妖しき雷雲 (7)
ハァ…、ハァ…。
控えの間まで走って来ると、取り敢えず呼吸を整えることに集中した。
壁に手を添え、片方の手は胸元に、とにかく酸素を肺に送り込む。
やがて落ち着いてくると、今度は、パニックになっていた頭の方を冷静になって整頓しようとする。
「------…」
だけど、頭の中が真っ白のままで、何も思い浮かばない。
胸元にあった右手が無意識に移動し、テマリはいつの間にか自分の唇に触れていた。
-----あいつと…キスだって!?
相談したいことがあった。
今までは、婚約者がそばにいたために、なかなか彼に話しかけることができないでいた。
それなのに、やっと話ができるチャンスを掴んだと言うのに、彼は思いもしない行動に出た。
おかげで、肝心なことを話せなかったし相談もできなかった。
それより、彼がキスをしてきたことの方が今は問題だった。
あの時、テマリの思考回路が吹き飛んだ。
確かに名異斗はキスがうまい。
上品さも兼ね備えた大人のキスなのだから、テマリといえど、
全身の力が抜けてしまうのは仕方がなかった。
しかし、シカマルには名異斗にはない衝撃を感じた。
それが何なのかはわからないが、その衝撃の強さにテマリ自身が驚き、
思わず悲鳴を上げてしまっていた。
少年はきっと傷ついたに違いない。
時間はあと少ししかないというのに、もしかしたらもう二度とここへは、
シカマルには会えないかもしれないというのに。
それなのにあいつは------
「なん…で…? あり得ない!!」
「何があり得ないんだ?」
背後を振り返ると、いつからいたのだろう、
婚約者の彼が椅子に腰掛けて自分を見ていた。
「名異斗!? 先に帰ってろと言っただろう…?」
組んでいた足をほどいてその場に立ち上がると、彼がゆっくり向かってくる。
「愛しい未来の妻を、誰が置いて帰ったりするものか。
第一、お前の様な美しい女、どんな危険が待ち受けているかもわからない。
…例えばあの少年だって、お前にとっては危険な存在だ」
「み、見てたのか!?」
「…いや。だが、大体の察しはつくだろう? そんなに息を切らすほど走って来て、
唇に手を置き何かを思いつめている様子を見れば」
そっと名異斗に抱き寄せられ、唇が近づく。
もう何度こういうことをしてきただろうか。
でも今は、それを受け入れたくない。そんな気分にはとてもなれない。
彼の目の前に手をかざすと、テマリは彼の唇を制した。
名異斗の澄んだ青い瞳がかげる。
「テマリ、もう砂へ帰ろう。本当は、仕事はとうにないはずだろう。
それなのにお前がここに執着するわけは----あの少年か?」
「そ、そんなわけあるかっ! 本当にまだ仕事が残っているんだ。
これは私にだけ頼まれたことなんだ。だから、お前は本当に先に帰っててもいいんだ。
それにこの扇子があれば、どんな輩でもあっという間に倒せる。
私を見誤るな!」
気高い彼女を目前にすると、さすが風影の血を引くなと舌を巻く。
気が強くなくては、風影の血縁者など務まらない。
それだけでなく、誇り高い彼女は、年々美しく成長してきた。
『緑の宝玉』とうたわれたその瞳の中に宿る光は、相変わらず鋭利な刃物のように強く鋭いが、
時に女らしい仕草も垣間見せたりはするが、
忍としてのプライドは、並みの男以上に強まっているかのようだった。
「…わかった。そこまで言うなら、本当に先に帰るよ。あんまり長居をして迷惑かけるなよ」
「わかってる。長くても、あと二日か三日だ」
「意外に長いな。取り敢えず、僕は向こうへ着いたら報告書を提出し、
その後、二人の新居を探してみるよ」
「し、新居!? ま、まだ早いだろう!?
それに私はまだ、婚約したと言っても結婚するかどうかは……」
「夜はちゃんと寝るんだぞ。肌が荒れていては、せっかくの美人が台無しだ。
滑らかなお前の肌の方が好きだからな」
「バカ!」
赤面するテマリを見ながら荷物を背負うと、
「それじゃ」と言って、名異斗はテマリの前から姿を消した。
彼が消えるや否やテマリは急にうつむき、床を見下ろした。
独りになると浮かんでくるのは、
あいつの顔、あいつの声、あいつの吐息、あいつの、唇…。
漆黒の熱い視線を感じている時、力強いあの腕に抱きしめられた時、
あの時のことを思い出すと、どうしてか心が震える。
魂が何かを叫んでいる。
自分は嫌だったはずだ。
あの時、自分より年下の、弟と同じ年の彼に抱きしめられて。
でもそれが本当に嫌だったのかは、自分でさえわからない。
それでも心が、魂が、体が震える。
終いには、全身が震えだす。
------私はあいつを、求めているのか…?
だが彼には、いのという彼女がいたではないか。
彼自身は否定していたが、それは多分照れから来るものだろう。
この間も、あの甘味処に一緒に来ていたではないか。
何だかんだ言って、きっと好き合っているのだろう。
そんな二人の間に入る隙間など、自分には用意されてはいない。
自分は里も違う部外者だ。
そんな自分が、二人の恋路を邪魔する権利も当然、ない…。
火影室のドアを誰かが叩く音がする。
カカシが「どうぞ」と言って呼びかけると、
髪を後ろで一本に束ねたテマリが入ってきた。
仕事中の一同が、ギョッとする。
テマリは書類を手に、まっすぐカカシの机の前まで来ると、確認印を求めた。
「いいだろう、オーケーだ。…ところで君、他の上忍たちはすっかり帰ったと言うのに、
まだ残っていたのか?」
「はい、ちょっとてこずっているものがありまして…。もう二〜三日いさせて下さい」
「それは構わないが、何ならうちの誰かを手伝わせようか?」
そう言って、チラッとシカマルの方を見るが、
彼は黙々と机上で何かを書いている。
「いえ、心配には及びません。一人でできますから」
テマリは会釈すると、姿勢を真っ直ぐにして去って行く。
だが、テマリがシカマルのそばを通り過ぎていく際、一瞬、お互いを横目で見る。
しかし、その両者の目が重なり合うことはなかった。
「二人とも、見て見ぬふりだったな」
「だな。…はっは〜ん、さてはお前たち、何かあったな?」
「ウオッホン!」
カカシがわざとらしく咳をしたので、息もぴったりなコテツ・イズモコンビは、
そそくさと仕事に再び取り掛かった。
*
-------汗ばむ肌と、息も絶え絶えになる呼吸。
絡まり、もつれ合い、時に噛み付く。
獣のように激しく何度も突き上げる。
快楽の衝動が何度も押し寄せ、二人は共にはじけ飛ぶ。
女は、咲き乱れる花のように髪を振り乱し、嗚咽に似た嬌声を高らかに解き放つ。
男も、かぐわしきその蜜をむさぼるように、その花を乱らに蹂躙する。
「テマリ--------」
虚ろな二人の瞳が、光を放って重なり合う。
一つに溶け合い、摩擦の火花を散らす。
「テマリ--------…」
やがて、稲妻のような閃光が二人の体を駆け抜け、そのまま闇の果てに消えていった…。
テマリは、名を呼ばれた気がしてふと顔を上げる。
しかしここは、自分が滞在中に使用している宿。
名異斗が帰った今、この部屋には自分以外、誰もいない。
「気のせいか…?」
それにしても、赤面してしまいそうなほど随分熱っぽく、
甘くささやかれた様な…切なげな声だった。
それも何度も何度も。
「誰かいるのか?」
不審に思い、声に出して誰何してみる。
「やっぱり気のせいか…」
だけど、それにしては、余りにもはっきりと聞こえた気がした。
しかも、知っている声によく似ていた気もする。
それは名異斗ではない、他の-----
「…全く、どうかしてるな。あいつから名前で呼ばれたことは、ほとんど皆無ではないか」
そして、あいつもきっと、どうかしていたんだ…。
そうテマリは結論づけると、フゥーッ…と、ため息をついた。
翌日----
火影室にまた女が入ってきて、カカシの前まで歩み寄った。
一同はその女を見ると、一瞬、テマリがまた来たと思った。
「!?」
シカマルが目を大きく見開く。
「あら、綺麗な子。ところで君は、誰…?」
カカシが首を傾げて問いかける。
テマリとそっくりな容姿をしていたが、長い髪は漆黒の闇の如く、
忍服もテマリの物とは異なっていた。
それに全身から発するオーラも、彼女とは違っていた。
「雲隠れの里の忍で、マリヤと申します。
実は今日は、お話しなければならないことがありまして…」
マリヤは艶っぽく微笑むと、シカマルの方を振り返ったが、
シカマルはわけがわからず呆気にとられている。そして、彼の方に人差し指を突き出すと…、
「実は私、この人に乱暴されました。今すぐこの人を解雇してください!」
そう言って、ワーッと泣き伏した。
「なっ…!!」
余りの衝撃的な告白に、シカマルは言葉が出なかった。
「何だって!? どういうことだシカマル!?」
「いくら相手にされないからって、彼女に似た子に手を出すとは、
男の風上にも置けん奴だ!!」
「シカマル、どういうことか説明なさい。身に覚えはあるんでしょ?
ちゃんと責任は取りなさいね」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って下さいよ! 一体何のことだかさっぱり…。
おい、お前! 根も葉もない嘘をわざわざ言いに来るたぁ、どういうことだ!?
オレに何か恨みでもあんのかぁ?」
濡れ衣を着せられては、シカマルも黙ってはいない。
しかし女は、うっすら口元を歪ませると、
「あら、嘘じゃないわよ。昨夜のあなた、まるで獣のようだったじゃない。
それに、何度も私のこと“テマリ”って呼んでたわよ。
私とその人を勘違いしていたの?」
「!?」
シカマルの顔が青ざめる。
突如、夢の光景が甦る。
確かに自分はそんな夢を見ていた気がする。
しかし、あれは夢ではなかったのか?
夢の中では、確かにテマリを抱いていたと思っていた。
夢の中では、無我夢中で気づかなかったが、よく考えてみれば、
瞳の色は同じ翡翠でも、髪の色は金ではなく黒だったかもしれない。
「----どうやら事実のようだねシカマル。これは重大な問題だ。
取り敢えず君には、謹慎処分を取らせてもらうよ。いいね」
「おい、シカマル本当なのか? 何とか言えよ」
例え夢のようであっても、彼女が現にこうして告訴しに来ているのだから、
今更身に覚えがないとは言えない。
女に責任をなすりつけたまま、ということも男としてあってはならないこと。
特に彼は、それを自分に許したりはしない。
男である以上、それは許せなかったのだ。
「承知致しました-------」
To Be Continued …
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「あをによし 奈良シカマルは 咲く花の
にほふがごとく 今盛りなり」
忘れた頃にやって来た、謎の女・マリヤ。
自称、雷の国・雲隠れの里の忍らしいから、
【妖しき雷雲】という安直なタイトル。
でも、文中の「稲妻のような閃光」は、これに掛けております。
もうこれは、『シカいじめの会』でも発足させるべきだ。
その後、鹿せんべいで餌付けもしてみたい…(え?)
第二部も、あと数回かな…?
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