銀の砂粒
夜空の闇はどこまでも深い。
闇は質量を持った濃密な黒だ。自分のすぐそばに確かに存在するように感じられ、そしてそれは次第に体にまとわりつき、僕は身動きが取れなくなってしまう。まるでとびかる隙をうかがう獣のように、息を潜めて身構えているのだ。
空にちりばめられた銀の砂粒は、いまにもそれに飲みこまれそうに、揺らめき瞬いていた。目をそらした一瞬のうちに、その光は消えてしまいそうだった。
その儚げなきらめきは、いっそう夜の深さを際立たせていた。
この街は夜に包まれている。
それは空だけではない。街も人々も、すべてが黒を背景に佇んでいる。冷たい夜の空気が街の隅々まで広がり、人々は白い息を吐きながら会話する。喧騒も熱気も黒に塗りつぶされ、かきけすような静けさが上書きされる。
ここでは夜が明けることはない。
永遠に、夜のままだ。
***
教会が設置した魔導ランプの明かりを頼りに、僕らは朝のない暮らしを続けている。
この闇のおかげで、僕らはあるはずのない苦労をしいられている。
――それでも。
空を見上げた。
僕はこの空が好きだった。
太陽の国で見る、やけつくような熱を持った輝きはない。
けれど、弱々しく光る無数の星は、決して闇に飲み込まれることはなく、何かに抵抗するようにずっと瞬いているのだった。
――星が消えてしまうことはないんだ。ああ、もしかしたら、その数は増えているのかもしれない。
そんなことを考えて、夜空の星を数えてみようとしたことさえある。
あまりにも無謀なその試みがうまくいくことはなかったのだけれど、それはかえって僕の思い付きを補強する有力な事実のように思えた。
――星は増えているんだ。そしてきっと。
僕の脳裏に、空を埋めつくす銀の砂粒が浮かぶ。
――いつか夜は明けるんだ。
それは太陽の輝きではなく、星たちの銀色の輝き。
この街が銀色の光に包まれる光景が、きっと遠くない未来に訪れるのだと、何の根拠もなく僕は信じこんでいた。
***
「面白いね」
僕の話を聞いて、トウヤは柔らかく笑った。笑っているはずなのに、楽しさや喜びはそこにはない。静かに、笑顔をみせているだけ。
最近、トウヤは頻繁にそんな表情を浮かべるようになった。そんなとき、近くにいるのに、とてつもなく遠く離れているように感じる。あの夜空に瞬く星の姿がトウヤに重なり、言い様のない不安にかられてしまう。
トウヤにそんな表情をさせる原因がなんなのか、いくら僕が尋ねてもはっきりとした答えが帰ってくることはなかった。
「それは希望というんだよ」
囁くように、トウヤが言う。
「タクみたいに考えるひとは、珍しいよね。この街では」
そう言って笑うトウヤの瞳は、この街の多くの大人たちと同じ深い漆黒だった。夜の色。諦めの色。
「知らなかった? 星にはね、寿命があるんだ。いつかは消えてしまう。闇に飲まれてしまうのさ」
――どうしてそんな意地悪なことを言うのだろう。
だけどこんなことを言うとき、トウヤは何かに耐えるような、苦しげな表情をするのだった。それを見る僕も、なんだかもどかしい気持ちになって、胸が苦しくなってしまう。言い返すよりも先に、心配になってしまう。
――僕はトウヤの力になれないんだろうか。
トウヤは僕に、その悩みを教えてくれない。僕よりも遥かに頭のいいトウヤは、きっと僕には見えないものを見て、僕にはわからないことで苦しんでいるのだろう。そしてそれは僕に言っても意味のないことなのだ。
それでも力になりたいというのは、僕の傲慢なのだろうか。
トウヤが言葉を続ける。
「そして、消えてしまった星のなかから、また新しい星が生まれる」
――それなら。
と僕は思う。
「僕が思ったことだって、あるかもしれないじゃないか。星が空を埋め尽くして、きっとこの街の夜は明けるんだ」
「さて、どうだろうね」
それっきり難しい顔をして、トウヤは黙りこんでしまった。
***
教会はとても大きな建物だった。この街のどんな建物よりも遥かに巨大だ。街の中心で、丘の上に、山のようにそびえたっている。
街の人々はそれを見上げ、しかしすぐに目を伏せる。
絶対に届かない場所。逆らってはいけないもの。この街では、教会はそういう存在だった。
闇を背景に魔法の灯りで浮かびあがるその建物は、太陽の眩しさではなく、権力の恐怖で、人々の目を背けさせてしまう。
「教会ってどんなものだと思う?」
あるとき、トウヤがそんな質問をしてきた。
「教会?」
と僕は聞き返す。
「教会は、僕らに光を与えてくれる。魔法の使えない僕らに、闇のなかで生きるしかないはずの僕らに、魔法で灯りを与えてくれる。それだけじゃない。人間らしい暮らしができるのは、全部教会のおかげだって……そんなことトウヤも知ってるでしょ」
この街で教会のことを知らないひとはいない。誰もが知っているし、学校でもそう教えられる。僕が答えたのは、そんな当たり前のことだった。
「もしそれが――すべてが仕組まれたものだったとしたら」
ここにはない何かを見つめるような表情をしたトウヤは、またいつものようにどこか遠くにいる気配を漂わせていて、そしてそれはいつもよりもはっきりとしていた。その姿はまるで別の世界の風景を描いた絵画のなかにいるようで、目の前にいるトウヤが蜃気楼のようにふっと掻き消えてしまうような気がして、僕は思わず手を伸ばしていた。
腕に触れた僕の指先に、トウヤは薄く笑みを浮かべる。
「魔法を使えないから、人々は教会に頼るしかない。この街ではすべてが教会の思いのまま。どこまでも都合のいいこの状況が、もしも教会の産み出したものだったとしたら」
その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
それは言ってはならないことだった。
教会に対して疑問を持つこと。
それはこの街では禁じられていることだ。
「異端者」という単語が頭のなかを駆け巡って、トウヤがそんなことを口にしたのが信じられなくて、僕は言葉を失ってしまった。
それからしばらくして、トウヤは姿を消した。
***
「久しぶりだね」
そう言ってトウヤが現れたのも、いなくなったときと同じように唐突だった。
どこへ?
なぜ?
僕の疑問の言葉にトウヤが答えることはなかった。
「ひとりでいなくなって、なんにも答えてくれない。またどこかへいくつもりなんだ! 僕をおいて!」
何も教えてくれないことに不安がふくれあがり、それをごまかすように苛立ちとともにぶつけた言葉にだけ、トウヤは首を振って答えた。
「タクをおいていく訳じゃない。むしろ反対だよ」
それ以上の説明はせず、「見せたいものがあるんだ」と言うトウヤに連れられて、僕は街の大きな通り、教会へ続く道を歩いていた。
「ここら辺でいいかな」
立ち止まり、トウヤが周囲を見回す。
教会が決めた「夜の時間」に、街を歩くひとは少ない。
僕らの周りには誰もいなくて、しんと静まりかえっていた。この空間だけ、時間が止まってしまったようだった。ここでは僕とトウヤ、ふたりきりだ。
「見てご覧よ」
トウヤがそう言って、ちいさな石をつまみあげる。長い指の先で弄ぶように転がしていると、不意に石が浮かび、わずかに輝きを放ち始めた。トウヤの指先で、何の支えもなく石が浮かんでいる。
「ねえ、これってもしかして……」
ため息のように溢した言葉に、トウヤがふわりとうなずく。
「そう、魔法だ」
魔法が使える人間は丘の上の教会へ連れていかれる。この街に住むのはすべて魔法の才能がない人々。丘の上と下ではっきりと引かれた線引きに、例外はないはずだ。トウヤも同じはずだった。なのに――。
「どうして?」
思わず出た言葉に、「いや、それよりも」と僕は思った。トウヤは魔法が使える。それなら、トウヤがいるべき場所は――。
「教会に……行くんだね」
そこはどんな場所よりも遠い。僕が絶対に立ち入ることが許されない場所だ。
「そうとも言えるし、そうではないとも言える。タクの想像していることとは、きっと違う」
パチンとトウヤが指を鳴らした。
すると道の両端に炎が灯った。
トウヤが魔法を使えるというのも驚きだった。けれど、今度の驚きはそれ以上のものだった。目の前の炎はあるはずのないものだった。
銀色の炎。
それはあるはずのない炎だ。
自然のなかに存在しない、見たことのない、教会の誰も作りだしたことのない炎。
パチンと指をはじくと、次々に炎が灯っていく。銀色の炎に飾られた道がたどりつく先は、あの巨大な教会の建物だ。
「思い出したんだ」
トウヤが呟く。それは僕に向けたものではなかった。何もない空中に隠れ、密かに観察しているものに向けて、語りかけているようだった。
「僕はこの世界の人間ではない。その記憶を持っている」
トウヤが言ったそれがどういう意味なのか、僕にはわからなかった。
「疑うことができるのは、外部的な思考を持つ人間だけだ。巧妙に隠されたルールに従っている人間は、そのルールの存在自体に気づくことがない人間は、疑いを持つことすらできない」
トウヤの睨み付けるような視線に、応えるものはいない。
「だとすれば、僕がこの場所に、この街に存在する理由はひとつだ。そうなんだろう?」
それだけ言うと、トウヤはゆっくりとまぶたを閉じて、静かに深くため息をついた。
「さあ、そろそろお別れだ」
トウヤの口にした「お別れ」という言葉に反射的にからだが反応して、僕は駆け寄り、トウヤの肩を掴んでいた。
「やっぱり、やっぱり僕をおいていくんだ」
「そうじゃないんだ」
笑いながらトウヤが言って、その長い指で肩を掴む僕の手を剥がす。
「おいていかれるのは僕のほうなんだ。進んで行くんだよ。タク、そして――」
トウヤが誰もいない道を、人気のない建物を見回していく。
「街のひとたちも」
それからようやく――そう、この日初めて、トウヤはしっかりと僕の瞳を見つめた。
「タク、希望だ。この街の人々が失ったものを君は持っている。それを覚えておいて」
そしてもう一度トウヤが指を鳴らすと、僕の周りを見えない何かが、透明な檻のようなものが取り囲んだようだった。
「こうでもしないとタクはついてくるかもしれないからね」
そう言ってトウヤが背を向ける。透明な檻が動きだし、どうやら僕の部屋へ向かっていくようだった。
遠ざかるトウヤの姿は、銀の炎に飾られた道を辿って、教会の方へ向かっていった。
***
僕の部屋にたどりつくと透明な檻はなくなった。なのにどうしても部屋から出ることはできなかった。ドアも窓も開かない。
部屋の窓からは教会が見える。
否応なく目に入ってしまう見慣れた景色は、いつもと違う色彩に彩られていた。
銀の炎。
それが教会を照らし出している。
爆発のような光を銀の炎が放った。そうすると、教会の建物の一部が壊れてしまったようだ。先程と形が変わってしまっている。
爆発のような光は何度も繰り返され、そのたびに建物は崩れていくようだった。
トウヤがどうしてそんなことをしているのかはわからない。
――でも、もし僕に魔法が使えたなら。
銀の炎を遮るように近づく、別の炎も見える。
――もし僕がトウヤと同じくらい賢かったなら。
炎が何度かぶつかり、片方の炎だけが残った。銀色の炎だ。
――トウヤは僕を連れていってくれたのだろうか。
そんなことをどれだけ願っても変わらない。
僕にできることは、この部屋から、遠く離れた銀の輝きを見つめていることだけだった。
――ああ、あの鮮やかな銀色は、いったい何を燃やした炎なんだろう。
ふと、そんなことを思い付く。
炎があるなら、それは何かを燃やしているということだ。眩しいほどの光を放つそれは、何を焼きつくしながら輝いているのか。
想像して、その想像に目眩が――立っていられなくなるほどの衝撃を受けて、僕は床に膝をついたまま、窓に向かって手を伸ばした。
窓が開くことはない。
炎が消えてしまわないように祈りを込めながらじっと見つめているしかなかった。
***
教会を照らす銀の光が弱まったころ、ようやく閉じ込められた部屋から出ることができるようになっていた。
僕はあの道を教会へ向かって走っていった。
道の両端には、もう銀色の炎はない。
それが意味することを考えないようにしながら、僕は走り続けた。
「魔法だ!」
街のひとが数人、集まっているのが見える。その中のひとりが、トウヤがやったように小石を浮かべていた。
「俺にも魔法が使えたぞ!」
そう言っているのは教会の人間ではない。魔法が使えないはずの街の人々だ。
――いったい何が起きているんだろう。
わからない。
だけど、ひどく胸騒ぎがしていた。
はやくトウヤに会って、何があったのかを聞き出さなければならない。
教会があるはずの場所は暗闇に閉ざされていた。音もしない。行く手を阻むはずの教会の人間も誰ひとりあらわれることはなかった。
何が起きたのかわからない。
完全な暗闇だった。
街のひとが言っていたことが本当なら――。
もし僕にも魔法が使えるのなら、いま必要なのは灯りだった。この暗闇を照らして、トウヤを探さなければならない。
そう思ったとたんに、ぼんやりとしたちいさな炎が僕の前に現れていた。
照らし出されたのは教会の残骸だった。もとの形をまったくとどめていない。そこにあるのは粉々になった、大量の建物の材料の山だった。巨大な建物だったから、残骸もとてつもない量だった。
僕の目に映る範囲に、トウヤの姿はなかった。
どれだけ歩き回ってもトウヤが見つかることはなく、手がかりになりそうなものも何ひとつ残っていなかった。
まるで炎が消える瞬間のように、ふっとトウヤの存在が消えてしまったようだった。
それから何度訪れても、状況は変わらない。トウヤが見つかることはなかった。
***
数週間が経っても、僕は日課のように教会があった場所に通っていた。
「またトウヤ君を探してるんだ」
少女が現れて、笑うように呟く。
彼女の名前はなんだったろう。興味がないせいで、あやふやだ。
ただ、僕以外の人間の口から、トウヤの名前が出てくるのは不快だった。何も知らないはずなのだ。トウヤのことを。僕以上に知っている人間はいない。僕だけなのだ。
「あっ」
と少女がちいさく声を上げた。髪を押さえるしぐさをする。
ふわりと風が吹いて、僕はそれがなんだかトウヤが通り過ぎた痕跡のような気がして、慌てて手を伸ばす。
風を捕まえることは、もちろんできなかった。
教会が壊れてなくなってしまっても、あいかわらずこの街は夜に包まれていた。でも、以前とはまったく違うことがある。街の人々は、いまでは魔法を使うことができる。
「おいていくわけじゃないよ」
そう言ってトウヤはいなくなってしまった。
教会がなくなった街は、すこしずつ変わり始めているようだった。
できなかったことができるようになった。
街の人々は、以前にはなかった自由を手に入れた。
突然の変化に戸惑っているひとも多いようだった。だが、その変化がよい方向を向いているようだという認識が広がり、実際にすこしずつそうなっているようだった。
これがトウヤの望んだことだったのだろうか。
でもここにはトウヤはいない。
それは僕が望んだことではなかった。
「きれい」
少女が言った。
そのつぶやきは、街にポツポツと浮かぶ魔法の炎の灯りに向けられたものだった。その灯りも、日をおうごとに増えていっているようだった。
素直に景色を楽しむ気分にはとてもなれなくて、しかし僕は地面にへばりつくように広がっている頼りない明かりに、じっと目を凝らしてしまっていた。
いくら探しても、どれだけ時間をかけても、その中にあの銀色の炎が見つかることはない。
「希望」とトウヤは言った。
それが指し示すものが、もしいまの僕の望むものなのだとしたら、いつかどこかで銀色の炎をみつけることができるのだろうか。
少なくともその「希望」だけは、失ってしまうわけにはいかなかった。
「もう帰ろう」
そう言う少女のあとについて、僕は教会があった丘のうえから街へ向かって歩き始める。なだらかなくだり坂にさしかかると、少女は僕の隣に並ぼうとして、よろめいて、ひとりで騒いでいた。
振り返ると教会の残骸は闇に飲まれて消えてしまっていた。いつまでもこの場所に立ち尽くしているわけにはいかない。だけど、進みたくもない。
ときおり止まりそうになる僕の背中に、少女はそっと手を添えて、そうしてゆっくりと街へ向かっていった。
***
あれからずいぶんと時間の経ったいまでも、どうしようもなく寂しくて、空を見上げることがある。
そこに輝いているのはチカチカと瞬く、空いっぱいに広がった銀の砂粒たちだった。