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私が駆け抜けた五年間について

作者:泰然寺 寂
 作者について思いの丈を書く。
 小説というものは前書きよりも後に始まり後書きよりも前に終わるものであると個人的に思う。それ以上以下でもない。作品は作中でしか語られぬものとして存在するべきが妥当であろう。いくら壮麗な前書きがあろうと、いくらある分野の大家が解説を加えようとも作品それ自体の価値が揺らぐものではない。いわば前書きや後書きといったものが小説に寄与するところというのは、つまり、パッケージングの問題、見目の問題だけだ。同様に、読者が作者の意図しない読み方をした場合、作者が「それは違う」だの作外で論ずるは表現者の恥でさえあると感じる。そう読まれなかったのはそう読まれるべくして書き得なかった作者に責がある。単純に娯楽小説が好まれる場にあって堅苦しい言葉遣いでユーモアもない作品が提示された場合、マーケティングの不備であるとしか云い得ぬ。しかるべき場にしかるべき作品を提出することこそが作者の努めであろう。これはあとに述べることではあるのだが、読者についても同様に云える。先に触れた前書き/後書きの話ではあるが、紙媒体であるのならば一定のフォーマットが定まっている以上判別がしやすい。ではweb小説であるならばどうだろうか。ここに一つ小説投稿サイトを想定する。個人のサイトでないのは個人の裁量によって自由に定義できるからだ。小説投稿サイトの多くは一定のフォーマットをとり投稿、運営がなされている。型式とは概して取り扱う上で便利であるから一定のものが存在するため、ここではあまりに型式から外れた体裁については除外している。例えば後書きがある。小説投稿サイトでは本分と後書きが分けられていることが通例である。一般に次の投稿予定日時や誤字や脱字の訂正があれば申し出て欲しい旨、感想の要求などがここで提示される。だがしかし後書きに作中で語られなかった作品の設定を開陳する作者が存在する。それは作中ではない。メタ・フィクションの手法を取り入れた小説であっても、作外に関して作中で言及するのならば、やはり後書きよりも以前、作中の範囲で述べるのが妥当だ。ではお前はそういったエクスキューズの類を一切書くなというのか、と云われるかもしれない。個人の意見としてエクスキューズは小説に関係のないブログやその他のツールでやるべきだと考える。小説とは一種人の世とは隔絶されたものであるべきという信条があるからだ。ディズニーランドが徹底してキャストとゲストを分けて考えるものと同じであると考えていただければ幸いだ。夢の国を演出するためにキャストはどのような努力も惜しんではならない。小説だってそうだ。小説が事実足り得ないものであるのならば徹底してそうあるべきだ。いや足り得ないという言い方は現実に重きを置きすぎている。小説が、小説であるべきである以上、徹底してそうあるべきだ、という方が正しいか。いささかtautology過ぎる嫌いはあるだろうが、信条を述べるにあたっては致し方あるまい。
 読者について述べる。
 読むべきもの足り得ない小説に対して読者は感想と云う名の文句を述べる権利があると思い込んでいる。端的に云えば自らのセンスとかけ離れすぎた小説を読んだ時に生まれ出る『意味がわからない』という感想をいかにして修飾し、作者に伝える権利が、あるいは義務があると思い込んでいる読者は存外に多い。そういった思い込みは初等教育から始まり高等教育で実を結ぶものであるからなおたちが悪い。お客様は神様だという言葉を誤って使用している人間と同じ精神性だ。無論読者は神様ではない。作者が神様であるという気の迷いと同じくらいそれは違う。自分の好悪を書く権利はあるだろうが、それは最大限小説の真意を汲み取ってからというものだ。例えばそれは小説の根底に流れるアイロニーやオマージュを知ってから書くべきことであり、一読した印象だけの好悪を述べて、あまつさえ作者にそれを押し付ける、あるいは作者を罵る権利などどこにもない。辛口を標榜する読者が実に多いことがこの種の火種を生み出していることに間違いはないだろう。また、読者が作者に対して抱いたイメージを押し付ける場合がある。この作者はセオリーを外した小説を書いてくるだの、この作者は筆力があるからこんなオチではないはずだ、だの、勝手に抱いた幻想に幻滅する。幻滅するだけで済ませればいいものを、個人の幻滅を作者への感想として書き綴る読者もまた存外多い。あるいは先に述べた辛口を標榜する読者にその傾向がよく見られる。また、自分の観念の押し付けという点以上に、幻滅に関してはたちの悪い事象が内在する。それは作品単体で評価していないということだ。小説を読む場合、作者を後ろに見ることが決して悪いとは云わない。他の作品のキャラクターがカメオ出演している場合など、作者が過去の作品に連なる流れを見て欲しいと思っている場合もあろう。しかし、確固として独立した小説に作者の影を無理やり当てはめ評価するということがどれほど無意味なことか、これをわかっていない読者がいる。カメオ出演を無駄な演出と断ずることと、以前の作品よりもストーリー性が優れていないなどと評価するのでは全く意味合いが異なってくる。ここまで述べれば何が云いたのか察しが付くであろうからあえて何も云うまい。不純な動機で作品に向き合う手合いが少なからず存在しており、アマチュア作家に干渉することを覚えた人種もそこに無視できない程度にいるということを申し送る。
 最後に小説について書く。あるいは、小説を書く。
 作者を書き、読者を書いたのならば順当に行けば小説についてだろう。小説の特権的純真性が失われて久しい。世は小説を消費し尽くしてしまった。アマチュア作家の氾濫により小説を書くという行為が普遍化されてしまったことがその純潔を奪った行為であると考える。そしていま、このようなテクストが生起されていること自体、奪われた純潔を再び陵辱する行為にほかならない。セカンドレイプ。このテクストにおいてタイトル以外で人称としての『私』が存在したことはない。申し訳程度だが『私』が書いたという体裁での起稿であるが人称を使わないことによって小説の処女性を尊重したとも云える。これはただのエクスキューズにしか過ぎない。しかし、このエクスキューズは今テクストを読んでいる人間に対してなされているものではなく、他の無数に存在している作者に対するエクスキューズであることも断じて無い。小説はある意味では全ての人の娼婦である。金という対価を払わずに陵辱できるという点においては娼婦よりもより下等な存在とも取れる。すべてを書きうることのできる全能性と、作者によって制約される全能による不完全性が同居する様はまさしく神であろう。かつてボルヘスが描いた無限の広がりを持つ図書館はまさしく小説の権化であり、宇宙を描き出したボルヘスこそ神の御使であると呼んでもよい。無限の過去と永遠の現在を明確に描き出した彼こそ現人神であったとは云うまいが。言葉にすると逃げるとは云ったものである。余計な修飾で陵辱することを自覚することこそが淫売の証明でもあろう。互いが互いの娼婦である入れ子構造が現代に見出されたある種の限界であり幻想だ。このテクストは批評を無効化している。このテクストに対してメタレベルの批判のいくつかはこれまでに書いた内容により否定される。否定を内包するテクストの生起と読者により変転する主題がこれまでに得られた全てでもある。
 筆を擱く。

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