ラミナの危機
「ズシーン、ズシーン」
繰り返される衝撃が、止む事も無く彼女を突き上げる、その度に恐怖が溜まっていく、もう彼女には限界だった。這い上がった流氷はかなりの厚さがあった。おとりになってオルカを遠ざけてくれたルシナは無事に逃げ切れただろうか? そう思う時間も無く、エスメラーダは海の底から硬い頭で氷を砕こうとする『ホッキョククジラ』の攻撃に恐怖した。
氷のひびが次第に広がり始めた。このままだとそのうち氷は分割されるだろう。彼女はフィンを剥ぎ取られ、細い二本の足をあらわにしていた。おまけに海中とは違って氷上は寒く、次第に意識まで遠くなってきた。
「ルシナが言った通り、私を狙って『メイフ』の手下になってしまったのね、キリト」
彼女がキリトと呼ぶホッキョククジラは、アガルタで二百年近く生きている。その手下のクジラだろう、ひと回り以上は小さかった。それでも二十メートルはある。
「ズガーン」
大きな衝撃が起こり、とうとうエスメラーダは気を失った。
「マオ様、人魚たちごめんなさい……」
かすかにからだが温まり始めた。氷の冷たさが感じられなくなった。とうとう感覚までおかしくなったように思った。身体も揺れている。
「そのまま、動くな……」
低いがしっかりとした男の声がした。どうやら彼女はボートに運ばれたらしい、海面が盛り上がりクジラが浮上してきた。男は長いモリをクジラに数本打ち込んでいた。ホッキョククジラも潜水の時間が次第に短くなっているのだろう。モリを持ったまま、男はその時をボートに立ち上がって待ち続けていた。男の服はエスメラーダを包んでいた。リュウグウとは違う肉の付き方が美しく見えた。男はそのモリを放った。
「くらえっ!」
左目に深々と刺さったモリと一緒に、ホッキョククジラはとうとう諦めて海中に消えた。それを確認すると、彼女の方に向き直った男は、こうつぶやいて倒れた。
「無事でよかった、エスメラーダ……」
その男を膝に乗せ、彼女は尋ねた。
「私を救ってくれたあなたは誰?」
「オロスの村のアマト、ベルーガとルシナが君のヒレを持ってきてくれる。安心していろ」
「オルカは?」
「俺と親父が追い払った」
アマトは既に息のない、もう一人の男を指差した。彼の父は満足そうな死に顔だった。
「その箱から、着替えをとってくれないか、エスメラーダ」
「はい、アマト様」
「おいおい、アマトでいい」
「でも……」
成熟した人魚はその連れ添う相手にしか素足を見せない。それが人間だったとしても、既にエスメラーダはアマトに心を奪われていたのだった。エスメラーダは微笑んで彼に言った。
「私はエスメラーダになる前は、北極海の人魚ラミナ。それなら、アマト。あなたは私の事を『ラミナ』と呼んでください」
「ラミナか、いい名前だ。それに何より」
「何より?」
「美しい……」
オーロラに浮かぶラミナの裸身は妖艶でアマトはつい、本音を漏らした。暖をとるのに抱き合ったままの二人はやっと二日後、オロスの舟に見つけられてアマトの妹の家に運ばれた。