第10話 ふたつの日本
第二章 独立宣言
十 ふたつの日本
十二月八日午後七時
札幌市の中心街から三キロほど離れた山あいに北海道知事吉野隆雄の私邸がある。二千坪の土地の真ん中あたりに三階建ての豪邸が建っている。
私邸の応接室には、知事の吉野隆雄、北海道警察本部長の藤坂良二、自衛隊北海道方面総監の矢沢昭彦の三人が集まっていた。
「お送りした草案は事前にご覧になっていただいたと思いますが、修正や補足するところがあれば、お二人のご意見を伺いたい」
吉野知事が矢沢と藤坂に言った。矢沢と藤坂は、テーブルにおかれた北海道共和国憲法と朱書きされた草案書の表紙を見つめている。
「ほとんど、手を入れるところはないようです」
北海道方面総監の矢沢が顔を上げて言った。
「わたしもそう思います。すばらしい仕上がりだ。よくぞこれほどに…」
藤坂は腕を組んで吉野を見た。
「以前から、わたしなりにまとめ上げていたものです。基礎となったのはもちろん日本国憲法ですが、警職法(警察官職務執行法)の一部や、自衛隊法の治安出動、防衛出動などの一部と、緊急避難、正当防衛などの武器使用に関する条項。それらは、国土防衛と国民の安全を守るため、日本国の法律よりも強権を発動できるように改正を加えております。刑法も、犯罪者に対してはより厳しいものにしました」
吉野はそう言ってふたりを交互に見た。
「国情が安定したころ…。時期は、おおむね半年後と思っておりますが、本格的に他国との条約の締結にかかるつもりです」
吉野はそう言って、雪が積もっている窓の外を見た。
「北海道の冬は長い…。食料も一ヶ月や二ヶ月はもつでしょうが、それ以降の食料は、やはり近隣の外国に頼らざるを得ないでしょう。日本国は我々の独立に怒り心頭でしょうから、兵糧攻めにこそしても、物資など回してくれるはずはありません」
吉野はそう言って腕を組んだ。
「外交は三流の日本国は、相手に塩を送ることはない」
藤坂は笑った。その言葉に吉野と矢沢も声を出して笑った。
「三流の上に、超の字がふたつもみっつも付きます」
矢沢の言葉に、また吉野と藤坂が笑った。
「当然、紛争も予想されます。それにともない、国内の治安の悪化も…。警察と自衛隊には、連絡を密接にしていただいて、厳重な対処をお願いします」
吉野は振り返ってふたりに言った。
「承知しています。陸海空あわせて三万五千人。装備も完全に整っております」
矢沢が光る目で言った。
国土防衛のための戦いならば隊員たちは喜び勇んで出動する。
新しい国家が誕生し、国を守るという最前線に立つのは自分たち自衛隊だということを、全北海道の隊員個々にまで徹底してある。装備もじゅうぶんだ。
すでに海上自衛隊の各艦船、航空自衛隊の戦闘機、ミサイル基地。陸上自衛隊の各火砲や戦車などには実弾を積載させている。いついかなる兆候が起きようとも、すぐに対処できる態勢を整えていた。
独立を宣言したとき、日本政府が一番最初に起こす行動は、まず吉野知事に対する山岡総理大臣からの説得だ。
もちろん吉野は説得には応じない。
日本政府は臨時国会を召集し、北海道独立宣言に対する対策を協議する。その結果は、本州の自衛隊に治安出動を命じ、クーデターの鎮圧を指示する。津軽海峡をはさんで自衛隊同士の戦いになることは間違いない。
たとえ本州の自衛隊が列をなして攻めてこようとも、めったに引けを取らない自信が矢沢にはある。
攻撃は最大の防御と戦術にはあるが、戦いの場所はこの北海道だ。その北海道で毎年訓練をしてきた我々には、地の利というものがある。
我の兵力よりも敵の兵力が多い場合、防御戦闘、いうなれば、待ち伏せの戦闘がもっとも強固だ。
政府とて本州の自衛隊の半分以上を犠牲にしてまでも北海道を潰す決心はできないはずだ。何日か、あるいは何週間かの戦闘はあろう。しかし北海道全域を破壊するような暴挙には出ない。
ただ、ひとつだけ懸念があるとすれば、日本と安全保障条約を結んでいるアメリカがどう動くかだ。北海道と本州との紛争をしばらく静観するのであればよし。そうでなければ米軍をまじえた本州自衛隊との戦闘になる。
第二次世界大戦終了直後、当時のロシアは津軽海峡を境とした北海道と当時の樺太、それを取り巻く島々の統治を連合国に要求した。
しかし、GHQ(連合軍総司令官総司令部)のマッカーサーと、当時台湾の総統だった蒋介石がロシアの意見に猛反対し、日本は分断を免れた。マッカーサーと蒋介石のふたりがいなければ、今の鮮民国半島のように日本も北と南に分断していたはずだ。
吉野は、北海道の自衛隊と本州の自衛隊がお互いに銃を向け、その引き金を引く姿を思い浮かべていた。しかしもう後戻りをするつもりはない。
日本の歴史を語る上で、北海道や東北はその粘り強さと根性、田舎者を理由に戦争には一番前線に駆り出され、その割には見返りはなく、なにかにつけて冷や飯だけを喰わされ続けてきた。
そんなことは無いと政府は言う。もちろん多少はこちらのひがみもある。が、歴史を見れば、関東や関西の都市を除いて北海道、東北、四国、九州の地方から徴兵された兵隊が最前線に立たされ続けたことは事実なのだ。
現代の自衛隊海外派遣にしても、中央部隊は首都防衛という最優先の任務を理由に、ひとりたりとも出そうとはしない。出るのは北海道、東北、中部、九州、四国などの部隊だ。
そろそろ、東京主体の政治に一石を投じるときがきたのだ。
「山岡総理が、予定どおり、あす九日に来ます」
吉野の声に矢沢は我にかえった。
「選択肢はふたつです」
吉野は言った。
「来道するのを機会に山岡総理を抹殺するか、または、洗脳して東京へ送り返すか…」
吉野は腕を組んだ。
抹殺するのは簡単だが、そうなった場合、政府の怒りをかうことになる。副総裁の下房では与党と野党を束ねる裁量はない。
野党に政権交代を迫られるに決まっている。そうなると、次の政権は野党第一党の社共党がにぎり、総理総裁は川島健作になる。強硬派の川島が政権を握れば、間髪をいれずに北海道に武力を差し向けてくる。
北海道の独立を容認するよう、山岡を洗脳して東京へ返したとしても結果は同じだ。国会で野党の総攻撃にあい、最終的には社共党に政権がうつる。
それよりも北海道の視察をすんなりと終わらせ、東京に戻ったところを見計らって独立を宣言する。
社共党の川島よりも、山岡のほうが理性はあるだろう。交渉もしやすいと吉野は思った。
「山岡総理の視察を何事もなく終わらせるよう、万全の態勢でのぞみましょう」
吉野は言った。
「どう考えても、社共党の川島を相手にするより、今の山岡総理のほうが今後なにかと交渉しやすいと、わたしは思います」
吉野は、独立宣言後の考えをふたりに言った。藤坂と矢沢は大きくうなずいた。
「山岡総理が視察を終えて、北海道を離れた時点をもって、全道の自衛隊は厳戒態勢にはいります」
矢沢は吉野と藤坂に言った。
「警察も、全道で二万人を動員しての特別警戒態勢にはいります」
藤坂も吉野と矢沢を見つめた。
「しっかり、お願いします」
吉野はそう言って、テーブルの草案書を持ち上げた。
十二月九日午前十時、山岡宗助総理大臣を乗せた政府専用機が千歳空港に着陸した。
吉野隆雄北海道知事の出迎えを受け、午前十時六分、山岡総理の車列は千歳空港を札幌に向けて出発した。
空港ターミナルとその周辺道路に三百人の警察官が配備についた。千歳から札幌に向かう道央自動車道は午前十一時三十分まで閉鎖され、周辺に六百人の警察官が配置された。 フロントガラスに、白地に金色の桜を五つ配した総理大臣標識をつけた山岡総理の車は、前後に十台の白バイと六台の覆面パトカーが護衛した。今までにない厳戒態勢だ。
「おまえが直接わしの警護とは、どういう風のふきまわしだ?」
山岡は隣の座席に座っている高杉晋也に聞いた。
「詳しくは、まだお知りにならないほうが…」
高杉は、フロントガラスごしに前を見たまま言った。
「まあいい。きょうとあすはおまえと若林に任せる」
山岡は、隣の高杉と助手席に座っている秘書官の若林の背中を見た。
「昨日申し上げましたとおり、すべて吉野知事の説明を信じた芝居をして、全面的に災害支援の約束をしてください。そして総理が無事に東京へ戻られることが最優先です」
高杉は言った。
「わかった…」
山岡は、高杉の言葉に大きくうなずいた。
北海道で起こっていることは、山岡が承知していること以外、まだほとんどを話してはいなかった。話せばとんでもないことになる。
一連の事件を山岡自身が直接自分の目で確かめたいとの姿勢をくずさない限りは、北海道に渡る前に山岡の耳に入れるのは早いと高杉は判断したのだ。
近いうちに、日本国総理大臣として、今までにない重大な決断を迫られると、それだけは言っておいた。
そうかと、山岡は言った。それ以上のことは高杉に聞かなかった。聞いても言う男ではないことは承知している。ならば、高杉が話をするまで待つしかない。
厳戒態勢の中を、車列は札幌に向かって走行していた。
「稚内と士別市、函館の恵山駐屯地のクーデター、および津軽海峡での事故について、詳細についてはまだ調査中ですが、各地とも少しずつ落ち着きを取りもどしております」
道庁の会議室で、北海道知事の吉野隆雄がプロジェクターと資料を使って山岡総理に説明していた。
スクリーンには、稚内、士別市、恵山での事故の様子が次々と投影されている。
「稚内では、市民と航空自衛隊の隊員。士別市では第二普通科群の隊員の補償問題が持ち上がっております。また、恵山駐屯地でのクーデターに関しましては、同じ自衛官が引き起こしたとの事で、総理もご承知のとおり、現在、詳しい調査をしながら防衛省と補償額等、細かいことを調整中です。遺族のため、総理の御高配をあらためてお願いいたします」
吉野は山岡に深く頭を下げた。
「海上自衛隊の護衛艦四隻と、東日本および西部日本航空の事故につきましては、現在も海上保安庁と、国土交通省の航空・海洋事故調査委員会で調査を実施中です」
説明を聞いている山岡総理に、吉野はそう言って頭を下げた。
「うむ…。遺族のため、政府は最大限の補償をするよう努力する。そのために巨額の税金を当てても、異議を唱える国民はいまい」
山岡は腕を組んでうなずきながら言った。
「いろいろと大変な事故があったというのに、北海道庁の職員はもとより、道民も思ったより平穏だ。北海道を預かる吉野知事の手腕に、心から感服している」
山岡はそう言って吉野を見た。吉野はまた深く頭を下げた。
その日の午後、山岡は吉野知事と北海道方面総監の矢沢陸将に案内され、自衛隊のヘリコプターで函館の恵山駐屯地を視察した。
翌日、函館空港から空路で稚内に入り、吉野知事と前田市長の案内で、事故の直後に緊急で工事が行われた空港と航空自衛隊の第三八七基地防空隊を視察した。
その後、稚内市役所で市民の代表と会談を開き、ここでも被害にあった自衛隊と市民に対する最大限の補償を確約し、滑走路が修復された稚内空港から政府専用機で東京へ戻った。
十二月十日午前十一時五十分。永田町の総理大臣官邸で山岡宗助と高杉晋也がテレビを見つめていた。高杉は山岡から少し離れて座っている。
正午から、北海道知事の吉野隆雄が通信衛星の回線を通じて、全世界に対して重大な発表をすると、吉野みずから主だった報道各社にファックスを送ったのだった。どういう向きの発表かはわからない。
ご覧になったほうが、と、高杉が言った。
ふだん、山岡と話をするときは、高杉は壁にもたれて立ったままだ。しかし、きょうは同じソファーに腰を下ろした。
理由は、もしも北海道知事の吉野が、テレビで山岡に催眠術をかけようと企てた場合、それを阻止できるのは高杉しかいないのだ。
高杉は、上着のポケットに忍ばせている折りたたみ式のナイフに手を触れた。
万が一の時には、間髪をおかずに山岡の腕か足をナイフで刺し、催眠術におちいらぬようにしなければならない。
正午。時報と同時に北海道知事の吉野隆雄がテレビカメラの前に座った。
『わたしは、北海道知事の吉野隆雄です』
テレビの吉野が自己紹介をして軽く頭を下げた。
山岡は腕を組んでテレビを見つめている。高杉は、いつでもナイフを取り出せるようにしていた。
『これを見ているでありましょう山岡総理。そして、日本全国のみなさんと、世界各国首脳の方々に申し上げます』
吉野はテレビカメラを見つめた。
『北海道は、本日、十二月十日、正午をもちまして…』
吉野はそこで言葉を切った。
『日本国からの、独立を宣言いたします』
吉野知事は強くはっきりした言葉で言った。
「なに!。独立だと!」
山岡はそう言って立ち上がった。
「何を…。独立と…」
山岡は、テレビの吉野知事を指差したまま、座っている高杉を振り返った。
『独立後の名称は、北海道共和国といたし、初代共和国の首相には、不肖ながら、わたくし吉野隆雄が就任いたします』
山岡は言葉も出せずに突っ立ったままテレビ画面の吉野を見ている。高杉は腕を組んだままテレビを見つめていた。
『北海道共和国は、札幌を中心とした道央圏。函館を中心とした道南圏。旭川を中心とした道北圏。帯広を中心とした道東圏の四圏からなり、共和国政府は札幌の現北海道庁におきます』
吉野がゆっくりと、そしてはっきりとした口調で言っている。
『北海道共和国の主な国務大臣は、治安大臣に、北海道警察本部長の藤坂良二氏。国防大臣に、自衛隊北海道方面総監の矢沢昭彦氏。外務大臣に、北海道総合銀行頭取の中野和夫氏。教育・通産大臣に、北海道総合大学学長の萩本正弘氏。科学・工業大臣に、北海道製鉄代表取締役社長の川辺富郎氏。医療大臣には、北海道医療大学学長の川崎忠雄氏…』
テレビの中の吉野隆雄が、独立したあとの国務大臣と称する名前を次々と読み上げている。
突然電話が鳴った。
「山岡です」
テレビを見たまま、受話器に答えた。
「おお、加賀くんか。うむ。うむ…」
山岡はテレビを見たまま答えた。テレビの吉野知事は、あいかわらず各主要閣僚の名前を読み上げている。
「すぐに召集してくれ。わしもいく」
吉野はそう言って受話器を置いた。すぐに電話が鳴った。また受話器を持ち上げた。
「山岡です…」
山岡は低い声で答えた。
「うむ。わしも見た。さっき加賀官房長官からも電話があった。直ちに臨時国会を開く。いや、下房くん。党の国防部会が先だ。統幕(統合幕僚会議)議長も呼んでくれ」
山岡は受話器を置いて高杉を見た。
「おまえは、このことを知っていたのか」
山岡は高杉に言った。
「こうなるのではないかと…。その思いは…」
高杉は下を見たまま言った。
「なぜ言わなかった!」
山岡は怒鳴った。
机の電話が鳴ったが、その電話のベルの音も、山岡の耳に入っていないようだった。
「北海道に行ったときに知っておれば、こんな事にはならなかった!」
山岡は、テレビを指差して言った。
「総理の身の安全を…。それが、わたしの役目ですから」
「わしの命が危なかったと、そう言うのか!」
「そうです」
高杉は顔を上げた。
「稚内、第二普通科群。そして函館恵山と津軽海峡、函館空港でのこと…。すべてはこのことの布石でした。調査室の山城さんも、すでにこの世にはいません」
高杉は、座ったまま山岡を見上げた。
「総理が、わたしの北海道視察中止の進言を了承したとき、わたしは詳しくお話しようと思っていましたが。しかし、どうしても視察となったとき、お伝えしないほうがよいと、わたしは判断しました。いま、吉野知事と対等にわたり合えるのは総理だけです。その総理の安全だけはと…」
高杉は言った。
「重大な決断とおまえが言ったのは、このことだったのか」
山岡が高杉を見つめた。
「はい」
高杉は答えた。
とりあえずは、山岡は無事に東京に戻った。
テレビで、吉野が山岡に催眠術をかけなかったのはなぜか。かけようとすれば簡単にかけられたはずだ。それをしなかったのは、整形手術で山岡になりすました福原が言ったように、催眠術にかかった大勢の人間が北海道に押し寄せるのを防ぐためもあろうが、吉野に何かの思惑があってのことだろう。
高杉は立ち上がった。
「北海道に行きます。くれぐれもお体を…。最終的な段階になったときは、すぐにお知らせします。それまでは、早まったことはなさいませんように」
高杉が言った。
「どういうことだ」
立ち上がった長身の高杉を山岡が見上げた。
「吉野知事を抹殺するのは簡単ですが、今は時期ではありません。吉野が独立を宣言したいじょう、北海道の人たちも、ある程度は同調しているものと思われます」
高杉が山岡を見つめて言った。
「いま吉野知事を抹殺すれば、北海道民の反感をかうだけです」
「では、どうしろというんだ!」
山岡は怒鳴った。
「交渉をしてください」
「交渉だと?」
「そうです」
高杉が言った。
「吉野知事を悪者にするのです。吉野知事との交渉を全国に同時放送して国民に聞かせてください。その中で、日本国の正義を国民に訴えるのです。時機を見て…。よく時期を読み取って、自衛隊に治安出動を命ずるもよし。それは総理の決断しだいです。しかし、時期を間違えば、世論の悪者になるのは、総理のあなたになり、日本国になります。それをお忘れなく」
高杉はそう言ってきびすをかえした。
「おまえは、いつから政治家になった!」
山岡は高杉の背中に怒鳴った。
不本意ながらも、いつの間にか山岡は高杉の言うとおりの行動をするようになっていた。 北海道の視察にしてもそうだ。いきなり航空自衛隊の戦闘機で羽田空港に強行着陸し、その足で私邸にやってきた高杉は、北海道の視察をやめるようにと言った。だが、山岡はどうしても行くと言って高杉の言葉をつっぱねた。
今まで高杉の言うとおりにしてきたことにふと腹が立ったのだった。
日本国の内閣総理大臣の自分が。七十歳を超えた自分が。まだ四十五そこそこの高杉の言うとおりに動いている。総理大臣としての威厳は、高杉の前では消えていた。
確かに高杉の言うとおりにしていれば、何事も間違いなく動いてきた。
自分は机上の総理だった。しかし高杉は机上の情報員ではなく、自らの脳と体で得た生の情報を持っていた。
「政治に、興味はありません」
高杉は振り向いて言った。
「わたしは、総理が一番…。日本国にとって、一番いいようにと…。それだけがわたしの役目です」
高杉は少し笑った。
「総理が、わたしのことをうとましくお思いのときは、いつでも…」
高杉はそう言うと、部屋を出てドアを閉めた。
「待て、高杉!」
山岡は閉められたドアを開けた。廊下に出て後ろ姿の高杉に叫んだ。
「こんなことは、口が裂けても言いたくは無いが、わしが悪かった!」
その声に高杉が立ち止まった。
山岡の大声に、秘書官や手伝いの女たちが顔を出して山岡と高杉を見ている。
「おまえの情報を、わしは待つ!。おまえが、それが日本国のためだと言うのなら、それを待つ!」
山岡が大声で言った。
高杉は、山岡を振り返えることなく廊下を歩いていった。
総理大臣官邸の会議室に十人の人間が集まっていた。
「しょくんは、よく話を聞いて、それぞれの立場で最善の策は何かを考えてくれ。それを最終的に煮詰めてゆき、国会で賛否を問うことになろう」
山岡はそう言って委員たちを見回した。
「総理の山岡だ。吉野知事を出してくれ」
山岡は北海道庁に電話をかけた。電話の内容は直接会議室のスピーカーから流れることになっている。
北海道の独立を宣言した吉野のテレビ放送があってから、三十分後には党の国防部会を組織する議員と委員が集まっていた。
総理大臣を長として、自由公民党の副総裁、内閣官房長官、防衛大臣、統合幕僚会議議長、警察庁長官、国土庁長官、自治大臣を兼務する国家公安委員長、陸・会・空自衛隊幕僚長の十人だ。その中に野党議員は含まれていない。国家防衛上の機密事項にまで触れることもあるため、野党議員は入れないことにしてあるのだ。
委員たちはじっと山岡を見つめている。
吉野と話をするのは山岡総理だけで、何があっても途中で口を挟むなと委員には厳命してある。
高杉の言ったとおり、この放送は北海道も含めて全国に向けてラジオとテレビで中継する。その準備も整っていた。
カメラマンがいなくても撮影できる、自動ズーム式の三台のテレビカメラが据え付けられている。
『吉野です』
HCTV(北海道ケーブルテレビ)が発信するテレビモニターから、北海道知事の吉野隆雄の顔が映し出されている。
「山岡だ」
山岡はひとつため息をついた。
「先日の視察では、すっかり世話になった」
『いえいえ、こちらこそ…。時間に追われて、何ひとつご満足いただけるおもてなしもできず、わたしとしましては、不本意ではありました』
モニターの吉野は落ち着いた声で言った。
「最後に稚内の料亭で食べた、あれは何だったか…。何かのてんぷらと酢の物だった。白い脳みそのような…」
山岡はそう言いながら、稚内の料亭で食べたものを思い出そうとしていた。
『ああ、たちのてんぷらと酢の物ですな』
吉野は少し笑いながら言った。
『あれは、タラの白子です。寒い時期にしか捕れない貴重なものでして、鮮度の関係から、なかなかそちらにまでは…』
吉野は言った。
「そうか、たちというのか…。機会があれば、また食べたいものだ」
山岡はそう言ってテーブルの煙草を持ち上げた。
『ぜひ、またの機会をお待ちしております』
吉野は静かな声で言った。
『総理。本題に入りますが、わたしの放送はご覧になっていただけましたか』
電話の吉野が言った。
「見た…。あまり突然のことに、日本中…。いや、本州がひっくり返りそうな騒ぎになっておる。政府各省庁の電話やネットラインはパンク状態だ」
山岡はそう言って煙草の煙を吐いた。
『私どもの構想は、いかがでしょう』
吉野は自信に満ちた声で言った。
「北海道共和国とは、うまい名前を考えたものだと感心しておる」
『この独立を、日本政府が簡単に許すはずがないことは、先刻承知しております』
「………」
『しかし、これはわたしの独断ではなく、北海道民六百万人の総意なのです。その意思を、わたしは知事として実現する決心をしたのです』
スピーカーから吉野の声が流れている。
山岡以下閣僚たちと自衛隊の統幕議長は、モニターの吉野を凝視している。
「本州から独立して、北海道がひとつの国家として、やっていけると思うのかね?」
山岡はガラスの灰皿に煙草の灰を落とした。
『北海道は、本州に反旗をひるがえそうというのではありません。日本国に属した総合商社を設立しようとしているのです』
「総合商社?…」
『そのとおりです。工業、商業、農業、漁業、観光の、そのほか、すべてを含めた総合商社です』
「………」
『北海道にとっては、本州は…。いわば、あなたたち中央政府は親です。親は我が子のひとり立ちを喜び、祝い、後押しし、困ったときは手を差し伸べる。ちがいますか?』
無言の山岡に吉野が言った。
「それは、時と場合による」
山岡は、そう言ってまた煙草を持った。
「どういう方法で手に入れたかは知らんが、稚内をミグ戦闘機で爆撃して大勢の人を殺し、稚内に向かっていた自衛隊のトラックを攻撃した…」
山岡はそう言って煙草に火をつけた。
「それかと思えば、津軽海峡で自衛隊の護衛艦四隻を潜水艦で攻撃して、自衛官百八十二名を殺した。そればかりではない。函館では自衛隊と警察官を三百人殺し、函館空港では二機の民間機を撃墜して七百人もの人を殺した」
山岡は煙草を吸った。
「ほかにも、旭川、室蘭、小樽、帯広、釧路、網走と…。いったい、きみは何人の人を殺せば気が済むのかね。その極悪非道の罪を犯した者を、たとえ我が子とはいえ、それを祝えと。後押ししろと。弁護をしろと。手を差し伸べろと、きみはそう言うのか」
大声を出したい衝動にかられながら、山岡はモニターの吉野に向かって言った。
『態勢を整えるためには、準備が必要でした』
「そのために、あれほどの大勢を殺したというのか」
山岡は大きくため息をついた。怒鳴りたいのを必死で押さえていた。
交渉をしろといった高杉の言葉を山岡は思い出していた。先に興奮しては相手の術中に落ちる。
この放送は全国民がテレビで見てラジオで聞いている。
誠意を持って独立撤回を説得する山岡を正にし、説得に応じない吉野を悪にしなければならない。国民に対して、吉野を反逆者として心に深く刻ませなければならないのだ。
「順序を立てて、なぜ筋を通さなかった。大勢の人を殺す前に、いくらでも話をする機会はあったはずだ。それを…」
『前任の原島知事の経済道州制度を門前払いにしたあなたに、わたしが順序だててお願いすれば、独立を容認していただけたと言うのですか?』
「話し合いはできたはずだ」
山岡は力を込めて言った。
『いまも話し合いです。国と国との…』
吉野が言った。
「これが、いったい何の話し合いになるというのだ。意に沿わない大勢の人を殺し、武装までしているじゃないか」
山岡の言葉が強くなった。
『それは当然です。独立を宣言しようとしている国家が、それまで統治していた国家と話し合いをするには、丸腰では話し合いに臨めません。途中で踏み潰されることは目に見えています。対等のカードを持っているからこそ、対等に意見も言えるのです』
「武力をもって、きみは独立をしようとしているのか」
『しようとしているのではありません。すでに、たった今、本日正午をもって北海道は独立しました。先ほども申し上げましたが、これは、今後の条約などを含めた、北海道共和国と日本国との話し合いです』
「そんな話し合いを、日本国民が納得すると思うのかね」
山岡は煙草を荒々しくもみ消した。
『その話し合いに応ずるか応じないかは、本州の…。日本国の問題です。わたしは、北海道共和国の首相として、今後必要であろう通商全般に関して、日本国の総理と話し合いに臨もうとしているのです』
「独立独立と、きみは簡単に言うが、ひとつの国家がこの世に生まれるには、どれほど大変なことか。それをわかっておるのか!」
山岡は、はじめて声を荒げた。
「いままで政府から予算をもらい、そして生活してきたひとつの自治体が、ろくに収入もないまま、少しばかり成長したからと、勝手に親元から離れて生きてゆくなど、簡単にできることではない。最後には食い詰めて、親に泣きつくことになるんだ!」
山岡の声が大きくなった。
『総理。ほかの自治体はどうか知りませんが、北海道はそれができるのです』
吉野は落ち着き払っていた。
『北海道には…。わが国は、工業を除けば、農業、林業、漁業、観光という大きな資源があります。工業については、これが正直なところ一番の問題ですが、他国との条約を結んで、当面は軍事産業に力を注ぎ、国家防衛に必要な装備の安定化を目指します。現在、外務大臣が世界に向けてわが国の独立の容認と、当面必要な石油、食料及び防衛上に必要な武器・弾薬などの支援を呼びかけております』
吉野はそこで言葉を切った。
『お待ちください!』
吉野の緊迫した表情が映った。その吉野に一枚の紙が手渡された。
その紙を一読した吉野が顔を上げてカメラを見た。
『日本国総理に申し上げます。ただいま、衛星回線を通じて、中国とロシアから独立承認の返信が入りました。周信代国家主席と、ゴルサロコフ大統領の署名入りメッセージです。石油、食料、武器弾薬については、必要量を輸出する用意がある。細部は近日中にあらためて交渉に応ずると…』
吉野は、あまりにも早い中国とロシアの反応に、自分でも驚きを隠せない様子だった。山岡総理以下、会議室の十人は顔を見合わせた。
『山岡総理。わたしも忙しくなりそうです。日本国との話し合いは、後日あらためてということにしていただきたい』
吉野は、電話の向こうでひとつ大きく息をついた。
『最後に申し上げておきますが、日本国との国境は、西は北緯四十一度〇分、東経百三十九度三十分。東は北緯四十二度〇分、東経百四十二度〇分を結ぶ津軽海峡の中央。国境を除き、経済水域は二百海里とさせていただきます。どんな理由があろうと、領土、領空、領海の侵犯は許しません。断固たる処置をとらせていただきます。ご承知おきを…』
そう言って吉野の画像は切れた。
会議室の全員が、大きなため息をついた。
「総理!」
慌ただしく飛び込んできたのは防衛事務次官の大辻だった。
「どうした!」
山岡は大辻をにらんだ。
「北海道周辺に…」
「待て!」
山岡が大辻を制した。
「すぐに中継の回線を切れ。すぐにだ!」
まもなく警備員が入ってきて、中継していたラジオとテレビの回線を切った。
「どうした!」
警備員を会議室から出した山岡は大辻に聞いた。
「北海道周辺に、ロシアの艦隊が続々と集結を始めています!。アメリカの第七艦隊も太平洋側から北海道を目指していますが、ロシアのほうが早いうちに北海道周辺に到着しそうです!」
大辻が青ざめた表情で言った。
「すぐにホワイトハウスのジェイソン大統領と電話をつなげ!。自衛隊はただちに治安出動の準備をさせろ!。出動の時期は、吉野と各国の出方しだいだ!。北海道の周辺環境を考えれば、まだ独立を承認する東側諸国が出てくるかもしれん。交渉や命令は副大臣か副長官にやらせろ!。その手配が済んだら、二時間後に、もう一度全員この部屋に集まってくれ。今後の対応を協議する!」
山岡はそう言って会議室を出た。委員たちは慌ただしく電話をかけている。
使用人に委員たちの簡単な食事の準備を言いつけ、私室のドアに立入禁止の札を下げて中から鍵をかけて山岡はソファーに腰を下ろした。
そしてアメリカ大統領とつながった電話の受話器を持ち上げた。しばらく低い声でジェイソン大統領と話をしていたが、その受話器を置くと大きくため息をついた。
それを待っていたかのように机の電話が鳴った。
「山岡だ」
山岡は名乗った。
「おまえか!。待っていたぞ!」
山岡は叫んだ。
「うむ。うむ、うむ…」
山岡は電話の相手に答えた。電話は北海道に渡った高杉晋也だった。
「なに…」
高杉の報告を聞く山岡の目が光った。
「うむ…。だいたいのことはわかった。わしは、また今から国防部会に出る。何かわかったら、いつでもかまわん。電話をくれ」
山岡はそう言った。
「それから…」
山岡の声が低くなった。
「おまえだけが頼りだ。相手は容易ならんと見た。たのむぞ、高杉」
山岡はそう言って電話を切った。
山岡は、ひとつ大きくため息をついてソファーに腰をおろした。
高杉の報告を聞いても、なかなかこれは難攻不落だと山岡は思った。落ち着き払った電話での吉野の言葉を聞いてもそれはうかがえた。準備を周到にしてきた結果の落ち着きだろう。それに比べて、こちらには情報が極端に少ない。今からも高杉の情報を待つしかないのだ。
自衛隊に治安出動の準備を命じたが、北海道に武力を差し向けてよいものか…。国民や世界の目もある。ましてや、武力を差し向けようとしている相手は同じ日本人だ。
これが、完全なる反逆やテロ行為ならば、ある程度は目をつぶって銃を撃つこともできようが、吉野に操られているとはいえ、北海道民のほとんどに罪はない。その罪もない道民に、同じ日本人が、同胞に対して大砲やミサイルを撃てるのか。
しかし、と山岡は天井を見つめた。
山岡は、また大きくため息をついて目を閉じた。
山岡の部屋がノックされた。
「ん…」
山岡は目を覚ました。少し眠ったようだった。
「いまいく…」
そう言ってゆっくりと立ち上がり、大きく伸びをした。
水でうがいをした山岡は、委員たちが待っている会議室に向かった。
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