しないまま、北鮮民国が日本を攻撃したなどと発表してみろ。日本人拉致やノドン、テポドン、核実験どころの騒ぎじゃない。戦争覚悟の国際問題に発展するんだぞ!」
山岡は灰皿で乱暴に煙草をもみ消して川島をにらんだ。
「そうはいうが、テレビや新聞を見ろ。ロシア、北鮮民国、中国と、国の名前を出して報道している!。この始末をどうつけるつもりだ!」
川島は山岡をにらんで立ち上がった。
「あいつらは、勝手に国の名前を出して騒いとるだけだ。政府の公式発表ではない。そんなことはとっくに三カ国に通知してある!」
山岡はまた煙草を手に取った。
「この局面をどうするつもりだ。総辞職くらいでは済まんのだぞ、総理!」
川島が山岡を見据えた。
いまの政府ではどうしようもない局面に発展する。
時が経てば経つほど、世論は政府の立ち遅れた対策を非難する。時も時だ。春には統一地方選挙も控えている。山岡が総裁の自由公民党は過半数の議席を大きく割るだろう。そうなったとき、政権を握るのは自分が代表を勤める社共党だ。
現在まで、稚内の自衛隊と空港が国籍不明のジェット機に攻撃された以外、なんらかの攻撃や空爆の報告ははいっていないが、これだけでも国にとっては一大事だ。
しかし、このまま事が収まらなくても今度の選挙は勝てる。政権は自由公民党から社会共和党にうつる。
いまは山岡に事態の収拾をさせておく。社共党が選挙で勝ったころには落ち着いているだろう。それ以降は自分が総理の椅子に座る。
川島は、すでに総理大臣になったときの政策を自身の頭の中で描いていた。
「だったら川島くん。きみがこの場から総理に就任して、この前代未聞の事件を解決する指揮をとってみるか?。社共党が望むのなら、この場できみに政権を譲ってもかまわん!。総理になったきみが北鮮民国やロシアを相手に戦争をしようと言うなら、わしも前総理として協力しようじゃないか!」
山岡はそう言って川島をにらんだ。
社共党にこの局面を打開する裁量があるのならやってみろ。
山岡の厳しい目は、川島と、この国防会議に参加している閣僚と野党党首全員にそう言っていた。
川島は両手を握り締めて山岡をにらんでいた。そしてため息をついて椅子に腰を下ろした。ほかの閣僚や野党党首たちも、じっと腕を組んで目を閉じた。
十二月二日午後一時四十二分、統山貴之は稚内の航空自衛隊基地の門に到着していた。
門は低い場所にあり、高台にある基地の様子はわからない。空からの映像を何度かテレビで見ただけだが、降り積もった雪の中に、黒く大きな爆発の穴が重なるようにいくつもあいていて、ミサイルの威力のすさまじさが伺われるにはじゅうぶんだった。
門には十人ほどの自衛隊員がいて、統山は中の取材をしたいと申し出たが、警備の自衛隊員は、北海道方面総監の命令により、たとえ報道であろうとも民間人を基地の中には入れないことを告げた。
どの隊員も統山を警戒しているのか、厳しい目を統山に向けた。
もともと、航空自衛隊のレーダー基地には民間人はめったなことでは入れない。
陸上自衛隊や海上自衛隊の隊員であっても、身分がはっきりしていて事前の通知がない場合は、基地内への立ち入りは厳しく制限される。
統山は基地の撮影はあきらめ、雪の道路を市内のほうへと車を向けた。
稚内空港は市内から十キロほど離れた国道二三八号線沿いにある。
統山は警察や自衛隊で大混雑している市内を抜け、スタンドで燃料を補給してから稚内空港を目指した。
途中で何台もの自衛隊のトラックや警察のパトカーとすれ違った。警察や自衛隊による数ヶ所の検問はあったものの、記者証を提示すると自衛隊も警察もすんなりと通してくれた。
しかし、と統山は思った。
先に現地入りしている秋山幸助と沢田理香との連絡がつかないのだ。携帯電話で何度も呼び出しているが、二人の携帯は電源が切ってあるか、電波の届かないところにいるとのメッセージしか返ってこない。だが稚内市はどこにいても携帯の電波は通じるはずだ。
まあいいさ、そのうち連絡もつくだろう。もしかすると空港で取材をしているかもしれない。
統山はそうつぶやいて空港の駐車場に入った。
「こりゃあ、ひどいな…」
寒風が吹き抜ける稚内空港に着いた統山は、その光景に思わずつぶやいた。
まるでどこかの工事現場のようだった。南北に伸びた滑走路は、まさに穴だらけだ。ヘリコプターならなんとか離着陸できる程度だろう。
数機の旅客機がごみ山に捨てられたオモチャのようにひしゃげている。黒くなっているのはミサイルの攻撃で炎上したせいだとわかる。
空港ターミナルも、元の半分程度しか残っていない。
統山は助手席のビデオカメラを肩に担ぐと、車の中から二メートルほどの脚立を出してその上に登った。
ファインダーをのぞく統山は顔をしかめた。
「稚内空港は、まさに月のクレーターの様相です。近くには残骸の後始末をしているらしい数百人の人間や重機と、民間人を立ち入らせないためにの警備員らしい姿があります」
統山はカメラを回しながら説明を入れた。
休暇中の温泉から直接現地入りしたのでレポーターはいない。自分で声を入れるしかない。
警備員たちも、カメラを担いで撮影している統山をチラッと見ただけで、特に撮影をとがめる様子もなかった。
統山はカメラを回しながら、残骸の山と化した空港ターミナルに入った。
中には警察官や報道各社の関係者がごった返していた。数社が電送装置でライブ映像を送っているらしく、あちこちに声を張り上げるレポーターの姿がある。
統山は、カメラマンの秋山幸助と、レポーターとして現地入りしているはずの沢田理香の姿を探したが、ターミナルの中にふたりの姿は見当たらなかった。
すでに空港での取材を終えて、違う場所に移動したのかもしれない。
そのことを旭川支社長に連絡しようとして携帯電話を取り出した。
統山は首をかしげた。電話は圏外になっている。
先ほどまでは、つながらなかったものの、メッセージは流れていた。それが今は完全に圏外になっている。
どんな田舎町でも携帯電話が使えるこの時代に、空港の近くで圏外などとは考えられない。いったいどうしたんだと思いながら、近くにある公衆電話の受話器を取り上げようとして、〈事故により故障中〉という張り紙に気づいた。
事故だと?…。これのどこが事故なんだ。
統山は大きなため息をついた。
まさか、他社の人間に電話を借りるわけにもゆかない。
メチャメチャになった空港ターミナルの中をしばらく撮影して、停めてある車の方に向かって歩き出した。
「ん?…」
統山は、ふと何かの気配に気づいて振り返った。
うしろでは相変わらずターミナルの中や外で、報道の記者やレポーターたちがせわしなく動き回っている。
統山のすぐ後ろではHCTV(北海道ケーブルテレビ)の男性レポーターがカメラに向かって、身振り手振りを加えて現場の様子を伝えていた。
「気のせいか…」
統山は首をかしげながら車のほうに歩いていった。
遠くに見える稚内公園に夕日が沈みかけている。
とりあえず、今夜の寝場所を探さなければならない。
おそらく市内の旅館やホテルは満室だろう。この事態では仕方がないことだ。
何百人という警察や報道関係者で、学校の体育館や公民館なども彼らの宿泊場所となっているはずだ。だが、最悪の場合は車の中でも寝られる。何があるかわからないから寝袋や毛布は常に車に積んである。
統山は、出しっぱなしにしてあった脚立とカメラを車に積み、空港の駐車場から市内に向けて走り出した。
案の定、市内のホテルや旅館はどこも満室だった。
支社に電話をかけようと思ったが、市内全域の電話は、事件があった次の日から、通じるのは稚内市内だけで、それ以外はどこにも通じない状態だと、旅館の従業員から聞かされた。携帯電話もあれからまったく通じなくなっている。
「陸の孤島か…」
統山はそうつぶやいた。
何軒かめの泉屋旅館の従業員は、統山のつぶやきにただ笑うだけだった。
「お困りでしょう。空きの旅館かホテルをさがしてみましょう」
従業員は統山の名刺を見ながら何ヶ所かに電話をかけていた。
何軒めかのホテルに空き室があったらしく、笑顔を統山に向けている。
「あす、全日空ホテルに空きがでるそうです。統山様のお名前で予約をしておきました」
従業員は、笑顔で統山が渡した名刺を返した。
統山は従業員に千円札を二枚渡して旅館の玄関を出た。
その足で近くのコンビニに寄り、かろうじて残っていた数本のソーセージ、カップ麺、缶コーヒー、ビール、日本酒、稚内新聞の夕刊などを買って車に乗り込んだ。
自分が映像や写真を提供している旭川新報や、読売や朝日、毎日、道新(北海道新聞)など大手の新聞を買おうと数件の店を歩いたが、稚内新聞のほかは売っていなかった。
統山は、JR稚内駅の操車場の敷地を越え、泉屋旅館の従業員が予約してくれた稚内全日空ホテル近くの空き地に車を止めた。
ホテルの奥には東日本海フェリーのターミナルがある。
電力は復旧したらしく、市街地の交通信号や建物の明かりなどは、おそらくはいつもと変わらないだろうと思うほどに明るく点いていて、目に付く警察官、自衛隊、報道の人間たちを除けば、何事もなく時間が過ぎている稚内の町だと思われた。
十二月三日
統山は稚内市役所に足を向けた。
さすがに十二月の風は冷たい。雪まじりの北風が街を吹きぬけている。
除雪した雪が積まれて狭くなった商店街の歩道を、買い物などをしている市民に混じって海産物を売りにきているロシアの船員らしいのが数人のグループで歩いている。
きれいに除雪された市役所の駐車場には、広報用のワゴンが二台と、あとは市役所に勤めている人間のものらしい車が十台ほどがあった。そのうちの一台は黒塗りの高級車で、市長専用車だろう。
しかし、やけに静かだった。
あれだけの事件が起きてまだ三日目だというのに、この静けさはいったいどうしてだ、と統山は思った。
市役所の向かいには大小の店や住宅が並んでいる。
人もそれなりに歩いていて、別段不思議に思うことはない。しかしあまりに普通すぎている。市役所も普段と変わらない様子で建っている。
そういえば、昨日の夕方コンビニで買った稚内新聞の夕刊は、事件の扱いは派手だったものの、統山には、その記事や写真に熱が入っていないような気がした。
何がと問われてもこうだとは断言できないが、それは報道カメラマンとしての感覚だ。事件、あるいは事故をかぎつける職業の性といってもいい。
統山が見た稚内新聞にはそれが感じられなかった。
統山は市役所の自動ドアの前に立った。感知器が働いて自動ドアが開いた。
「北洋テレビの統山といいます。市長に面会したいのですが…」
統山は受付の女に名刺を出した。
「北洋テレビ…。お約束は?」
受付の女は、無表情で名刺から顔を上げて統山を見た。
「約束はしておりません。突然で申し訳ないのですが、なんとかお時間を割いてくださるようお伝えください」
統山は受付にそう言った。
札幌や旭川のような大きな町ならともかく、二万人ほどの町の市長だ。庁舎の中も、あれだけの事があったにしては平穏すぎる。
航空自衛隊の基地と民間の空港が国籍不明のジェット戦闘機に攻撃されて壊滅してから、まだ三日目だ。なのにこの平穏さはなぜなのか。
市民全部が納得するような最良の策を市長が講じたとしても、この静けさは不自然だ。前代未聞とも言うべきこの大事件なのに、市庁舎に報道関係者が詰めている様子もない。
もしもこの小さな町の市長に、市民や報道を一夜で納得させるほどの最良の対策ができたのなら、前田という市長は並々ならぬ手腕の持ち主といえる。統山が抱いている疑問を見事に解いてくれるのかという思いもあった。
「お会いになるそうです。どうぞ、ご案内いたします」
受付の女が受話器を置いて立ち上がった。
統山は受付の女についていった。
市長室は階段を昇った二階の南側に位置していた。
「北洋テレビの統山さまがお見えです」
案内をした受付の女が市長室のドアを開けて言った。中から「どうぞ」という声が聞こえた。統山は市長室に足を入れた。
「どうぞどうぞ。市長の前田です。北洋テレビさんは、わたしどもも拝見していますよ。しかしまあ、こんどの事でわざわざ…。まあお座りください」
市長の前田俊之は、笑顔で統山を招き入れた。
わざわざ?…。
こんな大事件に報道関係者が取材に来るのは当然のはずだ。それを、わざわざとはどういう意味を含んでいるのだ。
それを問いただそうとした疑問の言葉を統山は飲み込んだ。
「おい、お茶をたのむ」
市長室にいた女性事務員にお茶を言いつけて、前田は統山の向かいに腰を下ろした。
「ところで、どのような…」
前田は笑顔のまま統山に聞いた。
前田市長が女性事務員にお茶を持ってくるように告げたとき、前田のあごの下に十センチほどの切り傷のような痕跡があるのを統山は見た。扁桃腺か何かの手術をしたのかもしれない。
「あれほど大きな事件があったとは思えないほど町は平穏ですが、自衛隊の基地や空港の損害はどうなっているのです?」
統山は前田に聞いた。
「ああ、そのことですか…。すると、あなたは何もご存じない?」
前田は少し驚いたような表情で統山を見つめた。
「………」
統山はだまって前田を見た。
「大変な事件でした…」
前田は腕を組んでソファーにもたれかかった。
「ご存知でしょう。百五十人ですよ、百五十人…。この町始まって以来の大惨事です。四年前の大火なんてもんじゃない。基地の隊員さんや空港の職員、乗客の人たちには大変お気の毒でした」
前田はそう言って小さく頭を下げた。
「やはり、航空自衛隊の誤爆でした。演習中のね…」
前田は統山を見つめながらテーブルの煙草を持ち上げた。
「演習?。演習中の誤爆だったというんですか?」
統山はメモを取りながら前田に聞いた。
「テレビを見ていないんですか?。二日の正午に、山岡総理大臣が日本記者クラブで釈明していましたよ」
そう言って前田は立ち上がった。そして市長室のテレビのスイッチを入れた。
「電話は完全に寸断されていますが、HCTV(北海道ケーブルテレビ)だけは無事です。もっとも、衛星放送に関しましては、個別にアンテナを設置しているわずかな戸数を除いて、市の集中アンテナが、誤爆の被害を受けてほとんどが受信不能です…」
画面は、東京のTVNをキー局とする北海テレビのものだった。
よくテレビに出る山岡宗助総理大臣が記者会見をしている。山岡総理の後ろに、統山も見慣れた日本記者クラブのマークが映っていた。
『北海道稚内市の皆さん。そして日本全国の皆さん。このたびは、航空自衛隊の戦闘機による誤射・誤爆で、百五十人もの尊い人命を落とすという、大変なご迷惑をおかけしました。総理大臣として、衷心より深くお詫び申し上げます』
テレビカメラに向かって山岡総理が深々と頭を下げた。カメラのフラッシュがいっせいについた。
『今回の航空自衛隊の不祥事は、自衛隊の最高責任者といたしまして、まさにわたくしの不徳のいたすところであります』
山岡総理は、また頭をさげた。
『今後、緊急閣議を開きまして、被害にあわれた稚内市の皆様、航空自衛隊第三八七防空隊の隊員の皆様、ご家族の皆様に対する最大限の補償を検討いたしまして、早急に対応いたしたいと考えております。また、自衛隊の最高指揮官といたしまして、今後五年間は、航空自衛隊の射撃訓練を全面的に中止いたし、防衛大臣、航空幕僚長、演習を実施した三沢航空群司令の三名を、明日付けで引責解任いたします。もちろんこのわたしくも、犠牲になられた方々の補償が済みしだい、総理の職を辞任し、改めまして国民の皆様の審判を仰ぎたいと思っております』
テレビで記者会見をする山岡総理が、カメラに向かって深々と頭を下げた。またカメラのフラッシュがせわしなくついた。
統山はその画面を食い入るように見つめていた。
山岡総理大臣は頭を下げたままだ。その山岡の表情を数台のカメラが鮮明にとらえていた。やがて顔を上げた山岡総理は、激しく点滅するカメラのフラッシュの中を、ゆっくりと立ち上がって記者クラブの壇上から下手へと下がっていった。
「二日の昼に録ったビデオです。TVNも録画でしょうが、何度も同じ会見が放送されていますよ。どこの局も同じ特別番組を流しています」
前田はリモコンでチャンネルを切り替えたが、HCTVに配信契約をしている統山が属する北洋テレビはもちろん、どこの局も同じ場面を流していた。
「百五十人の犠牲者への補償額は、まだ明確に発表はされていませんが、おそらくはひとりあたま二億から三億くらいになると想像しております。もっとも、まだ、携帯を含めて電話回線が不通ですから確認のしようもありませんが…」
前田はリモコンでテレビを消しながら言った。
「遺族のほうは、それで納得したのですか?」
統山はメモ帳に目をやりながら聞いた。
「納得するもなにも、あなた…」
前田は煙草の灰を灰皿に落としながら統山を見た。
「国が最大限の補償をすると確約したんです。その金額がどの程度になるかということはありますが、わたしは市長個人の意見として、最低でも二億や三億は出るはずだと遺族には言いました。それでとりあえず騒ぎは収まったというところです」
前田はため息をついた。
「二億円や三億円もの補償金を受け取れば、その金で、残された遺族も少しは悲しみを乗り越えられるはずです。わたくしとしては、これでも市民の代表として、政府と精一杯の交渉をしたつもりです」
前田は、何が不服なのかと言いたい様子で統山を見つめた。
「電話回線はいつ復旧するんですか」
統山は話を変えて前田を見つめた。
「NTTが躍起になって復旧工事をしていますから、まあ、遅くとも二、三日中には通じるようになるでしょう」
前田は煙草の煙を吐き出して統山に言った。
「ところで、あなたはいつまで稚内に?…」
前田が聞いた。
「きょうは全日空ホテルに泊まって、何事もなければ、明日か明後日には…」
統山はソファーから立ち上がって言った。
「しかし…。わたしにはどうも納得できません。わたしは、とてつもない何かが今回の事故の裏に隠れているような気がして…」
統山はそう言って前田市長を見た。
「というと?」
「何がどう納得できないのかと問われても、わたし自身も漠然としか感じないのですが、とにかく納得できないのです。納得できないまま旭川に帰るつもりもありません。しばらくはいるつもりです」
統山はそう言うと、前田に会釈してドアのほうに体を向けた。
「………」
前田市長は、無言で統山のうしろ姿を見ている。
「ところで市長。あごに手術痕がおありのようですが」
振り返った統山は、自分のあごの下を指さしながら前田市長に聞いた。
「ああ。これは、肥大した甲状腺を摘出した痕です。男には珍しいと医者から言われましたよ」
前田は笑いながらあごの手術痕をなでた。
「そうですか。それでは…」
統山はもう一度前田に会釈した。
前田市長は無言で統山の後ろ姿を見送った。
統山は自分の背中に前田の視線を感じながら市長室を出た。後ろ手にドアを閉めるとき、なんともいえない気配を感じた。その気配には明らかに怒りが含まれているようだった。
統山はしばらく市長室の前に立ち止まっていたが、ひとつため息をついて庁舎の階段を下りていった。
|