孵化するときに見上げるもの。
薄暗い店内で、笹本さんはアイス・ストックから、氷をすくいあげている。
がしゃがしゃと、氷をすくう音と雨の降る音が、茫然としている僕の耳に届く。
シャワーを浴びたあとの湯気や熱気が自分の膚からあがるのが、沈黙の中で、なんとなく解った。
「こげん雨降っとったら、喧嘩もしたくなるわ。しかし相手が女の子はいかんねー」
笹本さんが独り言のようにつぶやき、顔を上げた。
「お、コーラが売れとる。遼太郎やろ?変なところで律儀かねー」
笹本さんはかかった伝票をとって、百円硬貨を四枚と、氷の入ったビニルを僕に渡した。
受け取っていいのか解らず、僕は黙って手を差し出したまま笹本さんを見上げた。
「なんや?俺がかっこいいけんって見とれんな」
僕は笹本さんを見上げたまま、百円硬貨をポケットにしまった。
そして、互いに吹き出す。
「お前、意外に生意気やね」
「すみません」
笹本さんは腕を組んで、苦笑しながら僕を見た。
「あーあ、あとで、みうちゃんに謝りにいかなね。うちの弟は猿山の猿やけん」
笹本さんはまた僕の頭を軽く叩いた。
「先に誤解を招くような事をしたのはみうさんですよ」
「そうか、それで仕返ししたら、反り打ちにされたったい。様ないな、遼太郎。そげん無様な男になっていいとや?」
僕は首を横に振る。
「惚れた女には尽くさんと。自分をかけて尽くしてみ、おとしたときの気分はもうたまらんぜ。後はこっちのもんって感じになると、最高やね」
「僕、別にみうさんが好きとかじゃないですよ」
僕は笹本さんから目を逸らした。 あんな訳の解らない女なんて好きになる物好きがいるかっての。
「嫌よ嫌よも好きのうちって言うやん?て言ったっちゃわからんやろーね」
笹本さんはカウンターのスツールに腰掛けた。
「笹本さんならヤラせてくれるかもしれませんね」
自分でも、不思議だ。笹本さんにこつかれても、あまり、不快感はない。
時間差でうずく頭を撫でながら僕は思った。
「バカちんやねー、そんなすぐにヤラせてもらえっかよ!第一、そげなん、つまらんやん」
笹本さんはカウンターに並べてある『アーリー・タイム』と、カウンター越しから適当なショットグラスを取る。
「笹本さんは追い掛けるほうなんですか?」
「狩猟本能ってやつかいな?ま、釣った魚に餌やりすぎて逃げられとーけ、俺も様ないわな」
笑いながら酒をついで、一口であおる。
情けない発言を笑って言える笹本さんが何故か格好良く思える。
雌猫が寄ってくるのも納得だ。
「みうさんも香菜子さんもいるじゃないですか。香菜子さんとヤッたんでしょ?」
僕の言葉に笹本さんは口の中の液体を噴射した。
この光景を前も見た気がする。
間抜けだけれど、格好良いだけじゃないところがまたいい。
「しとらんて!!お前、あれは冗談やん!しれーっと、とんでもないこというな!ちこーっと、ちょっかい出されたけど、やってない!しとったら、俺は街ば歩けんし!」
「何でですか?香菜子さんが泡姫だからですか?」
「んな訳なかろーが!!一度、お手合せ願いたいくらいぜ!!そーやなくて……なんつーか、一応な、この時期は女断ちしとかんと」
笹本さんはそういって少し笑った。
また、グラスに琥珀色の液体をそそぐと一気に飲み干す。
「まー、こげん酒飲みよって、願掛けになるっちゃろうか?女断ちより、酒断ちの方が、俺にはよかとかなー。でも、もう飲んだしなー、な!遼太郎!」
笹本さんは独り言から、いきなり僕に振った。
どう返していいか解らずに黙っていても、気にした様子もない。
願掛け、ってことは、みうさんが言ってた山笠関連なんだろう。
僕は黙ったまま笹本さんを眺めていた。
「あ、遼太郎!今度むしゃくしゃしたときは、俺に言え。タイマンやろーや!」
笹本さんは名案とばかりに笑って言った。
「はぁ?!嫌ですよ!笹本さん相手にやれるわけないじゃないですか!」
「なん寝呆けた事、言いよっとや!男なら、弱いもんより、強い奴と喧嘩せな!それにいきなり街でからまれるのと、タイマン張るのは、訳が違うっぜ!いきなり、からまれた時は負けられんけん、変に力はいるけど、お互いに、じゃあ、やりますか。やりましょう、てなったら意外に楽しめるんよ。熱くなっとるけど、どっかで冷静に、自分のやりたいようにできるし、負けたときも、気分いいし、恨みっこなしでスカッとするぜ」
笹本さんは目を輝かせながら僕に話して聞かせる。
「検討しときます」
僕の答えに笹本さんは肩を下げる。
「ったく、すかしやがって。喧嘩と火事は江戸の華やないとや!」
「何百年前の話してるんですか!」
「知らん、四百年前くらいやないと?」
「適当なこといって……」
僕は呆れて溜息を吐く。
「よかやん、粋でいなせな江戸っ子って言葉、今でもあるやん。かっけーやん」
「そんな言葉使われたの聞いたことないですよ」
僕が答えると笹本さんは肩をすくめた。
「新しいもんがいいとは限らんのにな、オールディーズも昭和歌謡曲も、今の俺が聞いても、かっけーのに」
「古いものばかりでもいいとは言えないでしょう」
僕は反論を試みる。
「いいものはいつの時代だって支持されるとぜ、そんな偉業を俺は果たせる人種やないけど、なんつーか、せめて曾孫あたりにも、俺の爺ちゃん、かっけーとか言われる男になりたい」
笹本さんがそう断言すると、僕は何も言えなくなった。
「……腹減らん?語りよったら、俺、腹減ったっちゃけど」
「……オムライス、食べたいです。半熟で、バターライスにデミグラスで」
「かーっ!どこのボンボンか!せからしか!ま、よかけどさ」
笹本さんは肩をすくめて厨房へ入る。
「笹本さん、」
「なんか?やっぱケチャップがいいとや?」
「いや、違います。このお店、なんで“バードメン”ってつけたんですか?」
「男なら、上目指したいやん。俺もそうやけん、最初は“フライング・モンスター”にしようかと思ったけど、そしたら、なんか余計怪しかけん、スマートな感じに“バードメン”にしたと」
「鳥男ですか……ちゃんと意味あるんですね」
「女は理由をつけたがるけど、男は意味を持ちたがる、なーんてな!意味解らん!男はムナシイ生きものやけん、美学をもたんと、意地をもたんとな!“鳥男”やなくて“飛躍する男”にしてくれんかなー」
笹本さんは口も身体もよく動く。しゃべりながらも手際よくオムライスを作りはじめている。
「こだわって生きるしか出来んとよ。俺。
そういうやり方で生きてきたけん。
でも、それを認めてくれる人がおったけん、幸せよ。上を目指せばキリがない。目指したくてもそれが出来ん人もおる。
俺だってどれだけ上にいけるか解らん。
空は無限やけん。くじけそうなときこそ、俺を認めてくれる人がおるって有り難いと思うし、こだわりがあってよかったと思う。
少なからず、やっぱ男は上を目指すやん?限定するわけやないけどさ。上を目指して頑張ってる人を応援するために、この店しよるっちゃん。男も女も関係ない“バードメン”の止まり木よ。ここは」
話が長いのか、手際がいいのか、まもなくオムライスが出来上がりそうだ。
デミグラスソースは寝かせているから温めるだけにしろ、おいしそうな匂いが、僕の鼻孔を心地よくくすぐる。
バードメンによるバードメンの為のこの場所で、僕はぼんやりしていた。
僕は怒りや憎しみの殻の中にいる。
そして、バードメンという止まり木で、笹本さんの熱意が遠慮なく僕に押しつけられる。
笹本さんのそれで、僕は、孵化するのを待っているのかもしれない。
だって、そうじゃなきゃ、こんなに胸の辺りが熱くなるわけない。
笹本さんは、せっせと、あるだけの卵を割っている。
次々に割られる八個の卵。そいつは全員死んでいる。
生命の欠片も与えられず、他者の栄養になるだけ。
僕は本当に食物連鎖に還るだけで、いいのだろうか。
笹本さんが与えてくれた“生きる”ことに対する熱が僕を包む。
上を目指す、ってどこだろう?笹本さんを見るかぎり、金持ちになって、いい車のって、働かなくても暮らせるっていう理想は見当たらない。
笹本さんの上って?
僕が目指す上ってやつは?
教えてほしいけど、そんな事、笹本さんが知るはずない。
僕が目指すところは、僕が決めなきゃ意味がない。
“こだわり”なんて照れ臭いもの、僕にはない。
目を向けてない、見ようとしない。
僕は下を向いて生きてきたようだ。
ふと影が出来て、見上げれば、オムライスをもった笹本さんの笑顔があった。 |