32.温かい何か
翌日は朝5時の約束で寝不足の目を擦りながらの出発になった。
空はうっすらと茜色に染まり、海もはるか遠くまでピンク色に波打ち、眠いことだけを除けばロマンティックな旅立ちの朝だった。
今日子は助手席のシートにもたれて海を眺めながら、家を出る前、久しぶりに会話をした母親のことを思い返していた。
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「――何してるの?」
急に背後からぬっと顔を覗かせた母は、まだ酒が抜けきっていない充血した目で、今日子をぼんやりと見つめていた。
スナックを閉めてから時間がまだ浅かったのかもしれない。
化粧を落とした白い顔に、薄くて細い眉が不健康そうだった。
母親とはいえ、今日子を産んだのが20歳の時だ。
まだ40にさえ手が届かない母は、ホステスとして現役である。
いまは営業後の疲れが顔に現れているが、女性としての美しさを十分保っている若さだ。
「お母さん……、お弁当作ってんの」
目だけを向けて答えると、母は「ふうん」と鼻から抜けるような声を漏らし、ダイニングの椅子に腰掛けた。
夏休みの早朝から、今日子だけの分にしては多すぎる量の弁当を作っていることに、いつ突っ込みをいれられるのかと今日子はどきまぎしていた。
「あんた最近楽しそうよね? 何かあったの?」
「え?」
振り返ると、母はタバコをくゆらせながら眩しげに目を細めている。
今日子は、子供の頃から母が好きではなかった。
クラスメイトから、「篠原さんのお母さんきれいよね」とよく褒められもしたが、良いことといえばそれくらいだ。
年がら年中酒臭く、参観日や入学式、卒業式には派手な身なりで姿を見せる。
そして店の客と顔をあわせれば、そこが娘の晴れの席であっても営業活動に精を出す。
そんなデリカシーの無さを、うとましく思うことが多々あった。
今日子をそっくり大人にしたような顔立ちは、まるで未来の自分をそこに映し出されているようで。
――あんな風にはなりたくない。
と中学校にあがる頃にはとっくに思うようになっていた。
母の方も、娘に関心などないのだろう。
高校受験のときも合格発表が終わったあとになって、
「あんた、どこの高校へいくの?」
と聞いてきたほどだ。
進路について何ひとつ口を出すわけでもなく、多少夜遊びが過ぎても叱られることはなかった。
そんなわけだから、いま突然寄越された母からの言葉に、今日子は内心驚いていた。
ここ半年近く会話らしい会話などしたことがないのに、楽しそうだなんて言われるとは思ってもいなかったのだ。
「ニコニコしてるじゃない? いつも」
そう言うと母は、皿の上に並べたおかずに手を伸ばした。
「……そう?」
「これ、上手に出来てるね。ご飯が食べたくなってきたわ」
どうせおかずは余る。今日子は座ったままの母に一膳、ご飯をよそって差し出した。
さっさと食べて、はやく自分の部屋に戻って欲しい。そう思っていたのだ。
「カレシでも出来た?」
「えっ!?」
後になって思えば、この時の反応はいささか大袈裟だったかもしれない。
母は眉の薄い生気に欠けた顔をうれしそうに綻ばせ、「当たりでしょ?」と言った。
「な、何で?」
「楽しそうに見えるって、さっきも言ったでしょ。……玉子焼きが甘いんだけど」
「ああ、そう。甘くしてあるの」
本来今日子の作る玉子焼きは塩味なのだが、今日は啓二の好みに合わせてお菓子のような甘い玉子焼きにしてある。
母はそれ以上何か言うわけでもなく、黙って箸を動かしている。
今日子も無言のまま、弁当箱に詰め続けている。
やがて。
「カレシ、今度紹介してよ」
と、母が言った。
母が、何を思ってそんなことを口にしたのかはわからない。
単なる気まぐれなのか、娘のカレシを見てみたい好奇心からなのか。
けれど、能天気にもそう切り出してきた母に、今日子は激しい苛立ちを覚えた。
紹介なんて出来るわけがない。
一年中酔っ払い、媚を売り続けている母親の存在は、今日子にとって恥部以外の何物でもないのだ。
おまけに、啓二は社会人だ。
もし母に紹介なんてしようものなら、客としてスナックに誘わないとも限らない。
そう勘ぐらせるには十分な恥を、いままで母にはかかされてきたのだ。
どの面下げて紹介しろなどと言うのか、と喉元まで出かかった言葉を、今日子は無理矢理飲み下した。
母は、昼間はずっと寝ている。
たまに起きていることがあっても、ガウンや寝巻きのままボーっとしているだけだ。
店は晩7時開店で、客入り次第では朝方まで営業している。
見せられるものか、と今日子は奥歯を噛み締めた。
海岸沿いの辺鄙な道に、ぽつんと灯ったスナックの看板。
店の外まで漏れ聞こえるカラオケの音や、嬌声。
酒臭い、今日子とそっくりな顔をした母親。
啓二と会う日はいつも帰るのが夜になり、その都度彼は家まで送ろうとしてくれた。
けれど今日子はその度に、わざと家から遠い場所で車を降りていたのだ。
それはもちろん、啓二にだけは知られたくない一心でのことだ。
――何ひとつ、見られたくない。
あれもこれもすべて。
「今度ね」
今日子は辛うじてそう答えると、弁当箱を抱えて自分の部屋へ駆け戻った。
徐々に頭をもたげてくる反抗心が声になってしまう前に、その場を離れたかった。
「今日子ー?」
ぼんやりしているうちに、茜色だった空は今日も晴天確実と言わんがばかりに青みを増していた。
薄く広がった雲間から、早くも眩しい朝日が差し込んでいる。
「お前眠いんだろ? 寝てていいよ」
啓二の運転する車は、これから高速に乗ろうとしているようだ。緑色の標識が指す方向へ、ウインカーのランプが点っていた。
「あたしが寝たら、ケージもつられて眠くなんない?」
ブルーのサングラス越しに、啓二の瞳が瞬いた。口の端をあげてニッと笑っている。
「大丈夫だから」
そう言って今日子の頭をくしゃっとかき混ぜ、「起こしてやるから寝ろよ」と付け加える。
「うん……」
瞼を閉じると、深海を漂うような眠気が急激に襲ってきた。
甲高い隙間風の音を聞くのを最後に、今日子の意識はぷっつり途絶えた。
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それからふたりは車ごとフェリーに乗り換え、片道6時間かけて啓二の生まれ故郷の島に辿りついた。
愛媛県で一番大きなその島は、古くから神の島と呼ばれ、長い間魚類を獲ることが罰当たりとされてきた。
そのせいでかいまも漁業は盛んではなく、島民の多くが塩産業で生活している。
言わずとしれた過疎状態のその島は、同じく過疎の田舎町に住む今日子の目にも、更にのんびりとした風景に映った。
啓二のどこかひょうひょうとした人間性は、そんな島育ちが所以なのかもしれない。
ふたりは、島の商店街で小さな花束と線香を買った。
日差しはジリジリと焦がすようだったけれど、からりとした暑さで、汗がべたつく感じではない。
大きな建物がないせいか、絶え間なく強い風が吹きつけているのだ。
それがやたらと心地よく、ふたりは車の窓を全開にして風を楽しんでいた。
「いい風ー。 気持ちいいっ」
「だろー? ここは風で電気おこしてるくらいだからな」
風が窓から窓へと吹き抜けていく。
その度に頬に掛かる髪を、今日子は耳に掛け直していた。
「今日子、意外とこういうの平気なんだな」
隣の啓二が、こちらを垣間見てからかうような声を出す。
「何が?」
瞬間、頬を膨らませる啓二の横顔を見て、余計なことを訊いたと後悔したけれど。
「“あたしの髪がグシャグシャになるでしょ? 窓閉めてよっ”――って如何にも言いそうなタイプに見えるもん」
似てないモノマネには、腹が立つ。
でも、その内容は的を射ている――と、今日子は苦笑いを噛み殺した。
学校やクラスメイトたちの間で、スカした女だと噂されていることを今日子はよく知っていた。
友達を家に呼びたくないから、人とは一線引いた付き合いを心がけていた――というのもある。
でもそれ以上に、自分がクラスメイト――とりわけ女子から嫌われる種類の人間だということは、嫌でも自覚せざるをえなかった。
何かの行事でグループ行動をするときには、必ずひとり取り残されてきたのだから。
そんなわけだから、里美の存在は貴重だ。
色々な噂を耳にすることもあっただろうに、わけ隔てなくつき合ってくれる。
本当は、普通の子だってことをわかってくれる。
折角ここまで遠出してきたのだ。
里美には、何かお土産を買って帰りたい――と、また髪を耳に掛け直したとき、啓二の呟き声が風に流されてきた。
「でもオレ、お前のそういうところ好きだよ」
「え?」
今日子は訝って、隣の啓二を振り返った。
他人から誤解されやすいタチの、一体どこがいいというのか。
啓二のことだから、どうせまたバカにしてからかっているのだろう、と今日子は口を尖らせる。
けれど。
「遊んでそうなのに、真面目だったり。強がってるくせに、すぐ泣いたり」
啓二は、こちらを見ない。
前を向いたままで、独り言みたいに続けている。その横顔を、今日子は息をするのも忘れて見入っていた。
「そんな所がたまらなく可愛い。今日子らしいな、と思う」
運転席の窓から入り込む強い南風が、長い髪を吹き流していく。
啓二の声も、巻き込んで。
カーラジオが正午を告げ、ニュースが始まった。
太平洋高気圧の影響で、日本全国真夏日だとアナウンサーが喋っている。
お盆の今日は帰省客でどこも込み合っていて、夏休みを海外で過ごす人の数も過去最高だと告げている。
「なんだよ!? こっち見るなっ!」
怒った声でそう言われるまで、今日子は彼の横顔をじっと見つめ続けていた。
渋面を正面に戻す間際、少しだけ赤らんでいる頬が見えた。
「ケージ、ありがとね」
今日子は、俯いてそう呟くのが精一杯だった。
一番気にしていた所を好きだと言われて、柄にもなく感動してしまっていたのだ。
運転席から大きなごつごつした手が伸びてきて、手の上に重ねられた。
その大きな手のひらから、体温と一緒に、温かい何かが沁み込んでくるのがわかった。
優しさ、とか。愛しさ、とか。
そういう、気持ちが。
それを確かめたくて指先をぎゅっと握り込むと、同じくらいの強さが返ってきた。
商店街を抜けた先に、水平線が見える。
その空との境目に、眩しく白い光の粒が輝いていた。
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