第15話 新妻の手料理
十五 新妻の手料理
「その位牌…。あんたの両親らしいが、感謝するんだな」
ハンドルを握っている高杉が言った。
車はすっかり日が暮れた旭川の町を郊外へと向かっていた。
「貴之さん…」
しおりは統山の腕に抱かれていた。
つい先ほど車の中で気がついたばかりだった。統山は運転している高杉も気にせず、気がついたしおりを抱きしめて頬や額に何度も唇を付けた。
統山の手に先端がつぶれた拳銃の弾頭が握られている。しおりのスキーウェアの内側にあったものだ。
しおりは、統山と一緒にマンションから逃げ出したまでは覚えている。そして突然のショックに身体が後ろへ飛ばされた。そのあとの事は記憶がない。
「お父さま…。お母さま…」
統山に抱かれているしおりの目から涙が流れている。
しおりは統山の両親の写真と位牌をしっかりと胸に抱いていた。その位牌の真ん中に丸い凹みができている。銃弾でできた凹みだ。チタンではなく木の位牌だったら、しおりは胸を銃弾で貫かれて死んでいただろう。
マンションから脱出する直前、サイドボードの中から統山の両親の写真と位牌を取り出し、スキーウェアーの胸のポケットに入れたのだった。どうしてもこれだけは持って行かなくてはと思い、とっさに出た行動だった。その位牌がしおりの命を救った。
統山は、ほかに傷がないかしおりの胸のあたりを調べた。しおりの左の乳房には、拳銃弾が当たった時の衝撃を物語るように位牌の痕が赤く残っている。そして左の脇腹には、ひしゃげた弾頭の熱で火傷した痕がある。幸い骨には異常はないようだ。
「しおり。よかった…」
統山はしおりを抱きしめながら、しおりの命を救ってくれた両親の位牌に感謝した。
「あんなところで、いったい何をしていた?」
高杉は運転しながら聞いた。
「あれはおれのマンションだ。おれとしおりは結婚した」
統山はしおりの肩を抱いたままで答えた。
「そうか…」
高杉がルームミラーの中で笑った。
「まあ、結婚するといろいろとすることもあるからな…」
高杉は、後部座席で抱き合うふたりに言った。
「あんたはどうして旭川に…」
統山は高杉に聞いた。
「北海道が、独立を宣言したのは知っているか?」
高杉が言った。
「知っている。新聞で見た」
「旭川は…」
高杉は運転しながら煙草を取り出して火をつけた。
「すでに、独立の首謀者である吉野の手に落ちている。おれは、その火種を消すために来た」
高杉が言った。
「火種を消す?」
統山は顔を上げてルームミラーの高杉を見た。
「そうだ」
高杉が言った。
「とにかく、あんたたちを少し安全な場所へ連れてゆく」
高杉はルームミラーで統山を見た。
「おれたちの居場所をどうやって知ったんだ?」
統山は運転している高杉に聞いた。
「知っていたわけではない。単なる偶然だ」
高杉は言った。
「あんたたちが旭川に向かうというのは知っていた。旭川のどこに行くのかは知らなかったが、おれが調べた中で、完全に吉野の配下に落ちてはいないと思えた場所は何ヶ所かあった。東光町もそのひとつだ。町がどういう状態になっているのか、一応確認に来ていた。その中にたまたま逃げ出そうとしたあんたたちがいただけだ。銃声を聞いて、撃たれているのがあんたたちだとわかって、おれもわが目を疑った。世の中は狭いものだと…」
高杉が笑った。
「何かの縁で、おれはあんたたちと知り合った。こう見えてもけっこう古風な人間でな。どんな形にせよ、あんたとは酒を酌み交わした。ほうっておけないたちでね」
高杉はそう言って煙草を吸った。
高杉の運転する車は、一時間ほど走って旭川の郊外にある西神楽の空き家らしい家に着いた。
「ここも、親戚の家なのか?」
統山が聞いた。
「いや…」
高杉は笑った。
「北海道じゅうに親戚がいるわけじゃない。ただの空き家だ。少しかび臭いががまんしてくれ」
高杉はそう言うと、車を建物のあいだ入れて、積んであったわらで隠した。
かなり前から空き家だったらしく、古びた家の中は高杉の言うとおりかび臭かった。
小さな裸電球をつけると、高杉がこの空き家に何日かいたのか、思ったより家の中はかたずけられている。隅には古びた家には不似合いなノートパソコンやプリンターなどが無造作に置かれている。
高杉は白樺の表皮を焚き付けにして古びた薪ストーブに火を入れた。
「今夜ひと晩くらいは、ここにいてもだいじょうぶだろう。明日以降はわからんが…」
高杉はそう言いながら、朽ち果てそうな台所の箱の中から缶ビールを二本持ってきた。
「寒いからけっこう冷えている。再会を祝ってとまではいかないが、いっぱい付き合ってくれ」
統山の前に缶ビールを置いた。
「新婚の奥さんを使ってわるいが、何かつまみ程度のものを作ってもらえると、ビールの味もワンランク上がるんだが…」
高杉は笑ってしおりを見た。
「ええ…」
しおりは笑顔で立ち上がると、高杉がビールを出した台所のダンボール箱の中をのぞいた。中には一キロほどの米、卵がひとパック、肉のハム数パックと野菜、味噌、塩、醤油、マヨネーズ、バターなどが入っている。
「料理が得意かどうかは、おれにもまだわからん」
統山は笑った。
「あら。わたしだって一応は女よ。目玉焼きくらいはできるわ」
しおりが振り向いて統山をにらんだ。その目が笑っている。
「冷たいご飯があるからチャーハンが作れるわ。ハムエッグだって…」
しおりはそう言ってふたりを見た。
「かわいい新妻の笑顔に乾杯だ。あんたたちの結婚を心から祝わせてもらう」
高杉は缶ビールを顔の位置に持ち上げて言った。
「あんたには、危ないところを二度も助けられた。礼を言う」
統山は高杉に頭を下げた。
「旭川に来る必要があって、たまたまあの近くにいて銃声を聞いて駆けつけた。しかし、この次はないかもしれん」
高杉はそう言ってビールを飲んだ。
「言ったはずだ。北海道を離れろと…」
高杉は統山に言った。
「きょう、その決心をした」
「そうか…」
高杉は小さくうなずいて統山を見た。
「そうしたほうがいい。新妻のためにもな…」
高杉は笑った。
「あんたは、いったい何者なんだ」
統山はビールをひと口飲んで高杉に言った。
「………」
高杉はストーブを見たまま、無言でビールを飲んだ。
「無駄な質問か…」
統山もビールを飲んだ。
「車の中で言ったとおり、独立の火種を消しに来た。それがおれの仕事だ。あんたもマスコミの人間ならだいたいの想像はつくだろう。その想像は、たぶん間違いではない」
高杉はそう言ってまたビールを飲んだ。
しおりがストーブでフライパンを温め、ハムエッグを作っている。
「あんたたちが北海道を出る決心をしたのなら、今はそのチャンスだ」
高杉はそう言ってふたりを見つめた。
「言ったとおり、おれは北海道独立の火種を消しに来た」
高杉はビールをひと口飲んだ。
「とりあえずは、吉野が道北圏として区分したこの旭川から手を付けた。そして、道北圏の代表とされる、旭川市長の板垣浩市を抹殺した」
高杉はビールを置いて煙草に火をつけた。
「板垣を抹殺しても、吉野の手がなくなったわけではない。ただ、いま吉野を殺すわけにはいかない」
高杉はストーブを見たまま言った。
「なぜだ?。なぜ市長を抹殺する必要があるんだ」
統山はストーブを見つめている高杉に聞いた。
「道民が北海道の独立を希望しているのなら、そうさせてやればいい」
統山が言った。
それが道民の総意なら、そうしてもよいのではないかと統山は思った。
新聞には、基本的には日本国憲法が北海道共和国憲法の基礎となると書いてあった。
ただ、日本国、つまり本州との交易も続けるが、独立した共和国として海外との貿易もするという。
「………」
高杉はストーブを見つめたまま統山の話を聞いている。
考えようによっては、吉野のしようとしていることはそれほど無茶な事とも思えない。 独立したからといって、北海道が日本から離れるわけではないのだ。いわば、子供が成人して両親のもとから巣立つのと同じではないのか。
生きてゆくために必要なものがあれば自分で稼いだ金で買う。それが本州という親が経営する店からか、その店に売っていないものは、海の向こうの国から買うかの違いだ。
東京が日本を代表する大都市として世界に有名なのは、日本という国の親だからだ。
その親から成人した子が独立してはいけないという法はない。
陽が沈むことはないといわれたほど、地球上に多くの植民地を抱えていたあのイギリスからも多くの国々が独立した。
北海道が東京の植民地というつもりはないが、北海道のように、四国も九州も自治体として一本立ちをするのは悪くないことだと統山は思う。ただ、そのやり方には問題はある。人の血を流してまでもというつもりはない。
統山は高杉を見つめた。
「おれは…」
高杉が顔を上げた。
「政治のことには何の興味もない。あんたと政治論議を交わすつもりもな…。論議を交わしても、たぶんおれはあんたに負ける。あんたの考え方が正しいのかもしれん」
高杉はそう言ってビールを飲んだ。
しおりが出来上がったハムエッグとチャーハンを皿に盛り付けて、統山と高杉の前においた。
「いただく」
高杉はしおりに小さく頭を下げると箸を持った。
「自分の仕事をするだけ、ということか」
統山も箸を持った。
「まあな…」
高杉は笑った。
「これはうまい。今のような非常時の食べ物としては絶品だ」
高杉は表情をくずしてしおりに言った。
「非常時って…。つまり、わたしの作るチャーハンは、せいぜいお店で売っているお弁当か冷凍品程度の味ってこと?」
しおりはチャーハンを口に運んでいる高杉をにらんだ。
「いや…。そういう意味で言ったんじゃない。失礼した」
高杉が笑った。
「高杉さんのユーモアには腹が立たないわ。くやしいけど」
しおりは統山と顔を見合わせて笑った。
「すまん…」
高杉は小さく頭を下げ、そして顔を上げた。
「とりあえずは、旭川空港は吉野の手から解放した。しかし、いつ吉野の手の者たちがまた襲ってくるかはわからない。あんたたちが、もしも飛行機に乗るというのなら多少の手助けはできる」
チャーハンを食べながら高杉は言った。
「ただ、飛行機は絶対に安全だとは断言はできない。あんたも知っていようが、吉野もそれ相当の装備を持っている。旅客機などは自衛隊のミサイルや戦闘機で撃墜しようとすれば簡単だ。できれば、陸路で苫小牧か室蘭あたりまで行ったあと、漁船でも盗んで本州へわたるのが確実な方法だろう」
高杉はそう言ってビールを飲んだ。
「そうする…」
「うむ。気をつけてな」
高杉は言った。
「あの車を提供する。無事に本州へ渡ることを祈る」
高杉は統山としおりを見つめた。
「永山町にしおりの両親と妹がいる。その消息を…」
「やめておけ」
統山の言葉を高杉は打ち消した。そして箸をおいた。
「さっきも言ったとおり、旭川はほとんど吉野の手に落ちている。たぶんあんたの家族も例外ではない」
高杉はしおりを見て言った。
「これだけは教えておく」
高杉はひとつため息をついた。
「おれの言うことを信用するしないは、あんたたちの自由だ」
高杉は煙草に火をつけた。
「吉野は催眠術の達人だ。精神心理学の学位も持っている。その吉野は、北海道をネットするHCTVを通じて、それを見ていた全道民に自分の意志に従わせるよう集団催眠をかけた。警察や自衛隊ももちろんその放送を見ていただろう。あの時点で、警察や自衛隊を含めて道民の九十パーセントが吉野の催眠術にかかった。その催眠術を解くキーワードを知っているのは吉野だけだ。だから、いま吉野を殺すわけにはいかんのだ。あんたの家族も、おそらくはその集団催眠にかかっていよう」
高杉はしおりに言った。
「催眠術が解けなければ、しおりの家族も吉野の思いのままということか」
統山が聞いた。
「思いのままどころか…」
高杉は統山からしおりに視線を移した。
「あんたが催眠術にかかっていないと知られたら、あんたの家族はすぐに吉野の手の者に連絡する。そしてあんたは殺されるか拉致されて、沢田理香のように、吉野の手の者たちの性の奴隷にされて、最後には殺されるのがおちだ。あんたの家族が吉野の催眠術にかかっているとすれば、血を分けた肉親といえども、あんたを思う感情は消えている」
高杉はそう言ってビールを飲んだ。
「………」
しおりは青ざめた表情で統山と顔を見合わせた。
「自分以外は誰も…。身内でも、たとえ両親でも信用するなとおれは忠告したはずだ。のこのこ会いに行ったら、自分から蟻地獄に落ちるようなものだ」
高杉は言った。
「よく考えることだ」
高杉は統山としおりを見つめた。
「こうして知り合ったのも何かの縁だ。だから言わせてもらうが…」
高杉は煙草を吸った。
「生きてさえいれば、必ずまた会える。あんたの家族も、吉野の催眠術にかかっている限りは、吉野の手の者に殺されたりすることはない。かえってそのほうが安全だといえよう。あんたもそうだ。生きていれば、いずれは両親や妹さんとも会えるときが来る。それはおれが約束する。北海道を吉野の催眠術から解放して、本来の姿に戻すためにおれは来た。だから、そのためには…。家族とまた会うためには、今は無事に本州に逃げることが大事だとおれは思う」
高杉がしおりを見つめ、諭すように言った。
「きょうのように、またいつ吉野の手の者に襲われるかわからん。相手は拳銃を持っていることを忘れるな。この次も位牌が守ってくれるとは限らんのだ」
高杉は統山としおりに言った。
「わかった。あんたの忠告に従う」
統山は、しおりの肩を抱きながら言った。
「うむ…」
高杉がうなずいて煙草を消した。
立ち上がった高杉は、片隅においてあったノート型パソコンとプリンターを持ってきた。
「ある会社から失敬してきた」
高杉が笑いながら言った。
「ひとりずつ写真をとる」
そう言うと、ポケットから小さなデジタルカメラを取り出し、白い壁の部分をバックにして統山としおりの顔写真を撮影した。
「吉野の催眠術にかかった人間だけに交付されているIDカードと、運転免許証の偽物を作る。たいていの検問では通用するはずだ」
高杉はパソコンを操作しながら言った。
やがて、統山としおりの顔写真が印刷された紙がプリンターから出てきた。
その写真をはさみで切り取り、これも失敬してきたと笑いながら、IDカードと偽造の運転免許証をラミネートの機械に通し、それをふたりに渡した。
IDカードはともかく、運転免許証も偽造とは思えないほどの精巧さだ。写真も統山のものに変えられている。
「途中で何ヶ所か検問に合うだろう。そのときはおびえたような態度をせず、ロボットにでもなったつもりで、できるだけ無表情でそのカードを見せろ。そして、おれがこれから言うことをしっかり覚えてくれ」
高杉はふたりを見つめた。
「あんたは斎藤和彦、四十三歳。埼玉県浦和市の出身で、両親と二歳上の和男という独身の兄が浦和にいる。あんたは妻の陽子、三十二歳。滝川市の出身だ。結婚五年目で子供はいない。滝川に母親がいて兄弟はいない。このふたりは実在の人間だが、二日前に不慮の事故で死んだ。そのときに手に入れたものだから写真以外は本物だ。斎藤和彦と陽子の生年月日と、IDカードに記録されている磁気番号は…」
高杉はふたりに斎藤和彦と妻の陽子の生年月日と、IDに記録されている七桁の番号を言った。統山は手帳を取り出して高杉が言った番号を書きとめた。
「いま言ったことと、IDの識別番号だけはしっかり覚えろ。そうしないと検問で見破られる。あの車も斎藤和彦名義のものだ。斎藤和彦の仕事は、旭川市北峰町にあるコダマ電気の従業員で、住所は北峰町三十一番地、清水マンション五一四号室。妻の陽子は専業主婦だ」
高杉はそう言ってふたりを見た。
「あんたはいったい…」
この男はいったい何者なのかと統山は思った。
もの言いや態度から見ると警察でもなく自衛隊でもないらしい。どこにでもいるようなごく普通の男に見える。
しかしこれだけの情報を集め、独立の火の手を消すために単独で北海道を飛びまわっている。どこかの機関に属する人間にはちがいない。ただ者ではないとは思っていたが、高杉の後ろにはいったい何者が動いているのか。
統山はため息をついて高杉を見つめた。
「そんな目で見るな。おれは化け物じゃないぞ」
高杉は笑ってふたりを見た。
「おれはまだやることがある。朝になったら出発しろ。無事を祈る」
高杉は立ち上がって身支度を始めた。
「いまから出かけるのか?」
統山が聞いた。
「これでもけっこう忙しい。それに、新婚夫婦の邪魔はしたくない」
高杉は笑った。
「おれは、もう少し寝心地のいい所に潜り込むことにする」
高杉はそう言って自分の荷物を持った。統山としおりも立ち上がった。
「また会うことがあるかどうかはわからんが、無事を祈る。くどいようだが、生きていたければ、本州に渡るまでは、誰も、何も信用するな」
高杉は言った。
「いろいろと世話になった。恩にきる」
統山は高杉に頭を下げた。
「おれも、新妻の心がこもった手料理を感謝する…。とはいっても、あんたのために心を込めたんだろう。あんたたちの幸せを祈っている」
高杉は笑って玄関から出て行った。
断熱シェラフの中でふたりは裸で抱き合っていた。ストーブは消えかかっていたが、シェラフの中は統山としおりの体温で暖まっている。
唇を重ねながら統山の手がしおりの乳房を愛撫している。その手はしおりの胸から腰へとおりてきた。しおりは統山の背中に手を回していた。
統山のマンションでひと時の休息のあとの逃避行の再開だった。
統山の両親の写真と位牌を胸に抱いていたおかげで命が助かった。統山の両親は、しおりを息子の妻として認めてくれたのかもしれない。
自分の身代わりとなって追手の銃弾から守ってくれた統山の両親にしおりは感謝した。 しおりの左胸にはまだ赤く位牌の形が残っている。その胸と、ひしゃげた弾丸で火傷をした痕に統山が唇をつけていた。
統山の手がしおりの中心部に触れた。そのしおりに身体を重ね、統山が入った。
「あ…」
しおりは小さく声を出した。
「しおり…」
しおりの中で統山が動いている。動きながらもしおりの乳房を口と手で愛撫し、首や肩に唇を這わせている。
「無事でよかった」
統山はそう言って動きを止めると、しおりを見つめて唇を重ねた。
柔らかいしおりの唇に自分の唇を重ねながら、しおりの命を確かめるように統山がまたゆっくりと動きはじめた。しおりの中から幸福の快感が湧きあがってきていた。
「貴之さん」
しおりは統山を見つめた。統山はしおりの目に唇を付けた。しおりは目を閉じて統山の背に手を回して力を込めた。胸を重ねたまま統山が力強く動いている。
「ああ…」
しおりは統山の動きとともに、全身に押し寄せてくる快感の波に揺れていた。
次の日の朝、統山としおりは廃屋を出た。
高杉が残していった車に乗り込み、凍結した国道二三七号線を美瑛町に向かって南下していた。途中に旭川空港の管制タワーが見える。
しおりの両親や妹のことが気になったが、もしも吉野の集団催眠にかかっているとすれば、感情のない両親や妹に会うことは危険だった。自ら危険の中に飛び込むことはない。 高杉の言うとおり、生きてさえいればまた会える。いまは一刻も早く北海道から脱出して本州に渡ることだ。
統山は助手席に座っているしおりの横顔を見つめた。
「しおり。高杉の言うとおり、生きてさえいれば、両親や妹ともまた会える」
統山はしおりに言った。
「気にしないで。わかってるわ。いまは私たちのことだけ考えましょう」
しおりは言った。
「わたし、幸せよ。こうしてあなたと一緒にいられるんですもの。両親やさおりだってきっと無事にちがいないわ。いつか必ず…」
しおりは笑って統山を見た。
「そうだな…」
統山もしおりを見つめた。
しおりは統山の両親の写真と位牌をしっかりと抱いていた。
晴天の雪景色の中を車は走っている。一面に続く畑に積もった雪に太陽の光が反射してキラキラと光っていた。
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