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白い夜
作:凪沙 峻



第14話 山岡総理の決断


十四 山岡総理の決断

十二月十日午後十一時四十分
函館市役所に、北海道共和国国防大臣の矢沢昭彦総司令官が札幌からヘリコプターで到着した。函館市長の国枝と前線指揮官の豊倉陸将補が矢沢を出迎えた。
「配備は完了したか」
矢沢は、出迎えた豊倉に聞いた。
「はい。ほぼ完了しました。帯広から対戦車攻撃ヘリのエア・ドラゴン三機が到着すれば完全です。あと十五分ほどで到着予定です」
豊倉が報告した。
「うむ。予定どおりだ。対岸の動きはどうだ」
矢沢は腕時計を見ながら聞いた。
「はい。昨夜からきょうにかけて、陸奥、下北一帯に四個旅団程度の勢力が防御陣地を構築した模様です。主力は青森の第九旅団と山形の第六旅団と思われます」
豊倉は壁の地図を示しながら説明した。地図には様々な部隊符号で陣地の位置や榴弾砲や戦車の規模などが表されていた。味方は青、敵は赤で色分けされる。
「航空勢力は?」
「三沢から三十分に一回の割合でF・32が偵察目的で飛び立っているようですが、いまのところ、こちらの領空は越えていません。また、我が方は、司令官の指示どおり燃料の節約のために偵察飛行はしておりません。パトリオットが発射態勢を整えておりますし、携帯ミサイルも警戒しております。函館山の全天候レーダーと、奥尻の警戒群だけでじゅうぶん敵の様子はわかりますので…」
豊倉は矢沢に説明した。その豊倉に副官がメモを手渡した。
「あ、司令官。ただいまエア・ドラゴンが到着したとの報告が入りました。これをもちまして、全配備の完了です」
「わかった…」
矢沢は大きくうなずいた。
「それから…」
矢沢は腕を組んだまま豊倉を見た。
「わが共和国の独立という壮大なこころざしの成就のために、今は袂を分けているが、対岸の彼らは敵ではない。今後、敵という言葉は使うな。我々の同胞だということを忘れてはいかん…」
矢沢は、豊倉だけではなく、市長や居並ぶ幹部たちに諭すように言った。
「南・北鮮民国のように、北と南で互いに憎しみあっているわけではない。できうれば、対岸の本国とわが国がともに手を握り、ともに繁栄してゆくのが一番望ましいことなのだ。そのためには、絶対にこちらから先に発砲してはいかん。あくまでも専守防衛に徹する」
矢沢はそう言って幹部たちを見回した。
「ただし。わが国にとっての赤部隊…。対岸の彼らが領空又は領海を事前通告なしで超えた場合は、全力をもってこれを排除する」
矢沢は強い口調で言った。
「今後の防衛作戦上において、対岸の彼らは、日本国の頭文字をとってN、またはN部隊と呼ぶ。隊員個々に至るまでそれを徹底しろ」
矢沢は豊倉に言った。
「わかりました。直ちに全部隊に通達を出します」
豊倉は矢沢に敬礼すると、矢沢の主旨を全部隊に通達を流すよう作戦部長に命じた。


本州側の攻撃はいつ始まるのか…。
矢沢は函館ヒルトン・ホテルの部屋で考えていた。
吉野首相が独立を宣言してから十二時間が過ぎようとしている。
 本州の国会では、いったいどんな結論を出すのか。どんなに議論を繰り返そうとも結論はふたつの選択肢しかない。独立の容認か、それとも武器をとっての戦いかだ。中途半端には山岡総理とて終わらせるはずがない。
矢沢は後者だろうと思った。
どんな理由があろうとも、日本政府の立場としては北海道の独立を認めるわけにはいかないのだ。認めてしまえば日本国政府としての立場は失墜する。
 場合によっては北海道ばかりではなく、四国や九州、そしてほかの県も北海道のまねをして自治体の独立を叫び、政府に反旗の旗を上げる可能性もあるのだ。
中央主体のやりかたに反旗をひるがえしたいと思うのは、北海道だけではないはずだ。その気になれば、自治体だけでじゅうぶんやってゆける県は多々ある。政府が北海道の独立を認めれば、その連鎖反応が起こる確立は高いと矢沢はみていた。
吉野首相が山岡総理の説得に応じない限り武力紛争は避けられない。何としてでも吉野首相の思惑を潰さなければ、日本国政府として国民にはもちろん、世界中にしめしがつかなくなる。
理由はどうあれ、殿様のやり方が気に入らないからと、家臣が切腹を覚悟で物申す。
吉野首相は、まさに日本政府に対して下克上を突きつけたのだ。いまさらあとには引けない。吉野首相は自身をギリギリに追い詰めている。
山岡総理は、日本国の一部である北海道が日本国政府に対して反旗をひるがえし、クーデターにおよんだと全世界と国民に向けて声明を出して、それを鎮圧するという大看板を掲げ、先手を打って武力制圧にくるはずだ。そして吉野首相を足元に膝まづかせることで日本国民と全世界に対するみせしめとする。
 政府をさておいて、地方の自治体が勝手なまねをすればこういう結果になるのだと。
戦国時代だと矢沢は思った。
「つ…」
矢沢は顔をしかめた。
十二時間前、吉野首相の独立宣言のテレビを見ながら、不用意に奥歯で噛んでしまった口の中の傷が痛んだ。
矢沢は顔をしかめながら煙草を取り出した。火をつけてひと口吸った。ソファーに座ったまま、天井に向けて煙を吐いた。
青森側には四個旅団、約三万人の自衛隊が陣をしいている。北海道全部の兵力に迫る数だ。
北海道と距離的に一番近いのは亀田半島の汐首岬と下北半島の大間岬の十六・六キロ。国境線ギリギリでも八キロだ。次に近いのは松前半島の白神岬と津軽半島の竜飛岬で、十九・六キロ。半分で九・八キロ。
お互いにそれ相当の被害を与えるためには、戦闘機を使っての航空攻撃。国境ギリギリか、または国境を越えての艦砲射撃。あるいは百五十五ミリ自走榴弾砲と二〇三ミリカノン砲の射撃となる。
本州側は、果たしてどんな手を使ってくるか…。
戦闘のやり方としてはいろいろあるが、通常の考えでゆけば、まず、領海ギリギリの線に輸送艦と護衛艦、掃海艦、潜水艦などあらゆる艦船を配置につかせ、榴弾砲とカノン砲で射撃を開始して相手を陣地に釘付けにする。この間に戦闘機を発進させて相手の要所を爆撃する。
艦砲射撃を開始した時点で、潜水艦を使って国境付近にいる相手の艦船を魚雷攻撃で叩く。それと同時に輸送艦隊が越境して前進し、上陸用舟艇で武装した隊員を相手側に送り込み、神出鬼没のゲリラ戦や市街戦となる。そして輸送機を使って空挺部隊を相手の後方に降着させる。
通常の戦いであれば、だいたいこのような流れになろう。
しかし、今は電子戦の時代だ。半径数百キロまでカバーできる高性能レーダーが大型トラックの荷台に設置されていて、必要とあればどこへでも移動して監視ができる。
へたに航空機など飛ばそうものなら、地上から携帯対空ミサイルのサガーに狙われる。 ただのミサイルではない。飛んでいる航空機が敵のものか味方のものかをミサイル自体が識別し、味方の航空機であれば発射ボタンがロックされ。敵の航空機と識別すれば発射ボタンは解除される。
 射手が発射ボタンを押していったん空中に飛び出したら燃料の続く限り命中するまで追いかけてゆく。
地上戦にしてもそうだ。
どんなに身を隠そうとも、赤外線暗視ゴーグルを装着すれば闇夜でも昼間のように相手の動きがわかるし、戦車や装甲車にも赤外線暗視装置がついていて、敵とわかれば物陰から攻撃できるのだ。だから、お互いに同じような装備を持っている場合、先に動いたほうは不利になる。
矢沢は、最前線指揮官の豊倉に通じる電話の受話器をとった。
『豊倉です』と、返事があった。
「わたしだ。夜明けまでの未明にかけて、N部隊側の攻撃、降着又は上陸作戦が考えられる。各部隊はレーダーを最大限に活用し、警戒を厳にせよ。たとえアリの一匹たりとも我が国への侵入を阻止する。その場合、N部隊が武器を使用したときは、我もこれに対抗するため武器の使用を許可する。使用に際してはじゅうぶんな慎重を期すが、基本的にはその場の指揮官、あるいは個人の判断による」
矢沢は豊倉にそう命じた。この命令が全部隊に知れることにより、事実上武器使用の制限はなくなったことになる。
矢沢は電話を切って大きなため息をついた。


「吉野は、函館一帯の配備を完了したようだ…」
山岡は官邸の会議室に集まっている各党の代表と、自由公民党で組織する国防部会の委員たちに言った。
「下北と津軽に配備した自衛隊はどうなっているんです」
社共党の川島健作が聞いた。
「九旅団のほぼ全部隊と山形の六旅団は、きのうの夕方六時に配備を完了した。群馬の十二旅団の半分が、きのうの夜十時に配備についている」
山岡が言った。
「予定では本州にいる自衛隊の三十パーセントとか…」
社会連合の石倉正治が言った。
「うむ。愛知の十旅団と広島の十三旅団の半分が現在移動中だ。明日の夕方には到着するだろう。青森へ配備して手薄になった各旅団には、九州の四旅団と八旅団の一部を応援にまわす」
山岡が腕を組んだ。
「吉野に対する石倉くんの説得もだめだったとなれば…」
山岡はそう言って煙草をくわえた。
「吉野は、今回の結果がどうなろうと、それそうとうの覚悟を決めているようです。わたしとは大学の同窓生で親しい仲でしたが、説得に耳をかそうとしません。まいりました…」
石倉も腕を組んだ。
石倉は山岡の依頼で、北海道の吉野に直接電話をかけて今回の独立宣言を撤回させようとした。しかし、吉野の決意を変えさせることはできなかった。
これは北海道民の総意であり、一度道民を代表して全世界に宣言したことを、いまさら変えることはできない。
 すでに中国とロシアが独立を承認する意向を示しているし、周信代国家主席とゴルサロコフ大統領が、通商条約を結ぶことを前提に武器弾薬の支援もすると言っている。
わたしはこの独立に命をかけている。北海道の将来のために、本州と刺し違えてでもこの独立を勝ちとる覚悟だ。いかにきみが親しい間柄とはいっても、ほかのことはともかく、すまないがこれだけは譲れない。
吉野は電話で石倉に言った。その言葉の強さに、石倉は説得は無駄だということを知った。
もしも六百万人の北海道民が、本州の、中央政府の統治下を離れて独自の道を歩もうとしているのなら。それが本当に道民の総意なら、その道民を代表している知事を説得するのは難解だ。知事が説得に応じたとしても、独立を希望している道民は納得しない。
北海道は、反旗をひるがえすほどに中央主体の政治に押さえつけられてきたというのか。そして、その不満が爆発したのか。
石倉は腕を組んで目を閉じた。
大学時代から、吉野という男は確かに理想に燃えた熱い男だった。
 札幌市議会議員、北海道議会議員と、吉野と石倉は同じ時期に当選し、やがて石倉は中央政界へ。吉野は北海道知事になるべく活動を始めた。
吉野はその頃から北海道の独立をもくろんでいたのか。
石倉は目を開けて天井を見つめた。
「石倉さん」
社共党の川島が石倉に言った。
「え…」
物思いにふけっていた石倉は、川島の声に我にかえった。
「総理がいま言ったとおり、吉野は本州に向けて約一万五千の部隊を配備したという。これはゆゆしき事態です。旧知の友である石倉さんの説得にも耳をかさないとなれば、いずれは本州と北海道の部分紛争は覚悟しなければなりません」
川島は、そう言ってソファーに背をあずけた。
山岡が天井を見つめている社共党代表の川島健作を見つめた。
「わたしは…」
川島はソファーから身体を起こすと、テーブルから煙草をとりあげた。
「わたしは、総理の…。自公党の政策に反対をしてきた社共党の代表です。自公党の政策には今でも反対する姿勢は崩さない」
川島は煙草に火をつけた。
「自分の我を。自分だけの我を前面に押し出して社共党を引っ張ってきたわけではない。それが日本のためだと…。そう信念を持ってきた。その考えに変わりはない」
川島はそう言って公民党の平川慶介、連立公民党の上田弘、平和党の高橋英夫。そして居並ぶ政府閣僚を見回した。
「わたしのことを、みなさんは強硬派だのタカ派だのと言って煙たがっているようだが、わたしは強硬派でもタカ派でもない。わたしも日本国のことを第一に考える人間のひとりにすぎない…」
川島はふと笑った。
「ただ…」
川島は厳しい顔になった。
「こんな局面で、同じ日本国民に対して、銃の引き金を引く役目でないことだけは感謝したい。わたしは総理大臣ではなくて本当によかった…」
川島はそう言って、またソファーに身体をあずけた。
各党の代表と閣僚たちは、無言で川島を見つめた。
「事を大げさにせず、何とか解決する方法はないものか…」
連立党の上田がつぶやいた。
「説得はする。最後までな…」
山岡は低い声で言った。
「ただ、今までも説得は続けてきた。しかし吉野は頑として応じない。今回の事は、われわれの出方を…。どう処理するかを世界中が注目している。こちらとしても時間がなくなってきている…」
山岡はタバコの煙を吐いた。
「ジェイソン大統領は、この問題には当分関与しないと言ってきた」
山岡は各党の代表を見渡した。
「いままで、アメリカは数々の国際紛争に首を突っ込んできた。朝鮮、ベトナム、イラン・イラク、アフガン、湾岸、そしてまた、9・11が引き金になったイラク…」
山岡は大きなため息をついた。
「あのアメリカが…。大国のアメリカが、その紛争でいつも勝ち続けてきたわけではない。むしろ負けてきたことが多かった。武力では勝っていても、人々の心には勝てなかった。その教訓で、今回のことは、しばらくは傍観する腹を決めたんだろう」
山岡が言った。
「では、アメリカは駐留軍での支援はしないと…」
平和党の高橋が身を乗り出した。
「あくまでもこれは日本国内の…。同じ民族どうしの問題だ。ただし、ロシアや中国、北鮮民国が横槍を入れてきたときは、安保条約に基づいて支援は惜しまないといっている」
「では、中国やロシアが吉野の要請で武器や弾薬を輸出すると言っていることは…」
公民党の平川が山岡に聞いた。
「吉野が北海道共和国として独立の宣言をしたいじょう、承認不承認にかかわらず、国と国との取引となれば誰も口出しをするわけにはいかんだろう」
山岡は煙草をもみ消した。
「しかし総理。わが国では、国家防衛として必要だと国が判断した場合のほかは、自治体はもちろん会社単位でも武器弾薬の輸出入は禁じています。吉野はそれを…」
平川は言った。
「平川くん。確かにそのとおりだが、吉野は衛星通信を使って世界に北海道の独立を宣言したのだ。それがどんな形であろうともな…」
山岡は天井を見つめて言った。
「すでに、北海道はよその国になりつつあるのだよ…」
山岡は大きくため息をついた。
「その北海道が…。よその国が、我々に銃を向けている。我々は、それにどう対処するべきかね。相手が撃つのを待つか?。待っていても、相手はこちらから仕掛けない限りは撃たんだろう。そのあいだにも、吉野は着々と装備を整えて、独立国としての一本立ちの体制を固めてゆく…」
そう言った山岡の顔を平川はじっと見つめた。
「よその国か…。まるで…」と、平川はつぶやいた。
津軽海峡の真ん中に国境線を引き、海上自衛隊と小樽に本部を置く第一管区海上保安部の艦船を完全装備で配備した吉野。まるで北方領土だと、平川はため息をついた。
「平川くん。きみと同じことを、わたしも思っていた…」
山岡はそう言うと、煙草を吸った。
「そう…。まるで終戦直後にソ連に奪われた北方領土だ…」
山岡は灰皿に煙草の灰を落とした。
「ただし、あの時の日本は敗戦国だった。ソ連が北方領土に侵攻しても、ただ指をくわえて見ているしかなかった…」
山岡は会議室を見渡した。
「だが、今はちがう」
山岡の目が厳しくなった。
「たとえどんな相手であろうとも、独立国としての日本は、戦術核兵器こそは無いが、日本を敵としてみる国と対等に渡り合える武力を持っているんだ。それをどう使うべきか、それが問題なのだ」
山岡が言った。
「使いたくはない。同じ民族に対して、どうして銃の引き金を引けるというのだ」
山岡はそう言ってひとりひとりを見つめた。
「しかし、ただ、だまって指をくわえてはおれん。理由がどうあろうと、同じ民族であろうと…。いや、同じ民族だからこそ、北海道が独立することなどは断じて容認するわけにはいかんのだ。おれもおれもと、ほかの県や自治体が他県との国境を勝手に決めて、そこの自衛隊や警察が我々政府に銃口を向けて北海道の真似をしはじめたらどうなる。収拾がつかなくなる。わたしはそれを恐れているのだ。北海道ばかりではない。ほかの県や自治体はこの行方をじっと見ている。もしも北海道が独立に成功したときは、あわよくば自分たちもと、な…」
山岡は天井を見つめた。
「政府の…。我々の力が試されている」
山岡はそう言って各党の代表と閣僚たちを見渡した。
「陛下や皇室のかたがたは、このことを…」
 川島が山岡に聞いた。
「すでに報告申し上げている。陛下は、日本国と国民にとって一番幸せなようにとおおせられた」
山岡はそう言って各党の代表を見つめた。
会議室の中は水を打ったように静まっている。
「いかにこの事態を鎮めるか…。それも、おおげさにせずだ。水に浮かぶ白鳥のように、表面は優雅に、水の中では懸命に水を掻いているようにな…」
山岡は腕を組んで目を閉じた。
「防衛態勢はこのまま続ける。わたしに考えがある。三日間の時間がほしい」
山岡が言った。
「どうするつもりです?」
川島が聞いた。
「総理として、対岸の同じ民族に銃を撃つわけにはいかん。だからといって、このままでは打開策はない」
山岡が言った。
「首謀者は吉野だ。その吉野と歩を合わせているのは、吉野が発表した各圏の代表者と大臣とされる人間たちだ」
山岡は煙草をとり上げながら各党の代表を見つめた。
「本意ではないが、彼らには…」
山岡はそう言って、煙草に火をつけた。



しおりは統山の胸に顔を押し当てて眠っていた。統山が眠っているしおりの顔を指でなでている。マンションにきてから三日目だった。
ここに来ていらい、この旭川市は何事もないように過ぎているように思えた。
 ただ、マンションから一歩も出ていないから街の中の様子はわからない。窓から見る範囲でしか判断はできなかった。街へ出てみようと思う気持ちはない。何があるかわからないからだ。
旭川新報が北海道の独立を報じていた。その内容から判断すると、独立に対しての反対のものではなかった。むしろ北海道民が喜びに湧き上がっていた。
その独立の影で何かが動いているとすれば、この旭川も決して安全ではない。稚内のように、市民は常に誰かに見張られ、意に沿わない者たちは抹殺されることになろう。
 見張る者たちの情報網はどの程度のものかは統山には見当がつかない。しかし稚内と同程度だとすると、この街やマンションも、独立をもくろむ人間たちの手に落ちている。
ただ、東京やその他の都市のことはまったく報道されていなかった。
 北海道が日本から独立するという日本の歴史始まって以来の大事に、政府としての見解などが一切ないというのはおかしい。容認するにせよ反対するにせよ、何らかの記事が載っていてもおかしくないはずだ。
 テレビもそうだ。北海道独立に関する吉野知事の放送や、それを祝う行事やデパートの大売出しの放送ばかりが繰り返し放送されている。統山がカメラマンとして籍を置いている北洋テレビも同じような内容だった。統山は事態を把握することができなかった。
しおりが目を覚まして統山をじっと見つめている。
「おはよう、しおり…」
統山がしおりに唇を重ねた。しおりは統山の首に腕を巻きつけた。
「貴之さん…」
唇を離して見つめる統山にしおりは笑いかけた。新妻となったしおりの笑顔に統山はまた唇を重ねた。
この笑顔を、何があっても守り通さなければならない。自分にとって命をかけてでも守らなければならない宝が統山にはできたのだ。
 北海道が独立しようと、ロシアや中国に占領されようと、北鮮民国が日本に向けて核ミサイルを発射しようと、そんなことはどうでもいいことだ。しおりと生きてゆくには場所はどこでもいい。
 現金ならば蓄えているのが二千万ちょっとはある。銀行はいつ破綻するかわからないから預けてはいない。泥棒でも見つけきらない場所に隠してあるのだ。その金さえあればしおりを連れてどこへでも行ける。
 高杉の言うとおり、この北海道が魔窟の渦に巻き込まれているのなら北海道から何とかして脱出する。それも、なるべく早いほうがいい。
統山はしおりに唇を重ねながら、北海道から脱出することを考えていた。
統山の手がしおりの乳房を愛撫している。その乳首に唇をつけた。しおりの内腿を愛撫していた右手がやわらかい部分に触れた。
「あ…」
しおりが声を出した。
「しおり。愛してる…」
統山はしおりに唇を重ねて言った。
「ああ、貴之さん…。愛してるわ…」
しおりは統山の背中に両手を回した。統山はしおりの顔を唇で愛撫しながら体を重ね、温かく潤ったしおりに自身を入れた。


「しおり、起きて服を着るんだ」
統山が眠っているしおりの肩をゆすった。
「どうしたの?」
しおりが聞いた。
「ここを出る」
統山はしおりの頭を抱いて言った。
「この旭川も、魔窟になっているような気がする。ここはもともと静かなところだが、どうにも静か過ぎる。おれたちはすでに見張られているかもしれない」
「………」
しおりは不安そうな表情で統山を見た。
「あの稚内で感じた視線と殺気…。それと同じものをおれは感じる。気のせいかもしれないが、おれは自分のカンを信じる」
統山は言った。
「しおり。北海道を出よう。高杉の言うとおり、北海道全体がおかしくなっているとしたら、この旭川も魔窟の渦の中ということになる」
統山はしおりを見つめた。
「ええ。あなたといっしょなら」
しおりは統山を見て笑顔を浮かべた。
自分は統山の妻になった。妻となったいじょう、統山が望むのならどこへでもいっしょに行く覚悟だった。
「服を着よう」
統山はそう言って、またしおりに唇を重ねて強く抱きしめた。そして身体を起こした。
ふたりは身支度を整えた。このマンションに来たときと同じスキーウェアー姿だ。
「しおりを抱いてばかりいたから、すっかり裸に慣れてしまったよ」
統山はそう言って笑った。
「いやね…」
しおりも笑って統山の腕にしがみついた。
「出る前に待ってゆくものがある…」
統山は小さなリュックを持つと、客間として用意してある部屋に入った。
 洋室の奥の柱の壁紙をはがすと、蓋になっている耐火石膏ボードの板をはずした。
「まあ…」
しおりが驚きの声を出した。
柱の中は空洞になっていて、その中に紙幣の束が積まれている。
「銀行は信用できない。利息は付かないし、道央銀行のようにいつ破綻するかわからないからな。金庫のと合わせると二千二・三百万はある。当面はこれで何とかなるはずだ」
統山は紙幣の束をリュックに詰め込みながら言った。しおりはあぜんとして統山を見つめている。
「言っただろう。北洋テレビは給料がいいって…」
統山は笑った。
「テレビ局なんてのは、一般の放送のようにきれいな仕事ばかりするわけじゃない。時には世間に知られてはならないダーティーな仕事もある。だから、その口止め料も高額だ」
統山はそう言ってしおりを抱き寄せた。
「さて準備はできた。このマンションにも多少の未練はあるが、身の安全を考えると、いつまでも隠れているわけにはいかない」
統山はそう言ってしおりを見つめた。
「おれたちには未来がある。それがわかっていて放棄するのは負け犬のすることだ。しおりとおれの未来のためにな…」
統山はしおりの両肩に手をおいた。
「ええ。あなたとわたしの未来のために…」
しおりは笑顔で統山を見つめた。
「よし、行こう」
統山はそう言ってしおりを抱きしめた。
洋室から出てドアを閉めようとした統山は、ふと足を止めた。しおりを後ろに押しやり、口に指を当てて声を出さないようにと合図した。
ドアの外に誰かがいる。統山はその気配を感じた。しおりが不安そうな目で統山を見つめている。稚内で感じた気配と同じものだ。
いつから見張っていたのか。玄関に一番近い部屋は、客間をのぞけばトイレだ。
 トイレには何度も行ったが、統山の感覚ではここ二日間は異様な気配は感じなかった。とすればついさっきから見張られていたのか。いや、もっと前からかもしれない。統山がわからなかっただけなのか。
統山はしおりの肩を支えるようにして居間に入った。不安の表情を浮かべているしおりをソファーに座らせた。
「いつもと変わらないようなふりをするんだ。おれたちは見張られている」
統山はしおりの耳元で小声で言った。しおりの顔から血の気が引いた。
「だいじょうぶだ。おれがついている」
統山はそのしおりの額に唇をつけた。
「ええ…」
しおりはお青ざめた表情で精一杯の返事をした。
統山はしおりを立ちあがらせるとキッチンに向かった。しおりは青ざめた表情で統山の腕にしがみついている。
 統山は勢いよく水道の水を出した。その音の中で、統山は高杉から受け取った拳銃を出した。しおりが拳銃と統山を見比べている。
「このまま、窓の近くに行くんだ」
統山はしおりの耳元で言った。
「すぐに戻る。ベランダに出る窓のロックを解除していてくれ。静かにな…」
その言葉にしおりはうなずいた。
統山は拳銃の安全装置をはずした。スライドを少し引いてみると薬きょうが見える。
 拳銃をスキーウェアーのポケットに入れた統山は、しおりが窓際へ行くのを確かめて物置に向かった。
 しおりは、統山の言うとおりベランダに出る窓のロックを解除したが、ふと何かを思いついたようにまた居間に戻った。
統山はドアのほうに神経を集めながら物置の戸をあけた。金属音がしないように、引越しに使った滑車とロープを持った。
冬になる前に樽ごと買っておいた漬物が目に入った。統山はその樽の蓋を開けた。漬物の強烈な臭いが廊下に漂った。
居間のドアを静かに閉めるとベランダの金具にすばやく滑車をつけた。
 しおりに現金を詰め込んだリュックを背負わせると、しおりの腰と脇にソファーのクッションを当ててその上からロープを巻いた。
「先に降りるんだ。降りたらすぐにロープを下げる。こんどはおれを降ろしてくれ。滑車だからそれほど力はいらないはずだ」
「貴之さん…」
しおりは血の気のない顔で統山を見上げた。
「時間がない。いくぞ!」
統山はロックが外れている窓を開けた。三階だから高さは十メートルほどだ。しおりを抱きしめて唇を重ねた。
「下を見るな。おれが合図したら枠から手を離せ。だいじょうぶだ。ゆっくり降ろす」
統山はそう言うとしおりを抱き上げて、足を外に出す格好でベランダの枠に座らせた。ロープを少し引くとしおりの身体が引っ張られた。
「行け!」
統山はしおりに言った。
しおりは不安そうに統山を見つめながらも、思い切ったように腰をずらした。
 しおりの身体が空に浮いた。統山はゆっくりとロープを緩めた。さすがに四連の滑車となると、しおりの体重を感じさせないほど軽い。しおりが徐々に窓の下に消えた。ロープを緩めながら窓の下を見てみると、しおりが降りてゆくのが見える。
ロープが軽くなってしおりが降りたのを確認した統山は、自分の脇と腰にロープを巻いた。何度かロープを引っ張り、しおりがつかんでいるのを確認した統山は、窓際から一気に空中に飛び出した。
「走ってマンションから離れるんだ!」
地上に降りた統山は急いで身体からロープを解くと、しおりの手を引いて街灯の中を走った。突然、バシッと空気を引き裂くような衝撃がふたりを襲った。見張っていた者たちが拳銃を発射したのだ。
 統山はしおりに重なるようにして雪の上に伏せた。
「追いつかれた!」
統山は言った。
もう逃げても無駄だと判断した統山は拳銃を取り出した。マンションの陰から黒い人影が走ってくる。その手元から閃光がはしった。衝撃波がふたりの近くを通過した。
 統山は走ってくる人影に狙いを付けて拳銃の引き金を引いた。バシッと耳をつんざくような乾いた音とともに統山の拳銃が発射された。初めて拳銃を撃った強烈なショックが手首と肩に伝わってくる。
 統山の弾は相手に命中しなかったらしい。人影は統山としおりに向かって雪の上を走ってくる。統山はまた引き金を引いた。
「しおり、逃げろ。走るんだ!」
統山は叫んだ。
「いや!。一緒じゃなきゃいや!」
しおりは統山のうしろに身を隠したまま叫んだ。
「しおり!」
統山は叫びながら拳銃を撃った。
人影がはじかれたように倒れた。命中したらしい。
「いくぞ!」
統山はしおりの手を引いて立ち上がった。しおりは青ざめた顔でマンションのほうを見ている。またバシッという音がした。
「いくぞ、しおり!」
統山はしおりの手を引いた。そのしおりが雪の上に崩れ落ちた。
「しおり!。しおり!」
統山は倒れたしおりの手を引いた。
「しおり。立て!。しおりーっ!」
統山は大声で叫んだ。しおりは統山の腕の中でぐったりしている。
 しおりのスキーウェアーの左胸にザクロのような穴があいている。弾丸の熱でスキーウェアーの焦げた白い煙が立ち上り、中の綿がはじけていた。
「しおりーっ!」
統山はしおりの身体を何度もゆすった。しおりの意識は戻らない。統山の頭は真っ白になっていた。
しおりが撃たれた。しおりが…。
ぐったりしているしおりを抱きしめる統山の耳に、何発かの拳銃の音が聞こえた。
「統山、だいじょうぶか!」
統山のそばに男が駆け寄ってきた。それが高杉だとわかるまでに数十秒の時間がかかった。
「高杉…。しおりが…。しおりが撃たれた…」
統山は力なく言って高杉を見上げた。
「なに…」
高杉は、統山と統山が抱きしめているしおりを交互に見た。しおりのスキーウェアーの胸のあたりに穴があいていた。
「見せろ!」
高杉は統山を押しのけると、しおりのスキーウェアーのファスナーを下げた。
 統山は頭の中が真っ白になったまま、ぼうぜんとしてしおりと高杉を見ている。しおりの首の頚動脈に手を当てていた高杉が大きくため息をついた。
「女はだいじょうぶだ。一緒に来い。ぐずぐずしているとまたやつらが襲ってくる」
高杉はそう言うと、倒れているしおりを抱き上げた。統山はしおりが撃たれたショックで雪の上に座り込んだまま高杉を見上げた。
「はやくしろ!」
高杉が強い口調で言った。統山はふらふらと立ち上がった。
しおりが撃たれた。統山の生きがいのしおりが、拳銃で撃たれたのだ。
「しおり…」
統山は立ち上がって、高杉に抱かれているしおりの顔を覗き込んだ。目を閉じたままのしおりの顔が白かった。
「心配するな。生きている。ショックで気を失っているだけだ」
高杉はそう言って歩き出した。
「生きて…。本当か!」
統山が叫んだ。
「とにかく、おれと一緒に来い。すぐ近くに車がある」
高杉は先に立って歩き出した。
「しおり!。しおり!」
統山は、歩きながらも高杉に抱かれているしおりに呼びかけた。
「確認するのはあとにしろ。そら…」
高杉は、横を歩いている統山にしおりを渡した。


注)この小説はフィクションであり、登場人物や組織などは実際に存在するものではありません。






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