35.シーサイドXX
そこは『シーサイドXX』という、ありがちな名前のラブホテルだった。
枯れかけた椰子の木が等間隔で植わり、風にはためく垂れ幕には『休憩3800円 宿泊5900円から』と書かれている。
宿泊の予約を取っていなかったふたりは、空いているホテルを探して右往左往するハメになった。
けれど、お盆のシーズン中に都合よく空いているホテルなどあるはずもなくて。
結局、いくつかあるラブホテルの中から、このホテルを選んだというわけだ。
「ゴメン! オレ最初はひとりで来るつもりだったからー」
そう申し訳なさそうに手を合わせる啓二は、なんだか可愛くて。
今日子は怒る気も失せて、ぷっと吹き出してしまった。
初めて入るラブホテルは、ガランと静まり返っていた。
フロントらしい場所は無人で、カラオケの部屋を選ぶのと同じように、壁沿いに部屋のパネルが表示されている。
電気がついていないパネルは現在使用中という意味なのだろうか。
それで言えばこの建物の中で、いま6組サマがあれやこれやしていて、そして自分たちは7組目なのか――などと思いつき、今日子は自分の妄想に羞恥を覚えた。
「行こうか」
啓二の声に顔を上げると、彼はニッと笑って手を差し出していた。
この手を掴めば、もう引き返すことは出来ない。――一瞬、そんな思いが胸をよぎった。
引き返す必要なんてない。
後悔なんて、するわけがない。
一瞬でも不安に思った自分を振り切るようにして、今日子はその手を握り締めた。
--------------------------------------------------------------------------------
部屋は5階にあった。
薄暗いエレベーターには、いかにも冷凍食品らしいピラフやカレーの写真が並び、『朝食セット350円』とワープロ打ちされたポスターが貼られている。
エレベーターを降りた先は絨毯敷きの廊下が続く。
その突き当たりに、ルームナンバーが強く点滅している部屋が見える。
ラブホテルに入ったのはこれが初めてだけれど、教えられなくても、そこがふたりの部屋だというのは予想がついた。
啓二が、肩に担いだ荷物を背負い直している。
彼はまるで、海でも山でも、運転中の高速道路でも洋風居酒屋でも変わらないような仕草で。
ひょうひょうと鼻歌でも歌いだしかねないほどリラックスしているように見えた。
ガチャリ――と、ドアノブを回すと、突如眩しい陽が目を刺した。
部屋の壁紙や家具は、元々はオフホワイトが基調なのだろう。
けれど、西向きの窓から差し込む夕陽が、いまは部屋中をオレンジ色に染めていた。
それはともかく。
とうとう、部屋にふたりきりだ。
そう思うと、今日子の胸はにわかに緊張が高まってきた。
理由のひとつに、以前里美から借りた漫画がある。
初体験を描いたその漫画には、いまと同じシチュエーションが出てくる。
ホテルの部屋に入り、主人公の女が荷解きをしていると、突然背後から抱きすくめられアノ行為がスタートするのだ。
よせばいいのに、ついそのストーリーを思い出し、今日子は壁に背を向けて屈みこむと啓二の動向を窺いながら荷解きを始めた。
啓二は窓際のソファにどっかり腰掛け、携帯の充電プラグをコンセントに差し込んでいる。
どきまぎしている今日子をよそに、どこも変わった様子は見受けられない。
やがて啓二はこちらの視線に気付いたのか、身体ごと今日子に向き直った。
逆光が、視界を邪魔している。
盛大な西日が差し込んでいるせいで、啓二の表情はなにも読み取れなかった。
けれど、そのあと聞こえてきた啓二の声が、幾分か今日子の気持ちを楽にさせた。
「風呂に入る順番決めようぜぇ。一緒でもいいけど」
この調子では、漫画のようなドラマティック展開は起こりそうにない。
いつもと変わらない啓二だ。
ホッとしたというか、残念というか。
両方当てはまる微妙な感情を持て余しながら、
「じゃんけんで決める?」
と今日子は答えた。
------------------------------------
今日子がバスルームから出たとき、先にあがっていた啓二は誰かと電話で話しているようだった。
白いTシャツに、膝までの紺色のハーフパンツ姿で。
今日子も部屋着用キャミソールと短パンのセットだ。
お互いまるで、家でゴロゴロしているのと変わらない格好をしていた。
自分のことを『ワタシ』と呼んでいるから、きっと電話の相手は会社の上司だろう。
実のところ少しばかり緊張していただけに、今日子は肩すかしをくらったような気がした。
そのくらい部屋の中は自然で、とてもラブホテルの一室とは思えない普段通りの空気が流れていた。
今日子はペットボトルの水を飲みながら、テーブルに置かれたテレビのチャンネル表を手に取った。
愛媛県に属する島とはいえ、ここは広島県に近い。
その表には2県分の局名が書かれ、今日子の住む八幡浜では映らない番組も多かった。
ちらっと啓二を振り返ると、彼は時折「はい、はい」と返事をしながら、メモ用紙に何か書きつけている。
構ってもらえないから退屈だ、というわけではないが、仕事の話はまだ終わりそうにもない。
音量さえ絞れば、通話の邪魔にはならないだろうと思えた。
今日子はチャンネル表を手にしたまま、液晶テレビに歩み寄った。
しかし。
ええと、テレビ広島は25CHだから――と、リモコンで電源を入れたのも束の間。
「あぁ……ダメえっ。こんな所でっ」
と、女の喘ぎ声が大音量で流れ出し、画面には看護婦のコスチュームを脱ぎかけた女と、平凡そうな男の絡みシーンが映し出された。
一瞬凍りついたあと、慌てて電源を落としたけれど――時すでに遅し。
振り返ると、啓二は必死に笑いを堪え、「いえ、違います。誤解です、本当に」と上司に弁解している。
頬が、ありえないほど熱い。
猛烈な勢いで血が巡り、身体中から汗が噴き出ている。
ゴメンと謝りたいけれど、ここで声を出せば更に波紋を広げるだろう。
そう思うと下手に謝ることも出来ず、今日子はオロオロと、テレビの前を行ったりきたりしていた。
しばらくの後、「では、失礼します」と通話を終えた啓二は、携帯の電源を切った途端、ベッドに寝転がり大笑いを始めた。
苦しそうに喘ぎ、背中を震わせている。
「お前、ホント最高だな! すっげぇ焦った、マジうけるっ」
そんなに笑わなくてもいいのに、と軽い反発を覚えながらも、ただうな垂れるしかない。
「ゴメン……、あたし、もう一生テレビなんて見ない。もうヤダ」
今日子は沈黙したテレビを横目で睨みつけ、大きなため息をついた。
やがて。
「今日子」
ひとしきり笑い終えた啓二が、上体を起こして名前を呼んだ。
頭を垂れたままの今日子に、おいで、と手を差し伸べている。
さんざん笑われたから、素直に従うのは癪に障る。
そう思うのに、今日子は磁力に引き寄せられたかのごとく、ベッドサイドへと足を踏み出した。
---------------------------------------
鎖骨の下まで伸びた髪は、半渇きのせいで真っ直ぐに垂れている。
啓二は仰向けに寝転んだまま、上に跨る今日子の髪に指を絡めていた。
毛先を引っ張られるたびに、軽い刺激が根元に走る。
それがひどく心地よくて、今日子はされるがままに委ねていた。
「手はここに。直に触れられてると落ち着くんだ」
シーツの上に突っ張っていた手を掴まれて、シャツの中へと導かれた。
初めての、彼の素肌。
その熱くて滑らかな肌触りと、一呼吸ごとに上下する命の感触を、今日子は手のひら全体で愛しんだ。
脇腹に指を滑らせると、啓二の眉間が苦しげに寄って。
直後、今日子の下にある一部が急速に硬さを増して、跳ねるみたいに太ももに当たるのがわかった。
びくり、と思わず身体が逃げ出しそうになったけれど、それよりも啓二が上体を起こす方が早かったようだ。
掻き抱かれた腕に、身体の自由は易々と奪われた。
「怖い?」
耳元で、低い声が囁いている。今日子の鼓膜を、震わせている。
くすぐったくて首をすくめると、逃げた先まで追いかけてきて、そっと耳たぶが含まれた。
たまらず肩に頬を寄せると、啓二の肌の匂いが鼻を掠めた。
大きな肩の向こう側に、暮れる直前の夕陽が、窓から差しているのが映った。
「怖い?」
もう一度、今度ははっきりと声が響いた。
口を開けば、気持ちを声に出してしまいそうで。
今日子はきゅっと口唇を噛み締めると、夢中で首を横に振った。
黙って、振り続けた。
啓二の熱い手のひらが、髪から肩へ下りていく。
そして背中へと、曲線を行き来している。
きつく瞼を閉じると、血管が赤く透けて見えた。
「今日子」
名前を呼ばれて、今日子はゆっくりと瞼を開いた。
そこには、いつもより大人びた啓二の顔があった。まつ毛の1本まで見えるほどの、至近距離に。
曇りのない瞳が、見詰めている。真っ直ぐな眼差しが、今日子の胸の奥深くまで貫いている。
「好きだ」
重なった口唇から、情熱が注がれた。
掻き抱く腕の強さが、胸の中の恐怖心を追いやっていく。
今日子は彼の背中に腕を回し、Tシャツの中をまさぐった。そして強く、自分の方へと引き寄せた。
目を閉じる瞬間、肩の向こうに葡萄色の空が見えた。
ふたりの影が長く伸びて、壁に揺らめいていた。
|