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奴隷法 作者:鈴本耕太郎
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8.癒し

「広くて綺麗な部屋ですね」
 亮司の住む2LDKのアパートにやってきた涼音から出た感想が亮司には皮肉に聞こえてしまった。
「殺風景な部屋だろ?」
「いえ、そんな事……」
「事実だから気にしなくて良い。食品を冷蔵庫に入れたら、さっさと荷物を片付けようか」

 運び込まれた荷物を持って、涼音を案内したのは六畳程の何もない和室だった。
「この部屋を好きに使ってくれて構わない。とりあえず涼音の布団はここに置いておくから、干すなり、押し入れに入れるなり好きにしてくれ。リビングに居るから整理が終わったらおいで」
 亮司はそれだけ言って部屋から出ていった。
 後に残された涼音は一瞬固まってしまったが、おそらく試されているのだろうと判断した。荷物の整理を手早く終わらせると、干すための布団を持ってリビングへと向かった。
「すいません。布団はどちらに干せば宜しいでしょうか?」
「ああ、気が利かなくてごめん。こっちだよ」
 涼音の問いに亮司はリビングの窓を開けて、ベランダへと案内した。
「良い景色ですね」
 ベランダからは山に囲まれた小さな町が一望でき、先ほど車で上って来た坂道も確認できた。遠くには海も見える。
「だろ?この景色を見てここに決めたんだ。それにこの辺は再開発の区域になっているらしくて、坂を下りなくても色々と揃うから便利だよ」
「そうなんですか。それなら助かりますね」
 涼音の言葉に頷きながら、亮司も景色を眺める。
 気分転換になればと景色が良い所を選んだが、こうしてしっかりと眺めるのは入居してから初めてだった。

「これから何をしたら宜しいですか?」
 亮司がぼーっと景色を眺めていると、布団を干し終わった涼音が話しかけて来た。
 どうしようか、と考えて思い出す。
「コーヒーを淹れて貰えるかな?一緒にエクレアを食べよう」
「はい」
 元気の良い返事が返ってきてすぐに涼音がキッチンへと向かった。それに苦笑しながら、まだ食器の場所を教えてない事を思い出した亮司はゆっくりと涼音の後を追った。

 涼音が淹れたコーヒーは美味かった。
 何かの映画に影響されて買った手挽きのコーヒーミル。結局最初の数回しか使う事はなく、そのまま埃を被っていた物を思い出して、昨日のうちに準備しておいたのだ。
 それを涼音に使わせてみれば、驚く程スムーズに使いこなしてくれた。
 豆を挽く音はリズミカルで非常に良い響きに聞こえた。
 コーヒーを楽しみながら涼音の方を見ると、美味しそうにエクレアを頬張っていた。昼飯を食べた時にも感じた事だが、食べている時の涼音の表情はとても幸せそうに見える。眺めているだけで、亮司まで頬が緩んできてしまうから不思議だ。
「どうかされましたか?」
 視線に気づいた涼音が、不思議そうに尋ねるのを、亮司は首を振って応えた。
 意味がわからず首を傾げる涼音を見て亮司はまた頬が緩んでしまうのだった。

 コーヒータイムを終えて食器を洗う音を聞きながら亮司が本を読んでいると、心地良い風が窓から入って来た。日中はまだまだ暑いが、朝夕はこの頃少しずつ過ごしやすくなってきた。外を見ればまだ日が出ているようだが、すでに気温は下がり始めているようだ。読書を中断し目を閉じて息を吸い込めば、切ない秋の雰囲気を僅かばかり感じる事が出来る。夏の間、あれだけうるさかった蝉の鳴き声も、今はもう聞こえない。

 どうやら寝てしまったようだ。いつの間にか、かけられていたタオルケットに優しさを感じた。
 身体を起こせば、良い匂いがする。キッチンへと目をやると別れたはずの妻が……。
 亮司は頭を振ってもう一度視線をキッチンに向ける。そこにいる涼音の姿に安堵して息を吐いた。
 周りを見渡せばすでにカーテンが閉められており、時計の針は六時過ぎを指している。思った以上に眠っていたようだ。
「おはようございます」
 声のした方を向けば、涼音が出来た料理を運んでいる所だった。
「おはよう。もう夕飯が出来てるみたいだね?」
「はい。いつでも食べれます」
 テーブルを見れば、昼に亮司が頼んだ通りのメニューが二人分しっかりと用意されていた。
「じゃあ冷めないうちに、いただくとするよ。一緒に食べよう」
「はい」
 涼音の元気の良い声を聞いた亮司は、立ち上がると大きく伸びをした。

 亮司が洗面所から戻り食卓につくと、ご飯とみそ汁から湯気が立っておりそれが食欲を刺激した。
 目の前にある料理は、肉じゃが、焼き魚に味噌汁、漬物といったシンプルな構成だ。しかしそれを食べた亮司は知らぬ間に涙を流していた。
「どうかされましたか?」
 慌てて声をかける涼音になんでもないと答えると、亮司は涙を拭って食事を再開した。
 妻と別れてからずっと市販の弁当やインスタント食品で済ませてきた。久しぶりの手作りの料理は、温かくて非常に美味しく感じた。それと同時に、離婚する前の家族の団欒を思い出させたのだ。
 心に温かさと冷たさが同時に押し寄せてきたせいで、亮司はそれを処理しきれなくなってしまったのだった。
 大人になってからまともに泣いた事がなかった。どんな悲しい事があっても、嬉しい事があっても涙が流れる事がなかった。だから元妻であった玲子の前で泣いた事がなかったばかりか、離婚した時ですら涙が出る事はなかったのだ。
 それがただ料理を食べただけで、涙が溢れてしまった。
 亮司は混乱していた。しかし、これ以上の弱みを見せるわけにはいかない。恥ずかしさも相まって、何事もなかった事にしてしまおうと黙々と料理を口に運んだ。

 拭っても拭っても溢れてくる涙を無視して料理を食べる亮司は、いつの間にか心が温かくなっていくのを感じていた。時折こっそりと前を見れば、涼音が不安と疑問がない交ぜになったような顔で亮司を見ているのだった。
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