狙われやすい少年。
「どーした?遼太郎。イジメられたとか?」
部屋の奥から笹本さんの間延びした声が聞こえた。
声を出さないようにしていたのに。
顔を上げると、笹本さんが、髪を欝陶しそうに掻きながら、ボクサーパンツ一枚で、ドアノブに手を掛けたまま、立っていた。
「笹本さん……、僕、姉さんを捜したいです……」
僕はよたよたと歩くことを覚えたばかりの幼児みたいに、笹本さんの方に向かった。
視界がぐらついた。
倒れこんだ僕を笹本さんの腕が庇ってくれた。
「どうしたとや?!お前、体調でも悪いとや?!わ、酒くせ!」
笹本さんは僕を片手で支えて、ダイニングのソファに座らせてくれた。
「なんがあった?」
切り小細工のグラスに水をいれて僕に渡すと笹本さんは煙草をくわえた。
「……笹本さん、身長何センチですか?」
「185。しかし、バスケットはしきらんぜ」
「筋肉どーやってつけたんですか?」
「腹筋、背筋のトレーニングとジョギング。大体、暇やけんな。それにいつでん戦えるようにボクシング・ジムにも行きよったとぜ」
「姉さんとヤッたんですか?」
普通に答えてくれていた笹本さんが怪訝な顔で僕を見下ろしている。
「そりゃあ……ヤッたくさ」
投げ遣りな口調で笹本さんは口を尖らせた。
「……僕、姉さんにヤラれたことあるんですよ。口で、ですけど。
姉さん酔っ払ってて、何かよく解らなかったんですけど、客の文句言いながら。んで、射精しちゃいました、僕。
あっという間に。
すっごく嫌な思い出です。思い出したくないんですけど、忘れたいのに、忘れられないんですよ。後ろめたくて、怖くて、ヤバい事したみたいで。なのにさっき思い出しちゃって、だから、僕は、この記憶を消すために……」
笹本さんは唖然としていたが、内容に耐えられなくなったように踵を返して寝室に行ってしまった。
とても乱暴にドアが閉まる音がして、それきり、辺りはしんとした。
雨音が聞こえはじめて、僕は涙を落とした。
黒革のソファに弾けた。
僕は人差し指で僅かな水溜まりをすくいあげ、舐めた。
“人の体液と海は塩分の濃度、同じなのよ”
僕の白濁した体液を舐めながら姉さんは言った。
僕はあんたと同じ血を持っているんだよ。
ねぇ、海の塩の濃度はもう濃くなりすぎているんだよ。
僕達、血が繋がっているんだよ。
でも、たぶん姉さんの血はどこかで汚れちまったんだろう。
海、みたいにさ。
僕は涙を拭った。
泣くのはもうやめだ。
笹本さんも、嫌気がさしただろう。出ていこう。
本気で家なき子もいいかも知れない。
親も死んだし、姉さんには捨てられた。
もう、行く宛てなんて考えるのはやめた。
野垂れ死にしたって悲しんでくれる人もない。
何を期待していたのだろう。笹本さんに甘えていた。肉親に捨てられたのに他人が拾ってくれるなんて奇跡で幻だったんだ。
「……ごめんなさい」
僕は寝室のドアの向こうにむかって声をかけた。
当然、返事はない。僕は笹本さんの須賀ジャンをかっぱらったまま、部屋を出た。
思い出の品の一つくらい、許してください。
外は、目の前が霞むくらい土砂降りだった。 ビルを出る前に宮田さんと出くわした。
「どーしたんスか?へこんどりますねー」
なにかに似てると思ったら、三兄弟の山羊が橋を渡る童話に出てくる化け物か。
僕は宮田さんを眺めながら懐かしい物語を思い出した。
「宮田さんは、なにしてるんですか?開店時間まであと三時間くらいありますよ」
「さっき酒屋の配達がきとったけん、仕入れしよったとですよ。自分ちもこのビルの隣っスからね。笹本さんと喧嘩でもしたんスか」
僕は首を横に振った。
「雨、ヤバいっスよ。なんだったら家こんですか?」
なんだか会う人みんな僕を部屋に入れたがる。
家なき子だからかな?
僕は土砂降りの雨と宮田さんを交互にみた。
稲妻が光って、数秒遅れて、どこかが爆発したような音が聞こえた。
僕は宮田さんちに行ってみることにした。
宮田さんちはメチャクチャ汚かった。
足の踏み場もないくらい、何を増やしたらこんなにゴミがたまるのだろうか。
酒の瓶とか服とかチラシとか煙草の吸い殻や使用前後が不明な下着やらとにかく訳が分からない。
病院から掻っ払ってきたようなパイプベッドの上だけがかろうじで空間があった。
「遼太郎さんって、本気で笹本さんと似てないっスね。てか人間なんスか?セルロイドか白磁で出来とるみたいスね」
背後の宮田さんの言葉に僕は振り向いた。
何を言いだすのか、この化け物は。
宮田さんはにやにやして僕を眺め回している。
なんで
僕には、
発情したケダモノばかり
寄ってくるのだろう。
組み敷かれて、生臭い息に顔を逸らした。
―こんなケダモノは殺したっていいんだ。
僕はもがきながら手探りでのしかかってくる化け物を駆除する道具を探した。
なんでこんなにゴミが溢れてるのに、必要なものは、どこにもないんだろう。
収縮された世界みたいだな。
タンクトップをずり上げられて愛撫というより喰われてるみたいな感覚で膚を舐められた。
ブルーデニムが剥ぎ取られる。
どこもかしこもクソったれで溢れてる。
殺してやる。
僕は暴れて宮田の腹に膝蹴をいれた。
怒りが弾ける。宮田が呻いた。その声に僕は唇だけ笑みで歪んだ。
“攻撃は最大の防御なり”ナイス名言だ。
モノがなけりゃ、こうするしかない。
僕の拳がイイ角度で宮田の顎に入った。
「調子こくなよ!!こんクソガキが!!」
宮田が僕の顔に腐った唾の飛沫を撒き散らす。顔面スレスレに叩きつけられた宮田の拳は板張りを少しだけ凹ませた。
どういう力してんだ、コイツ、こんなん喰らった日には僕の顎骨なんかひとたまりもない。
たたでさえギョロ目なのに皿のように見開いて血走っていてこめかみには血管が浮いている。
マジ、化け物だ。
しかしこんな奴に僕の菊花を開花させる権利はどこにもないのだ。負けている場合ではない。
震える身体をどうにかしたくて僕は腹の底から叫んだ。
宮田が僕の頬を横殴りにして、僕の真っすぐ伸びた拳は宮田の鼻を直撃した。
宮田がひるんだうちに、僕は奴の身体の下から這い出した。口のなかに広がる鉄臭い味。涙と鼻水まで出て毛穴からはべとついた汗が滲んでいた。
宮田に背後からブルーデニムをずり下げられ、腰を掴まれた。
しまった、逆効果?
僕は頭から一気に血の気が引くような、悪寒を感じた。
「……い、い、嫌だッ!!誰か助けて!!誰か!!誰か!!笹本さぁん!!!」
僕が喚いていると宮田の引きつった嘲笑が聞こえた。
「ぎゃあぎゃあ喚くなよ、よけいに興奮するやろうが」
――ッ!!?
宮田の指がねじ込まれた。唾液か何かが潤滑油となって結構奥まで侵入してきた。
排泄するための器官に異物に挿入され、その違和感に僕のそこは拒み、きつく収縮した。
ひどい痛みと羞恥から僕は声帯が極限まで開いたような叫び声をあげた。
「メチャクチャ締まりよかねぇ……たまらんねぇ」
宮田のせせら笑いに僕は姉さんに与えられたのとはまた違う絶望を感じた。
僕は顔から床に自らを叩きつけた。涙なのか鼻水なのか脂汗なのか分からない。とにかく膚はぐっしょりと湿っている。もうダメだ。
そう思った時だった。
ドアがすごい勢いで蹴破られた。
「なんや……、鍵、開いとったとか」
俯いて意外そうに呟く笹本さんがいた。
「さ、笹本さん……!」
それまでがっちり僕の腰を抱え込んでいた宮田がバッタみたいに飛び退いた。
顔を上げた笹本さんは僕まで寒気を覚えるような形相をしていた。
硬質な黒髪は水気を含み、べったりと痩けた頬にへばりついていた。胸の辺りが四角くばったタンクトップ。これも雨のせいで膚に張りついている。ヴィンテージの膝の所が擦り切れた色褪せたデニムに先に鉄板が入っているエンジニア・ブーツ。
僕のヒーローは悪役よりもワルい感じがする。
久々に獲物を発見した空腹の獣のような勢いで笹本さんはゴミを蹴散らしながら宮田を追い詰める。
背後から断末魔のような叫び声と鈍い音がした。
僕は完全に脱力して、自分の腕に突っ伏した。
「……しかしお前もつくづく大変やねぇ」
笹本さんは僕を肩に担いで笑った。
僕は腰を抜かしてしまい、立てなくなったのだ。
「俺より人生経験豊富やね」
苦笑した笹本さんの肩は激しい運動のあとで熱を放っていた。
「……なんで、わかったんですか?」
「この辺りのビル、まともな防音しとるの俺んちと店くらいなんよね。お前が出ていった後、追っ掛けたら叫び声が聞こえたけん」
なるほど。よかった。
僕と笹本さんはビルとビルの間で少し雨に打たれた。
「お前にはやっぱり保護者がいるやろう。危なっかしい星の許に生まれとるみたいやし」
「でも、悪運は強いみたいです。笹本さん来てくれなかったら僕どうなっていたか。あ、鼻血が……」
鼻血が出てきた。逆流して口ん中に入ってきた。
「立てるか?止まるまで出しとけ。今日は、店閉めるけん、寝とっていいぜ」
「え、でも……」
僕はちゃんと地面に立てた。
「よかよ。どうせこんな雨の日にくる物好きはおらんやろうし、もしかしたら、僚子の居場所が解るかもしれんっちゃん。連絡来たら、出れるようにしとけよ」
笹本さんはそういうと先に階段を昇っていく。
そうか。笹本さん、ちゃんと姉さんを捜していたんだ。
僕はともかくなんでこんな素晴らしい恋人を残してまで、行方をくらましたんだろう。
「遼太郎、はよこんか笹本さんに促され、僕も鼻を押さえながら階段をあがった。
笹本さんに出会えてよかった。
たぶん、姉さんも、笹本さんが類い稀なる包容力の持ち主だから、連絡先を教えていったんだな。
他力本願も甚だしいが、少なからず僕のこと、心配してくれたんだろうな。
僕は再び笹本さんの部屋に帰った。
「……遼太郎、お前、すぐに俺んち来て正解やったぜ」
玄関の中で携帯を耳にあてたまま、笹本さんは言った。
僕はそんなことわかりきっているくらいなのに、今更何を言っているんだろう。僕は笹本さんを見上げた。笹本さんも僕を見ながら誰かと話し始めた。
「……おぅ、いいぜ、で?僚子の居場所は?」
え!その連絡?!早ッ!!大人の世界の情報って早いな。
僕はブルーデニムを掴み、笹本さんを見ていた。
笹本さんは僕の頭をくしゃくしゃと掻き回し、二、三回軽く叩いた。
「……はぁ?!長崎?!その男とか!?……おぉ、うん、わかった。ありがとよ。コレであの件はチャラやね。ははっ!じゃあな」
笹本さんは通話を終えて、携帯を尻ポケットにねじ込んだ。
「……姉さんの居場所、解ったんですか?」
「おぅ、長崎の佐世保の松浦ってトコにおる。芝浦って奴と一緒らしいぜ。そいつは斡旋屋で少年売春にも関わっとるらしい。僚子はお前をそいつに……」
笹本さんは携帯電話を床に叩きつけた。
僕はその音に驚いて身を竦めた。
「あいつがそげん女やったって……!!」
笹本さんは奥歯を噛み締めて、僕より、憎々しそうに声を吐き捨てた。
「……笹本さん、」
僕は笹本さんの腕を掴んだ。
姉さんの分まで謝りたくなった。
「……遼太郎、心配せんでよか。俺がお前の保護者やけん、安心しろ」
笹本さんは太い腕で僕の頭を抱え込むと少し力をいれた。
こんないい人まで裏切ったなんて。
あの女は、地獄に堕ちてしまえばいいんだ。
僕が突き落としてやろう。
僕がやらなきゃ。
「笹本さん、姉さんのいるところに行きましょう」
僕は顔を上げた。
怒りは沸点を越えて、ただ胸のなかは、信じられないほど冷たかった。 |