【プロローグ】姉さんが消えた。〜白い鳥の夢〜
やたらでかい鷺みたいな白い鳥が、ダムのコンクリートみたいな所に立ってる僕の頭上を迂廻した。
鶴みたいに華奢な首に、ダチョウみたいにずんぐりもっくりした胴体、顔はふくろうみたいに平面で黒目がちで、ちょこんとした觜をしている、真っ白なそれは、ずいぶん前に見たサイコな映画の漂白された綺麗な女の死体みたいに透明な白だった。
訴えかけるような黒い瞳で僕を見つめる鳥と僕の距離は沈黙で、時間の流れがまったくないみたいに静かだった。
白い鳥から目を離すと、裸の女がいた。短い黒髪に透明な白い肌に下半身にはステンドグラスのようなデキモノがへばりついている。
耳たぶの白さがまたいい。
「あたし、きれいかしら」
俯いた女が悲しそうに聞くから、僕はこう答えたんだ。
「美術館にいてもいいんじゃない」
目が開いた。 朝は白い空気を漂わせ、僕は未ださっきの夢の空気を引きずっているものだと思い、覚醒したのか夢中なのか混乱した。
目覚まし時計のアラームが一瞬、悲鳴をあげようとしたから、僕は瞬時にボタンを叩いてそれを阻害した。七時三七分。短い針と長い針が指すものは、さっきの白い鳥に比べれば、とてもくだらない。
妙な夢だな。と呟きながら背伸びをした。
掛け布団を払い、僕はベッドからでた。
起立した下半身を少し撫でて、ふむ、と息を吐く。
台所を通過して、昨日のままの流し台を見てみぬふりをする。
トイレのドアノブを左手で回しながら右手で電気のスイッチをつける。
アイボリーの便座をあげて短パンから銃口を取り出して構える。
―しばしの間。
管に満ちてくる、流れ込んでくる。
ある種の快楽を覚えながら僕はいらないものを排泄する。
用を足して洗面台の鏡を覗き込むと、キノコ雲のような僕の髪の毛。
鏡のなかの僕とこっちの僕は同じように顔をしかめていることだろう。
僕は真崎 遼太郎。16歳になったばかり。
僕は高校に行くのをやめた。
大きな理由は一つ、二週間前に、姉さんが置き手紙を残して失踪したから。
二年前に両親を亡くして、福岡で一人暮らしをしていた八歳年上の姉さんの所に引っ越したのだ。その姉さんがいなくなり、木造アパートの六畳の部屋の家賃も光熱費も払えない僕は全部諦めて夜逃げした。
置き手紙には、『ごめんね、遼太郎。あたしはあんたのお姉ちゃんはやってられない』という無責任な言葉と“笹本 恭平”という名前と住所が記されていた。
どうしようもなくなった僕はとりあえず、その“笹本恭平”という男を訪ねることにした。雑居ビルの三階で“バードメン”という薄汚いバーが手紙の記してあった住所で、その上が彼の住まいだった。
「真崎僚子、ご存じですか?」
僕は店に入るなり、カウンターの中にいた黒髪オールバックの一つ結びにした、赤い花柄のシャツを全開にしてボロボロのヴィンテージ・ジーンズという格好の男に訊ねた。
彼は長身痩躯で、切れ長の目に、通った鼻筋をしていて、小汚い雰囲気をあえて格好よく見せる男だった。直感か願望か。彼が、笹本恭平だと一目見て思った。
「……知ってるもなんも、僚子は俺の女たい」
笹本恭平は、琥珀色の液体が入った瓶からグラスに液体を注ぐと一口煽った。
「あんた、遼太郎くんやろ?僚子からいつも聞きよった。高校生の弟がおるって、僚子は、あんたを美少年とか言いよった。しかしモテるやろー?」
呑気に半笑いをしながら、またグラスを煽る。
「姉がいなくなりました」
僕が、一切無視して、切り出すと、笹本は思い切り口の中のモノを吹き出した。
「嘘やろ?!俺は僚子と付き合い始めてから一筋やったっぜ?!」
タン、と小気味よい音を立ててグラスがマボガニーのカウンターに置かれた。
笹本は痩身な割に筋肉質な胸板に琥珀色の液体をぶちまけたまま、唖然としている。
「姉の行方に心当たりはありませんか?笹本さん」
僕は入り口の木製のドアに寄り掛かった。
「なかよ、あったら、こげん驚かん」
野性的な匂いのする目の前の男は茫然と呟いた。
彼は恋人の失踪とまったく関わりなかったのだ。
その時、僕が感じたのは、『落胆と絶望』だった。
ここにくれば、姉がいるかもしれないと思っていたが、現実は甘くないってか。
「そしたら、お前、家なき子か」
放心したままで笹本が呟いた。
「ええ、姉と住んでたアパート、夜逃げしてきましたから。僕、家なき子ですね」
肩に背負った大きなロンズディールの白いエナメルの鞄には最低限の日用品と下着を入れていた。
不意にその雑貨達が僕を惨めにさせる大きな要因に思えて、腹立たしくなった。
僕はその時、鞄を肩から外して古びた板張りの床に叩きつけた。 今まで漠然としていた怒りが一気に体中に巡り、捌け口として暴挙にでた。
白いエナメルには何の罪もないが、僕の暴力はとどまる事を忘れていた。カウンターから身を翻して笹本が僕を押さえ付けなかったら、僕はエスカレートして辺り構わず破壊していただろう。
「落ち着け、真崎遼太郎、お前がよけりゃ、ここにおればいいやろ」
つむじの辺りに暖かい息を感じた。
僕の肩を押さえつける二本の腕のせいで、僕は微動だにも出来なかった。
鼻に付く香水とアルコール。それを蒸発させる体温。
僕はあまりにも久々に他人の体温を感じたのだった。
気が緩んで、両親を亡くした時にも流れなかった涙が、一筋、目から落ちたのを知った。
「笹本、さ、ん……」
僕の肉親は皆、勝手だった。父も母も、結婚記念日だといって、バリに向かう途中に交通事故で死んだ。
羽田に向かう高速道路で横転したトラックに巻き込まれた。
姉さんも、高校を卒業してすぐに福岡の大学に行くと言って出ていった。
両親が死んで僕が彼女の部屋を訪ねたとき、彼女は迷惑そうに僕を見ていた。
中洲という所でバイトをしていて、すっかり派手になった彼女は夕方から明け方になるまで帰ってこなかった。
たまに泥酔して帰ってきたとき、彼女は僕の羞恥心をなぶる事を楽しんだ。
それでも、僕は何も、しかえさなかったのに。
彼女は僕を残してどこかへ消えていった。
意地悪な姉の恋人に期待はしていなかったけれど、予想外に笹本という男は、優しかった。初対面の僕の暴挙にも関わらず、たしなめ、食事を与えてくれた。
ハンバーグと海老ピラフ。僕は久々にご馳走にありつけたのだ。
もちろん、野良犬並みにがっついた。
笹本さんは煙草を吸いながら、僕を見て笑っていた。
そして、僕は、今、笹本さんの部屋に居候しているわけなのだ。
家事をこなし、朝ご飯くらいなら用意して、店も手伝った。
笹本さんは店の他にも何かやっているらしく、週二回ほど、なんのだか解らない『後輩の宮田』さんに店を任せてどこかにいってしまう。
『後輩の宮田』さんはスキンヘッドで、痩せすぎで、目が大きくて、鼻の上が角張っているなんとも気味悪い雰囲気の人だ。
笹本さんには異常にへつらっているし、僕には妙に優しい。
僕が笹本さんにお世話になって三日経ったとき、宮田さんに
「生き別れになっていた弟だ」
と憮然とした顔で笹本さんは彼に僕を紹介すると、彼は、
「似てないっスね」
と言って笹本さんに睨まれて、冷や汗をかいていた。
新しい生活はなかなか刺激的だった。
店にくるのは、全身にタトゥーが入った男性や、あらゆる所にピアスをしている女性、大体は姉さんのような水商売の女性や風俗嬢と、今までなかなか関わりのなかった種類の人たちが多かった。
まるで動物園や水族館に来た時みたいに、僕はその人達を眺めた。
笹本さんの生き別れになっていた弟として僕は皆から親切にしてもらえた。
皆、宮田さんと同じように似てないと言った。
「わ、びっくりしたー」
ドアを開けた笹本さんが、胸に手を当てて言った。
「あ、おはようございます」
僕は軽く頭を下げた。
「ちゃんと眠れたんか?うなされよったけど」
「変な夢見ました」
僕は笹本さんの割れた腹筋とその下の野性的な茂みを盗み見て、自分のと比べた。
黒い伸ばしっぱなしの髪は硬質で寝癖もない。
「どーした?ぽんぽん痛いとか?」
笹本さんはからかうように右の口の端だけあげて言った。
「いや、そんなこたぁないですが」
僕は少し恥ずかしくなって赤くなりながら答えた。
「ふぅん」
笹本さんは何も気にしてないように僕の隣で用を足しはじめた。
僕のに比べると凶器みたいな赤黒いそれは火事現場で活躍できそうなくらいの勢いで放尿しはじめた。
「消火できるんじゃないですか?それ」
僕が思わず口を滑らすと、笹本さんの放水がみるみるうちに弱くなった。
「出来たら俺はスターか囚人やね」
二、三回、先っぽを振って笹本さんはそれをジーンズのなかに仕舞いこんだ。
「どこで寝てたんですか?しかも、普段着のままで」
ユニットバスというのはなかなか狭い空間だ。
僕は顔を洗おうと蛇口をひねった。
「店がはけた後、ちょっと野暮用ができたけん、出とったんよ。お前はソファで寝とるし、運んだ後、出た。六時くらいには帰ってきたとよ」
笹本さんは出ていきながら答えた。
「大変なんですね、笹本さん」
「いやー、16歳にして家なき子の遼太郎に比べたら、なんちゃなかよ」
冗談めかして労ってくれる笹本さんが本当に生き別れになっていた兄ならいいなと思う。
顔を洗いながら僕はちょっと泣いた。
ここにきて、僕はよく感情が出るようになったと思う。
今まではいろんな事を我慢して平静を装っていたんだと実感する。
頼れる人はいなかった。
両親ともあまり干渉しあわなかったし、姉さんも、僕を玩具か厄介者みたいな扱いしかしてくれなかった。
迷惑をかけないように僕なりに気を遣ってはいたのだけれど。
ここにきて、二週間か。
僕は顔を拭きながらユニットバスをでた。
「ご迷惑、おかけして申し訳ありません」
僕が頭を下げると笹本さんが振り返った。
「顔、上げんか、遼太郎」
言われた通りに僕は顔を上げると笹本さんの手のひらに頭をぶつけた。
「いたっ」
あんまり痛くなかったけれど反射的に言ってしまう。
「素直やねー、遼太郎」
笹本さんはくくっと笑った。
「子供がそげんこと気にせんでよかったい。お前がいいなら此処におればて言ったろーもん」
笹本さんはたたでさえ爆発している僕の髪の毛をぐしゃぐしゃにした。
「朝飯作ってくれるし、店番してくれるし、宮田が店番の日は客がちかっぱ減りよったけど、お前のおかげで、女の子の客が増えたっぜ。美少年」
笹本さんはニヤッと右半分で笑った。
「なんたって、笹本さんの生き別れの弟ですから」
僕は左の目尻を拳で拭いながら言った。
半分泣きながら笑ったのも初めてだった。
「泣くなよ、バカちん。俺は今から寝る。朝飯はいらんけん遊んでこい。五時には起こせよ」
笹本さんはそういうとジーンズの尻ポケットから財布を出して一万円札をくれた。
僕は驚いて笹本さんを見上げた。
「一応、給料ってとこかな。無駄遣いすんなよ」
「ありがとうございます!」
僕は思わず満面の笑顔になっていた。
笹本さんも口元を上げながら頷いた。
「弟は安上がりでよかねー。じゃ、いいオンナには気をつけて遊んでこい」
「はーい!」
笹本さんがベッドに行くのを見送って僕は早速着替えることにした。
笹本さんはコレクターかと思うくらい、いろんな柄シャツや須賀ジャンを持っていて、着なくなったのは僕が着てもいいと言ってくれたので、僕はトーヨーの黒と白のサテン地に背中に日本地図と胸に龍の刺繍が入ったリバーシブルの須賀ジャンを白いタンクトップの上に羽織った。
ブルーデニムと黒いオールスターを履いた。
六月中旬には暑すぎる格好だったけれど、この須賀ジャンがどうしても着てみたかったのだ。
須賀ジャンは少し大きかったけれど、そんなに悪くないと思いながら洗面台で髪を濡らした。
「遼太郎、」
寝ただろうと思っていた笹本さんの声がして僕は慌てて靴を脱いで、ユニットバスから顔を出した。
「はいっ!」
笹本さんは僕を見て少し笑う。
「そげんビビるなよ。遼太郎、姉ちゃんに会いたいか?」
その質問に僕は身構えてしまう。
僕は捨てられたのに、会いにいっても嫌がられるだけなのではないかと思う。
でも、笹本さんは会いたいのかもしれない。
「えぇ……まぁ、」
僕が曖昧に答えると、笹本さんは口を開いた。
「っあ、……いや、お前が、もし、探したいならの話やけん落ち着いたらでよかよ。ちと考えときぃ。俺はいつでも付き合うけんさ」
「はい、ありがとうございます……」
僕は俯いて少し長い袖を引っ張りながら答えた。
「須賀ジャン、似合っとるやん、遼太郎」
笹本さんはそういうとまたベッドに戻っていく。
残された僕は嬉しくなって俯いたままニヤけた。 |