目覚め方にはいろいろある。
母親に叩き起こされたり、付き合っている彼女が耳元で囁いてくれたりするなんてこともモテる男には当然起こりえることだろう。
目覚まし時計の甲高い音色で心臓を引っくり返す方法が27歳独身男の一般的な朝のはじまりなのかもしれない。
今日の目覚めは最悪。なにか息苦しいものを感じて瞼が開いた。ハァハァと荒い息遣いをしている自分自身に驚く。なにか怖い夢でも見たのかパジャマは汗でグッショリ。でもどんな夢を見たのか記憶はない。
アラームをセットしたのは7時10分。
しかし、目覚し時計の針は7時28分を指していた。寝坊したが慌てるほどじゃない。朝食を抜けば問題なく会社に間に合う。
無意識にアラームをとめて2度寝することはよくあることなので、不幸中の幸いだったと苦笑いを浮かべるしかない。
ベッドから下り、郵便受けから朝刊を取りに行くとなんと新聞が濡れていた。文字はなんとか読めるがふにゃふにゃになってしまい捲ると破けてしまいそうだ。
ドライヤーでパリパリに乾かさないと読めない。雨の日はビニール袋に入れて配るのが常識だし、新しい新聞を持って来させるのは当然の権利。電話でクレームをつけることに抵抗はなかった。
呼出し音のあと、つながったようなカチャという音がしたと思ったらすぐにツゥーツゥーと回線が切れてしまった。
えっ?と耳から離して受話器を見詰め、固定電話の液晶パネルを見て押した番号に間違いがないか確かめたがミスはない。
バイトで雇ったろくでもない奴が読む人のことなんてこれっぽっちも考えずに配り、新聞販売店は対応に追われ、ついには電話に出ることに嫌気が差した……まぁ、そんなところか……。
出社の時間が迫っていることもあり、後日改めてクレームの電話をすることにした。
スーツに着替え、手早く身形を整えて玄関で靴を履く。
すると流し台のシンクがボンと軽い音をさせた。
4年間の大学生時代から苦楽をともにしてきたワンルームマンションは玄関のすぐ脇に台所があり、蛇口は横に捻るシンプルなタイプのハンドルがひとつ。
そこから水が一滴、二滴、三滴としずくをたらしている。
手を伸ばせば微妙に届かない距離。
おれは舌打ちしながら土足で上がり、蛇口をきつく閉めた。
外は雨が降っていなかった。アスファルトはしっとりと濡れ、所々に水たまりもできている。新聞配達しているときだけ雨に祟られたのだろうか?
いつも通勤に使っている路線バスに乗ると意外にも混雑していなかった。乗降口より前には左右に座席が1列しかないのにいくらか空きがあった。それでも停留所を通過するごとに客が増え、おれが座る座席側の吊り革にも女子高生が掴まった。
赤信号でバスが停まるとその女子高生は吊り革から手を離し、左手の携帯を耳に当て、会話の間を縫ってペットボトルのミネラルウォーターを右手で口に運んだ。
青信号になってバスが発進すると両足だけで踏ん張っていた女子高生の体が大きく揺れた。
「あっ、ごめんなさい」
ペッドボトルの水がおれのスーツの肩口にかかった。女子高生がカワイイ顔をしていたこともあり、おれは作り笑いをして許してあげた。
会社まで300メートル手前の停留所で降りた。
その道すがら水たまりを車が撥ねておれの顔に泥をかけた。
「おい!」
大声で叫んでも車が止まるとは思わなかったが、そうでもしなければ怒りがおさまらない。
おれと同じように出勤途中のサラリーマンやOLが周りにいたが見て見ぬ振り。大人が顔や服に泥がついたくらいで同情はされず、かえって白い目で見ることを我慢している奴もいる。
おれは勤めている会社のビルへ小走りで向かい、正面玄関を避けて警備員や清掃員が使う裏口から入った。受付の女の子や上司や同僚たちの視線が耐えられないので、1階の来客用の洗面所へ直行する。
洗面所はスペースに侵入すれば自動的に照明がつき、静かなクラッシックの音楽も流れ、清潔感が漂う最新の設備。
洗面台の鏡を見ながら濡らしたハンカチで顔の泥を落とした。手で擦ってしまったせいか想像していたよりも頬に泥が広がっていた。スーツは濃紺なので泥はそれほど目立たないが白いYシャツの襟にはこれ見よがしに茶色い染みが不快な地図を描いていた。
個室に入り、ロックした。
便座の横にはたくさんのボタンがついたコントロールパネルがあり、温風乾燥やターボ脱臭などという過剰な気遣いのボタン表示もある。
Yシャツの下に黒いTシャツを着ていたのでスーツの上着を羽織れば職場で反感を買われることはないだろう。今朝の出来事を説明して少しだけ時間をもらい近くの店でYシャツを買って戻ってくればすむ話し。
腕時計を見ると出勤時間が迫っていた。焦っていたのか上着を脱ごうとしたとき、肘がコントロールパネルに触れた。
ゴゴゴゴゴ……。
古い洗濯機が故障寸前に出すような音がして便座から水が噴き上がった。
おれは頭からたっぷり水をかぶった。
マジかよ……。
怒りのぶつけどころがわからず、濡れたまましばらく呆然としていた。
配管が破裂したのか?と思うほどの水量だったのでやけくそでもう一度水を出してみたが、水流はごく一般的なもの。
おれはずぶ濡れのまま受付の女の子にありのままを説明した。
「わかりました。修理するように頼んでおきます」
笑ってくれたらまだマシだったのに受付の女の子はすまし顔でおれを見ないように心がけ、喋りも早口で関わりたくないという態度が見え隠れしていた。
急いでエレベーターに乗り込む。
会社が町内会のボランティに参加して近所の公園のゴミ拾いしたときに着た作業服がロッカーの中にあるはず。おれのセクションは6階。プログラミングが主な仕事で今日は外回りする予定はないし、乾くまでそれで我慢するしかない。
エレベーター内は一人だけ。今日はじめて運が傾いてきた安堵感に浸る暇なく、チンと軽やかな音が鳴ってカゴが3階で停止した。
扉が開くと男たちがおれの姿を見て眉毛を八の字にさせた。その中に社長がいた。
「君、なんだその格好は?」
脇にいた重役が歩み寄る。
「す、すいません。1階のトイレが故障してまして……」
ずぶ濡れの頭を下げると飛沫が社長の顔にかかった。
「いいから先にいきなさい!」
叱責が飛び「すいません!」と誤りながらボタンを押して扉を閉めた。
エレベーターは自動的に階上へ動き始めたが、おれの役職が上へ上がることはないなと昇進を諦め落胆した。
顔なじみの同じフロアで働く連中はおれの不幸を笑って受け流してくれたのが唯一の救いだった。
しかし、不幸はさらに続いた。
精神的にグッタリ疲れ、狭くても世界で一番くつろげる我が部屋に戻るとベッドに吸い付くように眠った。
ボン……ボン……ボン……。
蛇口から水滴が間隔を空けて落ちる嫌がらせで目が覚めた。
時間は午前2時37分。
両手でぎっちり蛇口のハンドルを閉めてベッドに戻ってもまた水が落ちた。じっと蛇口を見詰めていると水は落ちないがベッドで浅い眠りに入ると静寂を突き破って水滴が台所のシンクを叩く。まるで姿の見えない誰かに悪戯されているような気がして薄気味悪さを感じた。
最後の手段として耳にテッシュを詰め、さらにヘッドホンをかけて深い眠りを手に入れた。
目が開いた。目覚し時計のアラーム音が聞こえていなかったから寝坊したのは確実だと思いながら重い体を起す。視力が弱いわけでもないのに視界は白くぼやけている気がした。
いつものように朝刊を取りにいこうとすると膝から下に負荷がかかり、上半身と下半身の歩くバランスが悪い。
なんだ?
ジャブ……ジャブ……。
また水だ……水の抵抗を受けている。
どうして?
おれが住んでいるのはマンションの3階。まさか温暖化の影響で世界中が一夜にして水浸しになったわけでもあるまい。
ドアは水圧で閉め付けられ、なかなか開かない。全体重を預けてやっと扉が動いた。隙間から眩い白い光がもれてきておれの体を包み込んだ。
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秩序だたない間隔で頬に冷たいものがかかってくる。覚醒する切っ掛けを作ってくれたが、目を開けるのが怖かった。
瞼の裏側から見える景色はぼんやりと赤く、焼けるような陽射しを受けているのが伝わる。
手で上空を遮りながら静かに瞼を上に動かす。
頭上の太陽がやけに近く感じる。露出していた手のひらは真っ赤に、首筋は熱を帯びてジリジリと焼けている。下半身は水に浸かり、上半身は白い発砲スチロールにもたれていた。
古いタイプの黒いウェトスーツを着ているから熱を吸収して日射病寸前だ。
すべてを思い出した。
おれは南国の島のダイビングを体験しようとホテルで紹介してもらったツアーに申し込み、見ず知らずの外国人数人とクルーザーに乗って海の中を散歩した。
美しいサンゴ礁に見惚れているあいだに時間を忘れ、海上に顔を出すとクルーザーの姿はなく、大海原にひとりぼっち。
おれは平凡な独身生活の都合の良い夢を見ていたらしい。
周りを見ればサメの背びれがウヨウヨ動いていた。
絶望感の中で心が劣化したのがわかった。
〈了〉
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