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らしく。
作:五十崎由記



34.恋の虜


頬に当たる啓二の首筋から、どくどくと脈打つ鼓動が伝わってくる。

汗ばんだ肌から、熱が沁みてくる。

それが妙に愛しく、胸が締め付けられそうだった。

しばらくの間啓二はされるがままになっていたが、やがてやんわりと今日子の腕を引き剥がし、「この場所だったんだ」と言った。

「停電して、避難命令が出て、オレは母親に連れられてこの場所に避難したんだ。父親が落ちたらしいのに、助けることもかなわないで」

啓二は首を巡らせ、公民館の閉ざされた窓をじっと見上げている。

「公民館の中は、座るのもやっとなほど空きがなくて。真夏だというのに窓も開けられない、停電しているからエアコンも使えない、ものすごく蒸し暑くて、いやな臭いがしてさ。真っ暗闇の中で、行方知れずの父親を思って、一晩中眠れなかったさ」

淋しそうな笑顔を見せて、啓二はつま先あたりに目を落としていた。

今日子は息を殺し、その横顔を見ていた。


元々が子供っぽい啓二だ。

暗い部屋の中で、膝を抱えて座る少年の彼を、今日子は容易に想像することが出来た。

じっと息を潜めて、母親と寄り添って、怖さや、悲しさや、無力な自分への怒りや、そんなものと闘っていたのだろうか。

瞼を閉じると、窓をガタガタと震わせ、空き缶がアスファルトを転がっていく――そんな台風の音までもが聞こえるようだった。



今日子は墓と、そこにぶら下がった風鈴を思い返した。

そして紙飛行機を飛ばして遊ぶ、楽しげな親子の姿を思い描いた。

あの風鈴は、目に見えない風を見せたくて掛けた物だったのだろうか。

――ふと、そう思った。


「その日のことが、ひどくトラウマになっているようでさ」

と、彼は言った。

「いまでも台風は苦手だし、怖いし、特に停電が大嫌いなんだ。そんなわけでオレはあの日この場所で、電気屋になると心に誓った」

「え?」

突然の展開に振り返ると、啓二は口の端をあげてニッと笑っていた。

その瞳は、さっきまでとは打って変わって、やんちゃな光を映している。

「おかしいだろー? 『将来の夢は? 目標は?』って聞かれた時に、同級生が野球選手と答えるところを電気屋って答えてたんだ。本気で」

「停電が怖いから?」

「そう、停電が怖いから」

そう言うと啓二は、今日子の腰を引き寄せてきた。

今日子は両手で缶ジュースを握ったまま、その肩に頭を預ける。

「いまになって思えば、たとえオレが電気屋になっても、台風の停電は直しようがないんだけど。その頃はそんなこと、知りもしないからさ」

「で、なれたの? 電気屋に」

何気なく出た問いかけに、啓二は「はあ?」と気の抜けた返事をした。

今日子を抱く腕をパッと離したかと思えば、リスみたいな目をまん丸にさせて顔を覗きこんでくる。

「なれたじゃん! ってか、名刺やっただろー?」

今日子は合コンの日に渡された名刺のことを思い出した。

確か、あれは――。

「あれ捨てちゃった……」

――破いたことは秘密にしておこう。

そう思いながら上目遣いに見ると、啓二は口唇を尖らせて、「しょうがねえなあ」と不満そうな声を出した。

そして再び、今日子を抱き寄せてくる。

「まあいいや。お前今後も、男からもらった名刺やケー番は全部捨てろ」

まったく。

ついさっきまで辛い思い出話をしていたかと思えば、もうヤキモチである。

しょうがない人と思うのに、啓二のヤキモチはどこかこそばゆくて。

「わかったな?」と口唇を寄せてくる彼の、声も、仕草も、すべてが愛しかった。

古ぼけた公民館前でのキスは、ほんのりタバコの匂いがした。

口唇が離れる瞬間、黒い瞳の中に自分の笑顔が映っていた。


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公民館をあとにしたふたりは、やや西に傾いてきた太陽の下、砂浜に降り立った。

めいっぱいに両腕を広げた水平線。

きらりと日差しを照り返す波が、眩しく目を刺してくる。

渇いた砂は熱を孕んで、足の裏や指の間をジリジリと焼くようだった。



ジーンズの裾を膝までまくりあげ、ふたりは波打ち際を歩いた。片手にサンダルをぶら下げて、もう片方の手を繋いで。

生温い波が寄せては引き、引いては寄せる。

その引き際に、踏みしめた砂ごとごっそり持っていかれるような感覚を楽しんでいた。

啓二の普段は真っ黒に見えるボサボサの髪が、茶色に透けている。突風に煽られて、Tシャツの背中が大きく膨らんでいた。

沖合いに白い灯台がぽつんと建っている。

目を細めて眺めると、その上空に白い鳥が飛んでいるのが見えた。

青と白の二色だけで構成された風景は、ポストカードみたいだ。

今日子は足を止めて、しばらくその光景に見入っていた。


「――隙ありっ!」

それは声の方が早くて。

振り向いた途端、今日子はバシャっと海水を浴びるハメになった。

「もうっ」

声をあげてはしゃぐ啓二は、少年のような瞳が意地悪く笑っている。

そして手のひらにすくった海水を、尚も今日子めがけて浴びせようとしている。

放った瞬間、飛沫は大きく孤を描き、太陽に照らされて虹色に輝いた。

今日子はサンダルを放り投げ、仕返しとばかりに啓二へ海水をぶちまけた。

彼の薄いピンク色のTシャツが、まだらに濃い色へとかわっていく。

――もっとずぶ濡れにしてやる! 

そう思って屈みこんだ途端波に足をさらわれて、今日子は浅瀬に倒れこんだ。

「今日子!」

手を引かれて立ち上がった時には、もう遅くて。

キャミソールはぴったりと肌に張り付き、裾からも、髪の先からもボタボタと雫が滴っている。

「あーあ、びしょ濡れ……」

すっかり濡れ鼠になった今日子は、頬に張り付いた髪を払い、耳に掛け直した。

ふと、急に啓二が大人しくなって。

目を上げると、黒目がちの瞳が静かに自分を見下ろしていた。

瞬きを忘れた眼差しは、熱に浮かされたように潤んでいる。冗談ばかりを言う口唇は、ほんの少し開いたままで。

「ケージ?」

名前を呼ぶと、啓二の指がゆっくり動いた。

無骨な長い指先が近づいてくる。躊躇うように。

振り払う余裕を与えるみたいに。

やがて指先が、今日子の脇腹にそっと触れた。

瞬間、今日子は何故だか泣きたくなった。

目頭がじんと熱くなって、ぎゅっと喉が締め付けられる。

そこからこみあげてくるものを、今日子は慌てて飲み下した。

濡れそぼった黒いキャミソール越しに、熱が伝わる。その指先が、滑るように撫でている。

まるで磁力があるみたいに、じんじんと伝わる痺れが一層今日子を息苦しくさせていた。



髪の先から滴る雫が、落ちるペースを緩めていた。

雨だれが軒から滴り落ちる瞬間のように、白く、清らかだった。

今日子は自分の身体を伝う啓二の指先を目で追い、そしてまた彼を見上げた。

眉根が、苦悩するみたいに寄っている。瞳の中に、戸惑い顔の自分が映っている。

絡み合った視線をすぐに逸らしてしまったのは、気持ちの交わりを意識しすぎてしまったからだ。

今日子は息の詰まりそうな思いに、伏せた瞼を瞬いた。瞬間、彼の指が遠のいていく。

咄嗟に顔を上げると、変わらない瞳がそこにあった。

自分を見詰める、穏やかな眼差しが。

逃げたらダメだ。

そう覚悟して、今日子は啓二を見詰め返した。

身体の横に下ろした手が震えている。

それを握りこむのが、精一杯だった。



強い南風が、啓二のTシャツをはためかせている。潮の香りが鼻腔を掠め、頬を撫でていく。

啓二の瞳が揺れて、再び指先が伸びてきた。

首筋に、束になって纏わりつく髪を払いのけ、今日子の耳に掛けようとしている。

髪を緩やかにすくった指先が、耳の付け根をなぞっている。

たまらなくなって、啓二、と名前を呼ぶ前に、指先が耳たぶに触れた。蝶が羽を休めるように、ふわりと止まった。

びくりと、背中の産毛が逆立つような震えが走った。

それと同時に、今日子の胸の中を風が吹き抜けていった。








  





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