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母の畑
作:北加チヤ


 母が亡くなった。いつもの年より暑い夏の終わり、畑仕事の最中に倒れ救急車で運ばれた。だが、その時にはもう手遅れだったらしい。脳梗塞で51歳のあっけない死を迎えた。


 母の死に顔はとても安らかだった。うっすら死に化粧を施された母の顔は、お盆に見た時と変わらなくて、ただ眠っているように見えた。甥の達也は「ばあば、ねーゆ? おねーね?」と母親である僕の妹にしきりに聞いていた。2歳の達也にはまだ死は理解できないだろう。

「母ちゃん……」
 妹は泣いていた。幼い頃から妹は泣き虫で、よく意地悪な兄の洋司にからかわれては泣いていた。そして、そんな妹を慰めるのはいつも僕の役目だった。やさしく頭を撫でて、泣き止むまで黙って抱いてあげる。でも、今は義弟の靖くんがその役目を果たしてくれていた。そっと妹の肩を抱いて慰めていた。彼自身も目に少し涙を浮かべていた。皆母の死を嘆いている。

「弘子、少し休んでろ。こっちは俺と香苗でやっておくから」
 妹の名は弘子という。香苗というのは兄の奥さんの名前だ。僕の義理の姉。
「でも、できるだけお母ちゃんと一緒にいたい。だって、焼いてお墓に入っちゃったら今までみたいには会えないもん」
「弘子……」
 兄は黙り込んでしまった。きっと何も言えなかったんだろう。
 その時僕は、小さい頃冗談交じりによく母が「死んだら遺灰を海に撒いてね。そしたらお母ちゃん、くじらの餌になるんだ」と言っていたのを思い出した。現実には遺灰を海に撒くことなんてできない。母の遺体は火葬され先祖代々のお墓に入れられるのだ。
「お母ちゃん、こんなに綺麗だったんだ。ろくに化粧もしないし、お洒落だってしなかったから分からなかったけど……」
 母はとても気持ちの優しい人だった。僕達兄弟が中学の頃は、毎日お弁当を作ってくれた。僕たちは年子だから、小・中・高と立て続けに入学式やらの準備をしなくてはいけなくて大変だったと思う。けれど母は学校行事には必ず来てくれた。父が仕事で忙しいのもあるけれど、やっぱり母は頑張りやさんだったんだと思う。

「お父ちゃん、ね、お母ちゃん綺麗だよね?」
 妹は黙って母の遺影を見つめている父に言葉を投げかけた。
「……ああ」
 父は母の死で一気に10歳程年をとってしまったのではないだろうか。白髪交じりの髪は前より白くなり、皺の数も増えた。無精ひげを生やし、目を真っ赤にした父の顔を見るのは思いのほか辛かった。僕の知っている父の姿は天然記念物級の雷おやじで、どんなときもどっしりと構えた、威厳のある人だった。それが今は……180度違う。僕は戸惑ってしまった。
 父はとても母を愛していたんだとその日知った。あまり感情を表に出さない人だったから分からなかったけど、父は母のことをとても大事にしていたし頼りにしていた。
 愛する人を失う悲しみはどんなものだろう? 兄や妹だって悲しんでいるけれど、父の悲しみとは違うものだろう。夫婦とは……それがどんなものなのか、僕は結婚していないから分からない。

 お父ちゃん……

 僕は父に声をかけることができなかった。かける言葉も分からないし、かけたとしても意味がないだろう。だから僕は、ただじっと父の背中を見守っていた。




「こんなこと言うのなんですけどね、お義母さんも喜んでくれてると思いますよ。弘子さん結婚してから、みんながこうして揃うことなかったじゃないですか。たっちゃんも来てくれて……ずっとお義母さん、たっちゃんに会いたがってたんですよ」
 一段落した頃、義姉がいった。
「孫は子供よりかわいいって言うからな。達也は初孫だから尚の事かわいかったんだろう」
 兄はそういうと座布団に胡坐をかいて座った。
 兄夫婦にはまだ子供が居ない。そろそろ欲しいと思っているようだが、こればっかりは思い通りにはならないみたいだ。
「お義母さんは私にとっても、本当のお義母さんのようでしたよ」
 義姉はお茶を淹れながら呟いた。義姉の実家は子供の頃に両親が離婚して父親と二人暮しだった。だから嫁と姑とはいえ、義姉にとって母は特別な存在だったのだろう。
「お義父さんの分は……あなた、ちょっと呼んで来て」
 義姉は当然のように兄に命令した。何も言わずにしたがっている兄がこのお嫁さんの尻に敷かれているのは、誰が見ても明らかだった。妹は兄が部屋を出て行くとぷっと吹き出していた。僕もつい笑ってしまった。
「はい、弘子ちゃんの分」
「ありがとうございます」
 姉は皆の前に湯飲みを渡していった。最後に、父の分を僕が座っている隣の席に置く。

 この湯のみ……

 このピンクの花柄の湯のみ茶碗は、僕が修学旅行で京都に行った時に買ったものだ。母は物は何でも大切に使う人だったから、こうして一椀ひとつも割れることなく残っている。
 そういえば、僕が小学生の頃家庭科の授業で作った巾着を、ずっと大事に使ってくれていたっけ。
「皆そろってかあ……俊之さんも来てるかもしれませんね。お義母さんを迎えに」
 タバコをふかしながら、義弟が言った。
「そうだね。そしたら本当に、家族が揃ってることになるんだね」
 妹は茶碗を見つめながら頷いた。


 俊之というのは、この家の次男の名前だ。高校生の頃、交通事故で亡くなった……

 僕の名前。

 僕は義弟の言うとおり、母を迎えに来たのだった。


『俊之、待たせてごめんね』
 その時、母が帰ってきた。
『うん。大丈夫。どうだった?』
『ちょっとね〜。畑の水やりって、ただ水をいっぱいあげればいいわけじゃないのよ? あまり水をかけたら、肥料が入った土まで流れちゃうじゃない。香苗さんはまだその辺が分かってないのよね』
 母は畑の様子が心配で見に行っていたのだった。
『皆には、お別れ言わないでいいの?』
 僕が尋ねると、母は首を傾げた。
『どうして? 皆には、またお盆に会えるじゃない。それにお別れ言ったって、あっちには聞こえないでしょ?』
『そうだけど……普通はみんなしてるんだよ』
『そんなの、よそはよそ。うちはうちよ』
 母の口癖が出た。
『それに嫌だな。さよならを言ったら、もう会えなくなるみたいじゃない? 私はね、お父ちゃんと洋司と弘子が死ぬまでは死んだけど死に切れないの』
 それを言うなら死んでも死にきれないだろうが、この場合死んでるから母の使い方は合ってるのかもしれない。
『そんなこと言ったら、いつまでたっても成仏できないよ?』
『成仏したら生まれ変わるんでしょ? 生まれ変わったら何になるか分からないんだから、こっちの方が大切よ。大体、俊之も成仏してないじゃない。私は畑仕事をしながら、この虫が俊之の生まれ変わりだったらどうしようって殺すのもためらってたって言うのに』
『セブンイヤーズ・チベットか!』
 僕はつい突っ込みを入れてしまった。母と話すといつもこうだった。

『死んでこんなこと言うのなんだけど、お母ちゃん、俊之に会えてうれしい』
 突然母はそういうと、にっこりと笑んだ。僕はいきなりのことで照れてしまった。そういうことを堂々と言えるのが、僕の母なのだ。
『僕も・・・嬉しいよ、お母ちゃん』
『ただ、心残りなのはあの畑ね〜。お父ちゃんのことは、洋司に任せればいいけど・・・あの畑、誰も世話できないものね』
 そういうと母はくすくすと笑った。その笑顔が、僕の知っているものとは少し違っていて、僕は母もやっぱり寂しいのだと知った。
 本当は、畑のことだけじゃなく色々未練があるんじゃないのだろうか。でも、迎えに来たのが僕だったから、母はなるべく明るく振舞っているのかもしれない。
 僕はばあちゃんに『お迎え』を変わってもらったことを、少しだけ後悔した。


「お父ちゃん、大丈夫?」
 兄に連れられて父がやってきた。
「ああ」
「俺も靖君もいるから、休んでていいんだよ。お父ちゃん、全然寝てないだろ?」
 父の目の下にはくまができていた。
『お父ちゃんは神経質だから、ちょっとでも家の様子が変わると眠れないのよ』
 母はそういうとため息をついた。
 それだけじゃないだろう、父が眠れないのは……
「こういう時くらいは、薬飲んでもいいんだよ? 私、睡眠薬持ってるからあげよっか?」
 弘子はそういうと自分のかばん取りに立ち上がろうとした。
「いい。大丈夫だ。眠れないわけじゃない」
「お父ちゃん……」
「良枝のノートを読んでいたんだ」
「「ノート?」」
 兄と妹は顔を見合わせた。そして、信じられないものでも見るような目で父を凝視する。
『お父ちゃん、私の畑ノート読んでくれてたんだ……』
 母も驚いていた。僕だって驚いている。
 父は母の畑のことには全く興味がないと思っていた。それに潔癖症の父が泥だらけになる農作業に興味を持つとは考えられなかったのだ。
「香苗さん、良枝の畑は俺がやる。」
「は、はい……」
 義姉も驚いていた。


『お父ちゃん、私の言葉……憶えててくれたのかな?』
『言葉って?』
『うん、私が畑仕事始めた理由。できなかったことを返したいって言ったこと』
 母が畑の世話を始めたのは、僕が死んでから1年くらい経った頃だった。近くの農家の人から土地を借りて、野菜の作り方を教えてもらいながら毎日世話をしていた。
 母が畑仕事を始めた理由、それは僕が最も知りたいことだった。
『できなかったことを返すって、何?』
 僕が尋ねると、母はにっこり笑って言った。
『親はね、子供に愛情を注ぐのが仕事なの。だけど、俊之は二十歳はたちになる前に逝っちゃったでしょ? だからね、その分を自然に返そうと思ったの。おいしい野菜を育てて、家族に食べさせて……食べるってことは生きるってことでしょ? 生きるってことは、働くってことね。お母ちゃん、俊之ができなかった分、返しておいたから』
『お母ちゃん……』
 なんだか僕は泣きそうになった。身体がない今の僕では涙が流れることはないのに、嬉しくて本当に泣いてしまうんじゃないかと思った。
『足りない分は、お父ちゃんがやってくれる……ああ、どうしよう。お父ちゃん、私を成仏させたいのかな。会えなくなるのに……』
 母も泣きそうな顔をしていた。きっとものすごく嬉しいんだ。
『大丈夫だよ、お母ちゃん。お父ちゃん不器用だから、お母ちゃんみたいにうまくできないよ』
『そうねえ……』
『また時々様子見に来なきゃ駄目だよ』
 僕がそういうと、母は笑った。
『お父ちゃんが、一番手のかかる子供だもんねえ』

『じゃあ、そろそろ行きましょうか?』
『そうだね』
 僕は母の手を取った。
 農作業をしている母の手はかさかさして、肉刺だらけで『きれい』なものではなかったけど、僕にとっては世界で一番素敵な手だ。
 僕達兄弟を育ててくれた手。毎日朝昼晩と料理をして、部屋の掃除をして、悪さをしたときには叩いてくれた手だ。
『幽霊同士って触れるんだね。あっちの世界のものは触れないのに・・・あ、ポルターガイストってどうやってやってるんだろ? おかしいよね、テレビのやらせかな?』
 母はまた変なことを言い出した。
『怪奇現象特集とかって好きじゃなかったけど死んでから見たら、面白いかもしれないね。ねぇ、俊之。あっちにはテレビあるの? 2時間サスペンス見られないのは辛いわ!』
 こんなのんきな死人は他にいないだろう。あの世に行くのに恐怖を持つより、まずテレビがあるかどうかの心配をするなんて……まったく、母らしい。
『テレビはないよ。でも、お母ちゃんの好きなものが有るよ』
『え? 何?』
 母は興味しんしんの瞳で僕を見つめた。


『……畑。花畑があるよ』




 三途の川の向こう側に大きな花畑がある。その美しい花を育てているのは、僕が良く知っている人。
『ねえ、俊之ー。その苗取ってー』
『はーい、分かった』
 顔まで泥だらけになって作業をしているのは、僕の母だ。






   *END*







初めて短編を書いてみたら、不思議な話になってしまいました。ご意見、ご感想お待ちしています。













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