いちばんはじめにあった歌
モチーフはファウスト
題名はファーストと絡めて、加納朋子さんの「いちばん初めにあった海」より拝借
いちばんはじめにあった歌
かつて、人が言葉を手にする前に
音楽はすでにそこにあり
人と共にあった悪魔もまた
その妙なる調べを心より愛した
「良いも悪いも紙一重」と嘯いて
人間達を誘惑し
ただひとつの願いと引き換えに
その魂を地獄へといざなう
*
一人の男がいた
幼少時より曲を作ることに才能を発揮し
歌を唄うことに喜びを見出した
当然のように男は音楽家となるが
彼自身はそんな自分の選択に
いつもなにかの違和感を感じてもいた
それは己の才能に疑問を感じていたせいかもしれないし
ひょっとしたら、自分では気づいていない
何か他にやりたいことがあったせいなのかもしれない
それなりの評判をもって受け入れられた周りからの賞賛も
男の心には響かない
なぜなら、彼には自分の作品は
いまひとつ自身の望むものからはズレているという思いが常にあった為であり
また、作り出すものに対して、小賢しいだけの小手先の粗製品という
できそこないの印象が拭いきれない為でもあった
男は音楽を愛しはしたが
それが全てだとは思ってはいなかった
ただ、それでも音楽家としてあり続けていたのは
心の中に、確固たる己だけの音楽の胎動をはっきりと確信していたからである
しかし、今の自分にその確信を形にするだけの力もなく
結局のところ、それは男の根拠のない自惚れであったのかもしれないし
現実から目を背けているだけであったのかもしれない
悪魔は男に目を付けた
たいした理由はない
音楽家という点が好みにあっただけだ
霧の立ち込める真夜中の交差点
悪魔は艶然たる女の姿をもって男の前に現れる
そして、魂と引き換えに願いをひとつかなえるという悪魔の提案に
しばらくの間を置いたその男の答えは
「幸せになりたい」という
曰く言い難い
なんともありふれた言葉だった
悪魔はあきれた
どんなに大きな力を持とうとあくまで悪魔である
幸せなんてポジティブベクトルは趣味じゃない
音楽に関することならばどんな悪魔的な提案にも乗って上げようと思ってたのに
目の前の男は悪魔のそんな予想をあっさりと裏切った
しかし、どうこういったところで決まりは決まり
契約は成されなければならない
悪魔的な微笑みをたたえた女は男の願いににこやかに答える
「幸せなんてどうすりゃいいかはわからんが
この世の最高の音楽をくれてやる」
*
こうして男は悪魔と手を組んだ
元々そこそこの才能を示していた彼である
悪魔の与える悪魔的なインスピレーションによって
発表する作品どれもこれもがこれまでにない絶賛をもって迎えられた
名声も一気にはね上がり
それに伴い、財産もたんまりと転がり込む
「どうだ、今こそ幸せだろう?」
悪魔はそう言って微笑みかけるが
なぜか男はいま一つ煮え切らない苦笑いを返すのみ
周りからちやほやされて
贅沢三昧の日々
そんな夢のような生活だったが
男の心の中にあるのはいつもの違和感
幸せなのは間違いないが
満足できないもどかしさ
なにかどこかが欠けてるような
中途半端なやるせなさ
それはやはり、その幸せが、悪魔の力という
桁外れのズルで成し遂げられた為なのかもしれないし
そもそもの、この男にとっての幸せが
そういう形をしたものではなかったせいなのかもしれない
すっきりしない男の態度であったが
意外と悪魔に焦るそぶりは無かった
なぜなら彼の作るそれら作品の数々は
なかなかに彼女のお眼鏡にかなうものだったからである
その嗜好の幅は、悪魔だけに悪食ともいえそうなまでの懐の広さを示し
どんなに瑣末なものも心ゆくまで堪能した
頽廃的な満面の笑みを浮かべながら
うっとりと幸せそうに音楽に聞きほれるその姿
もはや契約などとはお構いなしに
自分のしたい事してるだけのようにしか見えない
「お前が幸せになってどうすんだ」
その頃、男がよく悪魔に対して言った皮肉であり
「そこはかとない陰鬱な、怨念の萌芽を感じる」
その頃、悪魔が男の作品に対して捧げた賞賛である
*
ある時、男のもとにその国の王からの知らせが届いた
宮廷の音楽家達との歌合せ(歌の優劣を競う演奏会)に参加しろというものである
男はそんなもの正直興味は無かったが
悪魔はこれを吉兆と捉えた
なにより、権力との結びつきは
幸せの形としては定番のものである
悪魔の助力をもってすれば
宮廷音楽家の頂点にたつこともたやすいだろう
もし男が望むのであれば
音楽だけとは言わず、一国一城の主として名を残すことでもよい
いくら望むことをやっても幸せと感じられない男ならば
おそらくこの男にとって、幸せとは男の埒外にあるということで
男が興味を示さない事柄にこそ
幸せの糸口となるものがあるに違いないのだから
悪魔はそう確信し、男を説得し
男は不承不承ながらも
悪魔の意を汲んだ
そうしてやってきた歌合せの当日
初めてのお城の荘厳華麗な在りようといったら
それまでけっこうな贅沢に慣れた男にとっても
有無をいわせぬ程の豪華絢爛
そしてそこにおわします宮廷音楽家達もまた
下々の音楽家とは比べるべくもない格調高さに包まれている
あまりもの場違いな雰囲気に
男はほとほと呆れ返り、居心地の悪い思いにため息をつくばかり
隣に並ぶ悪魔は
その外づらだけを着飾った城内の虚飾騒然とした佇まいに
舌なめずりせんばかりに見目麗しい相貌をほころばす
面白くないのは、宮廷音楽家達も等しく同じである
高尚で格式高い歌合せに、王の余興とはいえ下民の浅薄な男が招かれたのである
いかに有名だろうとも、ここは宮廷音楽家の威信にかけて
目の前の男を完膚なきまでに叩き潰さねばならない
そんな人々の思惑を芬々とはらませて
王の御前の歌合せは盛大な幕を上げる
しかし、いざ歌合せが始まってみると
悪魔に憑かれた男の奏でる音楽は、宮廷音楽家達などものともせずに蹂躙した
古臭いカビの生えた格式などに
悪魔的なほとばしりを振り払うことなどどうしてできようか
そんな小賢しい小細工など
溢れ出る生の魂の奔流の前ではただの児戯でしかない
あわてた宮廷音楽家達は必死になって男の音楽をなじるが
結果はその場にひかえる誰の目にも明らか
むしろ、そんな言葉を重ねるだけ
不様さに一層の華を添えるのみである
結局、一年で十分であった
男がその国の音楽家の頂点に上り詰めるまでの時間である
音楽そのものの実力の話だけではない
それまでその国の音楽界にはびこっていた旧態依然とした不文律を排除する
政治的な根回しも伴う、内実も外ヅラも含めた話だ
そういった方面には本来後塵を拝しがちな男ではあったが
悪魔にとってはむしろ面目躍如
水を得た魚のような八面六臂の大活躍をもってして男の立身出世に貢献する
こうしてついに音楽家として大成した男
幸せを求める物語も次の段階へと場面を移す────
*
十年の時が過ぎた
男の名は今となっては一つの国に留まらず近隣諸国にも鳴り響く
前代未聞の天分
類稀なる鬼才
音楽家としての男はこれ以上ないほどのもてはやされよう
富
名声
権力
そういった多くの快楽を手に入れた男ではあったが
いまだ心の鬱屈は晴れることなく
あいも変わらず己自身の幸せを見出せずにいた
この十年間、悪魔は何度となく男を音楽にとどまらない政治の世界にも目を向けさせようと試みたが
さすがの男もそれにだけは反対した
そもそもの宮廷音楽家の長という立場さえもそれほど望んではいないのである
十年も王宮の世界ででいろいろなものを見てきた男にとっては
正直、現状すらも食傷気味の様相を呈していた
あわないのである
生き馬の目を抜くような世知辛さが
絡みつくようで
不快極まる
これなら、のんべんだらりと好き勝手やってた時のがまだマシというものだ
悪魔の説得に応じてなんとかここまでやってきたが
なんともボタンを掛け違えて上下すらあべこべに着てしまったかというほどの違和感に男自身も戸惑っていた
本来ただの人間にはどんなに望むとも与えられないような百花繚乱な幸せづくし
「これだけやってもまだ足りないか」
悪魔は呆れたように口にするがその顔に不満はない
むしろ男の一国に留まらない強欲ぶりに悪魔冥利に尽きるとも云わんばかりである
男としては、いかなることも可能としてしまう悪魔の神秘霊妙たる献身こそが
これだけの絢爛に水を差している原因のような気がしないでもなかったが
さすがにそれは悪い気がしたのでいわないことにしておいた
そんな時王宮に一人の青年が現れた
若者らしい傲岸不遜
まっすぐに上げられたそのかんばせは見事なまでに傍若無人
自信に満ち溢れ才走ったその若者は、宮廷音楽家の長たる男の元にやってくると
弟子にして欲しいとなんの衒いもなく申し出た
しかして、その実力はそんな不遜な態度に出るのも頷けるほどの脱俗超凡
そしてその見据える先は悪魔に憑かれた男をも凌駕するほどの遥かな高み
瑞々しいまでの才能は百年に一人と称えられた男をすら翻弄する
若者の天分は悪魔憑きとも比肩しうるほどまでに強大無比
その事実には悪魔も舌を巻く
あっというまにその資質は衆目の認知するところとなった
己がインチキをしているという自覚があるからこそ
男はその若者の底なしの才能に心底愕然とした
男に与しているのは悪魔の魔力である
神にもタメを張れるほどの神通力だ
ただの人間にそんな領域まで到達されては嫉妬という言葉では勘定にあまる
しかし、真に羨ましきは青年のその若さゆえの天真爛漫さ
「音楽さえあれば他には何も要らない」
自信満々に言い放てるその器量は
かつての男にはなかったものだ
己の幸せすら決めかねている男にとって
目的のためにわき目もふらずに邁進できるその姿はなんとも単純明快で眩いばかり
「つくづくお前はとり憑く相手を間違えたな」
その頃、男がよく悪魔に対して言った皮肉であり
「あぁ、なんとも心地よい怨念の躍動感」
男の傍らで、紡がれる音楽にうっとりとしながら悪魔が口にした言葉である
「音楽長の音楽は古臭い」
ある時から宮廷内でこんな言葉が囁かれるようになった
噂の元は件の若者である
事実、彼の生み出す音楽は男とはまた違った魅力を持っていた
周りの者のなかにもちらほらとその噂に同調するものが現れる
類稀なる鬼才と誉めそやされた男の天下にも翳りが見え始めた
あっさりと手のひらを返す者たちに悪魔は怒りを見せたが
男はむしろ、その若者の、政治すらこなす清々しいまでの姿勢に感心した
「音楽長などもののかずではない、俺がこの世で一番の音楽家になってみせる」
若者が陰でそう豪語しているのは知っている
しかし、彼の才能を持ってすればそれはあながちただの自惚れとはいえない
男も内心思っているのだ
本来、音楽長などという立場につくのは明確な力と意思を持っている若者のような者であるべきで
音楽に対する情熱すらもあやふやな、自分のような人間が担っている事実の不条理を
男と若者の確執が王の耳にも入るのにそれほどの時間は必要としなかった
面白がった王は二人の歌合せを企画する
古い体制と新しい息吹の対図
その立場は全く逆のものとなってしまったが
奇しくも11年前の再現である
様々な佞臣達が男の下を訪れる
それはかつての男の側にはなかったものだ
曰く「あんなポッと出の若造に負けるわけにはいかない」
曰く「間諜を立てて若者の邪魔をしましょう」
色々な画策を持ち込んできたが男は悪魔を窓口に据えることで
一切自分には雑音が入ってこないようにした
どうやら、若者の方にも何らかの動きがあるようではあったが
それもまた取り立てて気にすることはなかった
男には一つの考えがあった
かつて、悪魔と出会う前、自分の中にあったあの音楽の胎動
今ならばそれを形にすることができるのではないかと考えたのである
「今回に関しては手出しは無用」
男は悪魔にはっきりと申し付けた
男を幸せにするという立場上
悪魔は、彼女抜きで男がかの天才と対峙することを危ぶんだが
男としては、悪魔に頼り切る自分の在りようこそが
幸せを達成できないすべての原因ではないかと思い始めていた
それになにより、己の中にある自分だけの音楽である
自分の力だけで生み出さないことには意味がない
悪魔は男の真意を読み取ろうとするかのように男の眼差しを覗き込んでくるが
しばらくそうした後あきらめたように首を振り
「了解しましたご主人様」と茶目っ気たっぷりに揶揄するだけだった
「まずい」
歌合せの当日、会場に到着した途端悪魔からそんな言葉がこぼれ出た
不審に思った男がどういうことかと問いただそうとすると
一人の長身の男がにこやかに二人のもとに近づいてくる
「よ、嬢ちゃん」
まるで旧知の仲のように悪魔に向かって語りかけるが
対する悪魔はそれまで見せたこともないような不快感を露わにして男のことを睨みつける
「おいおい、久しぶりに会ったのにおっかねぇ顔すんなよ」
男は軽薄な笑顔をこそ貼り付けてはいるが
身に纏う雰囲気は、なにかこう見てるものを不安にさせる
「同業者よ」
しばらくして二人きりになったとき悪魔は長身の男の事をそう説明した
男は先ほどのことを思い出し、さもありなんと得心する
「手を出すなということだったけど、そういうわけにもいかなそうね」
悪魔はつまらなそうにそう呟くが
男はそのあたりに関しては悪魔の判断に任せることにする
そして、先日、若者に近づいていた者たちのことについて思い至る
────くだらない
要するにそういうことなんだろうが
男は、つくづく宮廷のそういうありように心の底からうんざりとした
「無粋だわ」
別れ際、悪魔がポツリとこぼした言葉は男自身の実感でもある
それは異様な対決だった
その場に居合わせた全ての人々は、単純にこの戦いを11年前の再来と見ていた
古いものと新しいものの対立
持たざるものによる持つものに対する反乱
11年前に為されたことが時が流れてもう一度行なわれるだけのことであろうと
だが、人々のその認識はあまりにも不足に過ぎた
11年前を知るものはその場において初めてのものを目にして戸惑うこととなる
新しいもない
古いもない
持つも持たざるも意味はない
そこにあるのは、ただ、瑞々しくも荒々しい魂のほとばしりと
陰鬱でありながもすべてを抉り取る轟くばかりの魂のせめぎあい
それは11年前にはなかったものだ
そして、今ここでしか有り得ないものだ
正直なところ、男は自分の音楽というものを形とするにはまだ至っていなかった
今できる最善をもってしても、完全に納得できるものは完成しなかったのである
それでも、男はそのことに対する憂いはなかった
全力を尽くしたからである
これで敵わないのであれば目の前の若者に全てを託して何の悔いもない
男の中に確固とした思いが根を下ろしていた
そして、そんな男を横目に見ながら悪魔もまた男のサポートだけに徹していた
時折、若者に憑いた悪魔から隙をつく形で攻撃が為されるが
演奏には関係ないそんな悪魔的な横槍に対してだけ防ぐことに専念する
今回の件に関して、悪魔は、男と若者どちらに対しても
音楽そのものには手を出さないことを心に決めていた
なんらかの算段があったからではない
男の勝利を確信しているからでもない
ただ、なんとなく
男から手を出すなといわれたあの時
悪魔の中にポツンと一つ
「あぁ、もったいないな」
という小さな思いが生まれたのだ
だから、もう悪魔は今後男のやることに一切余計な茶々は入れない
たとえ、どんな結果になったとしても
男が自分の力で幸せを手に入れるその時を気長に待つだけだ
悪魔の中に確固とした思いが根を下ろしていた
お互いの意地と意地が濁流となってぶつかり合う中
若者の隣に立つ長身の悪魔がニヤニヤと笑いかけてくるのを見て
男は忸怩たる思いを味わう
「音楽さえあれば他には何も要らない」
かつて若者が男に対して投げかけた言葉である
音楽というものにそこまでの情熱を注ぎ込めない不幸せな男は
その一途過ぎる真っ直ぐな心を
心底羨ましいと思いもしたが
事ここに至っては、それもまた哀れな話だ
若者が悪魔とどんな契約を結んだかということまでは知らない
だが普段の彼を見ていた男にはいわれずとも想像はつく
猪突猛進で性急なあの若さのことだ
音楽に関することで間違いない
いや、もっと近視眼的に今回の歌合せのことについてであっても不思議はない
悪魔憑きに匹敵する力を持ち、目指すところもはっきりとしていたあれだけの才能である
悪魔などに頼らずとも、男に勝利する程度のことなど、できない話ではなかった
悪魔などに頼らずとも、自分の夢は自分の力だけで成し遂げられたはずだった
音楽について何を願ったかは知らないが
それは命と天秤にかけていいほどの願いではない
誰の入れ知恵かは知らないが
あれほどの資質が悪魔の契約を求めるほどに自分自身を追いこんだ
愚かに過ぎる
短慮に過ぎる
───ほんとうにくだらない
男は若者の浅はかさに対し
つくづく心の底からそう呟いた
悪魔も男の隣にありながらその呟きを聞いていた
しかし、彼女はまた、こうも思うのだ
男には若者をなじる資格はない
愚かさも
下らなさも
もとはといえば男もまた同じであるのだから
幸せなんて大事なものを他人任せにして命をさしだしたのも
類稀なる才能に悪魔の契約を決心させるほどの畏怖をもたらしたのも
全ては男自身がやったことだ
そして、それはまた男に憑いた自分も同じ
男の傍らで、紡がれてくる音楽を聴きながら
悪魔は最後の最後に
そういった諸々のことを
ひとりポツリと理解した
その会場全てを飲み込んだ魂と魂のせめぎあいは
その場にいるもの全てを翻弄しつくして────
終わりの訪れは突然だった
人々は固唾を呑んでその結果を見守った
勝者は?
敗者は?
静まり返った会場にコソコソと細波のような囁きだけが飛び交う
しかし彼らは知らなかった
勝者も敗者もない
栄光も屈辱もない
そこにあるのはただ
願いをかなえて命を奪われたものと
願いかなわず、いまだ不幸せなものだけが────
*
男はすぐにその国を出た
旅の理由なんてものは今更言うまでもない
「もうお前の手助けは必要ないよ」
街を出るとき男は悪魔に向かいそう言ったが
「知ってるよ」
悪魔はそう答えると男と共に歩き始める
*
また、何年かの時が流れる────
時に、男はもういいんじゃないかと思うことがあった
いつまでたっても、男には幸せというものは掴めない
しかしそれは、何か一つを決めきれることができない自分の責任
かつてのあの歌合せの若者の中にあったひたむきさは、自分の中には存在しない
音楽だけは違うと思いたい部分はあるが、結局それも漫然としたものでしかない
ひょっとすると幸せを求めているこの渇望すらもまた、漫然としたものではなかったか
ここまでやってまだ満足できない自分は
ただ死ぬのを恐がってるだけではないのか
「お前の強欲は底抜けなのさ」
そんなことを考える男を悪魔はいつもそう言ってからかったが
男はそれでも考えこんでしまう
もはや、人生は十分に楽しんだ
人の何倍もの幸せを独り占めにしたといっても過言ではないこの俺こそは────
「なぁ、契約解除のおまじないとかないのか?」
ここでおわらせたとしても、それはそれでいいんじゃないか
男の中のそんな思いが悪魔に質問を投げかける
しかし、妖艶なまなざしをまっすぐと男に向けた悪魔は
「そんなものはない」
そういってゆっくりと首を振る
「───あっても教えない」
「つくづくお前ははずれ籤を引いたな」
その頃、男がよく悪魔に対して言った言葉であり
「あぁ、魂を揺さぶる怨念のほとばしり」
男の傍らで、紡がれる音楽に恍惚としながら悪魔が口にした言葉である
長い旅だった
北に行き
南に行き
西に行き
東にも行った
鬱蒼と生い茂る森の中だったこともあったし
抜けるような青空の、透き通るような海だったこともあった
空気の薄い、雲よりも尚高い山の上
雲海よりも、頭上に広がる迫るような空の青さに陶然とさせられたこともあり
あたり一面砂に覆われた、山すらも砂の色をした砂漠の地では
照りつける太陽の、あまりもの強烈さにうんざりさせられることもあった
時にその旅路は、悪魔や神々の世界にも及び
艱難辛苦
喜怒哀楽
ふんだりけったり
男と悪魔は旅を続けた
*
長い長い時が流れた
男は病を患った
おそらく自分の命はもう長くない
はっきりとした最後を感じとりながら
男はゆっくりと人生の心残りを思う────
一つだけあった
自分の中にある自分だけの音楽
男はまだ
それを作り上げていない
ついに訪れた最後のとき
男はただ一つのことだけを願った
まだ死ねない
まだ大事なものを生み出していない
体の中に火掻き棒をねじ込んで掻き回されるような激痛の中
思わず男は叫んでいた
「もう少しなんだ、待ってくれ!!」
最後の力を振り絞り
男は自分の中のすべてを奏で上げる
「時よ止まれ!!俺はまだ死ねない!!」
悪魔は男の命がついに終わりを告げたことを知る
小さな光が男から抜け落ちていく
しかし、哀しげな表情を浮かべた女はその光を掴まえることはしない
契約内容は幸せと引き換えに魂を貰うこと
彼女にはその契約は成し得なかった
ゆっくりと、悪魔の知らない場所に向けて上ってゆく男の魂を
一人佇んでただじっと眺め続ける
小さな光は空を流れ
その光が通った後にやわらかな音色が溢れ出る
その旋律はあたたかくやさしげで
時に荒々しくも清冽であり
見渡す限りの地平に向けて余すことなく広がっていく
空を見上げる女はその調べを全身で浴びながら
最上級の満面の笑みをもってその小さな光を見届ける
「お見事」
万感の思いを込めた
悪魔の最後の賞賛であった
(おしまい)
(あとがき・補足説明)
「時よ止まれ、お前は美しい」
ゲーテのファウストにおいて有名な、悪魔との契約の際に用いられる言葉です。
原典では、人生において至高の瞬間を永遠にとどめるという意味で
この言葉を唱えたらファウストは悪魔との契約(賭け?)に敗れて魂を持っていかれるというものでした。
ファウストをモチーフにした手塚治虫の「百物語」においてもこの言葉は用いられます。
それら作品の中においてそれぞれの主人公は自分自身の答えを見出し
「時よ止まれ、お前は美しい」と唱えることで己の人生に幕を引くことになるのですが
この「いちばんはじめにあった歌」の主人公はその答えまで辿り着くことができなかった人として描きました。
どこか優柔不断でいまいち煮え切らなくて
でも、沸々と湧き上がる情熱とは違う、心の底でチリチリと消し損ねた熾火のような漠然とした欲求によって
人生のどんな場面においても常に音楽を作り続けた人として描写したつもりですが
ひょっとしたら描写不足でその辺がうまく伝わらなかったかもしれません。
作中において悪魔が契約解除のおまじないはないと言ってますがあれは嘘です。
皮肉にも主人公が死にたくないと強く願ったが為に発した最後の言葉が契約解除の呪文と同じになってしまいました。
舞台背景は中世ヨーロッパっぽい感じで自分の中で考えてたんですが、よく見ると作中にそういった記述が全くないから読んだ人を混乱させるものになってしまってたかもしれません。
あと、主人公が音楽家というが一体何をしてる人なのかがいまいちわからない(歌唄う人か、楽器弾く人か、作曲家か)という点もあるかと思いますがそのへんは読んだ人にまかせます。
なにぶん書いた本人が音楽が全くわからない人間なもので、作中音楽自体の描写もほとんどないものとなってしまっています。
だいたい「歌合せ」ってなんだよって話ですし、音楽同時に演奏したら情緒もへったくれもないだろってのは自分でも書いてて思いましたがその辺はそうした方が一番戦ってる雰囲気出せたんで気にせずそのままいきました。
批判でも構いません、忌憚ないご意見を
あと、理解しづらい場所などありましたら指摘などいただけたら有難いです