9.別れ話
――『別れたいの』
高専時代から4年間。
長くつき合った彼女からそう告げられたのは、1ヶ月前のことだ。
就職して3年。
地道に働き今年主任に昇格した啓二は、将来的に彼女との結婚を考えていただけに、その台詞を耳にした時は何も言葉が出てこなかった。
何も言わない、反応できない啓二は、彼女にとって好都合だったのか。あっという間に沈黙は承諾の意と解され、別れ話は終わった。
4年間もつき合いながら、別れ話はほんの数分間で終わる。
人と人との縁なんて、儚いものだ。――と啓二は、元カノからのプレゼントである携帯ストラップを見て苦笑いした。
捨てられなかったわけではないが、何となく付けたままでいたストラップを啓二は外しにかかった。そしてそのまま、デスク下のゴミ箱へと放り投げた。
これできれいさっぱり。形として残ったものは、なにもない。
定時である6時半はとっくに過ぎ、残業を良しとしない社風のせいかセンター内には遅出の職員が3名いるばかりだ。
啓二は職員たちと軽く挨拶を交わし、所属する伊方原発出張所三号機運転制御室危機管理センターから、廃棄物減容処理建屋や環境分析室を越え、所長室へと向かった。
それはここ一月の間、じっくりと考えて下した決断を上司に告げるためだ。
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「――本当にいいのか? 岡田。行けば最低2年は戻れないが……」
所長代理である高木はそう言葉尻を濁し、一旦書類に目を落とすと、また啓二に向き直った。
「治安だって決して良くはないんだぞ。3年前より多少マシにはなったとは言え、現地の反日感情は想像以上のものがある」
「ハイ」
地球温暖化の影響に伴い、その防止を目的とした最新鋭の大型・高効率プラントの需要が世界中で高まる中、社はその建設ニーズに乗り遅れまいと、海外進出のプロジェクトを推し進めていた。
更に押し寄せた石油価格高騰の波がその後押しをする結果にもなり、社はアメリカの大手金融商社と提携を組むことによって本格的な世界進出に乗り出したのだ。
つまりは時代の波に乗って、日本のモノ作り技術で世界を席巻しよう――というところだろうか。
何しろ加圧水型と沸騰水型、主にこの二種類に分類される原子炉のうち、世界的に需要の多い加圧水型原子炉の建設はアジアでは啓二の勤めるXX重工にしか造営できないのだ。
世界的にみても同レベルの技術を持つのはアメリカのA社のみ。
この降ってわいたような原子炉建設の需要が、社運を賭けた最重要プロジェクトへと持ち上がるのも無理からぬ話だった。
「とにかく、もっとよく考えろ。親御さんとも相談した方がいい。お前だって覚えているだろう? 3年前の暴動を」
高木は書類を机に置き、手にしていた万年筆を胸ポケットに挿した。
その様子はこちらの申し出を撥ねつけているようにも見えて。
啓二はもう一度自分の意思を伝えようと口を開いた。
「もちろん、覚えています。ですが、センターから誰かひとり派遣しなければならないのであれば、わたしは喜んで行けますよ」
上海に建造中の原子力プラントへ、危機管理センターから一名派遣せよ――との通達が本社から届いたのは1週間前のことだ。
その件について、高木が頭を悩ませていることを啓二はよく知っていた。
なにしろ、中国だ。
3年前の反日デモでは、社の上海支社が数万人の暴徒に囲まれ未曾有の被害を被った。
それに中国と韓国は特殊だ。
彼らの日本人に対する対抗意識は、何も戦前のことばかりが原因ではない。
中華思想がその根底にある偏狭なナショナリズムという側面も、少なからずあるのだ。
いまは幾分か落ち着いて見える反日感情も、政治的な状況次第ではいつ急変するかわからない。
そんな事情もあって上海行きを敬遠する職員は多く、希望者を募った高木の提案に我こそはと名乗り出る者はひとりも居なかった。
そして啓二はいま、誰もが目をそむける上海行きの椅子に名乗りを上げたのだが。
高木は窓の外に視線を移し、タバコに火を点けようとしている。
窓ガラスに映った口元は笑いを含んでいて。啓二はムッと頬を強張らせた。
「なあ、岡田」
高木は啓二が入社した当事の直属の上司で、仕事のほとんどを教わった先輩でもあった。
おまけに、啓二とは同郷の生まれだ。
そんな縁もあってか、高木は昇進したあとも以前と変わらない口調のままだ。
プライベートでも時折啓二を呼びつけ、軽口をたたくことがあった。
「お前、彼女に捨てられてヤケになってるんだって? 計算機室の女の子達が噂話をしていたぞ」
そう言って高木は、さも面白そうに笑い声をあげる。
啓二は大きなため息をつき、「参ったな」と首の後ろを掻いた。
「また余計な情報を仕入れたもんですね。まあ、当たらずとも遠からず、ですが」
「何でも、お前を励ますための合コンまでしたんだとか? いい娘はいたか?」
「もういいですよ、その話は。何も居やしませんって!」
啓二は笑いながら話を遮り、
「とにかく、上海行きは自分が引き受けます」
と付け加えた。
しかし。
「そうか? 噂では岡田が女の子を持ち帰ったと聞いたが」
高木はまだその話を引っ張るつもりなのか、それとも上海の件から話を逸らしたいのか、しきりに噂話を持ち出しては可笑しそうに笑っている。
まったく、お喋りな奴がいたもんだ。何が合コンだよ――と、啓二は苦虫をかみつぶした。
名目上は『啓二の失恋を慰める』という企画だったが、当の本人にはその気が無くて。
結局のところは合コン好きの新垣に、口実として使われたに過ぎないのだ。
それに――と、啓二は合コンの一場面を思い出した。
揃えられたメンバーは社の関係者がほとんどで、知らない顔といえばふたりだけだ。
しかも、外野からは持ち帰ったように見えるのかもしれないが、実際にはその後連絡を取り合えるような繋がりも持っていない。
「残念ながら本当に、何も収穫なんてありませんでしたよ」
いい加減合コンの話はうんざりだ。と、啓二は不貞腐れ、顔をそむけた。
けれど。
「だから、日本には未練ないんです――ってことか?」
やたら落ち着き払った高木の声が、耳を掠めて。
振り返った途端、何もかも見透かすような高木の目にぶち当たった。
高木は組んだ両手の上に顎を置き、啓二を覗き込んでいる。
「とにかく、お前はまだ経験も浅い。あの件は、5年以上のキャリアを積んだ職員の中から――という補足が付いているしな。こっちで考えるさ」
「希望者優先では!? 誰だって行きたがりはしないでしょう」
思わず気色ばんだ啓二に、高木は手の動きをあわせて「落ち着け」と言い、まだ長さの残っているタバコをもみ消した。
「まあ、もう少し待つさ。こちらとしては、出来ればお前を残したいんだ。派遣の女の子達も悲しむしな? あっはっは、まあ退がれ」
高木はこれで話は終わりだ、とでも言うみたいに、他の建屋へと無線を繋いでいる。その目はデスク上の書類に向けられ、もうこちらを振り返りそうにはなかった。
啓二は釈然としない、理不尽な思いを噛み締めたまま、
「失礼します」
と、所長室をあとにするしかなかった。
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佐田岬の端に位置するここ――伊方原子力発電所は、四国の一番西。地図上にひょろっと細長く伸びたところだ。
原子力発電所が構えられる地の例に漏れず、ひどい僻地で、辺りには民家も商店もほとんどない。それはもちろん、地域住民が放射能汚染を恐れるのが一番の原因だが。
そういった様々な要因も手伝って、職員の多くはマイカー通勤をしている。
啓二もその内のひとりで、隣の八幡浜市から毎日数十分かけて通っているのだが、いつもは鼻歌まじりに車を走らせる国道も、今日はむしゃくしゃした気分が晴れなかった。
真剣に考えて下した決断を合コンの話にかき回され、無かったことにされたのが啓二としては納得いかないのだ。
確かに、日本に未練がないというのはその通りだった。
その理由のひとつに、元カノの件があるのも否定出来ない。
けれどそれ以前に、この国には啓二を引き止めるべき理由が何も残っていないのだ。
啓二は少年時代に父親を事故で失ってからは、母親とふたりきりの母子家庭だった。
そんな母親も啓二が中学生の時に再婚をして、いまでは別の温かい家庭を築き上げている。
兄弟もいなければ、親戚らしい親戚もおらず。高専進学から家を出て寮暮らしを続けていた啓二には、母親でさえもすでに遠い存在だったのだ。
その上4年間つき合った彼女にも振られ。
啓二はたまに、自身の孤独さに笑いが漏れそうになることさえある。
――『啓二、ごめんなさいね。親が原発勤務の人は止めた方がいいと言うの』
不意に、元カノから一方的に告げられた別れ話を思い出し、啓二は顔をしかめた。
――『放射能を浴びすぎていると、奇形児が生まれる可能性だって数倍に跳ね上がるそうよ? 癌にだってかかりやすいし』
元カノが別れ話を切り出した一番の理由は、啓二の仕事に対する不満だった。
彼女は所謂、いい所のお嬢さんというやつだ。
3年前、いまの会社に就職を決めた時から啓二の職種を毛嫌いしていた。
原子力発電所に勤務するということ。
それは当然、普通の人の数万倍もの放射能を浴びるということに通じる。
――『啓二のことは好きだけど、啓二の仕事はちょっと、ね。結婚するには危険すぎるとわたしも思うの』
いくら職種を嫌われようと、一度は結婚まで考えた相手だ。
ひどいことを言われたのは確かなのだが、啓二はいまも僅かに残る未練を引きずっていた。
「上海、行きたかったんだけどなあ」
啓二は次々と浮かんでくる元カノの声を振り払うようにアクセルを踏み、独り言にしては大きな声で呟いた。
車は伊方町を抜け、八幡浜市へと入っていた。
市街へと進むにつれ、開け放った窓から流れ込む風に強い潮の匂いが混ざりはじめる。
この辺の国道は田舎町なこともあって、滅多に渋滞などお目にかからない。
それがどうしたわけか、今夜はやたらと流れが悪くて。啓二はイライラと車線の前を覗き見た。
どうやら本格的に渋滞しているのか、奥に見えるカーブの先まで赤いテールランプが連なっている。
「はあ、うぜえなあ。事故かよ」
啓二はそうぼやくとシートに深く背を沈め、首の裏で両手を組んだ。
そしてぼんやりと、フロントガラス越しに見える夜空を見上げていたのだが。
突如、耳をつんざく轟音が闇を裂いて。
「――おー! なんだ、花火大会か」
フロントガラスいっぱいに大きく咲いた十号玉が、さっきまでモヤモヤしていた胸の内を、すっきりと洗い流したようだ。
最初の一発が打ち上げられると、その後は立て続けに彩られ、暗闇に閉ざされていた世界は急に明るいものとなった。
啓二はシートから身を起こし、ハンドルを切ってわき道へと車を進めた。
お祭りごとは子供の頃から大好きなのだ。
どこか停められそうな場所を探して、この夏の風物詩を存分に体感したい。
――そう、思っていた。
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