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短編集

レイニィ・レディ

小学三年生のボクは、ある雨の日、ゴミ捨て場に捨てられていた女の子の人形に傘を貸してあげた。

それから数年後。

中学生になったボクは、ある雨の日、とても綺麗なお姉さんに傘を貸してもらったのだけれど。





桜の花びらをぜんぶ撃ち落とすような勢いで、大粒の雨が降っていた。

けれどもボクは、今朝の天気予報をみたお母さんに、黄色い傘を渡してもらっている。

だからこんな雨、なにもなければへっちゃらだったはずなんだけど。

「…………」

「黙ってちゃわからないでしょ、ノリちゃん。お母さんはね、傘をどこにやってしまったのって、そう聞いているだけなのよ?」

「…………」

髪の毛からはぽたぽたと雫がたれて、服もズボンもびしょ濡れで、冷え切った体はガタガタと震えている。

そんなボクを、お母さんはバスタオルでゴシゴシと拭いていた。

家の中が水浸しになるのを嫌ってか、ボクは玄関に立たされたままだ。

半分くらいは、おしおきのためかもしれない。

「…………」

けれどもボクは、何があっても口を割るつもりなんてなかった。

玄関よりずっと薄暗い取調室で、お母さんよりもっと怖い顔の刑事さんに問い詰められたって、今日のことは絶対に言わない。

どうせ、本当のことを言っても、馬鹿なことをしたもんだと笑われるだけだからだ。

「ま、どうせイトウくんやアオハタくんと、チャンバラでもやって壊しちゃったんでしょう。今日は暖かくして早く寝なさい。さもないと風邪ひいちゃうんだから」

もともとさっぱりした人で、小言もそこまでうるさくないタイプのお母さんは、手短にそんなことを言うとボクから着ている服を剥ぎ取って、洗濯機の中に放り込みに行った。

「着替えはタンスの中にあるから、適当に選んでね。長袖じゃなきゃダメよ」

「……うん」

ボクはようやく、家に帰ってからはじめての口を利いた。

のろのろと着替えを済ませたころ、洗濯機が動きだしてゴトゴトと音を立てはじめる。

「……お母さん」

「なに?」

ボク、傘こわしたんじゃないよ。

それだけ言いたかったけど、やっぱりやめた。

「……なんでもない」

「そうなの? そんな顔には見えないけどな」

お母さんは、ははあと納得がいったような顔で、ボクのほうを見た。

「その話はきっと、お父さんと話したほうがいいわね」

「違うんだ。そういう話じゃなくてね……。だから、ほんとうに……なんでもないことなんだよ」

ボクはそう言って、二階にある自分の部屋に、逃げるように立ち去った。

お母さんはたぶん、ボクが捨て犬か捨て猫でも見つけてきたのだと考えている。

もしもそうだったら、ボクはきっとすぐに拾って帰っていただろう。

もしもそうだったら、こんなにもやもやとした気持ちにはならなかったはずだ。

ボクは今日、学校から帰っている途中にあるゴミ捨て場で、雨ざらしになっていた可哀そうな人形を見つけた。

本当はひろってあげたかったけれど、それは小さな女の子の人形で、男のボクがひろって帰っているところを友だちに見られたら、ヘンなやつだって笑われるじゃないかと思ってできなかった。

だからせめて、もう濡れないようにしたくて、ボクはその人形に傘を貸してあげることにした。家まではほんのちょっとだったから、自分が濡れるのは我慢すればいい。これなら、友達に見つかったとしても、傘を忘れたんだと言えばそれで済む。

うまく言えないけれど、傘を忘れたせいでバカだなあって笑われるのと、男のくせに人形なんか抱いてるのを見られて笑われるのとは、ボクの中だと、まるっきり違うことなのだ。

お父さんが帰ってくるころ、雨はますますひどくなっていた。

風もびゅうびゅうと音がするほど強くなっているから、横に立てかけてきただけの傘なんて、とっくの昔に吹き飛んでいるだろう。

ボクは家から飛び出して、ゴミ捨て場で濡れているはずの人形を拾いに行きたかったけれど。

それで持って帰るのが女の子の人形だなんて思うと恥ずかしくて、なにもできはしなかった。

次の日の朝、学校へ行く途中、ボクは昨日のゴミ捨て場のほうを避けて遠回りをした。

とぼとぼと歩いていたら、ちょうどゴミを回収する車がやってきたところで、清掃員の人が次々とゴミを機械のなかに放り込んで潰していくのが見えたからだ。

あの機械のなかに、昨日の人形がいるかもしれない。

そう思ったら、なぜだかすごく胸が痛くなって。

それがきっかけで、ボクはゴミ捨て場の近くを通れなくなっていた。










ボクの中で、あの人形のことはいつまでも心に残っていて、記憶が曖昧になっても全部を忘れてしまうということはなかった。

いまでもあの道は苦手だ。近道だけど、あの道を通らなければ学校に行けないということもなかったので、ボクはゴミ捨て場の前の道を避け続けた。

小学生のあいだはずっとそうで、中学生になっても、その習慣は変わらなかった。

昔はずいぶんと遠回りのように感じていたが、大きくなるにしたがって意外と大した違いはないような気がしてきていたから、きっとこれからもそうなんだという気がする。

けれど今日は、たまたま傘を忘れていて。

お天気はいまにも大粒の雨が降り出してきそうで。

急いで帰るには、ゴミ捨て場の前を通らなければならなかった。

それでもなんとなく嫌で、分かれ道を逆方向に進もうとしたときだ。頭にぽちゃんと降ってきた。それほどひどくはなさそうだが、学生鞄では、ちょっと間に合いそうにない。

「おっと、こりゃ大変」

犬の散歩をしていたおじさんが慌てて傘をさすのを横目で見ながら、ボクはなるべく濡れないように近くのマンションに飛び込んだ。オートロックのそこそこ高級そうなマンションだったが、玄関くらいなら貸してくれるだろう。

そこには先客がいた。すこし年上のお姉さんだけど、ボクからするとずいぶん時代がかった服装をしている。

いまどき足元までのびたロングスカートなんて。校則を気にするような生真面目な娘だって、スカートのすそはせいぜい膝よりちょっと下にするのが普通なのに。

けれどもボクは、このときベストの下で少しだけ膨らんでいるお姉さんの胸や、スカートの中ですらりと伸びているお姉さんの足が、おかしなくらいはっきりと意識できた。

「災難でしたね」

そのお姉さんは、とてもおっとりとした口調で、にこやかに話しかけてきた。ドレスのような服装からしてお嬢様っぽいとは思っていたが、大人みたいなことを当たり前のように言うので、もしかしたら本物のお嬢様なのかもしれない。

さて、ボクが飛び込んだのは、そんなにすごいマンションだったかな。うちの近所に、お金持ちが住むようなところなんてあったっけ。

そんなふう考えて、すぐに今はそれどころじゃないということに気が付いた。

「そうですね。急に降り出してきちゃって……。たまたま傘を忘れたのがいけなかったんだけど」

「また、誰かに貸してしまったんですか?」

「えっ?」

「もうずっと前。あなたはずぶ濡れになるのも構わないで、私に傘を貸してくれたんです。今日もまた、誰かに同じことをしてきたんじゃないかなって」

「ボクはおぼえがないんですけど……人違いじゃないですか?」

「たとえあなたが忘れていたとしても、私はずっと感謝していましたよ。あなたが差し出してくれた、小さくて黄色い傘のことを」

そう言ってお姉さんが差し出したのは、大人のひとが使うとは思えないような、とても子供っぽい傘だった。

けれど、小学生ぐらいの子供ならぴったりと似あう。そして、お姉さんには見覚えがなかったけれど、その傘のことはよく憶えていた。

「ああ、そうか……。思い出したよ、お姉さんのこと」

傘を受け取って、取っ手の部分を確かめる。

忘れ物をしても大丈夫なようにつけられた名札には、ボクの名前が、へたくそな字ででかでかと書いてあった。

ボクはむかし、ひらがなで『の』という字を書くのが苦手だったんだ。

「――こんなに綺麗な人だったんだね」

何年も近づかなくてすぐには気付かなかったけれど、ボクがいま立っている場所は、昔のゴミ捨て場で間違いない。知らない間にマンションが立っていたせいで昔とはずいぶん違っているけれど、コンビニや公園との位置関係までは変わっていなかった。

ボクはもとのゴミ捨て場があった場所で、ずっと昔に貸した傘を返してもらった。

いまはもう肩がはみ出るくらいになってしまった、小さくて黄色い傘を。

「ずっと待っていたのに、あなたはなかなか通ってくれなくて。………どうしてですか?」

「だってボクは、何もしてあげられなかったから。気付いていたのに、結局はそのままにして」

「そんなことないよ。私はぜんぶ憶えてる。あなたのおかげで、私は冷たい雨に打たれても平気だったし、泥だらけの汚れた姿も見られないで済んだんです。それに、一晩中心配してくれていたでしょう。私みたいなヒトタチには、そういうのがちゃんと伝わるものだから」

いちばんしてほしかったはずのことを、お姉さんはわざと言わないようにしている。

それに気が付いたボクは、なぜだか無性に泣きたくなった。

「けれどいちばん嬉しかったのは、あなたがいままで、一度だって、私のことを忘れなかったというところ」

お姉さんは、服が濡れるのも構わないで、ボクのことを抱きしめてくれた。

「おかしいね。もういいよって言いに来たのに、私、あなたに忘れてほしくないと思ってる」

「忘れないよ。絶対に。何があっても」

「ありがとう。でもそれは、あなたにとっては良くないことよ。出会いに気が付かなくなるから。明日に進めなくなるから。幸せが通り抜けていくから」

ブラウスの肌触りが、いつのまにか感じられなくなる。

胸の柔らかさが、だんだんと消えていく。

暖かさは、最初からなかった。

「ねえ、どうか泣かないで。私は何も恨んでなどいないから。あなたの思い出の中の私は、ずっと笑っていたでしょう?」

ああ、そういえば。

そうだったかもしれないな――。







――――。

ふと気が付いたら、雨はもう止んでいて。

もう雨宿りの必要も無いから、ボクは水溜りのできた道を、とぼとぼと歩きだした。

小さな女の子とすれ違った時、その子にこんなことを言われた。

「ママ、あの人ヘンだよ。もう雨は止んでいるのに、あのお兄ちゃんは傘をさしたままなの」

女の子に聞かれて、彼女の母親はうっすらと微笑みながら答える。

「メレちゃん、ああいう人を見つけたらね。顔を覗き込まないのがマナーなのよ」

「ふうん、そうなんだ」

母親にそう言われて、その子はおかしなくらいわざとらしくそっぽを向いた。

それは、ボクにとっては有難かった。

ボクはなぜだか哀しくなって、知らないうちに持っていた黄色い傘で顔を隠して、泣いているのを人に見られたくなかったからだった。

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