chapter4
1
「〜っておいこらてめえ!! もうちっとまともに運転できねえのか!?」
「春……一応聞いとくけど、車の運転なんて出来たの?」
「あー……」
由希の問いに、しかし春はハンドルを握った手を離し、運転席からくるりとそちらを振り返ると真顔で一言、
「――なせば成る……なさねば成らぬ……何事も……」
「〜あほか!!」
「前見て! 前! ハンドル!!」
「ハルかっこいいのーっ」
「……どこら辺が? あの非常識の塊が服着て歩いてやがるザマのどこがどうかっこいいっつうんだ? あ?」
「うわぁぁぁあんっ キョーがいじめるー!!」
「うるっせえなてめえら……ちったぁ静かにしやがれ!!」
「そうよ……不謹慎な輩ね……透君がこんな事になってしまったというのに……」
咲の一言で、その場に居た全員の顔が神妙なそれへと戻る。
はとりの乗ってきていた車――白のセルシオに、春、紅葉、魚谷、咲、由希、夾……それに透が乗っていた。
運転席には春。助手席には咲が透を抱えて、後部座席は紅葉が、真ん中に位置する由希の広げた両膝の間に座り、それでも夾達は寿司詰め状態である。
間違えて隣の魚谷に引っ付こうモンならそれこそ一発アウトだからだ。
「花島。……どうだ?」
身を乗り出して、魚谷が咲の様子を窺う。
「残念だけど……草摩由希達の言った通りのようね……この体は抜け殻みたいなもの……。透君の電波を感じる事は出来ないわ……」
「そっか……」
「トール……どうなっちゃうの……?」
「このまま魂が戻らなければ……やはり衰弱死してしまうでしょうね……。ただでさえ透君弱っていたのだし……早く戻してあげないと……」
淡々といつもの口調で語る咲。
その細い肩が震えている事に誰もが気づいたが、しかし誰も 何も言わなかった――
――言えなかった。
「〜このままで終わらせてたまるか!」
握り拳の側面で、黙って睨みつけていた窓を力いっぱい叩く夾。
「……そうなのよっ トールは僕達で助けるの! ……きっとまた笑ってくれるのよっ」
紅葉の精一杯の笑顔に、花島も静かに微笑みを返す。
「……で? まだ先なのか? あのクソガキのご本体様の居場所ってのは」
魚谷が乗り出したまま今度は春を見る。
「ん……もう少し先…………のように、思われマス……」
「なんつーか……全力でぶん殴りたくなる位超曖昧だな……」
「いててて……魚谷サン……、もう殴ってるから……すでに」
「本当に後少しだよ。本家が見えてきたら、その裏になるから」
前方を睨むように見ながら、代わりに由希が口を開いた。
「あの子供の帰る所っていったら、その桜の元しかないと思う。きっと本田さんもそこに居るはずだよ」
「……けれど わたし達が行って……本当にどうにかなるものなのかしら……」
「してみせるんだよ」
「……成らぬは人の なさぬなりけり……」
夾の即答、春の呟きに微笑すると、咲は改めて透を見る。
「そうね……必ず」
「しかし……あいつらは大丈夫なのかな?」
「あ? あいつら?」
「紫呉とはとり」
「……あぁ……先生達はなんでも、本家に真っ直ぐ寄ってからこっちに向かうとかなんとか……」
「どういう事?」
「この車には定員オーバーだろ? だからおっさん等、一足先に出発したんだ。……なんでも桜のことを調べるだのどうのって。別れる際に本家とやらに迎えの車呼び出してたぞ?」
「ふうん……大丈夫なのかな……紫呉はともかくはとりは……」
タツノオトシゴ……
「なんとかなんだろ……向こうもかなりガードも甘くなってるだろうし」
由希の呟きに、曖昧に夾が答える。
「心配するべきはむしろ物書きの方だと思ったけど……はとりさん、実は運痴か?」
真顔で問う魚谷に吹き出しそうになりながらも由希は苦笑した。
「ああ……ちょっとね……」
(ごめんはとり……)
「――うぅ……!!」
助手席で突然、うめき声を上げる透。
「透君!?」
「トール! 気づいたの!?」
「そんなはずはないわ……これは……」
「なんだよ花島!?」
「これはおそらく……魂の方に体が連動しているのね……」
「どういう事だ?」
「まだこの体は完全には魂とは切れていないもの……完全に切れる事……それはすなわち死を意味することだから……」
「〜ぅあ……っ」
「透!」
「本田さんっ」
その青白い額から吹き出た汗をハンカチで拭いながら、花島はポツリと呟いた。
「……急がないと……。むりやり体と切り離そうとしているんだわ……透君を」
2
透は桜に囲まれた道を一人裸足で歩いていた。
辺りは真っ暗で。見上げれば吸い込まれてしまいそうな闇。しかし、気づけば足元に続いていた道ですらもいつの間にか闇に紛れて見えなくなってしまった。
黒い景色の中、ただ桜の薄桃色が静かに舞い散る。雪のように。
透はただ一心に歩き続けていた。
奥へ奥へと。
進むほどに、自分はそこへ行かなきゃいけない。そんな気がしてたまらなかった。
やがて桜の木々が開け、闇が一気に膨張する。
どこが上なのか、下なのか。左右ですらもわからなくなるような、深い闇。
その奥には
一人の痩せた女性が立っていた。
青白く光る細い体、その表情は見えない。
が、なんとなく。なんとなくではあるが。
――見覚えが、あった。
その容姿にも。
その短い金髪にも。
その雰囲気も。
……真っ先に、自分の感覚を疑った。
あるはずのない事。どれだけ願おうとも決して叶う事のない事――なかった事。
呆然と、しながら。
それでも透は、確かめる声を上げずには居られなかった。
「あなたは……誰……ですか……?」
――瞬間。
女性はその顔を上げる。
『――透……』
「……っ」
自分を呼ぶその懐かしい声に、透の瞳が大きく見開かれる。
『透……』
目の前の状況の全てを受け止めきれず。
混乱で、完全に思考が止まって。
それでも、透はなんとか一言を絞り出す。
「お……かぁ、さ……?」
自分の声に。
頷いて 嬉しそうに。
ふわりと微笑む。
ゆっくりと、
その両手を広げて――
「……っ 〜ぉかあさん……っ!!」
言葉の代わりに 熱いものが奥からこみ上げて。
止めどなく溢れて。
その顔が よく見えない。
そちらへ駆け寄ろうとしても、
足が縺れて、思うように動けない。
体が痺れてしまったかのように、思うように動かせない。
感覚がない。
〜もどかしい。
それでも這い上がって、なんとか今日子との距離を縮めようとする。
――早く。
早く。
急がなくては。
早く。
だって。
夢の中で会う母は
――すぐに 消えてしまうから。
(いかないで……!!)
救いを求めるかのように差し出した 震える両手を。
歩み寄った今日子が、しっかりと
包み込んだ。
「〜ぁさん……!!」
膝で立って、倒れこむように抱きついて、
しがみついて
思ったよりも随分と細い、腹の辺りに顔を埋めて、
透はただ、声を上げて泣き続けた。
頭上に降る
懐かしい感触。
子供の時の――あの頃のように。
母は優しく 頭を撫でる。
透を見下ろすその瞳は――
氷のように、冷たい色を放っていた。
3
「けど、一緒に居たのがはーさんで本当、良かったよねぇ」
「…………」
「もしさっきみたいな狂った女性に抱きつかれようもんなら、手っ取り早く、その場で記憶を隠蔽しちゃえばいいんだからさぁ。……に、しても、本当に驚いたよ」
「…………」
「まさか、運転手が操られて助手席に座ってたこの僕に襲い掛かってくるなんてさ。しかも。相手は見目麗しい女性ときた」
「…………」
「けど、もし助手席に座ったのが僕じゃなくてはーさんだったら、今頃別の意味で危うくなってたところだけどねぇ? こんな状況下、はーさんが元に戻るのをのんびり待つ、なんて考えられないし〜」
「……おまえが自ら進んで助手席に乗り込んだのは、最初から運転手が女性である事に気づいていたからこそ、だろ……」
「あれ? バレてた?」
「……手伝いをしに来たのか? 邪魔しに来たのか? 前者だと言い張るつもりならさっさと手を動かせ、紫呉。
なんなら、今すぐ外に放り出してやったっていいんだぞ」
「うわおう。はーさん恐ぁ〜い」
草摩の広い敷地内の奥。
真っ暗な蔵の中で、男二人の声が響く。
湿気と埃臭さ。独特の重苦しい雰囲気が漂う静かな中とは対照的に、耳障りな喚き声や、耳を劈く騒音が、その外を囲っていた。
うめき声。
破壊だけを目的とした、力任せに壁を殴りつける、乱暴な音。
迎えの車に乗り込んだはとりと紫呉は、突然の運転手の変貌にしかし冷静に対処する。
彼女の気を失わせ後部座席に放りこむと同時に、はとりが運転を変わり、こうして危なげなく本家まで辿りついた。
が、変貌はもちろん運転手だけではすまなかった。
草摩の敷地内――外で暮らす人間のそのほとんどが、一斉に紫呉たちに向かってきたからたまらない。
隠れ隠れ進み、なんとか蔵の前まで辿りついた紫呉たちは、中に入るとすぐさま内側から鍵をかけた。
それでも。心を奪われたゾンビのような大群は、紫呉等の気配を追って次第に蔵の周りに集い始める――
――今、この瞬間も。
「しっかし……いくらなんでも、裏山の桜についての記載なんて草摩の蔵にあるんですかねぇ……?」
言いながら棚から資料を引っ張り出す紫呉。
外の喧騒などまるで気にも留めずに、顔をしかめつつ、舞い散る埃を手で払う。
同じく、黙々と資料に目を走らせていたはとりは、体勢を崩さずに一言紫呉に言い放った。
「わからん」
「はーさぁん〜……」
「が、聞いたことがある」
「へ?」
「桜の噂と平行して、別の噂があっただろう?」
「別の噂ねぇ……はて?」
「……(ため息)。『神隠しには、草摩の者が関わっている』」
「…本当なの? それ」
「嘘を言ってどうする。 おまえこそ本家で暮らしておいて今まで一度も耳にした事はないのか?
あの頃は春が来ると、聞きたくなくとも耳に入ってくる位使用人等が騒いでいた。むしろ逆におまえような、噂を知らないと言う存在自体が俺には信じられないんだが」
「僕、大して興味のない事はすぐに頭から消去するように出来ちゃってるからさぁ」
「つくづく幸せな奴だな……」
「あはは。褒めてないってそれ〜。
けど、信憑性あるの? それ。 単なる噂話なんでしょ?」
「火のない所に煙は立たない。逆も然り、だ」
「要するに。時間かけても調べてみる価値はあるって、そう言いたいの?」
「……もっとも、他に何の手がかりもないんじゃ、微かに漂う煙を追うより他に術はないだろ?」
「まぁね。……けど。外はこんな大騒ぎしてるのに、慊人さんが何も言ってこないのは不思議じゃない?」
「見た所、どうやら操られている者の中に『中の人間』や十二支はいないらしい。……慊人が表へ出る理由はどこにも無い。それに……」
「なんだい?」
「病気になるのが、慊人の特技だからな……」
「……まぁた寝込んでるのね……。しかし都合がいいというかなんと言いますか」
4
「アレが……そうなんだ……」
草摩の敷地の、丁度裏に位置する山の中腹に車を止めた一同。
外に降り立てば、刺す様に冷たい空気をすり抜け、やけに生暖かな風が頬を撫でる。
それぞれが仰ぐのは、月はおろか星一つさえ出ていない夜の闇に浮かび上がった、微かに見える赤の色。
「赤い……桜か……」
「ねぇー。確かしーちゃん、『一週間前に切り倒された』って言ってなかった?」
「ここまで非常識な事が巻き起こってんだ……切り倒されたはずの桜が復活してたからって今更もう不思議にも思わねぇよ」
魚谷が吐き捨てるように言うとその横で春も頷く。
「なんでもアリ……」
「おい……そういやぁなんか、ゾンビみてぇな奴等、いなくねぇか?」
夾が辺りを警戒しながら声を上げた。
「本拠地だから『人』なんか使わなくても十分だって言いたいんじゃないか?」
「もしくは……俺たちを逆に招待したいのか」
「あ? どういう事だよクソ由希……?」
「……さぁな。 なんとなく、そういう感じがしただけだ」
「『なんとなく』で知ったような面して物言ってんなよな……ったく」
「だからさっきも忠告してやっただろ。おまえもちょっとは頭使ってみろよ。幾ら馬鹿だからって限度があるだろ? その内蜘蛛の巣が張るぞ」
「〜ンだと? もういっぺんぬかしてみやがれこら……っ」
「――あなたたち……急いで頂戴」
凛とした声に振り返ると、助手席に座ったままの咲が、抱きかかえた透の額に流れる汗を、黒いハンカチで拭いている所だった。
「どんどん……体が冷たくなってきているの……このままだと、透君……」
その声に一同、開けっ放しの助手席のドアから透の顔を覗き込む。
汗をかき、眉間に深く皺を寄せ、
先ほどよりも荒い息を繰り返している。
いつもの赤みがかった頬がこけ、
柔らかく微笑む薄いピンク色の唇が、鮮やかさを失い青白く変化していた。
惜しむ事なく笑顔を降らす彼女が今ではもう、見る影も無い。
ほんの少し見ぬ間に、透の体は無残なまでに変わり果ててしまっていた。
「トール……」
名を呟くと紅葉は、そっと左手の甲で透に触れてみた。
その頬の、なんと冷たい事か。
初めて直面した恐怖に……言いようのない絶望に、思わず呆然と立ちすくむ。
その変化をずっと感じていながら取り乱さずに耐えていた咲に至っては、……もうボロボロだろう。
それなのに気丈に……普通に振舞えたのは、単に彼女の精神面が人並みはずれて強いが故。
『……わたしは……例えば透君が死んでしまったら私は…… ……同じように一年後 笑えるかしら……』
いつかの彼女の言葉を思い出し、魚谷はただただ、咲の肩を軽く叩いた。
「大丈夫だ。〜こんなことくらいで、こいつが負けるかよ」
「そうね……」
咲は弱々しい、だが精一杯の微笑みを返す。
「……透君は がんばったものね……」
「――行こう」
「あ ちょい待ち由希……」
行きかけた一同に、後ろから春が声をかける。
「割り振り決めとこう……」
「割り振り?」
「罠臭い……コレ……」
「コレって?」
「由希達が言ってた……『人』が居ない事。 俺も気になってた……
……闇雲に全員で突っかかっていっても、最悪状況が悪化すると思う」
「見かけより冴えてんなーおまえ」
魚谷が感心したように撥春を仰いだ。
「罠……か。それもそうだな……」
春に言われてふと考え込む由希。
薄々と、気づいてはいたのに。
そう言われるまで、考えもしなかった事。
考えられなかった事。
(焦ってる……んだろうな……。 俺……)
咲の上で眠る透を見つめ、由希はゆっくりと息を吐いた。
(冷静にならなくちゃ……もっと)
その必要がある。
――自分の出来る限りをもって。
彼女を救う。
「〜おら、モタモタしてんな 先行くからな!?」
聞こえてくる夾の罵声をあえて無視し、由希は周りの顔を見渡した。
「どうやら二手に分かれた方が良さそうだな……」
「どうすんだ? 王子」
一息つくと、由希はなるべくゆっくり話すように意識しながら声を上げた。
「あの桜の木には、俺と夾とで行ってくる。
春と紅葉はここで魚谷さん達を守っててくれないか? もしかしたらまた、奴等が襲ってくるとも限らないし」
「了解……」
「ja! わかったの、ユキ」
『〜って、ちょっと待てよ!』
と、そこで由希の予想通り、二つの声が全く同時に上がる。
「なんでてめぇがついてくんだよ!? 二手に別れるつもりなら、あのガキの方は俺一人で十分だ!」
「あたしも行くぜ!? あのガキんちょに一発かましてやらねぇと気がすまないのは、おまえらだけじゃない!」
「だから、最初っから言ってるだろ。 おまえに行かせたら話も出来ないだろ…」
「ここまでかまされて 話し合う必要なんざあるか!」
「おまえの言う通り話が通じなかったら、……少しでも、人手が多い方がいいだろ?」
深いため息をつくと後の反論には取りつがず、今度は魚谷の方を向き直った。
「……魚谷さん達が、本田さんを大事に思ってるのは十分にわかってるつもりだよ。ここに居る誰よりも助けたいと思っている事も。
――だけど、ここは俺達に任せて欲しいんだ」
「…………」
「ひょっとしたら、アイツの言うように話し合っても解決出来ないのかもしれない。
それに……
本田さんが目を覚ました時に、もし、魚谷さん達に何かあったら……悲しむと思うんだ。だから……」
「だから?」
「ここに残って、本田さんの事、呼び続けて欲しい」
「…………」
しばらく沈黙が辺りを支配する。
さすがの夾も、黙って二人の様子を窺っていた。
刺すような視線を由希に投げかけていた魚谷は、由希の真摯な視線を受け止めてフッと笑みをこぼした。
「……素直に足手まといだっつってもよかったんだぜ? 王子」
「〜え? い、いや、そんなつもりは全然……!」
慌てた由希の様子に苦笑する魚谷。
「……わぁったよ。おまえらに任せた」
「…………」
「魚谷さん……ありがとう」
「おまえら、しっかりやれよ。 さっきみたく負けたら容赦しねぇからな!?」
「……うん。約束する」
「てめぇに言われるまでもねぇよ」
「二人とも、頑張ってなの!」
「頼んだわね……」
相槌を打ちながら由希は、もう一度春を見る。
「万が一、……日の出前に俺達がもし戻ってこなかったら……
……その時は、春。任せたからな……」
春が頷くのをしっかり見届けてから。
由希と夾は桜へと続く闇の道に向き直った。
「夾……、……由希」
「ンだよ? 春」
「?」
振り返ると闇の中、春が神妙な顔をして二人を見ていた。
「気をつけて……」
5
「本当……なのですか? お母さん……」
瞳を見開いて、母、今日子の笑顔を見上げる透。
「本当にこれからはお母さんと一緒に居られる……ですか……?」
「……あぁ」
背に、優しく回された母の両腕が、もう一度強く透を抱きしめる。
「……もうずっと一緒。 離れないよ」
倖せに満たされて
喜びで、胸が詰る。
「お母さん……っ」
透は再び、母の温もりを確かめる。
「色々と苦労かけちまったね……でも、これからは」
胸に顔を埋めた透の頭を、今日子の温かい手が優しく撫でる。
「透はもう、何も心配しなくていいんだよ」
嬉しくて、嬉しくて。
信じられない程。
怖い位に 嬉し過ぎて。
いっぱいで。
もう何もいらない。
欲しくない。
何も、考えたくない。
――考えられない。
「……」
と。
唐突に。
透の乳白色に包まれた頭の中を、微かに。
だが、確かに。
自分を呼ぶ、たくさんの声が、響いた。
「……っ」
それは、とても、
聞き取れない程、とても小さな声だったが。
水面に広がる波紋の様に。
透の中を、伝う。
静かな、衝撃。
「――そうでした! お母さんに是非お会いしてほしい方々がいらっしゃるのですよ……っ」
透の声に、今日子の身体は一瞬硬直する。
(ナンデ……)
ぱっと顔を上げた透の笑顔に、しかし今日子は無表情だった。
(ナンデ……コイツ……忘レナイ?)
「おかあ……さん……?」
不審に思い、透がその頬へ片手を伸ばす。
伸ばされた手。
届く前に、今日子は右手でその小さな手を取った。
力を入れて、ぎゅっと握り返す。
痛みが走り、透が一瞬顔を顰めた。
それでも今日子は止めはしない。
「……っ おかあさん……?」
自分を見下ろす無の瞳に戸惑い、見上げる事しか出来ない透。
「……どうした、ですか……?」
爪を立てて、小さな手を握り締めたまましばらくして、
今日子はようやく口を開いた。
「忘れなさい」
「え……」
「その人たちの事は全て忘れなさい」
「〜そんな……、どうし、て……?」
静かに。左腕を伸ばし、
今日子は、透を抱く。
「……透が、お母さんと一緒に居ることを望むのであれば、その代償に捨てなきゃならないモノもあるんだよ」
「……すて、る……」
「ああ…… ずっとお母さんと一緒に居たいのなら、透は思い出を全て捨てる必要があるんだ」
「おもいでを……」
「捨てれば、もうずっとお母さんと一緒に居られるんだよ」
「…………」
「何もかも捨てて、お母さんと一緒に来るかい? 透……」
「…………」
「……わたしも、透と一緒に居たいんだ」
「……おかあさん」
「――独りは……もう」
「…………っ」
いつの間にか――
片手に響いていた痛みは消え、
自分の手を包んでいるはずの、大きなその手は。
「…………」
自分に縋っているかのような、印象を受けた。
救いを
求めるかのように
「……泣いてる、ですか……?」
「…………っ」
「恐い……ですか?」
あなたは……
――瞬間。
「……あぅっ」
今日子は、透の細い首に両手を回し、締め上げる。
「〜かってたまるか……っ」
声に瞳を開け、捕らえた今日子の姿に、
「〜お、かぁ……っ」
――ダブって見える、まだ幼い子供の影。
「…………っ!」
現実という、奈落の底に、
まっ逆さまに落ちてゆく、そんな絶望が透を襲った。
引き戻される。 ……その落差に、
思わず眩む。
『おまえなんかに……わかってたまるか……っ』
「……かりません……っ」
『……っ』
「〜わかりません……っ!」
強い口調で、
全身全霊で、透が叫ぶ。
現実を、
一瞬でも、底だと感じてしまった。
弱い自分を、
責めるかのように。
青い表情の『今日子』は、声にビクッと体を震わせ、両の手の力を緩めた。
地に手をつき、咳き込む透を、『今日子』は呆然と見下ろしている。
……やがて、
透の脳裏に甦る。
――ほっとけ……っ
吐き捨てるように呟いた、いつかの夾の背中――
「〜おっしゃってくださらないと……っ」
――……大丈夫
あの日の由希の、感情を押し殺してまで自分に向けた笑顔――
「……お一人で……抱え込んだままでは……っ」
そして――
――会いにいきたい
もう
会えない
あの、泣き顔――
――笑顔
「〜わからないです……っ」
滲んだ視界にある両手に力を込め、地の土を握り締める。
どうすればいいのか――
どうしたら、
何を、すれば……、
あなたは
笑って、くれますか……?
「トオ……」
「……ぁ駄目です……っ」
『今日子』の声を遮って、
「思い出は……、それが、どんなに痛くても……」
一言、一言、
自分に言い聞かせるように、
透は蹲って泣いた。
「捨ててしまっては……〜駄目なんです……っ」
――だって、
それは、証であるから。
6
延々と続くかのような、幻想的な風景――
――が、数ヶ月前なら広がっていたのであろう。
花も葉もつけぬ、裸の桜の木々が並ぶ道を、二人――いや、二匹は全速力で走っていた。
その後ろから、信じられない程早いスピードで追いかけてくる人でないモノの群れ。
「〜誰だ!! ゾンビ共がいないなんてぬかしやがったのは!?」
いつの間に変身したのか、自身にもわかっていないだろう。
大群に何度も捕まりそうになりながら、二人……もとい二匹は懸命に目的の場所を目指していた。
まぁ、変身した結果、足が速くなり捕まりにくくなったのは怪我の巧妙か。
「今はそんな事言ってる場合じゃないだろ」
「うっせ!! 偉そうな口叩く余裕あんなら今すぐ降りててめぇで走りやがれ! 人の頭に許可無く乗っかりやがって……っ」
「仕方ないだろ。この体格じゃスピードが出ない」
「開き直るな!!」
「夾……! 前向け。見えてきた」
由希の声に敏感に反応し、前方を睨む夾。
「って、なんだあの異様に薄い赤桜は……?」
「後ろの景色が透けてるな……」
近づくにつれ、その半透明の赤桜は太い切り株の上に成り立っている、という事が解る。
「……あれが、紫呉の言っていた切り株か」
言って、由希はその切り株の横に、小さな木が生えているのに気づいた。
「おい夾……あれ……」
「おい! あの偽桜に飛び込むぞ!?」
「……なんだって?」
「ここで止まってもアイツラに捕まるだけだろうがっ 他に何も無いんならそうするしかねぇだろ!?」
「だからって、自ら懐に飛び込まなくてもいいだろ?! 春も言ってたように、コレは明らかに罠……っ」
「虎穴に入らずば虎児を得ず! ……どっちにしろ選択の余地なんざねぇだろがっ」
「単純馬鹿……」
「馬鹿って言うなっ! ンじゃ行くぞ!!!」
叫んで、夾は飛び上がる。
その幻影の桜に向かって。
体が、その鮮やかな赤に触れた瞬間、
二人の視界は暗転した。
7
「〜とと……っ」
真っ暗な空間に放り出されるも、なんとか体勢を整え着地する由希。
と、その違和感に首を傾げた。
「……元に戻ってる……?」
自分の両手両足、何も着けていない体を凝視する由希。
どう考えたって、変身が解けるには早過ぎる時間だ。
そこまで考えて、ふと思考を中断する。
夾の姿が見えない。
「おい……夾?!」
最初は暗闇の中に倒れてるのではないかと、地に向かって声を上げる。
否、違う。
気配すらない。
「……どこだここは……」
何も聞こえない。
自分と闇以外の何も無い。
自分自身の存在さえも……感覚でさえ段々と霞んでしまうかのような。
無の空間。
「――き……」
俯いていた顔を上げる。
いつの間にか。
自分の前方に、淡い光が在った。
闇に慣れた由希の目に、ソレは眩し過ぎて、すぐには認識出来ない。
「……由希……」
瞳を凝らして、ソレを見た。
白い足先がこちらに近寄ってくる。
長い髪がさらりと揺れた。
「ほんだ……さん……?」
瞬間、
ソレは一気に由希に近づいてきた。
「由希」
その姿に、その顔に。
由希は思わず目を見開く。
「かあ……さん……?」
気づけば、由希の身体はいつの間にか小さくなって、手足が縮んでしまっていた。
小さい頃よく着ていた、見に覚えのある服を纏っている。
「慊人さんの所へは、もう行かなくてもいいわよ」
母親が、
「あそこが嫌なんでしょう?」
自分に向かってゆっくりと、両手を広げる。
「好きなだけ、わたしの近くにいればいいわ」
「母さん……」
大きな、
温かくて、柔らかな母の体が、
「コレを、望んでいるんでしょう?」
小さな由希を包み込んだ。
8
「〜母、さん……」
子供の姿の夾は、暗闇の中、母親と向き直っていた。
「夾……」
これは一体、
「……っ」
なんの冗談か
「もう、何も心配しなくてもいいのよ……」
酷く頭がボヤけて、
思考すら霞んでしまってままならない。
「……」
疑問も、込み上げてくる吐き気ですらも、真白にかき消されてしまう。
「わたしは……」
抵抗のために要する負の感情は、何一つさえ抱くことを許されずに、
視界に押し付けられる映像をそのままに、全てを
「わたしは……ずっと傍にいるわ」
受け入れてしまう。
奥底に眠っていた、子供の頃の小さな自分を鷲掴まれて、
無理やり体から――外郭から裸のまま、引きずり出されたような感覚を覚える。
自分の、最も弱いところを晒され、
撫でられる。
その、異様な心地よさ。
「……」
弱さを守るための、意地もプライドもまだ持たなかった、
……あの頃と
「一緒に生きましょう……夾」
子供の頃と、同じように。
「あなたが……それを望んでいるんですもの」
ゆっくりと、
自分に向かって差し伸べられる白い手を。
……あの頃、
心底から求めた、その大きな――暖かな存在を。
「〜るせぇ!!」
夾は振り払った。
その場に倒れる彼女の姿を夾は瞳を見開いたまま、荒い息遣いで見下ろしている。
「夾……っ どうして……、」
「こんなもの……俺は!!」
欲しかったのは――
「〜いらなぃ……っ」
声にならない声を搾り出し、
由希は、母親を振り払った自身の震える手を見つめていた。
確かめるように、
固く、握る。
「俺は………もう」
あの頃、ずっと欲しがっていたものは――
「いらないよ……俺は、もう……っ」
――存在しないモノ。
「あの頃の、ままじゃないんだ……っ!」
……それは、
どんなに縋っても望んでも、手には入らなかったもの。
もう二度と
この手に入らないもの。
本当は もうずっと前から知っていた。
判ってた。
解っていた、はずなのに……
……あの頃の自分が、馬鹿みたいに。
一体何を望んでいたのか――
蓋をしたまま、やがて霞んでしまった小さな『想い』を、ゆっくりと
思い出させてくれた、人が居る。
そこにはただ、絶望だけが残っていて。
願いは、祈る程に痛くて、
痛くて。いつしか、蹲ってしまっていた。
……あの時秘めた、叫び。
かき消してきたモノ。
見えなくなってしまった光を。
小さな声を、
……もう一度。
救い上げて
ただ、微笑んでくれた。
いつだって、聞いてくれた。
傍に
居てくれた――
古い傷跡にさえ沁みてくる
そんな優しさの欠片と共に、
「貴女」の代わりに、もう一度……俺に降らしてくれた人がいるから。
『そう……もう、いいの…… ……残念』
『折角、痛い想いをせずにすんだというのに……』
二人の母親が、二人の目の前で突然光った。
「〜……っ」
「なに、を……っ」
たまらず両腕を顔前に上げ、光を遮ろうとする二人。
固く目を閉じても飛び込んでくる光が、やがて徐々に効力を失うのを感じて、
二人は恐る恐る目を開けた。
「由希……っ?! おまえいつからここに……っ」
「夾……?! ……母さんは……?!」
今まで母親が居た所に立っていた互いの姿に驚き、目を見張る二人。
「元に戻ってら……」
両手を見、振りながら夾が不思議そうに呟いた。
すでに二人は子供の姿では無く、ここに来た時の姿に戻っていた。
「本当だ……」
「……」
「母親が……居たのか……?」
夾の問いに由希はコクリと頷く。
「……幻影、だったのかも、しれない……」
「……幻影だ?」
『ご名答』
闇の奥から、よく通る甲高い声が響いた。
聞き覚えのある、子供の声。
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