チョコレートを買いに
古い洋箪笥を開けると、そこは知らない世界が広がっていた。
冗談でもなんでもなく、真面目な話だ。
古くて安い箪笥で、私が子供の頃からあるそれは、剥がせなかったシールや消せなくてうっすら残ったイタズラ書きで、薄汚れている。
安い割には頑丈だから、どこも壊われていないが、見た目は悪い。
なにより、日焼けして褪せたピンク色だ。
今は、半分物置になっている部屋の隅で、季節モノの服や使っていない小物がしまってある。だから、年に数回しか開けることはないシロモノだ。
そんな何の変哲もない箪笥だったはずなのに、これはどうしたことか。
何故森が広がっているのか。
目がおかしくなったか夢かと思って、扉を閉めて、もう1回開いても、景色は変わらなかった。
どこぞの海外ファンタジーか!
そう叫びたくっても仕方ないと思う。
だって、あまりにも非現実的で、ありえない現象だし。
とりあえず、見なかったことにして、買い物にでも行こう。
うん、その方がいい。最近、仕事が忙しくて疲れているのかもしれないし。
私は、そっと扉を閉めようとした。
が。
「あー、待て! 閉じるな!」
そんな声が聞こえたと思ったら、閉まりかかったわずかな隙間から、ぬっと何かが飛び出してきた。
……手? しかも、頑丈そうな皮製の手袋に包まれてる。
一瞬呆然として、力が抜けてしまったせいか、勢いよく扉は開き、そこから男が1人、ぬっと現れた。
ありえない容姿の人だった。
見たことのない髪の色と、現代日本ではありえない服。西洋風の鎧なんて初めて見たよ。
これが夢でなければ、なんだというんだ。やっぱり私は疲れているんだ。
だが、目の前の悪夢の産物は、私の顔を見つめながら言葉を発する。
「やっと、繋がったんだ、素人なりに頑張ったんだ、だから閉じないでくれ!」
そんな悲壮な顔で言われても。
「あなたはこの世界の方か? 少し聞きたいことがあるのだが」
丁寧に尋ねられても、驚きのあまり固まっている頭が、うまく言葉の意味を理解できていない。
いやいや、これ、いったい何がどうなっているの?
「……ちょこれーと……というものを買いに行きたいのだが、どうすればいいのだろうか」
いかつい男の口から聞こえたその言葉に、私は何を言っていいか、思いつかなかった。
「つまり、異世界から来た人が持っていた『ちょこれーと』食べたさに、異世界への扉を開く中古の魔導装置を修理して、やってきた、と」
せまい部屋の中、箪笥の前で私達は向かい合っている。
呆然としていた私に対して、男は自分がここへ来た理由を説明してくれたのだけれど、いろいろぶっ飛びすぎていて、まだ頭がくらくらしていた。
「俺の世界には、異世界から落っこちてくる人が多い。たまたま保護した『にほん』から来た異世界人が『ちょこれーと』を持っていてな。それがあまりにも美味だったため、忘れられなかったのだ。だから、異世界人から日本語もばっちり習ったし、通貨もなんとか手に入れた。後は『ちょこれーと』を買うだけなんだ!」
そんな力説されてもなあ。
すごい執念だけれど。
「そもそも、あなたの世界にはチョコレートはないの?」
チョコレートをもらったのなら、それを参考に作ればいいのに。
「似たものがあるが、全然味が違う! あの口にいれるとほんのりと広がる甘みと苦み。一度食べたらやめられなくなるあの食感! どれだけ一流の菓子職人が努力しても、同じ味にはならないんだ!」
いや、だから、そんな悲壮な顔して言われても。
私は溜息とともに、話を変えることにした。男からチョコレートに対する熱い思いを聞いていても、空しいだけだ。
それよりも、まず確かめないといけないことがある。
「一応聞くけど、まさかその格好でチョコレートを買いに行こうと?」
鎧はマズイでしょう、鎧は。
それに、そのあり得ない色の髪はどうなの。
空色、なんて、染めましたっていう言い訳が浮くくらい、おかしい。金髪とか赤とかなら、ごまかしようがあったろうに。
「ま、まずいのか?」
男は、私の言葉にものすごく狼狽えた。
身体はでかいくせに、そこまで縮こまることはないと思うけれど。
「まずいもなにも……コスプレって言うには、ちょっとリアルすぎるし……。あ、もしかして、腰の剣は本物!?」
うっかりしてた!
そんなもの、一般家庭にはないものだ。
「本物、だが。もしかして、それもまずいのか?」
異世界のことを調べたっていうわにりは、リサーチ不足だよ。
彼に日本語を教えたなら、もっと違うことを伝えて欲しかった!
「不審者扱いされると思う」
「そうなのか。それは困ったな。異世界というところがどういうところかわかっていなかったので、万全を期して武装してきたのだが」
……やはりリサーチ不足だな。
というか、何か戦うものがここにいると思っていたってこと? もしかすると、出る場所は決められなくて、どこに出るかわからなかったのだとしたら、こういうのもありなんだろうか。
しかし、出てくるところを決められないなんて、不便だよね。
街中に突然現れたら、大事になっていただろうし。
ちなみに、扉はまだ繋がっている。
扉の向こうは森だ。いつまで繋がっているのかわからないけれど、
ここに男1人取り残されても、私が困るし。今は家に私1人だけれど、家族が帰ってきたとき、どう説明すればいいっていうんだ。
かといって、こんな格好の男を野放しにすれば大騒ぎになるに決まっている。
「仕方ないな。確か買い置きのチョコレートがあったから、それをあげる」
これも何かの縁だ。早いところ帰ってもらいたいし、買い物に連れていくわけにもいかないしね。
「な、なんと! それは本当か!」
「うん。だからさっさと帰っ……」
「なんとお優しい方だ」
ぎゃー!
何抱きついているのよ!
それに、鎧が当たっていたいー、なんだかごりごりするー。それに、力も強すぎ……。
「わかった! わかったから、離して」
そうでないと、潰される……。
青くなった私が男から解放されたのは、息が止まりそうになって泡を吹きかけた様子に、男が気が付いたからだった。
気づくの遅すぎだよ。
自分の部屋にあった買い置きのチョコを持って戻ると、妙にキラキラと目を輝かせた男が待ちかまえていた。
「はい、どうぞ」
それほど高いチョコレートではないけれど、味は美味しいはずだ。
男は感動のあまりなのか、わずかに手を奮わせて、チョコレートの包み紙をゆっくりと剥がしていく。
そして、慎重な手つきでそれを口に入れた。
「おおお、これは、何と美味な」
あ、ちょっと目に涙が。
うん、見なかったことにしておこう。
結局、男は渡したチョコレートの全てを食べ終えると満足そうに帰っていった。
たぶん、これで終わり。
あれは夢だったのだと思おうとした。
が。
「……チョコレートを買いたいのだが……できればきちんと方法を教えてもらえないだろうか……」
そう言って、今度はトイレの扉から現れた男に私は盛大な溜息をついた。
鎧を着けていなかったから、前よりはマシだけれど。
でも、今回はどうしてトイレ?
洋箪笥じゃないのか?
それより、トイレ、行きたいんだけど私はこの場合どうすれば?
いろんな意味で困り果てた私は、曖昧な笑みを浮かべたまま、男を見つめた。
男も期待に満ちた目で私を見ている。
どうやら、男と私の間に繋がった縁は切れていなかったらしい。