メントール続編(ヒロノ)
とんとん拍子に決まった結婚式の前夜、バチェラー・パーティーなんて名ばかりの、男だけの飲み会をひらいた。
会場は段ボールだらけの狭いアパートの一室。
本当なら婚約を機に買ったマンションで騒ぐつもりだったが、彼女も同じように女友達を誘うというので、急遽、まだ解約していなかったアパートへと場所をうつした。
学生の頃からひとり暮らしを続けていた部屋は、独身最後の夜を祝うには案外ぴったりだった。
「ヒロノ、今夜は新居に帰らないのか?」
すでに何本目かの缶ビールにくちをつけていた友達が、そうたずねた。
「ああ、女同士の飲み会なんて、終わるの何時かもわかんないだろ。布団をまだ捨ててなかったのが、幸いしたな」
「帰らなくていいからって、安心してあんまり飲みすぎると、明日の結婚式に障るぞ」
経験者たちはしたり顔で語る。そうして日付が変わるころに、「外泊するなって、ヨメがうるさくてさ」と言い訳を添えて、ぞろぞろと帰っていった。
部屋には俺と、数年来の友達である仁木だけが残った。仁木は隣の部屋に住んでいて、時間を気にしなくていい単身者だった。
「さてと、飲み直すか。上司から結婚祝いだって、うまいワインをもらったんだよ。人数が多かったから出せなかったけど、おまえとふたりならちょうどいいな」
「いいねえ、残ってた甲斐があった」
仁木は整った顔を人懐っこくゆるめて、うれしそうに笑う。
出会ったことろから変わらない屈託のなさだ。段ボールから大きさの違うワイングラスを取り出していると、仁木がうしろからのぞきこんだ。
「それ、みんな捨てるやつなの?」
「新居の家具とか食器類、全部買いそろえたから、もういらないんだ。仲介業者の営業力、はんぱなかったぞ。おまえの部屋もそろそろ片付いたか? 引っ越し、月末だっけ」
「んー、月末というか、週末かな?」
「……今週って、明後日までしかないだろ」
「そうだっけ」
「おい、こんなところで飲んでる場合、っていうか、結婚式なんか出てる暇あるのか?」
「主役が『なんか』って言ったらまずいんじゃないの。親友の晴れ舞台ですからねえ、僕はなにをおいても駆けつけますよ」
親友。学校も会社も違う俺たちが、そんな風に言えるようになったのは、仁木の働き掛けによるところが大きい。
隣の部屋だからとずうずうしく押し掛けてくる人懐っこさがなければ、一緒に飲むことすらなかっただろう。俺はべたべたした人付き合いが、得意なほうではなかった。
段ボールのものをためすがめつしていた仁木は、「あ、これ覚えてるよ」と言った。
「飲み屋の開店記念の景品だ。映画のパンフに……フライヤーまで? へー、ヒロノこの俳優、あんまり好きじゃないって言ってたのに、まだ取ってたんだ」
「だから今、捨てるんだろ」
「いい記念じゃない、持っていきなよ。このゲームも、時代を感じさせるなあ。もう、ハードが作られてないんだっけ? 休みまるまる使って、何度も対戦したの覚えてる? ヒロノ、土日しか休みなかったのに、なにやってたんだか」
「おまえは絶対、こっそり練習してただろ。自由業ってうらやましいって、あの時本気で思った」
「してないよ。ヒロノが弱いだけだけでしょ」
仁木は懐かしいものを並べて、くすくすと笑う。
笑みが止まる。
「これ……」
持ち上げたのが、シルバーの鍵だったので、俺は「スペアキーなんてあったんだ」と、少しあわてた。
「こういうのって全部、大家に返さないといけないんだよな。このゴミ、明日全部捨てるところだった。おまえのおかげで助かったよ」
ため息をついて、鍵を受け取った。
仁木はまた視線を箱に移し、「あ、煙草を発見」と目ざとく見つけた。
「まだ中身、残ってるのに捨てるの」
「吸うならやるよ」
「いいの?」
「禁煙はじめたばっかだから、見るだけでもしんどいんだよ」
「ヘビースモーカーが変わるもんだね。ぴかぴかの新築マンションが汚れちゃうから、禁煙はじめたんだっけ? ホタル族でいいじゃん。ベランダで吸うのは慣れてるだろ」
「……つーか、あいつが」
「奥さん?」
「父親亡くしてるからさ。肺ガンって言っても、煙草のせいかはわからないけど、若いころからずっと吸ってたらしくて」
彼女のためだということが気恥ずかしくて、俺はくしゃくしゃのソフトケースをうばいとって段ボールに戻した。
「ああ……」
仁木は少しうつむいて、「ヒロノのそういうところ、好きだな」とつぶやいた。
まるで、部屋全体から酸素だけがうばわれてしまったかのように、胸の奥がずっしり重たくなった。だから、「いい夫だろ?」と、あえて軽く笑い飛ばした。
「おまえも早いところ結婚しろよ」
「うん」
「新しい仕事場って、なんか山奥なんだっけ? お互いに子どもができたら、一緒にキャンプしたり、釣りでもしようぜ」
「僕はその前に、早く相手を見つけないといけないな」
「仁木ならその気になればすぐ見つかる。『せっかく男前に生まれたんだから、使わないと持ち腐れになる』って豪語してただろ」
「なにそれ。僕、そんな恨み買いそうなこと言ったっけ?」
「覚えてないのか? 『僕の使命だ』くらいは言ってたぞ」
仁木は顔をあげた。
目が少し赤かったから、酔っているのかもしれない。仁木の腕がふい動いた。俺のほおに触れた手は、大きいけれどあたたかで、女の手のようにしっとりとしていた。
芸術家の手というのは、みなこういう感触なのだろうか。陶芸を仕事にしている仁木らしいと思った。
「さわってもいい?」
「ばーか、もうさわってるだろ。許可とるなら、さわる前にしろよ」
ふ、と距離が縮まって、くちびるがふれた。
仁木は俺のことを好きなのだという、予感があった。だから、俺は笑い飛ばすか冗談にしなくちゃいけなかった。
「ヒロノ」
名を呼ばれる。
ほんとうにもうぎりぎりの、あふれるまで張られた水のように、胸に響く声だったから、せつない気持ちがすこしうつった。それでも、拒まなくちゃいけなかった。
振り払わないといけない。少しの疑いもなくわかっていたのに、そうしなかったのは、どう考えても気の迷いだった。
ヒロノ、ヒロノ、とすがりつくように何度も呼ばれて、頭の芯がしびれたように重くなった。
俺はもうずっと、2年前から仁木が俺を好きだと知っていた。
フラワーシャワーを盛大に浴びたあと、写真撮影のために教会の外で待った。
友人たちは小奇麗な黒のスーツに身を包んでいた。俺は参列してくれた礼を言うために、彼らの輪に近づいた。
当たり障りのない祝いの言葉の後、学生時代のサークル仲間のひとりが、「そういや、なんでOB会、来なかったんだよ」と言った。
「おれ、幹事だったんだぞ。招待状、届かなかったか?」
「招待状……?」
俺は記憶をさぐった。あふれかえったポストに、そんな葉書が来ていた。
集まろうと記載された日付はとっくに過ぎていて、俺は他の手紙の応対にかかりきりになって忘れてしまった。
「入院してたんだ。連絡も返さなくて悪かったな」
「へ、入院ってなんだよ!?」
「2年前、交通事故に遭ったんだ。釣りに行く途中で、車同士の衝突事故起こしてさ、折った脚は全治3カ月だった。それで、入院」
「ひえー、全治3カ月って大怪我だろ。大変だったなあ」
同情気味にそう言ってくれた男の肩に、他の友人が腕をまわした。
「ばーか、おまえ聞いてねえの? ヒロノのやつ、入院先してた病院で、あの美人のヨメさんと知り合ったんだよ。話には聞くけど、ほんとに白衣の天使に見えちゃったのか?」
ちゃっかりしているよなあ、と言うと皆が笑った。
「そういや、仁木も一緒に事故に遭ったんだろ? おまえら、連れ立ってでかけるくらい仲良かったんだな。ヒロノって一時期、仁木のこと避けてなかったか?」
「……避けてた?」
「そもそもヒロノ、釣りなんかしたっけ?」
俺はあいまいにうなずいた。そういう風に仁木から説明されていたから、間違いはないのだろう。
俺は事故に遭って、頭を強く打った。そして少しだけ記憶をなくしてしまった。さかのぼって2年分だ。
出会った人や、出来事をすべて失ってしまった。当時はひどい不安に苛まれたが、励ましてくれたのは仁木だった。
「2年なんて、人生のうちではほんのわずかな時間だ」
今、思えばたしかにその通りだったが、その頃は冷静に考えることもできなくて、「おまえは気楽でいいよ」と、彼をなじったりもした。
同じように事故に遭ったのに、運転していた仁木に、目立った傷はなかった。
逆恨みだとわかっていても苛立った。大事なものが失われてしまったかのような気がして、苦しくて苦しくて、見舞いに来てくれた友人とも会いたくないほど、憔悴した。
仁木はいつも、俺が寝ている時にやってきて、枕元でなにか音楽を聴きながら静かにたたずんでいた。
おしゃべりで軽い男だったのに、その時はまるで置物か活けられた花のようにひっそりとして、彼が冗談めかして言うように、なかなか整った顔立ちをしているから、まるで絵のようだと思った。
目覚めると仁木がいて、「おはよう」と言う。
毎日、変わらぬ顔がそばにあることには癒された。それが誰だったとしても、同じように安堵したと思う。
失ったのと同じだけの月日が過ぎて、そうして俺は当たり前の日常に戻った。
職場でも特に支障はなく、「ほんのわずかな時間だ」と言ってくれた仁木の言葉が、ようやく身に染みた。
お礼のつもりで飲みに誘うと、彼はうれしそうな顔をして、俺たちの間には確執なんてなにもなかったかのように、もとの友人関係に戻った。
もとに。
戻ったのだろうか。
退院しても、時々思い出した。眠っている俺の前髪をゆっくり梳く、仁木のてのひらがあたたかいこと。俺を見る時に、まるで大切なものでもながめるみたいに、甘ったるい顔をするのに気づいていた。
記憶を失う前の俺は、仁木が俺を好きだと知っていたのだろうか。
「そういや、仁木は?」
俺は言われてはじめて、やっぱり、と思った。仁木は来ていなかった。
結婚式前夜に新郎と寝て、翌日に披露宴でスピーチなんてできやしないだろう。
友人たちの焦りとは裏腹に、俺はホッとした。どんな顔をして会えばいいかわからなかった。仁木はその日のうちに荷物をまとめて、アパートを引き払っていた。
「これで全部ですか?」
引っ越し業者はてきぱきと仕事を終わらせ、引き渡しのサインを求めた。妻となった彼女に電話して、今トラックが出たからよろしくと伝えた。
「忘れ物、ないようにね!」
彼女の返事は明るかった。
俺は部屋に残っていた、段ボールを持ち上げた。中身をゴミ袋にうつして、捨てるだけで引っ越しは完了だ。
「あれ?」
吸いかけの煙草が、なくなっていた。もしかして、引っ越し業者が間違って荷物に詰めて、持っていったのだろうかと焦った。
彼女にみつかったら、きっとまた、「こっそり吸ってたの」と、怒られてしまうだろう。
「お待たせしてすいませんー!」
呼びかけに顔を上げると、大家がやってきた。
「暑いですねえ。部屋の中で待っていたらよかったのに。あそこ、まだあなたの部屋ですよ」
ぱたぱたと扇子をふる親父を、俺はからっぽになった部屋のなかに案内した。
敷金返還の話などはもう済んでいて、「新しいマンションってどのへんなんですか?」などという世間話に応じた。
「お隣の仁木さん、お友達でしたっけ?」
「ええ」
「同じ時期に入居されて、退去も同じなんて縁があるんですねえ。いや、急にふたりとも退去するっていうから、てっきり同居でもされるのかと思いましたよ。ご結婚されたとはおめでたい」
「お世話になりました。あの、これ……」
デニムの尻ポケットから、鍵をふたつ取り出した。
大家は顔を近づけて、「鍵はひとつしかお渡ししてないはずですよ」と不思議そうに言った。
「え? でも俺、スペアキーなんて作った覚えないんですけど」
「じゃあ、わたしのほうで処分しましょうか」
大家に鍵を渡す。
「ああ、だめですよヒロノさん。鍵を見比べてみてください。かたちが違います。こっちはこの部屋の鍵じゃないでしょう?」
大家は目の高さに鍵を掲げて、合わせてみせた。
彼の言うとおり、シリンダーのギザギザ部分が、ほんの少しずれていた。
「あたらしい家の鍵とか、ご実家の鍵なんじゃないですか? ええと、こっちがうちの鍵ですね。確かにいただきましたよ」
「あ……すみません」
俺のてのひらには、ころりと小さな鍵が残された。ゴミ袋を抱えて、大家の後をついて階段を降りる。
じゃあ、ともう一度あいさつして、彼と別れた。道路に面した駐輪場の一角にある、小さなゴミ捨て場に袋を置く。
ふ、と昔のことが思い出されて、おかしくなった。
朝早くのゴミ捨て場で仁木と鉢合わせて、彼が慌てて逃げ出したことがあった。
あとから聞いたところによると、前夜に俺が彼女を連れ込んでいたせいだった。
『静かにやってくれよ。うっすい壁一枚挟んで、僕のベッドがあんだから。ぎっしぎしされたら、こっち気まずいだろ』
相手をとっかえひっかえしてそうな顔をしているのに、意外と純情なんだな、と感心したんだ。
俺はアパートを振り返った。
そうだ。
寒い夜だった。仁木はあの時、ベランダにいた。とても薄着で、両手をポケットに突っこんで、隣で煙草をふかしていた。
俺たちのあいだにはちゃちな間仕切りがあって、『火、貸して』と頼まれて、煙草に火をつけてやった。
その夜、俺は部屋に男を連れ込んでいた。
仁木が男同士に嫌悪感を抱いたら嫌だなと考えて、男とも女とも寝れる軽いやつだと思われるのが嫌で、それが真実だったわけだけど、切りだすまでに時間がかかった。
俺は表情があまり変わらないと言われていたから、仁木には伝わっていなかったかもしれない。
気安くて、世話焼きで、ひとつ許すとなれなれしくて。それなのに、俺がさそうまで、部屋には絶対に泊まっていかなかった。
「あ……」
いつからか、仁木の線引きを、俺のことを意識しているのだと、思っていた。
2年前より、もっとずっと前から、俺は仁木の視線に気づいていた。
昨日の夜、お預けをくらった獣みたいにのしかかられて、クーラーも取り外してしまった部屋は暑くて、汗のにおいがした。
仁木の汗のにおいがして、俺はぐちゃぐちゃになった。
もっと優しくさわられると、思っていた。
だっていつも仁木は優しかったから。本当にいつも、優しくさわってくるから、俺は「男同士なのに」と内心で蔑んだ。
遊びなら良かった。男も女もなく寝たけれど、結婚はするものだとあたりまえに思っていた。仁木は違った。男同士で付き合って、まじめに好きだなんて、言った。
『部屋で吸うなよ。賃貸なんだから』
くちうるさいことも、時々言うから、俺はわざと煙草を吸いながら背中にもたれた。仁木の広い背中は裸だったし、俺も裸だった。
『仁木』
名を呼べばふりむいて、それから少し困った顔をして、仁木は俺の眉間に親指をぐりぐりと押し当てる。
『しわ、寄ってる』
強張った心をほぐすみたいな、優しいことをされる。
俺は俺が、男をすきになったせいで。仁木をすきになったせいで、友達だった仁木のことまで、おかしくしてしまったんじゃないかって、台無しにしてしまったんじゃないのかって、ぞっとしたんだ。
遊びと割りきれなくなっている自分に気づいて、怖くなった。
『忘れたいんだ、おまえとのこと』
だから仁木に告げた。
『最後に、海に行こうか』
そう囁かれて、俺は『最後なら』と掠れた声で、返事をした。情けないことに少し泣いたせいで、ふらついていた。
仁木は俺の手を引きながら、「静かに降りないと、みんなを起こしちゃうかな。この階段、音ひびくから」と、ひそめた声で言った。
冗談みたいな釣り竿を抱えて、「釣りに行く約束、果たしておこう」って、まるで遊びに行くみたいに言った。
「今行けばきっと、朝焼けが見えるよ」
こんなときでも。
こんなに苦しい時にでも、美しいことを考えるなんて、芸術家はみんなそうなのかって、なめらかな感触のてのひらを握りしめて思ったんだ。
あれは事故の前。
俺が失くした記憶の、最後。海まではたどり着けなかった。目が覚めたら、病院だった。
安普請のアパートの階段はうるさく、駆け足でのぼると、カンカンと靴のかかとが音をたてた。
震える手で鍵穴に銀色を差し込もうとする。両手でしっかりと押さえて、深く深く埋め込むと、それはカチリと音をたてた。まるでこの2年、待ち焦がれていたようにぴたりと嵌った。
『忘れたいんだ、全部』
俺が望む通りになった。
仁木の部屋の中はからっぽだった。彼のこれまでの生活も、行き先を書いた紙も、ひとつだって手がかりは残されていなくて、俺はなにもない部屋で途方に暮れた。
あの事故は、仁木に目立つ傷を残さなかった。
一年とはんぶん、俺が仁木の恋人として過ごした時間を、奪っただけだ。
だから、誰にも知られないようにこっそりと付き合っていた俺くらいしか、仁木の傷は見えるはずがなかった。その傷をなでてやりたくても、今はもう、仁木にはさわれなかった。